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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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愛しい詩歌 正岡子規の歌、海の歌

 正岡子規の『歌よみに与ふる書』について思うことを記そうとしています。順序が逆になりましたが、まず子規自らの歌を読み返して私が好きだと感じた歌を記します。
 私が若い頃に暗誦した数少ない歌のひとつが星の「真砂なす」の歌です。たぶん芥川龍之介の『侏儒(しゅじゅ)の言葉』の引用で知り、好きになったのだと思います。私自身は長い行の詩ばかり書いてきましたが、暗誦できる短さであることが短歌の良さ、魅力のひとつだと思っています。誰かに作品の一部の詩句であっても暗誦してもらえる詩を生むことも、私の願いのひとつです。

 今回正岡子規の歌を読み返して、万葉集や源実朝の『金槐(きんかい)和歌集』への子規のこだわりは、嘘偽りの主張のための主張ではなく、とくに病の床での歌に凝縮して現れていると感じました。
 *出典は、『子規歌集』(土屋文明編、岩波文庫)。 
*原文の引用に続けて( )内にひらがなで読みを記します。

  鎌倉由比が浜

 天つ空青海原も一つにてつらなる星かいさりする火か
(あまつそらあをうなばらもひとつにてつらなるほしかいさりびするひか)

  金州 二首

 みまかりしまな子に似たる子順礼汝が父やある汝が母やある
(みまかりしまなこににたるこじゅんれいながちちやあるながははやある)

  病中

 神の我に歌をよめとぞのたまひし病ひに死なじ歌に死ぬとも
(かみのわれにうたをよめとぞのたまひしやまひにしなじうたにしぬとも)

  星

 真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり
(まさごなすかずなきほしのそのなかにわれにむかひてひかるほしあり)

 たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光吾を照せり
(たらちねのははがなりたるははぼしのこをおもふひかりわれをてらせり)

  しひて筆を取りて

 いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす
(いちはつのはなさきいでてわがめにはことしばかりのはるいかんとす)

 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも
(やむわれをなぐさめがほにひらきたるぼたんのはなをみればかなしも)

 世の中は常なきものと我が愛ずる山吹の花散りにけるかも
(よのなかはつねなきものとわがめずるやまぶきのはなちりにけるかも)

 夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも
(ゆふがおのたなつくらんとおもへどもあきまちがてぬわがいのちかも)

 京の人より香菫(にほひすみれ)の一束を贈り来しけるを

 やみてあれば庭さへ見ぬを花菫我が手にとりて見らくうれしも
(やみてあればにはさへみぬをはなすみれてにとりてみらくうれしも)
 
 鎌倉由比が浜の歌から思い浮かんだ私が好きな海の歌、与謝野晶子と若山牧水の二首を、あわせて書き留めたくなりました。
*出典は『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、新典社)。

与謝野晶子『恋衣』所収
 
 海恋し潮の遠鳴かぞへつつ少女となりし父母の家
(うみこひししほのとほなりかぞへつつおとめとなりしちちははのいへ)

若山牧水『海の声』所収

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
(しらとりはかなしからずやそらのあおうみのあをにもそまずただよふ)
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tag : 正岡子規 与謝野晶子 若山牧水 高畑耕治 短歌 詩人 詩歌 うた 絵ほん

新しい詩「生まれた日から」

 新しい詩作品「生まれた日から」「詩と思想」20011年4月号に掲載されます。ホームページの『虹:新しい詩』にも20011年4月頃公開する予定です。
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歌論と詩歌

 これまで詩の調べと言葉について私の思いを記してきましたが、これから数回にわたっては、私が共感し励まされ尊敬する、心に残る先人の詩歌についての言葉を書き留めたいと思います。
 今回は、歌という芸術に人生のすべてをかけた親子、藤原俊成と藤原定家の歌論の核心の言葉です。

 出典は、『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、新典社)と、、『やまとうた』(水垣久,ホームページ)
です。『やまとうた』はパソコンで読みたいときに気軽に和歌に触れる機会を提供してくれる熱意ある良いホームページです。訳は水垣久のものです。

 まず、藤原俊成の『古来風空躰抄』(こらいふうていしょう)(一一九七年)の言葉。俊成は勅撰和歌集、千載和歌集の撰者です。私の心には平家物語に描かれた俊成が記憶に焼きついています。
 歌はただ、よみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて、良くも悪しくも聞ゆるものなり。
 【訳】歌はただ、口に出して読んだり詠じたりしてみると、何となく優美に聞えたり、情趣深く聞えたりすることがあるものだ。そもそも「詠歌」と言うように、声調によって、良くも悪くも聞えるものなのである。
 但上古の歌はわざと姿をかざり詞をみがかむとせざれども、代もあがり、人の心もすなほにして、ただ詞にまかせていひいだせれども、心もふかく、すがたも高くきこゆるなるべし。
 【訳】ただ、上古の歌は、意図的に姿を飾り、詞を錬磨しようとはしないけれども、時代が昔のことで、人の心も素直で、ただ自然と詞の出て来るのにまかせて言い出したのだけれども、心も深く、姿も高く(立派で格調高く)感じられるのにちがいない。

