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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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戦争と特攻隊と本居宣長

本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 5回目の今回は、この著書での宣長自身の言葉を、日中戦争、太平洋戦争時に喧伝された本居宣長の姿と照らし合わせて、その虚実を見つめ、戦争と文学者について考えたいと思います。

日中戦争、太平洋戦争時の本居宣長の虚像

 日中戦争、太平洋戦争の時代の文学者について以前ブログで考えました(高村光太郎 胸中から迸り出る言葉)。そこで紹介した次のホームページ「鳥飼行博研究室 戦争と文学:文学者の戦争」に戦時中の本居宣長像が記されています。
 本居宣長はその時代、愛国心を高めるために虚像を喧伝され祭り上げられたのではないか、実像だったのか、その資料と彼自身の言葉から考えます。

◎資料引用
「1942年11月20日に発表された愛国百人一首に、本居宣長「鈴屋集」からは、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。
1944年10月の神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島,大和、朝日、山桜が使用された。源田實は、命名者であるが、当然「愛国百人一首」を読んでいたか,それを知っていた海軍軍人のアドバイスを得たのであろう。」

 本居宣長は『紫文要領』をまとめた後も生涯『源氏物語』を愛読し講義し『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』をまとめ上げましたが、彼の言葉、考え方はその間変っていません。
 以下の言葉は、『古事記伝』で古の我国の人の心を探し求め続けた本居宣長自身が見出だし、抱き続けたものです。
 宣長は我国の人のまことのこころは「女童のごとく」だと述べます。さらに続けて、
武士(もののふ)の戦場におきていさぎよく討死にしたる事其の時のまことの心のうちをつくろはず有りのままに書くときは、故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命も少しは惜しかるべし。是れみな人情の必ずまぬがれぬ所なれば、たれとてもその情(こころ)はおこるべし。其の情のなきは岩木に劣れり。」

 私は戦時に宣長を祭り上げた軍部は、彼を曲解し虚像を拵え政治的な戦意高揚に利用したのだと考えます。軍部の上層部は、大陸への侵略を始めた時から戦局が悪化した時まで、岩木に劣っていた。それだけでなく若者たちを巻き込み、岩木に劣る心になれと命じ、特攻を命じたのだと、私は思います。

 本居宣長が生涯抱き彼がよいものとして捉えた「我国の人のまことのこころ」は、軍人の精神とは対極のものです。宣長は、次のように言い切っています。
「君のため国のために命を棄つるなどやうの事」は、「まことの有りのままの情をばかくして、つくろひたしなみたる所」であり、「賢げにする所は情を飾れる物にて本然の情にはあらず。」。
 『源氏物語』を愛する本居宣長は、特攻隊の対極にいます。
 何より偽りを嫌う宣長は、青年期から死ぬまで、軍人の繕い飾った賢しらな虚勢を、我が国の人の真の心ではないと考えていたこと、書き残していることを忘れてはならないと思います。
 飽くなき思いで人の心を見つめ人を愛する本当の文学者なら、戦争を賛美し加担できるような、偽りの、岩木に劣る心は持ちえないと、宣長に共感しつつ私は考えています。

◎原文
「又武士(もののふ)の戦場におきていさぎよく討死にしたる事を物に書くとき、其のしわざを書きてはいかにも勇者と聞こえていみじかるべし。其の時のまことの心のうちをつくろはず有りのままに書くときは、故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命も少しは惜しかるべし。是れみな人情の必ずまぬがれぬ所なれば、たれとてもその情(こころ)はおこるべし。其の情のなきは岩木に劣れり。それを有りのままに書きあらはすときは、女童の如く未練に愚かなる所多き也。唐の書は、そのまことの有りのままの情をばかくして、つくろひたしなみたる所をいへば、君のため国のために命を棄つるなどやうの事ばかりを書けるもの也。すべて人の情の自然(じねん)のまことの有りのままなる所は、はなはだ愚かなる物也。それを努めて直し飾りつくろひて、賢げにする所は情を飾れる物にて本然の情にはあらず。」(P156)


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tag : 本居宣長 紫文要領 戦争 文学 高村光太郎 源氏物語 紫式部 高畑耕治 詩歌 詩人

心は女童のごとく。本居宣長

本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 4回目の今回は、「人の実の心」を宣長が『源氏物語』を通してどのように捉えていたかを考えます。

心の内のまことの姿は歌物語に

 本居宣長は異国の書、異朝の書、唐の書と対比させるかたちで、我国の歌と物語の本質的な特徴は何かと考えます。前者に対する批評は厳しく狭く偏った見方といえますが、それはこの論をすすめるうえで、後者を浮き上がらせ際立たせるためだったとも言えます。彼があくまでこの著書で述べようとしたのは、『源氏物語』に最も優れた姿で現れでた、我国の歌物語の本質と特徴だからです。
 本居宣長は「心の内のまことを有りのままに」表していることが、それだと言います。
 有りのままに書き出された心の内のまことの姿を、彼は『源氏物語』に見出しました。その姿はこうだと、宣長は語ります。
「物はかなくしどけなげにて、すこしもさかしだちかしこげなる事はなく、おろかに未練(みれん)なるもの。
だから本当は誰の心も「女童のごとく」はかなくつたない。
「いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。」

