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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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戦争と特攻隊と本居宣長

本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 5回目の今回は、この著書での宣長自身の言葉を、日中戦争、太平洋戦争時に喧伝された本居宣長の姿と照らし合わせて、その虚実を見つめ、戦争と文学者について考えたいと思います。

日中戦争、太平洋戦争時の本居宣長の虚像

 日中戦争、太平洋戦争の時代の文学者について以前ブログで考えました(高村光太郎 胸中から迸り出る言葉)。そこで紹介した次のホームページ「鳥飼行博研究室 戦争と文学:文学者の戦争」に戦時中の本居宣長像が記されています。
 本居宣長はその時代、愛国心を高めるために虚像を喧伝され祭り上げられたのではないか、実像だったのか、その資料と彼自身の言葉から考えます。

◎資料引用
「1942年11月20日に発表された愛国百人一首に、本居宣長「鈴屋集」からは、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。
1944年10月の神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島,大和、朝日、山桜が使用された。源田實は、命名者であるが、当然「愛国百人一首」を読んでいたか,それを知っていた海軍軍人のアドバイスを得たのであろう。」

 本居宣長は『紫文要領』をまとめた後も生涯『源氏物語』を愛読し講義し『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』をまとめ上げましたが、彼の言葉、考え方はその間変っていません。
 以下の言葉は、『古事記伝』で古の我国の人の心を探し求め続けた本居宣長自身が見出だし、抱き続けたものです。
 宣長は我国の人のまことのこころは「女童のごとく」だと述べます。さらに続けて、
武士(もののふ)の戦場におきていさぎよく討死にしたる事其の時のまことの心のうちをつくろはず有りのままに書くときは、故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命も少しは惜しかるべし。是れみな人情の必ずまぬがれぬ所なれば、たれとてもその情(こころ)はおこるべし。其の情のなきは岩木に劣れり。」

 私は戦時に宣長を祭り上げた軍部は、彼を曲解し虚像を拵え政治的な戦意高揚に利用したのだと考えます。軍部の上層部は、大陸への侵略を始めた時から戦局が悪化した時まで、岩木に劣っていた。それだけでなく若者たちを巻き込み、岩木に劣る心になれと命じ、特攻を命じたのだと、私は思います。

 本居宣長が生涯抱き彼がよいものとして捉えた「我国の人のまことのこころ」は、軍人の精神とは対極のものです。宣長は、次のように言い切っています。
「君のため国のために命を棄つるなどやうの事」は、「まことの有りのままの情をばかくして、つくろひたしなみたる所」であり、「賢げにする所は情を飾れる物にて本然の情にはあらず。」。
 『源氏物語』を愛する本居宣長は、特攻隊の対極にいます。
 何より偽りを嫌う宣長は、青年期から死ぬまで、軍人の繕い飾った賢しらな虚勢を、我が国の人の真の心ではないと考えていたこと、書き残していることを忘れてはならないと思います。
 飽くなき思いで人の心を見つめ人を愛する本当の文学者なら、戦争を賛美し加担できるような、偽りの、岩木に劣る心は持ちえないと、宣長に共感しつつ私は考えています。

◎原文
「又武士(もののふ)の戦場におきていさぎよく討死にしたる事を物に書くとき、其のしわざを書きてはいかにも勇者と聞こえていみじかるべし。其の時のまことの心のうちをつくろはず有りのままに書くときは、故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命も少しは惜しかるべし。是れみな人情の必ずまぬがれぬ所なれば、たれとてもその情(こころ)はおこるべし。其の情のなきは岩木に劣れり。それを有りのままに書きあらはすときは、女童の如く未練に愚かなる所多き也。唐の書は、そのまことの有りのままの情をばかくして、つくろひたしなみたる所をいへば、君のため国のために命を棄つるなどやうの事ばかりを書けるもの也。すべて人の情の自然(じねん)のまことの有りのままなる所は、はなはだ愚かなる物也。それを努めて直し飾りつくろひて、賢げにする所は情を飾れる物にて本然の情にはあらず。」(P156)


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tag : 本居宣長 紫文要領 戦争 文学 高村光太郎 源氏物語 紫式部 高畑耕治 詩歌 詩人

心は女童のごとく。本居宣長

本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 4回目の今回は、「人の実の心」を宣長が『源氏物語』を通してどのように捉えていたかを考えます。

心の内のまことの姿は歌物語に

 本居宣長は異国の書、異朝の書、唐の書と対比させるかたちで、我国の歌と物語の本質的な特徴は何かと考えます。前者に対する批評は厳しく狭く偏った見方といえますが、それはこの論をすすめるうえで、後者を浮き上がらせ際立たせるためだったとも言えます。彼があくまでこの著書で述べようとしたのは、『源氏物語』に最も優れた姿で現れでた、我国の歌物語の本質と特徴だからです。
 本居宣長は「心の内のまことを有りのままに」表していることが、それだと言います。
 有りのままに書き出された心の内のまことの姿を、彼は『源氏物語』に見出しました。その姿はこうだと、宣長は語ります。
「物はかなくしどけなげにて、すこしもさかしだちかしこげなる事はなく、おろかに未練(みれん)なるもの。
だから本当は誰の心も「女童のごとく」はかなくつたない。
「いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。」

 宣長は、このように人の心を見据え、男の、大人の心を有りのままに暴きさらします。
 彼のこの言葉から私は、まことを見つめ偽りは言わない、という強い意志を感じます。そして、私も人の「心の内のまこと」の有りのままの姿は、彼が言うように、男も女も、童のごとくだと思っています。

◎原文
「まづ異国の書は、何の書もとかく人の善悪をきびしく論弁して、物の道理をさかしくいひ、人ごとにわれがしこにいひなし、風雅の詩文に至りても、とかく我国の歌とはちがひて、人の情(こころ)をばあらはさず、何となくさかしくかしこげに見ゆる也。わが国の物語は、物はかなくしどけなげにて、すこしもさかしだちかしこげなる事はなく、とかくに人情の有りのままを、こまかに書きいだせり。すべて人の心といふものは、実情はいかなる人にても、おろかに未練(みれん)なるもの也。それを隠せばこそかしこげには見ゆれ、まことの心の内をさぐり見れば、たれもたれも児女子の如くはかなきもの也。異朝の書はそれを隠して、おもてむきうはべのかしこげなるところを書きあらはし、ここの物語は、その心の内のまことを有りのままにいへる故に、はかなくつたなく見ゆる也。」(P50-P51 )
「おほかた人の実(まこと)の情(こころ)といふ物は、女童のごとく未練に愚かなる物也。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたる物也。実の心の底をさぐりて見れば、いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。それを恥ぢてつつむとつつまぬとの違ひめばかり也。」(P155)

 本居宣長は、歌物語こそが「人の実の心を細やかにくわしく書き表して」物の哀れを伝えるものであり、『源氏物語』は特に優れた心の鏡だと言います。この歌物語に浮かび上がる姿が「人の実の心」だと述べます。その姿は、
「女童のごとくはかなく未練に愚かなる事多し。
ことによき人は物のあはれをしるゆゑに、いとど人情は深くしてしのびがたき事多き故に、いよいよ心弱く愚かに聞こゆる事多し。」


というものです。
 私は、宣長が、人の心のまことの姿を、『源氏物語』に見つめているまなざしは、曇っていない、鏡に浮かぶ姿そのものを語っていると思います。

◎原文
「ここの歌物語は、人の実の心の底をあらはに書きあらはして、物の哀れを見せたる物也。人情のこまやかなる所を、隈(くま)なくくはしく書きあらはせる事歌物語にしくはなし。其の中にも此の物語はすぐれてこまやかにして、明鏡をかけて形を照らし見るが如くに、人情のくはしき所を書きあらはせり。故に女童のごとくはかなく未練に愚かなる事多し。
ことによき人は物のあはれをしるゆゑに、いとど人情は深くしてしのびがたき事多き故に、いよいよ心弱く愚かに聞こゆる事多しと知るべし。」(P155)