 次に、藤原定家の『近代秀歌』(一二〇九年)から。定家は勅撰和歌集、新古今和歌集の撰者です。
 ことばはふるきを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきことも、などか侍ざらん。 
 【訳】詞は古きを慕い、心は新しきを求め、及びがたい理想の姿を願って、寛平以前の歌を手本とすれば、おのずから良い歌が出来ないわけがありましょうか。

 俊成の言葉は、詩歌にとって調べがとても大切なものであることを、そして心を素直に歌いだした言葉が人の心にいちばん伝わるという、詩歌の根本を教えてくれます。
 定家の言葉は、生き続け伝え続けられてきた言葉の重みを教えてくれると同時に、歌いだす心は伝統や保守、これまであったものに順従にへりくだりまねするだけでは、決し心を呼び覚ます詩歌とはならないと教えてくれます。
 ともに詩歌に命をかけた人だからこそ言える言葉だと感じます。

 これらの歌論を学ぼうとし贈られた二人も、詩歌に命を注ぎ生きた人です。前者は式子内親王(しょくしないしんのう)、後者は『金槐和歌集』の源実朝。俊成、定家に教えられた言葉の核心を、式子内親王と源実朝は、詩歌として花ひらかせている、と私は思います。もし歌論を読んだ月日と歌の前後関係が逆であった場合でさえそれは重要なことではありません。魂で感じていて言葉にはできずにいた思いを確かなものにするためにだけ、歌論書を求めたのではないか、歌論がなくても、式子内親王と源実朝は、伝えられた良い詩歌を生むことができる人だった、でも俊成と定家の歌論に生きること詩歌を生むことをきっと励まされたんだ、と私は感じます。

 定家、式子内親王、源実朝の好きな歌を別の機会に「愛しい詩歌」に咲かせたいと思います。
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tag : 藤原俊成 古来風空躰抄 藤原定家 近代秀歌 式子内親王 源実朝 金槐和歌集 歌論 詩歌 高畑耕治

自殺を思うひとに

 この国では数年来の統計発表で、自殺者が毎年3万人を越え毎日90人近い方が死を選びなくなっていると公表されています。そうするしかなかったひとりひとりの苦しみと痛みが何も伝わらない数字だけが読み上げられることを悲しく思ってきました。同時に、毎日苦しい思いを抱きかかえ苦しみのうちに死を選ぶ方の思いが今あることに対して、何も伝えられない自分を悔しく感じます。
 今も自殺を思う方がいらっしゃると思います。私も十代の終わりから二十代の終わりまでそのひとりでした。だから私は、どうして死を選ばずに生きているのか、その思いを伝えることだけはしたいと思っています。

 私が二十代半ばに出版した第一作品集『死と生の交わり』は、生の側にいる自分自身が死との境界線でどちらを選ぶか考えさまよいながら、死を選び亡くなった方への思い、生きたいと願いながら殺された方への思い、と対話した記録です。それから二十数年生きてきた時間の中で、私のこの作品は読んで下さった方を死に近づける言葉を持っていないか、考えてきました。自分が死を選ばずに生きていることが、作品に込めたメッセージを伝えることだと言い聞かせつつ、そのように受け止められない恐れはないのか、との自問はいつもありました。
 一方でこの作品を出版した二十代の私が、腐りながら妥協しつつ生き延びようとし歳を重ねる自分を見詰めているから、無言の対話をしてきました。だから歳を重ねてゆく自分には、二十代の言葉は拙いけれど精一杯の思いと願いと祈りを込めた作品を、修正できませんでした。今も生と死の境界をさまよい最後は死なずに生きようと思ったその作品全体を、否定できない、否定していないからです。
 少し長くなりますが、作品の冒頭の詩と、最後の詩を引用します。ともに作品タイトルは「ねがい」です。作品集の中ではこのはじめとおわりの「ねがい」の間で、死により近づく言葉、生きることを懐疑する言葉、祈りへの思いも吐き出し、思いが生と死のどちらにも揺れています。どの思いも嘘でないと今も考えています。でも最後には、巻末の「ねがい」に込めた思いを抱いて死を選ばす生きようと私は思いました。

 ねがい

たとえ死が
たんなる意識の消滅・物質への回帰だと
信じられなくても
たとえ来世を復活を
信じられなくても
輪廻を解脱を
信じられなくても
死に感じうるものが未知なるものへの
恐怖にすぎなくても
最後の瞬間まで生に固執しつづける
生きものであるにしても
死をみつめ
生きたい


 ねがい

あなたの悲しみにわたしの悲しみを
あなたの痛みにわたしの痛みを
感じとりたい
あなたの涙にわたしを
見失おうとするのではなく
みつけだしたい

わたしの悲しみにあなたの悲しみを
わたしの痛みにあなたの痛みを
感じとりたい
わたしの涙であなたを流しさるのではなく
涙となってうちからわたしをつつむ
海に あなたを
みつけだしたい

瞬間 うかびきえる 波
ひとりの あなたを
ひとりの わたしを
みつめていたい

ねがいつづけるなら
わたしは ひとりであるときも
あなたは ひとりであるときも
生きていける
 


私は自分に、「ひとりであるときも 生きていける」と言い聞かせて生きようとしました。
 今、死を思わずにいられない方に、もうひとつだけお伝えしたい、私個人の経験からの思いがあります。
太宰治は自殺しましたが、私は人としての彼は好きで彼の作品を尊敬しています。『斜陽』の登場人物、自殺した直治の遺書に、次の言葉があります。少し長いですが引用します。