 宣長は、このように人の心を見据え、男の、大人の心を有りのままに暴きさらします。
 彼のこの言葉から私は、まことを見つめ偽りは言わない、という強い意志を感じます。そして、私も人の「心の内のまこと」の有りのままの姿は、彼が言うように、男も女も、童のごとくだと思っています。

◎原文
「まづ異国の書は、何の書もとかく人の善悪をきびしく論弁して、物の道理をさかしくいひ、人ごとにわれがしこにいひなし、風雅の詩文に至りても、とかく我国の歌とはちがひて、人の情(こころ)をばあらはさず、何となくさかしくかしこげに見ゆる也。わが国の物語は、物はかなくしどけなげにて、すこしもさかしだちかしこげなる事はなく、とかくに人情の有りのままを、こまかに書きいだせり。すべて人の心といふものは、実情はいかなる人にても、おろかに未練(みれん)なるもの也。それを隠せばこそかしこげには見ゆれ、まことの心の内をさぐり見れば、たれもたれも児女子の如くはかなきもの也。異朝の書はそれを隠して、おもてむきうはべのかしこげなるところを書きあらはし、ここの物語は、その心の内のまことを有りのままにいへる故に、はかなくつたなく見ゆる也。」(P50-P51 )
「おほかた人の実(まこと)の情(こころ)といふ物は、女童のごとく未練に愚かなる物也。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたる物也。実の心の底をさぐりて見れば、いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。それを恥ぢてつつむとつつまぬとの違ひめばかり也。」(P155)

 本居宣長は、歌物語こそが「人の実の心を細やかにくわしく書き表して」物の哀れを伝えるものであり、『源氏物語』は特に優れた心の鏡だと言います。この歌物語に浮かび上がる姿が「人の実の心」だと述べます。その姿は、
「女童のごとくはかなく未練に愚かなる事多し。
ことによき人は物のあはれをしるゆゑに、いとど人情は深くしてしのびがたき事多き故に、いよいよ心弱く愚かに聞こゆる事多し。」


というものです。
 私は、宣長が、人の心のまことの姿を、『源氏物語』に見つめているまなざしは、曇っていない、鏡に浮かぶ姿そのものを語っていると思います。

◎原文
「ここの歌物語は、人の実の心の底をあらはに書きあらはして、物の哀れを見せたる物也。人情のこまやかなる所を、隈(くま)なくくはしく書きあらはせる事歌物語にしくはなし。其の中にも此の物語はすぐれてこまやかにして、明鏡をかけて形を照らし見るが如くに、人情のくはしき所を書きあらはせり。故に女童のごとくはかなく未練に愚かなる事多し。
ことによき人は物のあはれをしるゆゑに、いとど人情は深くしてしのびがたき事多き故に、いよいよ心弱く愚かに聞こゆる事多しと知るべし。」(P155)


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tag : 本居宣長 紫文要領 源氏物語 紫式部 高畑耕治 詩歌 詩人 うた 絵ほん

新しい詩「生まれた日から」をHP公開しました

ポーの詩「アナベル・リー」

 ブログ「詩を想う」の「恋と物のあはれ」で、恋の歌について記しました。
 その際、本居宣長の叙述と共鳴している萩原朔太郎の『詩の原理』を再び取り上げました。その著書にある朔太郎の言葉、「詩の中での純詩と言うべきものは、ポオの名言したる如く抒情詩の外にない。」「実に抒情詩というべきものは恋愛詩の外になし。」が私は好きです。ポーの詩論もいつか取り上げるつもりです。

 この「愛(かな)しい詩歌」は時代も大陸も言語も越えて私が好きな詩を咲かせる野原ですので、とても有名ですが英語詩のなかで私がいちばん好きなポーの抒情詩「アナベル・リー」を先に咲かせます。
 ポーの最期の詩と言われていますが、そのことを知らずに初めて読んだ時から、私はとても好きになりました。彼が書き残したすべての言葉のなかで、透きとおる愛(かな)しみの音楽が響いてゆく、この愛の詩が今もいちばん好きです。
出典:『対訳 ポー詩集 ―アメリカ詩人選1』(エドガー・アラン・ポー、訳:加島祥造、岩波文庫、1997年)。


Annabel Lee

It was many and many a year ago,
In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
By the name of Annabel Lee;―
And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.

She was a child and I was a child,
In this kingdom by the sea,
But we loved with a love that was more than love―
I and my Annabel Lee―
With a love that the winged seraphs of Heaven
Coveted her and me.

And this was the reason that,long ago,
In this kingdom by the sea,
A wind blew out of a cloud by night
Chilling my Annabel Lee;
So that her highborn kinsmen came
And bore her away from me,
To shut her up, in a sepulchre
In this kingdom by the sea.

The angels, not half so happy in Heaven,
Went envying her and me:―
Yes! that was the reason (as all men know,
In this kingdom by the sea)
That the wind came out of the cloud,chilling
And killing my Annabel Lee.

But our love it was stronger by far than the love
Of those who were older than we―
Of many far wiser than we―
And neither the angels in Heaven above
Nor the demons down under the sea
Can ever dissever my soul from the soul
Of the beautiful Annabel Lee:―

For the moon never beams without bringing me dreams
Of the beatiful Annabel Lee;
And the stars never rise but I see the bright eyes
Of the beatiful Annabel Lee;
And so,all the night-tide,I lie down by the side
Of my darling,my darling,my life and my bride
In her sepulchre there by the sea―
In her tomb by the side of the sea.