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tag : 本居宣長 紫文要領 源氏物語 紫式部 高畑耕治 詩歌 詩人 うた 絵ほん

新しい詩「生まれた日から」をHP公開しました

 ホームページの「虹・新しい詩」に、新しい詩「生まれた日からを公開しました。
 新しい詩作品『詩と思想』2011年4月号に発表した作品です。お読みいただけると嬉しく思います。
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tag : 新しい詩 高畑耕治 詩人 詩歌 うた 絵ほん ホームページ

ポーの詩「アナベル・リー」

 ブログ「詩を想う」の「恋と物のあはれ」で、恋の歌について記しました。
 その際、本居宣長の叙述と共鳴している萩原朔太郎の『詩の原理』を再び取り上げました。その著書にある朔太郎の言葉、「詩の中での純詩と言うべきものは、ポオの名言したる如く抒情詩の外にない。」「実に抒情詩というべきものは恋愛詩の外になし。」が私は好きです。ポーの詩論もいつか取り上げるつもりです。

 この「愛(かな)しい詩歌」は時代も大陸も言語も越えて私が好きな詩を咲かせる野原ですので、とても有名ですが英語詩のなかで私がいちばん好きなポーの抒情詩「アナベル・リー」を先に咲かせます。
 ポーの最期の詩と言われていますが、そのことを知らずに初めて読んだ時から、私はとても好きになりました。彼が書き残したすべての言葉のなかで、透きとおる愛(かな)しみの音楽が響いてゆく、この愛の詩が今もいちばん好きです。
出典:『対訳 ポー詩集 ―アメリカ詩人選1』(エドガー・アラン・ポー、訳:加島祥造、岩波文庫、1997年)。


Annabel Lee

It was many and many a year ago,
In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
By the name of Annabel Lee;―
And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.

She was a child and I was a child,
In this kingdom by the sea,
But we loved with a love that was more than love―
I and my Annabel Lee―
With a love that the winged seraphs of Heaven
Coveted her and me.

And this was the reason that,long ago,
In this kingdom by the sea,
A wind blew out of a cloud by night
Chilling my Annabel Lee;
So that her highborn kinsmen came
And bore her away from me,
To shut her up, in a sepulchre
In this kingdom by the sea.

The angels, not half so happy in Heaven,
Went envying her and me:―
Yes! that was the reason (as all men know,
In this kingdom by the sea)
That the wind came out of the cloud,chilling
And killing my Annabel Lee.

But our love it was stronger by far than the love
Of those who were older than we―
Of many far wiser than we―
And neither the angels in Heaven above
Nor the demons down under the sea
Can ever dissever my soul from the soul
Of the beautiful Annabel Lee:―

For the moon never beams without bringing me dreams
Of the beatiful Annabel Lee;
And the stars never rise but I see the bright eyes
Of the beatiful Annabel Lee;
And so,all the night-tide,I lie down by the side
Of my darling,my darling,my life and my bride
In her sepulchre there by the sea―
In her tomb by the side of the sea.


アナベル・リー

幾年(いくとし)も幾年も前のこと
 海の浜辺の王国に
乙女がひとり暮していた、そしてそのひとの名は
 アナベル・リー ―
そしてこの乙女、その思いはほかになくて
 ただひたすら、ぼくを愛し、ぼくに愛されることだった。

この海辺の王国で、ぼくと彼女は
 子供のように、子供のままに生きていた
愛することも、ただの愛ではなかった―
 愛を超えて愛しあった―ぼくとアナベル・リーの
その愛は、しまいに天国にいる天使たちに
羨(うらや)まれ、憎まれてしまったのだった。

そしてこれが理由となって、ある夜
 遠いむかし、その海辺の王国に
寒い夜風が吹きつのり
 ぼくのアナベル・リーを凍えさせた。
そして高い生まれの彼女の親戚たちが
 とつぜん現れて彼女を、ぼくから引き裂き連れ去った
そして閉じ込めてしまった
 海辺の王国の大きな墓所に。

天使たちは天国にいてさえぼくたちほど幸せでなかったから
 彼女とぼくとを羨んだのだ―
そうだとも! それこそが理由だ
 それはこの海辺の国の人みんなの知ること
ある夜、雲から風が吹きおりて
 凍えさせ、殺してしまった、ぼくのアナベル・リーを。

しかしぼくらの愛、それはとても強いのだ
 ぼくらより年上の人たちの愛よりも
 ぼくらより賢い人たちの愛よりも強いのだ―
だから天上の天使たちだろうと
 海の底の悪魔たちだろうと
裂くことはできない、ぼくの魂とあの美しい
 アナベル・リーの魂を―

なぜなら、月の光の差すごとにぼくは
 美しいアナベル・リーを夢みるからだ
星々のあがるごとに美しいアナベル・リーの
 輝く瞳を見るからだ―
だから夜ごとぼくは愛するアナベル・リーの傍(そば)に横たわるのだ
おお、いとしいひと―わが命で花嫁であるひとの
 海の岸辺の王国の墓所に―
 ひびきをたてて波寄せくる彼女の墓所に。

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tag : 萩原朔太郎 詩の原理 抒情詩 ポー アナベル・リー 恋愛詩 高畑耕治 詩歌 詩人

恋と物のあはれ

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 3回目の今回は、「恋と物のあはれ」について、宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記します。 本居宣長は、藤原俊成の歌を引いて、恋せずに物の哀れの忍びがたさをふかく感じしることはできない、と言います。だからすぐれた歌も恋の歌こそに多いのだ、と。
 詩人の萩原朔太郎も『詩の原理』で同じことを熱く語っていることは、以前このブログで記しました。(萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし。)

 続けて宣長は物語についても語ります。このあたりの文章、とくに「恋する人のさまざま思ふ心のとりどりにあはれなるおもむきを、いともこまやかに書きしるして、よむ人に物の哀れをしらせたる也。」など、とても美しく『源氏物語』の姿を鮮やかに浮かび上がらせていると私は感じます。

◎原文
「人の情の深くかかる事好色にまさるはなし。さればその筋につきては、人の心ふかく感じて、物のあはれをしる事何よりもまされり。故に神代より今にいたる迄、よみ出る歌に恋の歌のみ多く、又すぐれたるも恋の歌におほし。是れ物の哀れいたりて深きゆゑ也。物語は物のあはれを書きあつめて、見る人に物のあはれをしらするものなるに、此の好色のすぢならでは、人情のふかくこまやかなる事、物のあはれのしのびがたくねんごろなる所のくはしき意味は書きいだしがたし。故に恋する人のさまざま思ふ心のとりどりにあはれなるおもむきを、いともこまやかに書きしるして、よむ人に物の哀れをしらせたる也。後のことなれど、俊成三位の、
恋せずば人は心もなからまし物の哀れもこれよりぞしる
とよみ給へる、此の歌にて心得べし。
恋ならでは、もののあはれのいたりて忍びがたき所の意味はしるべからず。」(P109-P110)

 そのうえで宣長は、色欲、好色、淫乱そのものを、紫式部の『源氏物語』がよしとしているのではなくて、物の哀れしることをよしとしているのだ。物の哀れを深く感じ伝えようとするとき浮かび上がる男女の中、色欲、好色、淫乱をありのままに描ききっているのだ、と読み取ります。恋と色欲と好色と淫乱、これらはその呼び方や見方で異なって感じられはするけれど、物の哀れそのものと分かちがたく交じり合い綾をなしているものだと私は思い、宣長に共感します。
 「たれも老いては若き人の好色をつよくいましむれども、若きほどは此の筋にはしのびがたき方のありて」という言葉を読んだ時、私は宣長がうそ、いつわりごとを言わない人だと感じました。