 僕は、もっと早く死ぬべきだった。しかし、たった一つ、ママの愛情。それを思うと、死ねなかった。人間は、自由に生きる権利を持っているのと同様に、いつでも勝手に死ねる権利も持っているのだけれども、しかし、「母」の生きているあいだは、その死の権利は留保されなければならないと僕は考えているんです。それは同時に、「母」を殺してしまう事になるのですから。(新潮文庫から引用)。

 私は自分に「生きていける」と言い聞かせてもそれでも苦しく悲しくてほんとに死にたかったときに、この言葉が、死を選ばずに生きようとする、生きようとし続ける支えのひとつになってくれました。今も思いは変わりません。

  私の詩のホームページの「好きな詩・伝えたい花」で紹介させて頂いた詩人の山下佳恵さんの詩「記念の日」、「いい子だよ」、「悩み」は、子が母をあおぎみる思いとは反対に、「母」だから産んだ子供にはじめて語りかけることができる「ねがい」の詩です。産んでくれたお母さんは、みんなが自分の子供が生き抜くように願ってくれている、心のどこかに必ずこのねがいを抱いてくれている、と私は信じます。「記念の日」を引用します。

 記念の日

あなたが生まれた瞬間から
大切な日に変わったふつうの日
はじめて二人で力を合わせた記念の日
生まれるために生きていくために

ぼんやりしていた目が次第にあうようになった日
動くものを追えるようになった日
声をたてて笑った日
寝かえりができるようになった日
おすわりができるようになった日
這い這いができるようになった日
つかまりだちができるようになった日
つたえ歩きができるようになった日
一人で立つことができるようになった日
ふみだしていく 一歩 二歩 三歩
一人でできていく記念の日は
どんどん どんどん増えていく
でもわすれないで一番大切な日
あなたの誕生日は
一人から二人にわかれた日
二人でしかできないもの
決してあなたは一人で生まれてきたのではない
一人で立っていることに疲れた日
つまずいて転んでしまった日に
どうか思い出して
生きていくために生きぬいていくために



 生き続けて、私は子供を授かり、今育て共に生きています。
 万葉集の山上憶良も私の尊敬する詩人です。彼の「老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及る歌七首」の次の歌は、今私の心が折れそうなとき、そっと支えてくれます。

 すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へど子らに障りぬ
(すべもなくくるしくあればいではしりいななとおもへどこらにさやりぬ)
[なすすべもなく苦しくてたまらないので、この世を逃げ出してどこかへ行ってしまいたいと思うけれども、この子どもに妨げられて死ねない](伊藤博訳注 新版万葉集一 角川ソフィア文庫から引用。訳は一部変えました)。

 私は、今、死を思っている方の、悲しみ、苦しみに、何もできませんが、私は、生きていてほしいと思います。まだ死なないでほしいと思います。そう思っているのは、私だけではないと思います。
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詩人・宮城松隆さんの詩「沖縄戦と看守S / 避難 /グルクンの目」 を紹介します

ホームページの「好きな詩・伝えたい花」で、詩人・宮城松隆さんの詩「沖縄戦と看守S / 避難 /グルクンの目」 を紹介しました。
 宮城さんは、生きることの悲しみを、悲しみの渦中の魂と共にあって、詩にされます。沖縄戦で無念のうちに亡くなった人、病に苦しむ人、弱者として掻き消されそうな声の震えを決して押し殺させまいとの強い思いは詩でしか伝えられない、伝えたい詩そのものです。
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防人歌(さきもりのうた) 万葉集

 万葉集の東歌のうたのなかで防人歌(さきものりうた)は、すべてが作者未詳歌ではありませんが、ほとんど無名の個人の思いの歌、切実な思いの悲しい歌です。
 巻第十四の東歌のなかにその一部があり、大部分は巻第二十に集められています。
「愛(かな)しい詩歌」に巻第二十の好きな防人歌を咲かせました。

 防人歌は、中央国家に徴兵され九州に派兵された東国の人々の歌です。
 二度と会うことができないかもしれない、死に別れとなるかもしれない、人から人への愛する思い、切実な別れの悲しみに心をうたれます。
 私の心に万葉集の防人歌の悲しい体温が残って揺れ続けるのは、女と男が強く愛する思いを何とか伝えよう、忘れずに抱き続けようとこめた願い、子と父と母がもう会うことができないかもしれない別れにどうしようもなく流れでた悲しみが、胸の奥の痛みの熱さがこもった涙のままあふれ出る歌の姿で、時を越えて今も揺れ続けているからだと思います。

 防人歌にまた私は、この国でほんの少しまえ、数十年前に、千数百年前と同じ事があったこと、万葉の時代と同じ心の痛み、悲しみを抱かずにはいられなかった人たちがいたことを思います。
 私の母方の祖父は従軍し戦死しました。父方の祖父母も戦時が生んだ事故でなくなりました。忘れてはいけないと考えます。『きけわだつみの声』(岩波文庫)に救い上げられた悲しみは海の波のほんの一滴の言葉で、知られないだけで、あまり見えないだけで、悲しみは今も変わらずにあること、胸に抱いて生きている方がいることを、忘れてはいけないと思います。
 ホームページの「好きな詩・伝えたい花」で紹介させて頂いた詩人の宮城松隆さんは1943年那覇生まれです。沖縄戦をまともに浴びた方です。詩「沖縄戦と看守S」「避難」となった絶望から目を逸らしてはいけないと私は思います。