アナベル・リー

幾年(いくとし)も幾年も前のこと
 海の浜辺の王国に
乙女がひとり暮していた、そしてそのひとの名は
 アナベル・リー ―
そしてこの乙女、その思いはほかになくて
 ただひたすら、ぼくを愛し、ぼくに愛されることだった。

この海辺の王国で、ぼくと彼女は
 子供のように、子供のままに生きていた
愛することも、ただの愛ではなかった―
 愛を超えて愛しあった―ぼくとアナベル・リーの
その愛は、しまいに天国にいる天使たちに
羨(うらや)まれ、憎まれてしまったのだった。

そしてこれが理由となって、ある夜
 遠いむかし、その海辺の王国に
寒い夜風が吹きつのり
 ぼくのアナベル・リーを凍えさせた。
そして高い生まれの彼女の親戚たちが
 とつぜん現れて彼女を、ぼくから引き裂き連れ去った
そして閉じ込めてしまった
 海辺の王国の大きな墓所に。

天使たちは天国にいてさえぼくたちほど幸せでなかったから
 彼女とぼくとを羨んだのだ―
そうだとも! それこそが理由だ
 それはこの海辺の国の人みんなの知ること
ある夜、雲から風が吹きおりて
 凍えさせ、殺してしまった、ぼくのアナベル・リーを。

しかしぼくらの愛、それはとても強いのだ
 ぼくらより年上の人たちの愛よりも
 ぼくらより賢い人たちの愛よりも強いのだ―
だから天上の天使たちだろうと
 海の底の悪魔たちだろうと
裂くことはできない、ぼくの魂とあの美しい
 アナベル・リーの魂を―

なぜなら、月の光の差すごとにぼくは
 美しいアナベル・リーを夢みるからだ
星々のあがるごとに美しいアナベル・リーの
 輝く瞳を見るからだ―
だから夜ごとぼくは愛するアナベル・リーの傍(そば)に横たわるのだ
おお、いとしいひと―わが命で花嫁であるひとの
 海の岸辺の王国の墓所に―
 ひびきをたてて波寄せくる彼女の墓所に。

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tag : 萩原朔太郎 詩の原理 抒情詩 ポー アナベル・リー 恋愛詩 高畑耕治 詩歌 詩人

恋と物のあはれ

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 3回目の今回は、「恋と物のあはれ」について、宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記します。 本居宣長は、藤原俊成の歌を引いて、恋せずに物の哀れの忍びがたさをふかく感じしることはできない、と言います。だからすぐれた歌も恋の歌こそに多いのだ、と。
 詩人の萩原朔太郎も『詩の原理』で同じことを熱く語っていることは、以前このブログで記しました。(萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし。)

 続けて宣長は物語についても語ります。このあたりの文章、とくに「恋する人のさまざま思ふ心のとりどりにあはれなるおもむきを、いともこまやかに書きしるして、よむ人に物の哀れをしらせたる也。」など、とても美しく『源氏物語』の姿を鮮やかに浮かび上がらせていると私は感じます。

◎原文
「人の情の深くかかる事好色にまさるはなし。さればその筋につきては、人の心ふかく感じて、物のあはれをしる事何よりもまされり。故に神代より今にいたる迄、よみ出る歌に恋の歌のみ多く、又すぐれたるも恋の歌におほし。是れ物の哀れいたりて深きゆゑ也。物語は物のあはれを書きあつめて、見る人に物のあはれをしらするものなるに、此の好色のすぢならでは、人情のふかくこまやかなる事、物のあはれのしのびがたくねんごろなる所のくはしき意味は書きいだしがたし。故に恋する人のさまざま思ふ心のとりどりにあはれなるおもむきを、いともこまやかに書きしるして、よむ人に物の哀れをしらせたる也。後のことなれど、俊成三位の、
恋せずば人は心もなからまし物の哀れもこれよりぞしる
とよみ給へる、此の歌にて心得べし。
恋ならでは、もののあはれのいたりて忍びがたき所の意味はしるべからず。」(P109-P110)

 そのうえで宣長は、色欲、好色、淫乱そのものを、紫式部の『源氏物語』がよしとしているのではなくて、物の哀れしることをよしとしているのだ。物の哀れを深く感じ伝えようとするとき浮かび上がる男女の中、色欲、好色、淫乱をありのままに描ききっているのだ、と読み取ります。恋と色欲と好色と淫乱、これらはその呼び方や見方で異なって感じられはするけれど、物の哀れそのものと分かちがたく交じり合い綾をなしているものだと私は思い、宣長に共感します。
 「たれも老いては若き人の好色をつよくいましむれども、若きほどは此の筋にはしのびがたき方のありて」という言葉を読んだ時、私は宣長がうそ、いつわりごとを言わない人だと感じました。

 私は二十歳前後の頃、愛することと性欲について思い悩み、フロイトの性欲論を読んだり、トルストイの『人生論』や愛や性を論じた本も読みました。高齢になったトルストイがそれらの著書で、若かった頃の自分の性愛生活を非難しつつ悔い改めた今は禁欲に徹していると懺悔し、読者にも悪の性欲は棄て善の禁欲に生きろと強いているのを、よくこんな自己中心的で押しつけがましい嘘いつわりを言えるものだと、驚き、あきれたことがあります。自分がしなかった、できなかったことを後になって間違ってたから自分を責めるならわかるけど、偉ぶってお前がやれとまでどうして言えるのだろうと、今でも思っています。(作家としての彼の力量、作品を認めていないわけではありませんが)。
 そんなトルストイに比べるとなおさら、紫式部が、また彼女の目を通して本居宣長が、どれほど人のこころ、あはれ、その本来の姿をしっていたか、伝えてくれているか、その深さを思わずにいられません。