 私は二十歳前後の頃、愛することと性欲について思い悩み、フロイトの性欲論を読んだり、トルストイの『人生論』や愛や性を論じた本も読みました。高齢になったトルストイがそれらの著書で、若かった頃の自分の性愛生活を非難しつつ悔い改めた今は禁欲に徹していると懺悔し、読者にも悪の性欲は棄て善の禁欲に生きろと強いているのを、よくこんな自己中心的で押しつけがましい嘘いつわりを言えるものだと、驚き、あきれたことがあります。自分がしなかった、できなかったことを後になって間違ってたから自分を責めるならわかるけど、偉ぶってお前がやれとまでどうして言えるのだろうと、今でも思っています。(作家としての彼の力量、作品を認めていないわけではありませんが)。
 そんなトルストイに比べるとなおさら、紫式部が、また彼女の目を通して本居宣長が、どれほど人のこころ、あはれ、その本来の姿をしっていたか、伝えてくれているか、その深さを思わずにいられません。

 宣長は続けます。歳を重ねても心は若い頃と同じだ、だがおもいやりは深くなるからしのびがたい気持ちをしのぶことができたりもする。けれどそれでもなおしのぶことができないこともあるんだ、誰もそれをとがめることなんてできない、しのびがたさをしることは哀れをしること、深い心をしることだから、と。
 私も『源氏物語』のいつわりのなさにこそ強く惹かれるのだと感じます。

◎原文
「さりとてその淫乱をよしといふにはあらず。物の哀れをしるをよしとして、其の中には淫乱にもせよ何にもせよまじれらんは、すててかかはらぬ事也。物の哀れをいみじういはんとては、かならず淫事は、其の中におほくまじるべきことわり也。色欲はことに情の深くかかる故也。男女の中の事にあらざれば、いたりて深き物の哀れは、あらはししめしがたき故に、ことに好色の事はおほく書ける也。」(P68)
「たれも老いては若き人の好色をつよくいましむれども、若きほどは此の筋にはしのびがたき方のありて、過つ事有る也。年たけても心は同じ事にても、思ひやりが深くなるゆゑに、しのびがたき所をもしひてしのぶ方有り。今源氏の秋好む中宮を思ふ心は、似げなき事としのび給ふがごとし。されども其の上になほしのびぬ事も又有る也。故に源氏の此の後にも猶朧月夜に密通は絶えざりし也。其の所の詞に、「いとあるまじき事といみじく思しかへすにもかなはざりけり」といへり。さればそのしのびぬ所の物の哀れをしる人はふかくとがめず。」(P118-P119)
「よき人は物の哀れをしる故に、好色のしのびがたき情(こころ)を推しはかりて、人をも深くとがめず。殊(こと)に朱雀院の源氏をとがめ給はぬと、源氏の君の柏木を哀れに思しめすとは、いたりて物の哀れを深くしる人にあらずば、かくはえあるまじき事也。柏木の事は、源氏の君さへかやうに哀れにおぼしめす物を、後世此の物語を註するとて、是れをあはれなるやうにはいはで、返りて人のいましめにせよというやうに註せるは、いかに物の哀れしらず心なき人ぞや。かならず式部が本意にそむく事しるべし。好色は人ごとにまぬがれがたく、しのびがたき情のある物といふ事をしり給ふ故にとがめ給はず、哀れに思しめす也。」(P122)

 本居宣長は、紫式部が源氏と藤壺の恋を、そのような恋のしのびがたさ、物のあはれの深さの限りを取り集めて描いていると語ります。哀れを深くしる男と女の恋、逢いがたく社会の道理では許されがたい身に置かれた思い入ることの殊更深い恋。式部は描きながらその恋の極みを生きたのではないでしょうか。 
 読者として私は、藤壺の宮の女性としての魅力に強く惹かれます。命がかかるほどの切実な悲しみと愛さずにはいられない思いに揺れる美しい女性。藤壺の宮の心のすがたと命とを感じて心ふるえます。そのとき彼女に息を吹き込んだ紫式部も生き続けているんだと私は思います。

 ◎原文
「まづ物のあはれのいたりて深き所を書きあらはさむがためといふ故は、前にもいへるごとく、好色ほど哀れの深き物はなし。其の好色の中にも、よろづすぐれて心にかなふ人にはことに思ひの深くかかる物也。又あひがたく人のゆるさぬ事のわりなき中は、ことに深く思ひ入りて哀れの深き物也。されば今此の一事は、物の哀れの深くかかる恋の中にもことによろづにすぐれたる人どちにして、又ことにあひがたく、又ことに人のゆるさぬわりなき事を書き出して、物の哀れのいたりて深き所を書きあらはせり。(中略)是れあひがたく人のゆるさぬわりなき中は、ことに深く思ひ入りて哀れの深かりし也。かくのごとく、此の御事は物のあはれの深かるべきかぎりをとりあつめて書けるもの也。是れ即ちかの蛍の巻にいへる、よきさまにいはむとてはよき事のかぎりを選り出でといへる物也。よきとは物の哀れをしる事也。」(P141-P142)
「命にもかくるほどに思ふは、物の哀れの中におきても尤(もっと)も深き事故に、かやうの恋のみ多き也。それをしるす心は、それをよしとして人にすすむるためにもあらず、あししとしていましむる為にもあらず、そのしわざの善悪はうちすててかかはらず。ただとる所は物の哀れ也。」(P67)
「又恋の歌をよまむに、今人ごとに色好まぬはあるまじけれども、古へのやうに命にもかくるほどのわりなき恋する人もすくなかるべし。此のすぢに命をすつるものは今もおほけれども、其のおもむき心ばへは古へと大きにこと也。」(P169)

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tag : 源氏物語 物のあはれ 本居宣長 紫文要領 萩原朔太郎 紫式部 高畑耕治 詩人 歌物語

哀れと愛(かな)しの詩

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 2回目の今回は、「哀れ」という言葉を宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記したうえで、私自身の言葉への愛着と詩を添えます(リンクでお読み頂けます)。
 本居宣長は、古(いにしえ)の言葉そのものを、丁寧に読みとくことで、作者が書き記した時点での作品の真の意味をつかもうとした人です。『源氏物語』についての次の言葉が彼の姿勢をよく伝えてくれます。

◎原文 
「すべて此の物語は文章すぐれて意味の深長なる物なれば、一わたりの事にては、文義の心得がたき事多し。心得がたきをしひて心得がほに註したる故に、諸抄共に誤り多し。よくよく文義を明らめ、作者の本意を心得て後に註すべきことなり。」(P82)

 彼は、『紫文要領』の中心概念である、「物のあはれ」、「哀れ」を、その言葉そのものを見つめ直し、以下のように述べています。
 「あはれ」という言葉は、「ああ」という深い心のため息だ。
 「物の哀れ」という言葉には、物思わしくかなしい思いと、おもしろくうれしい思いが共にこもっていて、二つの思いを抱き合わせて「哀れ」ということが多い。
  人の情にとって、おもしろくうれしい思いは軽く浅いが、物思わしくかなしい思いは重く深いと。 

◎原文
「何にても心に深く思ふ事を歎息する也。「哀れと」といふ時は、漢文に嗚呼(ああ)といふと同じ事にて、深く歎息する事也。ああもあはれも同じ詞の転じたる物なり。心に深くおもふ事をいひきかせかたらひて、なぐさむべき人もなきときは、ひとり歎息する也。」(P85)
「さて「物の哀れをもをかしき事をも」といへる二つは、人情の大綱也。合(がっ)しいふときは、哀れといふにをかしきもこもれども、分けていへば、哀れは物思はしくかなしき方にいひ、をかしきはおもしろくうれしき方にいふ也。物語の中にもわけていへる所もあれど、多くは合していへり。合していふときは、おもしろき事うれしき事も哀れといふ也。人情のうちにおもしろくうれしくをかしき事は、軽く浅くして、物思はしくかなしきやうの事は、重く深し。」(P77)