 防人歌に思いをめぐらしたときに、同じ悲しみを抱いて生きている若者が、この島の周りにいることを、思います。韓国で徴兵される若者たちの苦渋の表情、姿ににじみ出る思いとの、交わりと葛藤を、詩人の森田進さんの詩集『乳房半島・一九七八年』、『野兎半島』から心に問いかけることができます。安易な言葉では表現し難い屈折せざるを得ない記憶を抱えた思いのこの交わりを、詩だから伝えることができること、摩擦と衝突を恐れずに向き合おうとして始めて、思いを感じとり理解しあう可能性が芽生えることを、この詩集で私は学びました。
 戦争は、人が生きはじめてから、途絶えたことがありません。生まれ続けた防人歌の悲しみ、今ある同じ悲しみを感じとろうとする心を失わないことが、防人歌をこれからふやさないために、過ちを繰り返さないために、偽りのない確かなものだといえるのではないかと、私は考えます。

 今回の苦しいテーマを考えるとき、詩人・小説家の原民喜を思わずにはいられませんが、広島の原爆をまともに浴びた私が尊敬するこの詩人の魂については別の機会に必ず記したいと思います。
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愛しい詩歌 万葉集・防人歌(さきもりのうた)

「万葉集 巻第二十の防人歌(さきもりのうた)」より好きな歌を十二首選びました。
*出典『新版 万葉集四 現代語訳付き』』(訳注:伊藤博、角川ソフィア文庫)、
*国歌大観番号を付します。
*出典の原文を記し、続けて( )内にひらがなで記します。
*防人歌は方言訛りの読みが独特なため[ ]内に訳も記します。
 訳者の本意を損なわない範囲で訳文は変えた箇所があります。

 防人歌に感じ思うことは、「詩に想う」で別に記します。

防人歌(さきもりのうた) 万葉集 巻第二十
 
四三二七
 我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我は見つつ偲はむ
(わがつまもゑにかきとらむいつまもがたびいくあれはみつつしのはむ)
[我が妻をせめて絵に描き写す暇があったらな。長い旅路を行くおれは、それを見て妻を偲ぼうに。]

四三三七
 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき
(みづとりのたちのいそぎにちちははにものはずけにていまぞくやしき)
[水鳥の飛び立つような、旅立ちのあわただしさにまぎれ、父さん母さんにろくに物も言わないで来てしまって、今となって悔しくてたまらない。]

四三四三
 我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛し
(わろたびはたびとおめほどいひにしてこめちやすらむわがみかなし)
[おれは、どうせ旅は旅だと諦めもするけれど、家で子を抱えてやつれている妻がいとおしくてならない。]

四三四六
 父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
(ちちははがかしらかきなでさくあれていひしけとばぜわすれかねつる)
[父さん母さんが、おれのこの頭を撫でながら、達者でなと言ったあの言葉が、忘れようにも忘れられない。]

四三五四
 たちこもの立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも
(たちこものたちのさわきにあひみてしいもがこころはわすれせぬかも)
[飛び立つ鴨の羽音のような、門出の騒ぎの中で、そっと目を見交わしてくれた子、その思いは忘れようにも忘れられない。]

四三五六
 我が母の袖もち撫でて我がからに泣きし心を忘らえのかも
(わがははのそでもちなでてわがからになきしこころをわすらえのかも)
[母さんが袖でおれの頭を掻き撫でながら、おれなんかのために泣いてくれた気持、その気持が忘れようにも忘れられない。]

四三五七
 葦垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ
(あしかきのくまとにたちてわぎもこがそでもしほほになきしぞもはゆ)
[葦垣の隅っこ立って、いとしいあの子が袖も絞るばかりに泣き濡れていた姿、その姿が思い出されてならない。]

四三八八
 旅とへど真旅になりぬ家の妹が着せし衣に垢付きにかり
(たびとへどまたびになりぬいえのもがきせしころもにあかつきにかり)
[旅と口では簡単にいうが、おれの旅はほんとの長旅になってしまった。家のあの子が着せてくれた衣に、すっかり垢が付いている。]

四三九二
 天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ
(あめつしのいづれのかみをいのらばかうつくしははにまたこととはむ)
[天地のどの神様に祈りを捧げたなら、あのいとしくなつかしい母さんとまた言葉を交わすことができるのだろうか。]

四四〇一
 韓衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来ぬや母なしにして
(からころむすそにとりつきなくこらをおきてぞきぬやおもなしにして)
[韓衣の裾に取りすがって泣きじゃくる子ら、ああ、その子らを置きざりにして来てしまった。母もいないままで。]

四四二五
 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず
(さきもりにいくはたがせととふひとをみるがともしさものもひもせず)
[今度防人に行くのはどなたの旦那さん、と尋ねる人、何の物思いをすることもない、そんな人を見ると羨ましくてならない。]