 宣長は続けます。歳を重ねても心は若い頃と同じだ、だがおもいやりは深くなるからしのびがたい気持ちをしのぶことができたりもする。けれどそれでもなおしのぶことができないこともあるんだ、誰もそれをとがめることなんてできない、しのびがたさをしることは哀れをしること、深い心をしることだから、と。
 私も『源氏物語』のいつわりのなさにこそ強く惹かれるのだと感じます。

◎原文
「さりとてその淫乱をよしといふにはあらず。物の哀れをしるをよしとして、其の中には淫乱にもせよ何にもせよまじれらんは、すててかかはらぬ事也。物の哀れをいみじういはんとては、かならず淫事は、其の中におほくまじるべきことわり也。色欲はことに情の深くかかる故也。男女の中の事にあらざれば、いたりて深き物の哀れは、あらはししめしがたき故に、ことに好色の事はおほく書ける也。」(P68)
「たれも老いては若き人の好色をつよくいましむれども、若きほどは此の筋にはしのびがたき方のありて、過つ事有る也。年たけても心は同じ事にても、思ひやりが深くなるゆゑに、しのびがたき所をもしひてしのぶ方有り。今源氏の秋好む中宮を思ふ心は、似げなき事としのび給ふがごとし。されども其の上になほしのびぬ事も又有る也。故に源氏の此の後にも猶朧月夜に密通は絶えざりし也。其の所の詞に、「いとあるまじき事といみじく思しかへすにもかなはざりけり」といへり。さればそのしのびぬ所の物の哀れをしる人はふかくとがめず。」(P118-P119)
「よき人は物の哀れをしる故に、好色のしのびがたき情(こころ)を推しはかりて、人をも深くとがめず。殊(こと)に朱雀院の源氏をとがめ給はぬと、源氏の君の柏木を哀れに思しめすとは、いたりて物の哀れを深くしる人にあらずば、かくはえあるまじき事也。柏木の事は、源氏の君さへかやうに哀れにおぼしめす物を、後世此の物語を註するとて、是れをあはれなるやうにはいはで、返りて人のいましめにせよというやうに註せるは、いかに物の哀れしらず心なき人ぞや。かならず式部が本意にそむく事しるべし。好色は人ごとにまぬがれがたく、しのびがたき情のある物といふ事をしり給ふ故にとがめ給はず、哀れに思しめす也。」(P122)

 本居宣長は、紫式部が源氏と藤壺の恋を、そのような恋のしのびがたさ、物のあはれの深さの限りを取り集めて描いていると語ります。哀れを深くしる男と女の恋、逢いがたく社会の道理では許されがたい身に置かれた思い入ることの殊更深い恋。式部は描きながらその恋の極みを生きたのではないでしょうか。 
 読者として私は、藤壺の宮の女性としての魅力に強く惹かれます。命がかかるほどの切実な悲しみと愛さずにはいられない思いに揺れる美しい女性。藤壺の宮の心のすがたと命とを感じて心ふるえます。そのとき彼女に息を吹き込んだ紫式部も生き続けているんだと私は思います。

 ◎原文
「まづ物のあはれのいたりて深き所を書きあらはさむがためといふ故は、前にもいへるごとく、好色ほど哀れの深き物はなし。其の好色の中にも、よろづすぐれて心にかなふ人にはことに思ひの深くかかる物也。又あひがたく人のゆるさぬ事のわりなき中は、ことに深く思ひ入りて哀れの深き物也。されば今此の一事は、物の哀れの深くかかる恋の中にもことによろづにすぐれたる人どちにして、又ことにあひがたく、又ことに人のゆるさぬわりなき事を書き出して、物の哀れのいたりて深き所を書きあらはせり。(中略)是れあひがたく人のゆるさぬわりなき中は、ことに深く思ひ入りて哀れの深かりし也。かくのごとく、此の御事は物のあはれの深かるべきかぎりをとりあつめて書けるもの也。是れ即ちかの蛍の巻にいへる、よきさまにいはむとてはよき事のかぎりを選り出でといへる物也。よきとは物の哀れをしる事也。」(P141-P142)
「命にもかくるほどに思ふは、物の哀れの中におきても尤(もっと)も深き事故に、かやうの恋のみ多き也。それをしるす心は、それをよしとして人にすすむるためにもあらず、あししとしていましむる為にもあらず、そのしわざの善悪はうちすててかかはらず。ただとる所は物の哀れ也。」(P67)
「又恋の歌をよまむに、今人ごとに色好まぬはあるまじけれども、古へのやうに命にもかくるほどのわりなき恋する人もすくなかるべし。此のすぢに命をすつるものは今もおほけれども、其のおもむき心ばへは古へと大きにこと也。」(P169)

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tag : 源氏物語 物のあはれ 本居宣長 紫文要領 萩原朔太郎 紫式部 高畑耕治 詩人 歌物語