 私は宣長のこの叙述に深い共感を覚えます。本居宣長は、「物のあはれ」、「哀れ」という言葉に、こころを表し伝えるその形と響きとこもるその意味に、強く執着し、どうしようもないほどの思い入れを抱いていたのだと感じます。こだわりをもって言葉を見つめ愛情を持ち続けた、本居宣長の心にとても惹かれます。

 私もまた心と言葉を大切に思い文学を愛する詩人だから、愛情を抱く言葉があります。「愛(かな)し」という言葉がとても好きです。詩集『愛(かな)』のあとがきにその思いは記しました。万葉集の頃から受け継がれてきたこの言葉にも、本居宣長が「哀れ」について語ったように、二つの思いがこめらています。愛している、愛(いと)しい、というふきこぼれる熱い思いと、悲しい、哀(かな)しい、という心が痛む切ない思いです。切り離せずにひとつの言葉にふくみこまれ揺れている思い、その思いをくるんだ文字と響きを、私はなぜだかずっと好きでたまりません。大切なこの言葉がタイトルになって生まれてきた私の作品を、ここに咲かせます。お読み頂けたらとても嬉しいです。

詩「愛(かな)1」、詩「愛(かな)2」(詩集『愛(かな)』から)。
詩「愛(かな)3」、詩「愛(かな)4」(ホームページ「虹‐新しい詩」から)。

詩「愛(かな)しい瞳 1」、詩「愛(かな)しい瞳  2」(ホームページ「愛(かな)しい瞳」から)。

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tag : 源氏物語 物のあはれ 本居宣長 紫文要領 紫式部 高畑耕治 詩人 愛(かな) 歌物語

本居宣長と源氏物語

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取りたいと思います。
引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 今回は、物語は物の哀れをしらする、とする宣長の言葉に感じ思うことを記します。
 本居宣長はこの著書で、物語の意味、『源氏物語』紫式部がこめた真意を、「物の哀れをしらする」ことにあると見い出し、彼以前の注釈の主流だった勧善懲悪の勧めでもなく、儒仏への誘いでもないことを伝えようとしました。私は彼がこの叙述で、文学といえるすべての表現、物語、小説、詩歌の本質を捉えていると思います。文学は実利を求め与え受け取れるものではなく、生きることそのもの、こころそのもの、そのうごきを、伝え感じるものだと。
 まず、この著書で宣長が自らに言い聞かせるように繰り返しているその言葉を、重複はありますが抜き出し、以下に記します。

◎原文
「物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也。」(P65)
「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有りさま人の心ばへをしりて、物の哀れをしる也。とかく物語をみるは、物の哀れをしるといふが第一也。物の哀れをしる事は、物の心をしるよりいで、物の心をしるは、世の有りさまをしり、人の情に通ずるよりいづる也。」(P33-P34)
「人に語りたりとて、我にも人にも何の益(やく)もなく、心のうちにこめたりとて、何のあしき事もあるまじけれども、これはめづらしと思ひ、是れはおそろしと思ひ、かなしと思ひをかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心にばかり思ふてはやみがたき物にて、必ず人々に語り聞かせまほしき物也。世にあらゆる見る物聞く物につけて、心のうごきて、これはと思ふ事はみなしかり。詩歌のいでくるもこの所也。
さてその見る物聞く物につけて、心のうごきて、めづらしともあやしとも、おもしろしともおそろしとも、かなしとも哀れ也とも、見たり聞きたりする事の、心にしか思ふてばかりはゐられずして、人に語り聞かする也。語るも物に書くも同じ事也。さて其の見る物聞く物につきて、哀れ也ともかなしとも思ふが、心のうごくなり。その心のうごくが、すなはち物の哀れをしるといふ物なり。されば此の物語、物の哀れをしるより外なし。」(P45-P46)「さてその物事につきて、よき事はよし、あしき事はあしし、かなしき事はかなし、哀れなる事は哀れと思ひて、其のものごとの味をしるを、物の哀れをしるといひ、物の心をしるといひ、事の心をしるといふ。されば此の物語は、それをしらさむためなれば、よきあしき事をつよくいへる也。」(P48)
「大よそ此の物語五十四帖は、物の哀れをしるといふ一言にてつきぬべし。
その物の哀れといふ事の味は、(中略)猶くはしくいはば、世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其のよろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへ知る、是れ事の心を知る也、物の心を知る也、物の哀れを知るなり。(中略)
わきまへ知りて、其の品にしたがひて感ずる所が物の哀れ也。(中略)
めでたき花といふ事をわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが感ずる也。是れ即ち物の哀れ也。」(P95)
「此の物語はまづ世にありとある事につきて、見る所、聞く所、思ふ所、ふるる所の、物のあはれなるすぢを見しり心に感じて、それが心のこめおきがたく思ふよりして、物に書きて心をはらしたる也。すべて心に思ひむすぼほるる事は人にも語り、又物にも書き出づれば、そのむすぼるる所がとけ散ずる物也。さてその紫式部がつねに心に思ひつもりたる物の哀れを、此の物語にことごとく書き出でて、猶見る人に深く感ぜしめむがために何事もつよくいへるなり。物の哀れなる事のかぎりは此の書にもるる事なしとしるべし。されば是れをよむ人の心にげにさもあるべき事と思ふて感ずるが、すなはちよむ人の物の哀れをしる也。さやうに感ぜしめむがために、物の哀れをことさらに深く書きなしたる物也。深く書きなしたる故に人の感じやすくて、物のあはれをしる事やすくして深き也。」(P179)

 本居宣長は、紫式部が『源氏物語』を、物の哀れをしる人をよしとし、物の哀れをしらぬ人をあししとして描いていると、以下のように教えてくれます。人の情を推(お)しはかることができ、心を知り、感じとることができる人をよしとする、紫式部の心のあり方、いのちの捉え方が私はとても好きです。私も何より大切なことと思います。それを伝えようとこの物語を描きあげた紫式部を私は尊敬します。

◎原文
「ただ人情の有りのままを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也。
さてその人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。是れ物の哀れをしるといふ物也。人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也。人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみを見ても何とも思はず、人のうれへを聞きても何とも思はぬもの也。かやうの人をあししとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也。」(P64)
「又人の重きうれへにあひて、いたく悲しむを見聞きて、さこそ悲しからめと推(お)しはかるは、悲しかるべき事を知るゆゑ也。是れ事の心を知る也。その悲しかるべき事の心を知りて、さこそ悲しからむと、わが心にも推しはかりて感ずるが物の哀れ也。その悲しかるべきいはれを知るときは、感ぜじと思ひ消ちても、自然としのびがたき心有りて、いやとも感ぜねばならぬやうになる、是れ人情也。」(P96)

 本居宣長は、紫式部がこのような深いまなざしで、この物語に生きる人物を描きわけていると述べます。哀れをしることは、うわべの見せかけではないという言葉にも私は共感します。
 源氏の君は、栄華を極め過ぎていて私は好きになれませんが、それでも人情にかない、悲しみよろこびを知る意味ではよい人だと読者として感じるのは、作者の力量だと思います。
 まったく対象的な極にいる浮舟、彼女のこころの動きには深い感動と悲しみを覚えずにはいられません。浮舟の心を描いた紫式部の心の深さに打たれます。
 本居宣長の浮舟を思いやる言葉から彼がこまやかな心をしる人だったことを感じて、私は敬愛の念を抱きます。
  