四四三二
 障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも
(さへなへぬみことにあればかなしいもがたまくらはなれあやにかなしも)
[拒もうにも拒めない大君の仰せであるので、いとしいあの子の手枕を離れてきてしまって、ただむしょうにせつない。]
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詩人・細野幸子さんの詩「プリズム / 単純作業 / ゆきだるま」を紹介します

 ホームページの「好きな詩・伝えたい花」で、詩人・細野幸子さんの詩「プリズム / 単純作業 / ゆきだるま」を紹介しました。
 細野さんは、極北の星のひかりのような、あわゆきのような、本当の詩人です。紡ぎだされる詩はピアノの美しい旋律となって耳たぶをくすぐり心をふるわせ彼方へ誘ってくれます。しゃぼんだまのように、虹のように哀しく、永遠を瞬間に浮かべ、響いてゆきます。
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詩と詩集についての覚え書

 今回は、詩人の吉川千穂さんの第一詩集『再生』を読ませて頂いたことで感じ考えた、詩と詩集についての思いを見つめ直し記しました。

☆詩の批評 
 詩の一番の理解者、良いところも不完全なところも感じているのは書いた詩人です。どのような批評を受けようが、ほめまくられようが、無視されようが、自分がこのかたちがいい、この詩はいい、と感じとれたら、それは必ずいい詩だし、生み出した詩人が守りぬくものと思っています。
 振り返ったときに不完全なところに気づいたら、直してあげるか、突き放して次の作品に活かすか、決められるのも創作者だけです。私の詩のここはこうしたらと言われても自らの自発的な声でなければ私は変えません。
 詩人の細野幸子さんが、ご自分の詩について、「わたしが生んだ大切な子供たち」とおっしゃっていらして、私は心から共感します。

☆第一作品集
 私の第一作品集『死と生の交わり』は二十年前のものですが、その作品集を良いと伝えてくださったのは当時出版社にとどいた一枚の読者の方からのハガキと、ホームページを今年公開した後に詩人の神谷恵さん、山下佳恵さんがかけてくださったお言葉だけです。(私の詩を批評してくださった詩人の中村不二夫さん、磯村英樹さん、三上洋さんは、この作品集を私の原点と見てくださいました。)
 評価はされませんが私は大切ないい作品集だと今も思っています。書き直しを考えたこともありましたが、真剣だった当時の自分に対してできませんでした。この作品集を現在から見つめ直した二十代の自分との対話は、近日中に別のエッセイ「自殺を思うひとに」としてまとめ公開したいと考えています。

☆詩集
 私は、詩集は全体で楽章のある音楽のように一つの作品だと考えています。章構成に意思とまとまりと流れがあること、全体に主調音が底流していて自然に伝わることが大切だと思います。

☆詩の調べ
 生きた言葉を感じとり、生きた言葉を詩にこめる修練として、私の場合は万葉集や新古今集などの和歌、アイヌのユーカラの詩人による良質な翻訳、それらの好きな詩をできるだけ意識して読みます。長い年月伝えられてきた言葉、調べは、生きたリズムを心に甦らせてくれます。
 自分の過去の作品を読み返すことで、自分の詩の音楽を思い起こすこともします。

☆詩の言葉
 語彙を豊かにする努力、取り組みは、詩を書く上で大切だと思います。若いときには太宰治だったかの真似をして国語辞典を読んでいたことがあります。
 でも生きた詩の言葉は、伝えずにはいられない思い、織り込められるねがいの、強さ、やわらかさ、温度と、心のリズムの表れなので、生まれてくる顔かたちは、その思い、ねがいのままに、赤ん坊ひとりひとりのように、ことなってくると思います。
 祈りと叫びの詩は自然に、透明度の高い、抽象度の高い、透明な硬質な光の姿で。まっすぐな柔らかいな思いの詩は、語りかける人の生の声に近いぬくもりで包みこむような響きとなって。
 思い、願い、意味を伝えたい、そのためにいちばんわかりやすい言葉を選ぶ詩人に私は共感し、詩を感じます。
 言葉の象牙の塔をこねくりあげて、一般の読者にはわからないだろうと仲間うちで持ち上げあう人の知的な言葉の書き連ねを、私は詩とは思えず、いいとは感じません。そのような言葉遊びは、万葉集にも「無心所着歌」などとしてあったし、いつの時代にもあったけれどつまらないと思います。童謡や童話の言葉の良さを感じとれる心と、その良さにに近づきたいと思う謙虚さがないと、心に響く詩は生まれないと思います。

☆なぜ、なにを、書くか
 私にとって詩は、祈り、ねがい、人を愛する思いで、ひとりの人としての切実な思いだからこそ、他のひとりの人の心になぜか伝わるものとだけ信じ、詩はそこにしかないと考えています。多数者の多数者への言葉に詩はない、ぼくら、我ら、国民のみなさん、といった言葉に、嘘を感じてしまう人間です。
 反対に私は苦しみ悲しんでいる人の心のそばで思いを感じとろうとし語りかけようとする人の言葉、祈りの言葉、人が人を愛し思う言葉に、心が自然に揺れ、詩を感じます。
 人の社会は今だけ腐っているのではなく、はじめからずっとだ、弱い者をいじめ、本当に良い人はたぶん早く死んでしまうと思っています。でも同じ時を生きる他の人の悲しみに寄り添う優しい人はずっと昔からいたし、愛しあう深い思いは決して絶えずにあった、そのように大切だと感じられる思いを伝えていくことを選びたいと思います。利己的な争いも蹴落としあいも殺しあいもなくならないとあきらめているのか、と問われたら、私に言えるのは、なくならなくても、どんなことがあっても生きている限りは、大切だと感じとれる思い、本当のこと、好きなもの、美しいもの、愛するものを思いに込めて伝えたいだけ、それだけです。