哀れと愛(かな)しの詩

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 2回目の今回は、「哀れ」という言葉を宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記したうえで、私自身の言葉への愛着と詩を添えます(リンクでお読み頂けます)。
 本居宣長は、古(いにしえ)の言葉そのものを、丁寧に読みとくことで、作者が書き記した時点での作品の真の意味をつかもうとした人です。『源氏物語』についての次の言葉が彼の姿勢をよく伝えてくれます。

◎原文 
「すべて此の物語は文章すぐれて意味の深長なる物なれば、一わたりの事にては、文義の心得がたき事多し。心得がたきをしひて心得がほに註したる故に、諸抄共に誤り多し。よくよく文義を明らめ、作者の本意を心得て後に註すべきことなり。」(P82)

 彼は、『紫文要領』の中心概念である、「物のあはれ」、「哀れ」を、その言葉そのものを見つめ直し、以下のように述べています。
 「あはれ」という言葉は、「ああ」という深い心のため息だ。
 「物の哀れ」という言葉には、物思わしくかなしい思いと、おもしろくうれしい思いが共にこもっていて、二つの思いを抱き合わせて「哀れ」ということが多い。
  人の情にとって、おもしろくうれしい思いは軽く浅いが、物思わしくかなしい思いは重く深いと。 

◎原文
「何にても心に深く思ふ事を歎息する也。「哀れと」といふ時は、漢文に嗚呼(ああ)といふと同じ事にて、深く歎息する事也。ああもあはれも同じ詞の転じたる物なり。心に深くおもふ事をいひきかせかたらひて、なぐさむべき人もなきときは、ひとり歎息する也。」(P85)
「さて「物の哀れをもをかしき事をも」といへる二つは、人情の大綱也。合(がっ)しいふときは、哀れといふにをかしきもこもれども、分けていへば、哀れは物思はしくかなしき方にいひ、をかしきはおもしろくうれしき方にいふ也。物語の中にもわけていへる所もあれど、多くは合していへり。合していふときは、おもしろき事うれしき事も哀れといふ也。人情のうちにおもしろくうれしくをかしき事は、軽く浅くして、物思はしくかなしきやうの事は、重く深し。」(P77)

 私は宣長のこの叙述に深い共感を覚えます。本居宣長は、「物のあはれ」、「哀れ」という言葉に、こころを表し伝えるその形と響きとこもるその意味に、強く執着し、どうしようもないほどの思い入れを抱いていたのだと感じます。こだわりをもって言葉を見つめ愛情を持ち続けた、本居宣長の心にとても惹かれます。

 私もまた心と言葉を大切に思い文学を愛する詩人だから、愛情を抱く言葉があります。「愛(かな)し」という言葉がとても好きです。詩集『愛(かな)』のあとがきにその思いは記しました。万葉集の頃から受け継がれてきたこの言葉にも、本居宣長が「哀れ」について語ったように、二つの思いがこめらています。愛している、愛(いと)しい、というふきこぼれる熱い思いと、悲しい、哀(かな)しい、という心が痛む切ない思いです。切り離せずにひとつの言葉にふくみこまれ揺れている思い、その思いをくるんだ文字と響きを、私はなぜだかずっと好きでたまりません。大切なこの言葉がタイトルになって生まれてきた私の作品を、ここに咲かせます。お読み頂けたらとても嬉しいです。

詩「愛(かな)1」、詩「愛(かな)2」(詩集『愛(かな)』から)。
詩「愛(かな)3」、詩「愛(かな)4」(ホームページ「虹‐新しい詩」から)。

詩「愛(かな)しい瞳 1」、詩「愛(かな)しい瞳  2」(ホームページ「愛(かな)しい瞳」から)。

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tag : 源氏物語 物のあはれ 本居宣長 紫文要領 紫式部 高畑耕治 詩人 愛(かな) 歌物語

本居宣長と源氏物語

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取りたいと思います。
引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 今回は、物語は物の哀れをしらする、とする宣長の言葉に感じ思うことを記します。
 本居宣長はこの著書で、物語の意味、『源氏物語』紫式部がこめた真意を、「物の哀れをしらする」ことにあると見い出し、彼以前の注釈の主流だった勧善懲悪の勧めでもなく、儒仏への誘いでもないことを伝えようとしました。私は彼がこの叙述で、文学といえるすべての表現、物語、小説、詩歌の本質を捉えていると思います。文学は実利を求め与え受け取れるものではなく、生きることそのもの、こころそのもの、そのうごきを、伝え感じるものだと。
 まず、この著書で宣長が自らに言い聞かせるように繰り返しているその言葉を、重複はありますが抜き出し、以下に記します。