◎原文
「作り物語にもせよ、それはとまれかくまれ、紫式部が心に源氏の君をよしとして書ける也。かくの如く不義淫乱をばうちすててかかはらず、源氏の君をよき人にしたるは、人情にかなひて物の哀れをしる人故也。」(P69)
「大方物の哀れをしればあだあだしきやうに思ふはひが事也。あだなるは返りて物のあはれしらぬが多き也。其の故は前にもいへるごとく、物のあはれを知り顔つくりて、ここもかしこも物の哀れしる事を知らさむとて、なびきやすにあだなるが多き也。是れは実に知る物にはあらず。うはべの情けといふものにて、実は物の哀れしらぬ也。」(P123)
「又さにはあらで、ここもかしこも物の哀れしりてなびくもあり。是れも事によるべけれども、まづはそれは一方の物の哀れしりても一方の哀れをしらぬになる也。されば浮舟の君は、それを思ひみだれて身をいたづらになさんとせし也。薫のかたの哀れをしれば、匂(におう)の宮の哀れをしらぬ也。匂の宮の哀れをしれば薫のあはれをしらぬ也。故に思ひわびたる也。(略)浮舟の君も匂の宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず。これも一身を失ふて両方の物の哀れを全く知る人也。」(P124)

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『源氏物語』物のあはれ

 ひとりの詩人として私なりの感性で、『源氏物語』を「蛍」の巻の物語論を通して、読み取り感じ取ろうとしました。
 汲み尽くせないほど豊かなこの物語を、本居宣長(もとおりのりなが)は二百数十年前にこよなく愛しその本質に迫りました。彼の著述を通して、さらにこの美しい絵巻についての思いを深めたいと思います。
 彼は67歳で『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』としてこの物語論を集大成しまとめました。ただその本質論の部分は、34歳でまとめた『紫文要領(しぶんようりょう)』で既に「物のあはれ」を核心概念として確立していました。

 まず初めに、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』から、「物のあはれ」について宣長が要約した箇所を以下に引用します。

◎訳文
「物のあわれを知るとは何か。「あはれ」というのはもと、見るもの聞くもの触れることに心の感じて出る嘆息(なげき)の声で、今の世の言葉にも「あゝ」といい「はれ」というのがそれである。たとえば月や花を見て、ああ見事な花だ、はれよい月かなといって感心する。「あはれ」というのは、この「あゝ」と「はれ」の重なったもので、漢文に嗚呼とある文字を「あ ゝ」と読むのもこれである。」
「何事にしろ感ずべきことに出会って感ずべき心を知って感ずるのを、「物のあはれを知る」というのであり、当然感ずべきことにふれても 心動かず、感ずることのないのを「物のあはれを知らず」といい、また心なき人とは称するのである。」
出典:『日本の名著21 本居宣長』(西郷信綱 訳。中央公論社)

◎原文
「物のあはれをしるといふ事、まづすべてあはれといふはもと、見るものきく物ふるゝ事に、心の感じて出る、歎息の聲にて、今の俗言に も、あゝといひ、はれといふ是也、たとへば月花を見て感じて、あゝ見ごとな花ぢや、はれよい月かなな どいふ、あはれといふは、このあ ゝとはれとの重なりたる物にて、文に嗚呼などあるもじを、あゝとよむもこれ也」
「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべきこゝろをしりて、感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、かならず感ずべき事にふれても、心うごかず、感ずることなきを、物のあはれしらずといひ、心なき人とはいふ也」
出典:『本居宣長全集第4巻』(大野晋、大久保正 編・校訂。筑摩書房)

 私は、世界の古代からの詩と詩論を旅していて本居宣長の「物のあはれ」の考えに出会った時のことを思い出します。初めて触れたとき洗われる思いがし、とても強く新鮮に共感しました。彼のこの言葉は、とてもまっとうな、当たり前だからこそ何よりも大切なことがら、誰もがいつも心の奥底に感じながら言葉にできなかったことを、初めて捉えて言い切ったすごさがあると今も思います。物語と詩歌という形の違いが現れる前の、その源にある文学を思うとき、その本質を捉えていると思います。その源は文学は生きること、生きることは文学、と結ばれていて切り離せないところだと私は思います。
 文学は、「ああ」と深く感じる心。深く感じる心から生まれ、伝え、受け取りまた深く「ああ」と感じること。
 詩人の中原中也も文学、生きることは「もののあはれ」そのものだと捉えていました(中原中也の「ゆたりゆたり」)。
 本居宣長は、彼が掬い上げたこの言葉により、見出した視野から、豊かな『源氏物語』の諸相と紫式部の本来の思いを 読み取って伝えてくれます。

 次回から数回、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』に形を整えられる前の、執拗に「物のあはれ」を考えた原初の姿をとどめた『紫文要領(しぶんようりょう)』を中心に、私が感応した本居宣長の散らばり光る言葉を引き、思い巡らし感じ取れたことを記していきます。

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花の詩、詩の花

 私は二十歳で文学に生きようと思った頃、草花、草木の名前 を、あまりに知らないと感じて、図鑑で花や木の名を覚えようとしたことがあります。でも手で触れたことのない、風と光に揺らめく色を、摘みとるときの香りを感じとったことのない花や木の名には、その文字数の音と文字の形しかなくて、思いと心に沁み込んでいないから、詩となって芽吹いてはくれないんだと知りました。

 私のこころの土から顔を出し芽吹いて詩に咲いてくれた草花はみんな、子どもの頃、そして思春期に、この手で触れ匂いに包まれ揺らめく色が思いに焼つき、記憶の土の中で種となって育まれていたのだと気づきます。
 私が好きな花と、その花の名が自然に芽吹いてくれた詩を、思い浮かべると、幸せな気持ちになれます。
 好きな花の名と、咲いてくれた詩を、気ままに摘んで束ねてみました。(詩はリンクでお読み頂けます)。

「りんどう」     りんどう、むらさきつゆくさ。
「いかつり舟」     すずらん、さぎらん、かすみそう。
「ちゅうりっぷ」     チューリップ。
「おもいだしてよ」     桜、おおばこ、つくし、げんげ、稲の花。
「うたの花」           サボテン、野の花。
「まんじゅしゃげ あげはちょう」  まんじゅしゃげ。
「まりものゆらら」            まりも。 
「白黒が、セピア色に染まるまで」   あざみ。
「菜の花のひと かもの愛」       菜の花、さぎ草。


 その名をずっと知らずにいたので、私の詩には咲かなかった花もあります、ゆきやなぎ、とても好きな花です。好きだけど、まだ芽吹いていない花が他にもあるな、と気づきます。種は元気でしょうか。

 その名を呼ぶだけで揺らめく表情が浮かんでくる好きな花を思いに咲かせていられることは、愛しているひとを思い温かくなる気持ちと同じ、素敵なことだと思います。そんな花の種が自然に芽吹きつぼみがやわらかに開いてくれる詩を、私は届けたいと願います。

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『源氏物語』に咲いてる花

 『源氏物語』に私が惹かれるのは、匂やかな女性たちの息づかいがたゆたっているからですが、その世界に咲いている草花や草木に触れられその呼気に包まれ癒される思いになるのも、繰り返しその森を訪れたくなる理由のひとつだと感じています。
 紫式部の原文の語り口には、眺めやるまなざしの掌と指で、草花や草木を愛で撫でているうごきを感じます。草花や草木がとても好きと、紫式部の声が響いています。

 物語に息づく花と女性のなよやかな結びつきは美しく、藤壺の宮の藤、紫の上の紫、葵の上の葵は、花の名だけでその女性の容姿とこころまでふくよかにふくらませ鮮明な印象として伝えてくれます。まるで女性は花、花は女性と、囁き揺らめいているようです。
 物語の全体を濃密に染め上げている色合いは、紫だと感じます。紫の上と藤壺の宮のいのちの存在感が染み出している気がします。物語を読み継いだ人々が作者を、紫式部といつしか呼んだのも、とても自然だと感じます。
 宇治十帖はとても悲しく美しいけれどあまりにはかないので、その世界に生きる姫君たち、大君、中の君、浮舟は、澄んだ無色の揺らめき、光り消える水の花のように感じます。