☆どのように、書くか
 書かずには、伝えずにはいられない思いを織り込めうたうという、一番大切なものを見失わなければ、詩は生まれます。それ以外のこと、表現方法や形式は、努力し工夫すればより良くできる二次的なものです。
 読んでくださる方の好き嫌いはどうにもできないのだから、作者は個性のありよう、心のひろがり、思いの幅を、窮屈に狭めずに、やはり伝えたい、伝えずにいられない思いは、生まれでてこようとする姿を生かすことが一番よいのだと思います。
 他の人の心と共鳴できるのは心のある部分部分で、対する人により重なりあう領域、深さはことなるけれど、全体を愛せるのは作者だけですから、批評に左右されず、詩集全体を愛して、そこで表現された心のひろがりをさらにひろげ、思い、叫び、心の表情を、おし殺さず、よりゆたかにすること、解き放つことを大切にして、詩を生みたいと思います。
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詩人・山下佳恵さんの詩集・ホームページ『あなたへ』を紹介します

 「好きな詩・伝えたい花」でご紹介した詩人・山下佳恵さんの詩集・ホームページ『あなたへ』を、ホームページの「詩人の世界へ」にリンクしました。
  詩誌『潮流詩派』とアンソロジー集発表の全詩作品を、愛・いのち・生きもの・社会・永遠・物語などの優しく豊かなテーマで8章に新しく編んだ詩集・ホームページです。新しい詩作品も公開されます。

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愛(かな)しい詩歌 万葉集 東歌・防人歌 

「万葉集 巻第十四の東歌(あづまうた)」より好きな歌を四首選びました。
*出典『新版 万葉集三 現代語訳付き』』(訳注:伊藤博、角川ソフィア文庫)、
*国歌大観番号を付します。
*出典の原文を記し、続けて( )内にひらがなで記します。

東歌(あづまうた)
三三七二
 相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも
(さがむぢのよろぎのはまのまなごなすこらはかなしくおもはるるかも)

三三七三
 多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき
(たまがはにさらすてづくりさらさらになにぞこのこのここだかなしき)

三四六五
 高麗錦紐解き放けて寝るがへにあどせろとかもあやに愛しき
(こまにしきひもときさけてぬるがへにあどせろとかもあやにかなしき)

三五六九
 防人に立ちし朝明のかな門出に手離れ惜しみ泣きし子らばも
(さきもりにたちしあさけのかなとでにたばなれをしみなきしこらばも)
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東歌(あづまうた)、万葉集

 万葉集の作者未詳の歌のなかで、私が好きな東歌(あづまうた)について記します。
巻第十四のこれらの歌は、東の国々の地名が多く詠まれていて、当時の方言・訛りも多く、独特のしらべに揺れ動きます。
 性愛のストレートな表現も特徴ですが、それは逆にこれらの歌が、民謡に近いもの、歌垣などでの女と男の言葉のかけあいから生まれたもの、あの時代にいた人たちの共有の謡いもの、歌謡曲だったからだと言われていて、私もそのように感じます。
 寝た、寝たいなど直接的な表現は、おおっぴらなぶん、明るく肯定的で、祭りのそわそわする気持、集まった男女の間に漂う赤らんだ、ほてった気持ちを、みんなで楽しんでいるような場所で、生まれ、歌われ、伝えられたように感じます。私はそんな東歌が嫌いではありません。人は昔も今も変わらないんだって思います。
 それがいちばん東歌の良い面である反面、巻第十一・十二の正述心緒の相聞歌に満ちている個人としての女と男が向き合い愛しあう思いの切実さは感じとれません。

 同じ東歌でも、防人歌(さきもりうた)だけはまったくちがう切実な思いの悲しい歌です。すべてが作者未詳歌ではありませんが、ほとんど無名の個人の思いの歌です。
 その大部分は巻第二十に集められているので、その歌に感じ思うことは次回に記します。

「愛(かな)しい詩歌」に巻第十四の好きな東歌を少しですが咲かせました。
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愛(かな)しい詩歌 万葉集・正述心緒・相聞歌

万葉集 巻十一、巻十二 正述心緒 相聞歌」より
好きな歌を二十首選びました。
*出典『万葉集歌人集成』(著者:中西進、辰巳正明、日吉盛幸、講談社)。
*国歌大観番号を付します。
*出典の原文を記し、続けて( )内にひらがなで記します。

巻十一 
二三八一
 君が目を見まく欲りしてこの二夜千歳の如く吾は恋ふるかも
(きみがめをみまくほりしてこのふたよちとせのごとくわはこふるかも)

二三八二
 うち日さす宮路を人は満ち行けどわが思ふ君はただ一人のみ
(うちひさすみやぢをひとはみちいけどわがもふきみはただひとりのみ) 