◎原文
「物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也。」(P65)
「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有りさま人の心ばへをしりて、物の哀れをしる也。とかく物語をみるは、物の哀れをしるといふが第一也。物の哀れをしる事は、物の心をしるよりいで、物の心をしるは、世の有りさまをしり、人の情に通ずるよりいづる也。」(P33-P34)
「人に語りたりとて、我にも人にも何の益(やく)もなく、心のうちにこめたりとて、何のあしき事もあるまじけれども、これはめづらしと思ひ、是れはおそろしと思ひ、かなしと思ひをかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心にばかり思ふてはやみがたき物にて、必ず人々に語り聞かせまほしき物也。世にあらゆる見る物聞く物につけて、心のうごきて、これはと思ふ事はみなしかり。詩歌のいでくるもこの所也。
さてその見る物聞く物につけて、心のうごきて、めづらしともあやしとも、おもしろしともおそろしとも、かなしとも哀れ也とも、見たり聞きたりする事の、心にしか思ふてばかりはゐられずして、人に語り聞かする也。語るも物に書くも同じ事也。さて其の見る物聞く物につきて、哀れ也ともかなしとも思ふが、心のうごくなり。その心のうごくが、すなはち物の哀れをしるといふ物なり。されば此の物語、物の哀れをしるより外なし。」(P45-P46)「さてその物事につきて、よき事はよし、あしき事はあしし、かなしき事はかなし、哀れなる事は哀れと思ひて、其のものごとの味をしるを、物の哀れをしるといひ、物の心をしるといひ、事の心をしるといふ。されば此の物語は、それをしらさむためなれば、よきあしき事をつよくいへる也。」(P48)
「大よそ此の物語五十四帖は、物の哀れをしるといふ一言にてつきぬべし。
その物の哀れといふ事の味は、(中略)猶くはしくいはば、世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其のよろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへ知る、是れ事の心を知る也、物の心を知る也、物の哀れを知るなり。(中略)
わきまへ知りて、其の品にしたがひて感ずる所が物の哀れ也。(中略)
めでたき花といふ事をわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが感ずる也。是れ即ち物の哀れ也。」(P95)
「此の物語はまづ世にありとある事につきて、見る所、聞く所、思ふ所、ふるる所の、物のあはれなるすぢを見しり心に感じて、それが心のこめおきがたく思ふよりして、物に書きて心をはらしたる也。すべて心に思ひむすぼほるる事は人にも語り、又物にも書き出づれば、そのむすぼるる所がとけ散ずる物也。さてその紫式部がつねに心に思ひつもりたる物の哀れを、此の物語にことごとく書き出でて、猶見る人に深く感ぜしめむがために何事もつよくいへるなり。物の哀れなる事のかぎりは此の書にもるる事なしとしるべし。されば是れをよむ人の心にげにさもあるべき事と思ふて感ずるが、すなはちよむ人の物の哀れをしる也。さやうに感ぜしめむがために、物の哀れをことさらに深く書きなしたる物也。深く書きなしたる故に人の感じやすくて、物のあはれをしる事やすくして深き也。」(P179)

 本居宣長は、紫式部が『源氏物語』を、物の哀れをしる人をよしとし、物の哀れをしらぬ人をあししとして描いていると、以下のように教えてくれます。人の情を推(お)しはかることができ、心を知り、感じとることができる人をよしとする、紫式部の心のあり方、いのちの捉え方が私はとても好きです。私も何より大切なことと思います。それを伝えようとこの物語を描きあげた紫式部を私は尊敬します。

◎原文
「ただ人情の有りのままを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也。
さてその人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。是れ物の哀れをしるといふ物也。人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也。人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみを見ても何とも思はず、人のうれへを聞きても何とも思はぬもの也。かやうの人をあししとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也。」(P64)
「又人の重きうれへにあひて、いたく悲しむを見聞きて、さこそ悲しからめと推(お)しはかるは、悲しかるべき事を知るゆゑ也。是れ事の心を知る也。その悲しかるべき事の心を知りて、さこそ悲しからむと、わが心にも推しはかりて感ずるが物の哀れ也。その悲しかるべきいはれを知るときは、感ぜじと思ひ消ちても、自然としのびがたき心有りて、いやとも感ぜねばならぬやうになる、是れ人情也。」(P96)

 本居宣長は、紫式部がこのような深いまなざしで、この物語に生きる人物を描きわけていると述べます。哀れをしることは、うわべの見せかけではないという言葉にも私は共感します。
 源氏の君は、栄華を極め過ぎていて私は好きになれませんが、それでも人情にかない、悲しみよろこびを知る意味ではよい人だと読者として感じるのは、作者の力量だと思います。
 まったく対象的な極にいる浮舟、彼女のこころの動きには深い感動と悲しみを覚えずにはいられません。浮舟の心を描いた紫式部の心の深さに打たれます。
 本居宣長の浮舟を思いやる言葉から彼がこまやかな心をしる人だったことを感じて、私は敬愛の念を抱きます。
  
◎原文
「作り物語にもせよ、それはとまれかくまれ、紫式部が心に源氏の君をよしとして書ける也。かくの如く不義淫乱をばうちすててかかはらず、源氏の君をよき人にしたるは、人情にかなひて物の哀れをしる人故也。」(P69)
「大方物の哀れをしればあだあだしきやうに思ふはひが事也。あだなるは返りて物のあはれしらぬが多き也。其の故は前にもいへるごとく、物のあはれを知り顔つくりて、ここもかしこも物の哀れしる事を知らさむとて、なびきやすにあだなるが多き也。是れは実に知る物にはあらず。うはべの情けといふものにて、実は物の哀れしらぬ也。」(P123)
「又さにはあらで、ここもかしこも物の哀れしりてなびくもあり。是れも事によるべけれども、まづはそれは一方の物の哀れしりても一方の哀れをしらぬになる也。されば浮舟の君は、それを思ひみだれて身をいたづらになさんとせし也。薫のかたの哀れをしれば、匂(におう)の宮の哀れをしらぬ也。匂の宮の哀れをしれば薫のあはれをしらぬ也。故に思ひわびたる也。(略)浮舟の君も匂の宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず。これも一身を失ふて両方の物の哀れを全く知る人也。」(P124)