 平安貴族が花鳥風月ばかり題材とし、類想の題詠を繰り返して和歌は堕していったという批判は一面では当たっているかもしれませんが、「幻」の巻の紫式部の次のような花や草木についての細やかな言葉に包まれると、草花や草木の微かな変化やうごきをも感じとれる感性を学びとりたいと私は思います。
 このような繊細な感性が詠みこまれてきた和歌についても、鈍く衰えた現代人のさかしらさで時代を遡って今より劣っていたかのように評するのは虚しいと思います。

 「母ののたまひしかば」とて、対(たい)の御前(おまえ)の紅梅とりわけて後見(うしろみ)ありきたまふを、いとあはれと見たてまつりたまふ。二月(きさらぎ)になれば、花の木どもの盛りになるも、まだしきも、梢(こずゑ)をかしう霞(かす)みわたれるに、かの御形見の紅梅に鶯(うぐひす)のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でて御覧ず。(略)
 山吹などの心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。
 外(ほか)の花は、一重(ひとへ)散りて、八重(やへ)咲く花桜(はなざくら)盛り過ぎて、樺桜(かばざくら)は開け、藤はおくれて色づきなどこそはすめるを、そのおそくとき花の心をよく分きて、いろいろを尽くして植ゑおきたなひしかば、時を忘れずにほひ満ちたるに、若宮、「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。(略)。

[訳]
 「祖母様(紫の上)が仰せでしたから」と言って、対のお庭先の紅梅を特にたいせつに思って世話してまわられるのを、院は、まことにいじらしく拝してしらっしゃる。二月になると、梅の木々の花盛りなのも、まだ蕾のままなのも、梢が風情(ふぜい)をたたえて一帯に霞んでいるなかで、紫の上のお形見の紅梅に鶯(うぐいす)が楽しそうに鳴きたてるので、院はお部屋の外へ出てそれをご覧になる。(略)
 山吹の花などがいかにも心地よさそうに咲き乱れているにつけても、つい涙の露をうかべながらごらんにならずにはいらっしゃれない。
 よそでは、一重の桜が散って、八重に咲く花桜の盛りも過ぎ、樺桜は咲き始めて、藤はそれにおくれて色づいてゆくようだが、紫の上が遅咲き早咲きそれぞれの花の性質をよく心得て、さまざまの花の木をあるかぎり植えておおきになったので、それらが時を忘れず咲き満ちているのを、若宮が「わたしの桜がきれいに咲きましたよ。なんとかしていつまでも散らさずにおきたいな。(略)。
出典:『日本の古典を読む⑩ 源氏物語 下』(校訂・訳者:阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男。2008年、小学館)。

 生きている世界・生活を作者、語り手がどこまで感じとれるか、感じとれたものをどれだけ言葉として表し伝えうるかが、文学にとっては何より大切なことです。『源氏物語』に咲いているのは、貴族の邸宅の庭や僧院をおおう木、近隣の山の草木がほとんどで、極めて限られた枠の中の風景です。でも閉じられた景色に咲く草花や草木の日々の変化、訪れる鶯や風と光の移ろいを見詰めていたまなざしと思いはとても深いものでした。
 
 このことは、花の話から少し反れますが、「物語が描く世界の狭さは、物語が伝えうる拡がりと深さの制約にはならない」ということと繋がっていると私は思います。
 『源氏物語』が描いているのは極めて狭く限られた宮中の貴族たちとその周辺の社会だけです。ですがそれにも関わらず、紫式部がその狭い世界に生きる人の思い、感情、心を、人と人の、男女の、交わりのうちに執拗に深く掘り下げたからこそ、この物語は、作者が描けた社会の狭い枠組みに阻まれることなく時代を越え、現代社会にいる私の心にさえ共感を呼び起こしてくれるのだと、私は思います。

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山村暮鳥、いちめんのなのはな

 詩歌は花です。花は女性のようです。詩歌を愛する心は、花をいとおしみ、女性を愛する心です。
この「愛(かな)しい詩歌」は、「愛しい花」、「愛しい女性(ひと)」でもあります。
 「詩を想う」にも花と詩歌について記しますので、今回は私がとても好きな花の詩を咲かせます。

 山村暮鳥は強い個性をもった、キリスト教聖職者である詩人として生きました。彼については、聖職者詩人の森田進さん、暮鳥とおなじ教会信者の詩人中村不二夫さんが、各々独自のまなざしで彼の詩と生きざまを浮かび上がらせる詩人論を書かれていて、そこから私は暮鳥により近づきました。(森田進『言葉と魂 -詩とキリスト教- 新版』1977年、ルガール社。中村不二夫『山村暮鳥―聖職者詩人』2006年、沖積舎)。

 詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』の詩「風景」は、私がとても好きな花の詩、暮鳥のいちばん好きな詩です。私の詩集『さようなら』詩「菜の花のひと かもの愛」は、暮長のこの詩の菜の花畑に育まれました。


 風 景
  純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。


出典:『山村暮長詩集』1966年、彌生書房。

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源実朝の祈りの歌

 「詩を想う」で願いと祈りと文学について『源氏物語』を通して考えました。願いと祈りの詩歌は、古代詩歌発生の時から絶えることなく受け継がれています。
 好きな悲しみのうたのうち、(鎌倉時代初期の変動期に若くして殺された)源実朝の二首を、「愛しい詩歌」に咲かせます。今、私が感じる思いと変わらないと、心うたれます。
 
出典(通釈、語釈)は、水垣久HP「やまとうた」の千人万首(よよのうたびと)です。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html

 道のほとりにをさなき童の母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、父母なむ身まかりにしと答へ侍りしを聞きて

いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる

【通釈】いたわしいことよ。見ていると涙も止まらない。親もない子が母を求めて泣くさまは。


 建暦元年七月、洪水天に漫り、土民愁ひ嘆きせむ事を思ひて、一人本尊に向ひ奉りて聊か祈念を致して云く

時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

【通釈】時によって、雨乞いの祈願を承けて降らせる雨が度を過ぎすことがある。そうなれば却って民の歎きである。八代龍王よ、雨を止めたまえ。

【語釈】◇八大龍王(はちだいりうわう)法華経序品に見える八体の龍神。雨を司る神と考えられた。

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願いと祈りと文学

  東日本大震災の被災者の方たちへの支援が懸命に続けられています。安否不明の方、救出を待つ方、亡くなった方、負傷された方、避難生活の方の、悲痛な声に心が痛み、離れた場所で悲しみ、これ以上いのちが失われないことを願い、祈っています。
  何とかしてあげたい、少しでも何かできないか、そう思いながら生活の制約からできずにいます。わたしはその大きな思いのなかの一人だと思います。
  消防、警察、自治体、救助者、医療従事者の行動力、判断力、忍耐力、意思、決断、献身の姿に、その力が今ある悲しみ苦しみを少しでも和らげ克服してくれるよう、願い、祈っている一人です。
 「とてもつかれていたらやすんでください、しぜんにげんきになれるから、だいじょうぶ、きっとだいじょうぶ。」

  詩人として私を見つめると、文学は悲痛な悲しみを目の当たりにしてその目の前の悲しみには限りなく無力だと感じます。被災し救出された後も、親や身近な方を必死に探しながら所在がわからず泣いている方が今いるのに、その心が裂ける痛みに何もできません。
  私も避難していたあの同じ時間に過酷な状況に突然巻き込まれてしまい今も苦しんでいる方を思うと、言葉を失います。
  文学は、今を変える力は微かで、効用、実利からはやはり遠いものであり、その即効力が不可欠な人には、あまり役に立ちません。
  けれど、同じ時間にいる方の悲しみに何もしてあげられなくて本当に悲しい、慰めてあげられる言葉さえ見つからず悔しい、嘘であってほしいと、深く思い沈み心を共にふるわせ祈ることだけはできます。その思いには、悲痛な今を変える直接の力はありませんが、人間にとってあったほうがより良いものであることは確かです。
   悲しみをどうすることもできない今を、同じ時間に、そばで、まわりで、感じとりたい、見守りたい、わかってあげたい、そしてゆっくりとでも何とか悲しみから抜け出してほしい、頑張ってほしい、と願う心は、人間にとって大切な何かであることだけは確かです。
   詩歌、文学が、無力で効用も実利も得られないものであるのにも拘わらず、決して無くならずに受け渡さてきたのは、この人間にとって失ってはいけない思い、願い、祈りが織り込められて生み出されてきたものだからだと私は思います。
  人が深い悲しみから静かに顔を上げゆっくり立ち上がり、砕かれた心の破片をもう一度拾い集め繋ぎ合わせたいと願うとき、そっと見守り、手を添え、掌で包み、温め、守ろうとする何より大切なものが、本物の文学には必ずあるからだと、私は思います。