二三九二
 なかなかに見ざりしよりは相見ては恋しき心まして思ほゆ
(なかなかにみざりしよりはあいみてはこほしきこころましておもほゆ)

二四〇二
 妹があたり遠く見ゆれば怪しくもわれは恋ふるか逢ふ縁を無み
(いもがあたりとほくみゆればあやしくもわれはこふるかあふよしをなみ)

二四一四
 恋ふること慰めかねて出で行けば山をも川をも知らず来にけり
(こふることなぐさめかねていでいけばやまをもかわをもしらずきにけり)

二五二六
 待つらむに到らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む
(まつらむにいたらばいもがうれしみとえまむすがたをいきてはやみむ)

二五五〇
 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の赤裳裾引き去にしすがたを
(たちてもひいてもそおもふくれないのあかもすそひきいにしすがたを)

二五六四
 ぬばたまの妹が黒髪今夜もかわが無き床に靡けて寝らむ
(ぬばたまのいもがくろかみこよひもかわがなきとこになびけてぬらむ)

二五六七
 相見ては恋慰むと人は言へど見て後にそも恋ひまさりける
(あひみてはこひなぐさむとひとはいへどみてのちにそもこひまさりける)

二五七八
 朝寝髪われは梳らじ愛しき君が手枕触れてしものを
(あさいかみわれはけづらじうつくしききみがたまくらふれてしものを)

二五九二
 恋ひ死なむ後は何せむわが命生ける日にこそ見まく欲りすれ
(こひしなむのちはなにせむわがいのちいけるひにこそみまくほりすれ)

巻十二
二八四一
 わが背子が朝明の姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮すかも
(わがせこがあさけのすがたよくみずてけふのあひだをこひくらすかも)

二八六八
 恋ひつつも後もあはむと思へこそ己が命を長く欲りすれ
(こひつつものちもあはむとおもへこそおのがいのちをながくほりすれ)

二八六九
 今は吾は死なむよ吾妹逢はずして思ひ渡れば安けくもなし
(いまはあはしなむよわぎもあはずしておもひわたればやすけくもなし)

二九〇四
 恋ひ恋ひて後も逢はむと慰もる心しなくは生きてあらめやも
(こひこひてのちもあはむとなぐさもるこころしなくはいきてあらめやも)

二九〇五
 いくばくも生けらじ命を恋ひつつそわれは息づく人に知らえず

(いくばくもいけらじいのちをこひつつそわれはいきづくひとにしらえず)

二九一四
 愛しと思ふ吾妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ
(うつくしとおもふわぎもをいめにみておきてさぐるになきがさぶしさ)

二九二二
 夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも嬉しかりけれ
(ゆふさらばきみにあはむとおもへこそひのくるらくもうれしかりけれ)

二九三一
 思ひつつをれば苦しもぬばたまの夜にならばわれこそ行かめ
(おもひつつをればくるしもぬばたまのゆふべにならばわれこそいかめ)

二九三六
 今は吾は死なむよわが背恋すれば一夜一日も安けくも無し
(いまはあはしなむよわがせこひすればひとよひとひもやすけくもなし)
 

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相聞歌、ただに思いを述べたる

 万葉集の作者未詳の歌たち、名を残さなかった人たちの、私が好きなもうひとつの詩歌、正述心緒の相聞歌についての思いを記します。
 万葉集巻十一・巻十二には、作者未詳の「ただに思いを述べたる(正述心緒)」が編み込まれていて、その多くが相聞歌です。
 ただに思いを述べたる、この言葉そのままの、生きている思いの揺れ動きをそのまま言葉に込めたはだかの歌です。感情の体温、なまの暖かさ、熱さ、凍える寒さをもつ、感動そのままの響きです。
 女と男、ひとりの人からひとりの人への伝えずにはいられない思い、いとおしさ、せつなさ、哀しみが、恋のうたの波となり、揺らめいている、愛(かな)しみの歌です。
 自分のこころをまっすぐにみつめた歌、愛する人に愛する思いをまっすぐに伝えたいと願いふるえる歌です。

 私は万葉集のなかで、この正述心緒にもっとも惹かれます。読むたびに歌が自分の思いとなって揺れだし、歌の体温がこころの肌にしみてきます。言葉で伝えずにはいられない思いをうたう、思いを言葉に託す、感動を歌にこめるという詩歌の源泉から湧き出した清流、時代、場所を越えて生まれた詩歌のうち、もっとも良い歌だと感じます。

 名を残さなかった人たちの、愛のうたは、今生きている私の心の思いをも歌ってくれます。私の思いを揺りおこし、わたしの心と重なり、みつめることをうながし、気づかせてくれます。
 千数百年の時を越えて変わらない、人が生きる限り抱き続ける思いの流れに、私もまたいることを知ります。時を越えて伝えられた思いに、時の流れのなかで共感し感動できることこそ、詩歌があり続ける理由ではないかと思います。わたしも作者未詳となっても、思いを込めた正述心緒の詩歌に加わり、伝えられたらと願います。

 相聞歌と同じように、強く魂をゆさぶられる詩歌は、挽歌、鎮魂の歌です。このもうひとつの大切な詩歌については別の機会に記します。次回は、万葉集巻十四の東歌を見つめなおしたいと思います。