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『源氏物語』物のあはれ

 ひとりの詩人として私なりの感性で、『源氏物語』を「蛍」の巻の物語論を通して、読み取り感じ取ろうとしました。
 汲み尽くせないほど豊かなこの物語を、本居宣長(もとおりのりなが)は二百数十年前にこよなく愛しその本質に迫りました。彼の著述を通して、さらにこの美しい絵巻についての思いを深めたいと思います。
 彼は67歳で『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』としてこの物語論を集大成しまとめました。ただその本質論の部分は、34歳でまとめた『紫文要領(しぶんようりょう)』で既に「物のあはれ」を核心概念として確立していました。

 まず初めに、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』から、「物のあはれ」について宣長が要約した箇所を以下に引用します。

◎訳文
「物のあわれを知るとは何か。「あはれ」というのはもと、見るもの聞くもの触れることに心の感じて出る嘆息(なげき)の声で、今の世の言葉にも「あゝ」といい「はれ」というのがそれである。たとえば月や花を見て、ああ見事な花だ、はれよい月かなといって感心する。「あはれ」というのは、この「あゝ」と「はれ」の重なったもので、漢文に嗚呼とある文字を「あ ゝ」と読むのもこれである。」
「何事にしろ感ずべきことに出会って感ずべき心を知って感ずるのを、「物のあはれを知る」というのであり、当然感ずべきことにふれても 心動かず、感ずることのないのを「物のあはれを知らず」といい、また心なき人とは称するのである。」
出典:『日本の名著21 本居宣長』(西郷信綱 訳。中央公論社)

◎原文
「物のあはれをしるといふ事、まづすべてあはれといふはもと、見るものきく物ふるゝ事に、心の感じて出る、歎息の聲にて、今の俗言に も、あゝといひ、はれといふ是也、たとへば月花を見て感じて、あゝ見ごとな花ぢや、はれよい月かなな どいふ、あはれといふは、このあ ゝとはれとの重なりたる物にて、文に嗚呼などあるもじを、あゝとよむもこれ也」
「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべきこゝろをしりて、感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、かならず感ずべき事にふれても、心うごかず、感ずることなきを、物のあはれしらずといひ、心なき人とはいふ也」
出典:『本居宣長全集第4巻』(大野晋、大久保正 編・校訂。筑摩書房)

 私は、世界の古代からの詩と詩論を旅していて本居宣長の「物のあはれ」の考えに出会った時のことを思い出します。初めて触れたとき洗われる思いがし、とても強く新鮮に共感しました。彼のこの言葉は、とてもまっとうな、当たり前だからこそ何よりも大切なことがら、誰もがいつも心の奥底に感じながら言葉にできなかったことを、初めて捉えて言い切ったすごさがあると今も思います。物語と詩歌という形の違いが現れる前の、その源にある文学を思うとき、その本質を捉えていると思います。その源は文学は生きること、生きることは文学、と結ばれていて切り離せないところだと私は思います。
 文学は、「ああ」と深く感じる心。深く感じる心から生まれ、伝え、受け取りまた深く「ああ」と感じること。
 詩人の中原中也も文学、生きることは「もののあはれ」そのものだと捉えていました(中原中也の「ゆたりゆたり」)。
 本居宣長は、彼が掬い上げたこの言葉により、見出した視野から、豊かな『源氏物語』の諸相と紫式部の本来の思いを 読み取って伝えてくれます。

 次回から数回、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』に形を整えられる前の、執拗に「物のあはれ」を考えた原初の姿をとどめた『紫文要領(しぶんようりょう)』を中心に、私が感応した本居宣長の散らばり光る言葉を引き、思い巡らし感じ取れたことを記していきます。

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花の詩、詩の花

 私は二十歳で文学に生きようと思った頃、草花、草木の名前 を、あまりに知らないと感じて、図鑑で花や木の名を覚えようとしたことがあります。でも手で触れたことのない、風と光に揺らめく色を、摘みとるときの香りを感じとったことのない花や木の名には、その文字数の音と文字の形しかなくて、思いと心に沁み込んでいないから、詩となって芽吹いてはくれないんだと知りました。

 私のこころの土から顔を出し芽吹いて詩に咲いてくれた草花はみんな、子どもの頃、そして思春期に、この手で触れ匂いに包まれ揺らめく色が思いに焼つき、記憶の土の中で種となって育まれていたのだと気づきます。
 私が好きな花と、その花の名が自然に芽吹いてくれた詩を、思い浮かべると、幸せな気持ちになれます。
 好きな花の名と、咲いてくれた詩を、気ままに摘んで束ねてみました。(詩はリンクでお読み頂けます)。

「りんどう」     りんどう、むらさきつゆくさ。
「いかつり舟」     すずらん、さぎらん、かすみそう。
「ちゅうりっぷ」     チューリップ。
「おもいだしてよ」     桜、おおばこ、つくし、げんげ、稲の花。
「うたの花」           サボテン、野の花。
「まんじゅしゃげ あげはちょう」  まんじゅしゃげ。
「まりものゆらら」            まりも。 
「白黒が、セピア色に染まるまで」   あざみ。
「菜の花のひと かもの愛」       菜の花、さぎ草。


 その名をずっと知らずにいたので、私の詩には咲かなかった花もあります、ゆきやなぎ、とても好きな花です。好きだけど、まだ芽吹いていない花が他にもあるな、と気づきます。種は元気でしょうか。