◎『源氏物語』の加持祈祷

  源氏物語を読むと、天災、重い病、不慮の死に直面した人たちが、加持祈祷にすがりつく姿が、何度も何度も描かれています。私が未熟な時には「迷信を何でこんなに書くんだろう」と思ったこともありましたが、私が何もできずに今どうしようもなく願い祈るのは物語の人たちと変わらない、現代社会にいても人は変わっていない、と感じます。
  源氏物語には、生きる人の、ああでもないこうでもないという惑い、行ったり来たりする迷い、嘆息、問いかけが渦巻いています。が、答えはなく、道しるべはなく、結論はわかりません。読みながら私は、ああ、この人たちの思い、嘆息、悲しみは、私と同じなんだ、この物語にそれらを織り込め生きた紫式部も同じだったんだ、人の思いは千年前も今も変わっていないんだ、と感じずにはいられません。
  浮かび沈む思いは変わらずにいのちが途切れず受け渡されてきたんだと想うと、流れ続けてきたいのちの思いに今生きていることを励まされている、と感じます。
 その流れに今いると感じながら、文学、詩歌に、その思いと願いと祈りを織り込めて生き、悲しみから顔をあげたいと願う方にそっと手渡すことができれば、そう願い私は詩を書いています。


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紫式部『源氏物語』の物語論(四)

◎物語の誇張と方便

 紫式部は、物語には「誇張」が本質的に必要なものだと意識して創作したことが次の言葉からわかります。

「不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれてしまうこともある」
「よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られてい るものが小説であると見ればよいかもしれない。」
「深さ浅さはあるだろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御心(みこころ)で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。方等経(ほうとうきょう)の中などにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、菩提(ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪いということが言われてあるのです。つまり小説の中に善悪を書いてあるのがそれにあたる」

 物語の作者は「不自然な誇張」によって、極限の状況、日常性が破れた、めったに起きないけれど起きうる時間と場を作りあげます。そうすることで、その場に「つり込まれてしまう」読者に、その状況や場でしか感じ得ない高まり極まった感情、思いのふるえを伝えることができます。
 また作者は、「人間のだれにもある美点と欠点」を、「あくまで誇張して」「極端に」際立せ浮かび上がらせることで、読み手の心に強烈な個性、強い特徴をもつ典型を、焼きつけることができることを、紫式部は『源氏物語』で教えてくれます。巻の立て方そのものがそのことを伝えてくれます。多くの巻の中心にひとりの女性がいて、彼女だけの独特な個性の香りを匂わせていて、そこから物語に惹き込まれてゆきます。

 『源氏物語』により紫式部は、物語の本質、物語とは何かについて次のように教えてくれます。
 人間の歴史であり、人生の、いのちの流れである物語には、美点と欠点、善悪、そのどちらもが入り乱れて描かれてあるということです。
 物語は美点だけ、善だけのお話ではないこと、また「菩提(ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪い」という観念だけの説教ではないということです。
 物語は、美しさと醜さ、善と悪が入り乱れた人間の生きるありさまを描くものだから、それが真実に迫るものであればあるほど、仏教の方便のように「大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じる」ほどに、美点と欠点、善悪は切り離せないまだら模様を描いている、その動くありさまこそ描かれるものだ。
 読者はその虚構世界に自らの身を投げ込んで物語の人物とともに、描かれたその世界に醜さ、悪がどうしようもなくあることを知ります。醜と悪のおぞましさに触れざるを得ず、身をも染めざるを得なくなってしまう、悲しみと嘆きにも巻き込まれます。
 だからこそ読者は物語の人物とともに、醜さ、悪から抜け出してその向こうに美と善を見たいと心から願い、求めずにはいられなくなります。
 そこに息づいているこの思い願いを感じることは生きることそのものではないか、そう問いかけさせるほどまでに心を高め見詰めさせる「方便」こそが物語だと、紫式部は教えてくれます 。

 『源氏物語』は涙が溢れたゆたいたぎり深く波打つ、涙の川だと私は感じます。その流れを生み、絶やさないものは、ひとりひとりの女の、男の涙です。
  愛するひとへの思慕、愛しあう喜びと悲しみ、愛憎、愛欲にまみれ逃れようとし逃れらえない嘆き、出家し後世をおもう祈りが、浮かび沈みながら光り消え流れてゆく川に人間はいて歴史を生きています。
  その川は千年前も今も少しも変わらない姿で、揺らめき光り流れていることを、紫式部の『源氏物語』が教えてくれます。

紫文字引用出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)入力:上田英代、校正:砂場清隆。
(古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)の入力ファイル利用)
底本:「全訳源氏物語 中巻」与謝野晶子訳、角川文庫、1971年。

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紫式部『源氏物語』の物語論(三)

◎物語と本当の歴史

 紫式部の次の言葉には、彼女の物語の創作者としての誇りを感じます。物語だからこそできること、物語でなければできないことを、彼女が深く理解し創作したことが伝わってきます。

「神代以来この世であったことが、日本紀(にほんぎ)などはその一部分に過ぎなくて、小説のほうに正確な歴史が残っている」
「だれの伝記とあらわに言ってなくても、善いこと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって小説というものが書き始められた」

 紫式部はこの誇りを持っていたからこそ、あの長大な言葉の絵巻を描き切れたのだと私は思います。彼女はここでの短い言葉で次のことを伝えたかったのだと思います。
 「正確な歴史」とは、政治的な変動でも支配階級の家系でも社会事件の記録なのでもない、そこには抜け落ちているものがある、それは物語に描かれているもの、物語だから伝えられるものだ。
 生きた歴史は、人間と人間の出会いと別れ、因縁、交わされた歌、思慕と嘆き、契り、愛憎、そこにこそある。
 正史とされる「日本紀(にほんぎ)など」には、いちばん大切なものが抜け落ちている、だからそれらは歴史の「一部分に過ぎなくて」、本当の歴史には『源氏物語』が執拗に描く姿で、女たちがひとりひとり生きている。女と男が思い合い、契り、生み出し、流れていくものこそが歴史なのだと。
 私は紫式部が、「後世に伝えたい」、「ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって」、その強い思いを抱いて『源氏物語』の人間絵巻・歴史を書き上げたことを思うと、感動します。


紫文字引用出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)入力:上田英代、校正:砂場清隆。
(古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)の入力ファイル利用)
底本:「全訳源氏物語 中巻」与謝野晶子訳、角川文庫、1971年。


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紫式部『源氏物語』の物語論(二)

◎物語の虚構性と真実
 紫式部は、物語の虚構性と言葉の真実性の関係について、深く理解していたと、私は次の言葉に感じました。
 以下紫文字は、与謝野晶子訳『源氏物語』「蛍」の巻の該当箇所の原文引用です。

「ほんとうの語られているところは少ししかないのだろうが、それを承知で夢中になって作中へ同化させられる」
「嘘ごとの中にほんとうのことらしく書かれてあるところを見ては、小説であると知りながら興奮をさせられますね。」
「けれど、どうしてもほんとうとしか思われない」 