 万葉集巻十一・巻十二の正述心緒の相聞歌の野花畑から、私がとくに好きな歌、生まれた時の姿のままで今もこの心に伝わる歌を思いのまま摘んで、「愛(かな)しい詩歌」に咲かせます。
 
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愛(かな)しい詩歌「万葉集 巻十三 長歌 反歌」

万葉集 巻十三 長歌 反歌」
 (国歌大観番号:長歌・三二四三、反歌・三二四四)。
 
 出典『万葉集歌人集成』(著者:中西進、辰巳正明、日吉盛幸、講談社)。
*出典の原文を記し、続けて( )内にひらがなで記します。

 少女等が 麻笥に垂れたる 績麻なす 長門の浦に 
 朝なぎに 満ち来る潮の 夕なぎに 寄せ来る波の 
 その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 
 吾妹子に 恋ひつつ来れば 阿胡の海の 荒磯の上に 
 浜菜つむ 海人少女らが 纓がせる 領巾も照るがに 
 手に巻ける 玉もゆららに 白栲の 袖振る見えつ 
 相思ふらしも

(おとめらが おけにたれたる うみをなす ながとのうらに 
 あさなぎに みちくるしおの ゆうなぎに よせくるなみの 
 そのしおの いやますますに そのなみの いやしくしくに 
 わぎもこに こひつつくれば あごのうみの ありそのうへに 
 はまなつむ あまをとめらが うながせる ひれもてるがに 
 てにまける たまもゆららに しろたへの そでふるみえつ
 あひおもふらしも) 

反歌
  阿胡の海の荒磯の上のさざれ波わが恋ふらくは止む時もなし
 (あごのうみのありそのうえのさざれなみわがこふらくはやむときもなし)
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愛(かな)しい詩歌

 このブログの「詩を想う」では、詩について自分に言い聞かせ思い留めたいこと、詩を書くうえで、感じ取るうえで私が大切だと考えてきたこと、考えていることを書き記しています。私自身、学びなおし少しずつ思い出し考えています。そうするなかで、これまで感動し本当に良いと感じた詩歌については、いくら心を込めて評しても、その詩歌そのものに触れることで感じうる感動には届かないことに気づきました。
 そのような特別の思い入れのある詩歌については、新しいカテゴリ「愛(かな)しい詩歌」を設けて、作品そのものを引用・紹介し、私なりのちいさな花束を作り、届けたいと思います。
 「愛(かな)し」という言葉は、いとしさと悲しみをふくみこんだ、私がこの一生でずっといちばん好きだろうと感じている言葉だからです。
 ホームページの「好きな詩・伝えたい花」では、現在生き、創造されていらっしゃる、好きな思い入れのある、詩人・詩作品を紹介させていただいていますが「愛(かな)しい詩歌」は、亡くなられた方の詩歌の花です。時代・場所・言語は問わず、「詩を想う」の自由な展開のままに、心にその姿をあらためて焼きつけたいと感じるままに、掲載していきます。
 初回は、「詩を想う」の「詩のしらべ、万葉集」でとりあげた、万葉集・巻十三の作者未詳歌にします。
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詩のしらべ、万葉集

 私は詩歌が好きです。詩歌という豊かなひろがりのある言葉が好きです。日本語での詩のしらべを思うとき、美しい響きの源流近くに、万葉集がささめいています。
 心が疲れ干し上がって、音をききとる力が弱まり、言葉が歌を見失ってしまったとき、私は二つのことで詩歌を思い起こそうとします。ひとつは、自分自身の作品を読み返すことです。詩作の際には繰り返し読み返すことで作品全体を暗誦できるようになりますが、次第に記憶は弱まり忘れてしまいます。読み返すことで自分のこころのリズム、うたが目覚めてくる気がします。もうひとつは、好きな詩歌を読み返すことです。私にとって詩のしらべを呼び覚ましてくれるいちばんの詩集は、万葉集です。
 そのなかでも、長歌の揺り返す海の波のようなリズムと響きに、日本の詩歌が生まれてきた羊水のたゆたいのような、やすらぎを感じます。
 柿本人麻呂の挽歌や別れの歌、山上憶良の貧窮問答歌には読むたびに、詩歌だからこそ伝えられる思いの深さと豊かさを感じ、詩歌人として彼らに近づきたいと強い願いが揺り起こされます。
 でも、彼らの徹底して創りり上げられた作品とまったく対照的な詩歌ですが、万葉集で私がとりわけ好きなのは、作者未詳の歌たち、名を残さなかった人たちの詩歌です。
 巻十三の長歌は、声を出して歌われた古歌謡の名残りを留めていると言われますが、なかでも、海と娘たちの歌は、海の鮮明なイメージと娘たちのまぶしい姿と、言葉のしらべの揺り返す波に浮かんでいる思いになります。日本語の豊かに波うつ詩歌のしらべ、潮騒の響きにつつまれ、心のなかで凝固していた思いが溶かされ、歌となって揺れはじめます。
 万葉集の作者未詳の歌たち、名を残さなかった人たちの、私が好きなもうひとつの詩歌、相聞歌のこと、思いを伝える言葉について次に記したいと思います。
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