 その名を呼ぶだけで揺らめく表情が浮かんでくる好きな花を思いに咲かせていられることは、愛しているひとを思い温かくなる気持ちと同じ、素敵なことだと思います。そんな花の種が自然に芽吹きつぼみがやわらかに開いてくれる詩を、私は届けたいと願います。

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『源氏物語』に咲いてる花

 『源氏物語』に私が惹かれるのは、匂やかな女性たちの息づかいがたゆたっているからですが、その世界に咲いている草花や草木に触れられその呼気に包まれ癒される思いになるのも、繰り返しその森を訪れたくなる理由のひとつだと感じています。
 紫式部の原文の語り口には、眺めやるまなざしの掌と指で、草花や草木を愛で撫でているうごきを感じます。草花や草木がとても好きと、紫式部の声が響いています。

 物語に息づく花と女性のなよやかな結びつきは美しく、藤壺の宮の藤、紫の上の紫、葵の上の葵は、花の名だけでその女性の容姿とこころまでふくよかにふくらませ鮮明な印象として伝えてくれます。まるで女性は花、花は女性と、囁き揺らめいているようです。
 物語の全体を濃密に染め上げている色合いは、紫だと感じます。紫の上と藤壺の宮のいのちの存在感が染み出している気がします。物語を読み継いだ人々が作者を、紫式部といつしか呼んだのも、とても自然だと感じます。
 宇治十帖はとても悲しく美しいけれどあまりにはかないので、その世界に生きる姫君たち、大君、中の君、浮舟は、澄んだ無色の揺らめき、光り消える水の花のように感じます。

 平安貴族が花鳥風月ばかり題材とし、類想の題詠を繰り返して和歌は堕していったという批判は一面では当たっているかもしれませんが、「幻」の巻の紫式部の次のような花や草木についての細やかな言葉に包まれると、草花や草木の微かな変化やうごきをも感じとれる感性を学びとりたいと私は思います。
 このような繊細な感性が詠みこまれてきた和歌についても、鈍く衰えた現代人のさかしらさで時代を遡って今より劣っていたかのように評するのは虚しいと思います。

 「母ののたまひしかば」とて、対(たい)の御前(おまえ)の紅梅とりわけて後見(うしろみ)ありきたまふを、いとあはれと見たてまつりたまふ。二月(きさらぎ)になれば、花の木どもの盛りになるも、まだしきも、梢(こずゑ)をかしう霞(かす)みわたれるに、かの御形見の紅梅に鶯(うぐひす)のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でて御覧ず。(略)
 山吹などの心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。
 外(ほか)の花は、一重(ひとへ)散りて、八重(やへ)咲く花桜(はなざくら)盛り過ぎて、樺桜(かばざくら)は開け、藤はおくれて色づきなどこそはすめるを、そのおそくとき花の心をよく分きて、いろいろを尽くして植ゑおきたなひしかば、時を忘れずにほひ満ちたるに、若宮、「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。(略)。

[訳]
 「祖母様(紫の上)が仰せでしたから」と言って、対のお庭先の紅梅を特にたいせつに思って世話してまわられるのを、院は、まことにいじらしく拝してしらっしゃる。二月になると、梅の木々の花盛りなのも、まだ蕾のままなのも、梢が風情(ふぜい)をたたえて一帯に霞んでいるなかで、紫の上のお形見の紅梅に鶯(うぐいす)が楽しそうに鳴きたてるので、院はお部屋の外へ出てそれをご覧になる。(略)
 山吹の花などがいかにも心地よさそうに咲き乱れているにつけても、つい涙の露をうかべながらごらんにならずにはいらっしゃれない。
 よそでは、一重の桜が散って、八重に咲く花桜の盛りも過ぎ、樺桜は咲き始めて、藤はそれにおくれて色づいてゆくようだが、紫の上が遅咲き早咲きそれぞれの花の性質をよく心得て、さまざまの花の木をあるかぎり植えておおきになったので、それらが時を忘れず咲き満ちているのを、若宮が「わたしの桜がきれいに咲きましたよ。なんとかしていつまでも散らさずにおきたいな。(略)。
出典:『日本の古典を読む⑩ 源氏物語 下』(校訂・訳者:阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男。2008年、小学館)。

 生きている世界・生活を作者、語り手がどこまで感じとれるか、感じとれたものをどれだけ言葉として表し伝えうるかが、文学にとっては何より大切なことです。『源氏物語』に咲いているのは、貴族の邸宅の庭や僧院をおおう木、近隣の山の草木がほとんどで、極めて限られた枠の中の風景です。でも閉じられた景色に咲く草花や草木の日々の変化、訪れる鶯や風と光の移ろいを見詰めていたまなざしと思いはとても深いものでした。
 
 このことは、花の話から少し反れますが、「物語が描く世界の狭さは、物語が伝えうる拡がりと深さの制約にはならない」ということと繋がっていると私は思います。
 『源氏物語』が描いているのは極めて狭く限られた宮中の貴族たちとその周辺の社会だけです。ですがそれにも関わらず、紫式部がその狭い世界に生きる人の思い、感情、心を、人と人の、男女の、交わりのうちに執拗に深く掘り下げたからこそ、この物語は、作者が描けた社会の狭い枠組みに阻まれることなく時代を越え、現代社会にいる私の心にさえ共感を呼び起こしてくれるのだと、私は思います。

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