 私は、物語の虚構性と対極のものに、万葉集の短歌とアフォリズムがあると思います。
 たとえば万葉集の正述心緒(ただにこころをのべたる)の歌は、直情、ありのままの思い、伝えずにいられない心を、三十一文字の調べという最小限のかたち(虚構)の薄肌につつんだものです。
 アフォリズムも同様に虚構を極限まで削ぎ落とすことを意思した言葉です。
 これらの、なまに近い真率な言葉の真実性は、心のあり方が作者と重なる読者にとってはとても強く心を揺さぶる共鳴を引き起こします。私はこのような文学表現がとても好きです。
 ですがこの良さは同時に弱さでもあり、心の重ならない読者には響きようがなく、何の波紋もおこさずにすりぬける風のようなものです。この文学表現は、多様な読者のこころまで巻き込み揺り動かすには、あまりに微かなものです。
 一方で物語(小説)は、紫式部が言うとおり、「嘘ごと」虚構そのものです。だからこそ逆に、細かい描写・叙述の言葉を「ほんとうのことらしく」積み上げることで、その世界に入り込む読者の多様なこころの在り様にはあまり影響されません。読者は、その虚構に織り込められた言葉を、その虚構に生きている人間に感情移入し、「どうしてもほんとうとしか思われない」と感じてしまいます。物語の虚構性が生み出す素晴らしさだと私は思います。

引用出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)入力:上田英代、校正:砂場清隆。
(古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)の入力ファイル利用)
底本:「全訳源氏物語 中巻」与謝野晶子訳、角川文庫、1971年。

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紫式部『源氏物語』の物語論(一)

◎『源氏物語』に思う
 紫式部は『伊勢物語』の清流をうけ、『源氏物語』という豊かな川、文学の海に注ぎ込み輝き続ける大河を生み出しました。正直に告白しますと、私が『源氏物語』全巻を通読できたのは今回が初めてです。与謝野晶子の全訳で読みました。これまで10代、20代の時から「文学が好きなら読み切らないと恥ずかしい、読み切りたい」と思いつつ、有名な巻のつまみ食いと、前半まででの中断挫折で終わっていました。
 今回読み通してこの作品は後半から結末に向かうほど深みと凄みを増していることを知りました。前半は光源氏の恋愛遍歴と栄華が主軸で最後までこの調子かと浅はかに思い込んでいましたが、「若葉」の巻以降、特に宇治十帖には、生きる喜びと裏表の悲しみ、光に生まれる陰影、涙と嘆きに祈りの哀しみが染み透り、静かに深く惹き込まれ感動し読み終えました。
 素直な気持ちを記すと、日本の文学、古事記から現代の小説、古代歌謡から近現代詩歌を見渡す時に、そのもっとも豊かな川は『源氏物語』だ、世界の文学の海全体を眺望した時にも、『源氏物語』はその波うつ光の流れが世界の文学の海を豊かにしていることが自然に感じられる作品だと思いました。日本語で詩を書く人間として心から嬉しく励みともなります。この豊かな流れにほんのささやかなものでも良い日本語の詩の響きを注ぎ込みたい、という思いがふくらみます。

 紫式部は『源氏物語』「蛍」の巻の源氏と玉鬘(たまかづら)の会話で、物語(小説)について語っています。物語の本質を教えてくれるその言葉に、私が感じ考えたことを次回から数回に分けて記します。

 以下は、『源氏物語』蛍の巻の該当箇所の与謝野晶子訳原文です。(紫文字は上記文章での引用箇所です。)

 源氏はどこの御殿にも近ごろは小説類が引き散らされているのを見て玉鬘に言った。
「いやなことですね。女というものはうるさがらずに人からだまされるために生まれたものなんですね。ほんとうの語られているところは少ししかないのだろうが、それを承知で夢中になって作中へ同化させられるばかりに、この暑い五月雨(さみだれ)の日に、髪の乱れるのも知らずに書き写しをするのですね」 笑いながらまた、
「けれどもそうした昔の話を読んだりすることがなければ退屈は紛れないだろうね。この嘘ごとの中にほんとうのことらしく書かれてあるところを見ては、小説であると知りながら興奮をさせられますね。可憐《かれん》な姫君が物思いをしているところなどを読むとちょっと身にしむ気もするものですよ。また不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれてしまうこともあるし、またまずい文章だと思いながらおもしろさがある個所にあることを否定できないようなのもあるようですね。このごろあちらの子供が女房などに時々読ませているのを横で聞いていると、多弁な人間があるものだ、嘘を上手に言い馴れた者が作るのだという気がしますが、そうじゃありませんか」 と言うと、
「そうでございますね。嘘を言い馴れた人がいろんな想像をして書くものでございましょうが、けれど、どうしてもほんとうとしか思われないのでございますよ」
 こう言いながら玉鬘(たまかずら)は硯(すずり)を前へ押しやった。
「不風流に小説の悪口を言ってしまいましたね。神代以来この世であったことが、日本紀( にほんぎ)などはその一部分に過ぎなくて、小説のほうに正確な歴史が残っている」のでしょう」と源氏は言うのであった。
だれの伝記とあらわに言ってなくても、善いこと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって小説というものが書き始められたのだろう。よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られているものが小説であると見ればよいかもしれない。支那(しな)の文学者が書いたものはまた違うし、日本のも昔できたものと近ごろの小説とは相異していることがあるでしょう。深さ浅さはあるだろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御心(みこころ)で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。方等経(ほうとうきょう)の中などにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、菩提( ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪いということが言われてあるのです。つまり小説の中に善悪を書いてあるのがそれにあたるのですよ。だから好意的に言えば小説だって何だって皆結構なものだということになる」と源氏は言って、小説が世の中に存在するのを許したわけである。

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)入力:上田英代、校正:砂場清隆。
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底本:「全訳源氏物語 中巻」与謝野晶子訳、角川文庫、1971年。


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伊勢物語 歌物語

 日本の古典で何が好き、ともし聞かれたら、私がまずあげるのは『万葉集』です。次になると『伊勢物語』かな、と思います。『古今和歌集』から『新古今和歌集』へと揺らめき流れる歌の清流に浮かび沈みひかる紅葉の舟といったイメージをもっています。
 『伊勢物語』を深く読みこんできたわけではないけれど、恋愛がテーマで、短編集で、歌物語だからでしょうか、とても親しみを感じます。この小さな物語集が、紫式部から謡曲や堀辰雄の小説まで及ぼしてきた影響の広さ深さは素晴らしいと思います。
 私がはじめて触れたのは学校の教科書からで、「第四十五段」の思いを遂げられずはかなく死んだ娘の恋と鎮魂歌の掌編でした。蛍に語りかける歌も、せつなくかなしく美しいと、心うたれたことを懐かしく思い出します。
 今回読み返し特に好きな段に思うことを記そうと考えていたのですが、『伊勢物語』とネット検索するだけで、原文、現代語訳、解説、絵巻物がちりばめられた、愛情こもった個性的なホームページが現れてきました。なら、直接その世界にふれるのがいちばんいい、親しまれ愛されている古典なんだと改めて思いました。
 中高生にとって短歌の文法解読のテストは苦痛だけれど、『伊勢物語』の短歌は、毎日どこかの町で、思い悩み心ときめかせ生みだされている、思慕する異性へのラブレター、恋文なのだから、自然に共感できる歌なんだと思います。思春期の淡い恋にとどまらず、死ぬまでやむことのない生き、愛したい、そうせずにはいられない、ひとの、おんな、おとこの、思いが美しく浮かんでいることに、年齢を問わず惹かれてしまうのだと感じます。
 歌物語は詩を書く私の憧れでもあります。『伊勢物語』のような、歌物語を生みだして伝えられたらと、初恋のひとを心に抱くように私はずっと思ってきました。その面影をおうことはきっと死ぬまでやむものじゃないんだと思います。


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