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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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紫式部の憂いと信仰。紫式部日記。

 前回に続き『紫式部日記』を通して『源氏物語』の作者の千年前の思いのうち、私の心を波立たせてくれた彼女の吐息にふれます。

 はじめの引用箇所は、この日記のなかで、彼女が自分自身を省みた思いを書き記されているところです。紫式部の日記を読むと、宮廷でのできごとを書く場合にでも、最後には自分自身にひきよせて考える、とても内省的な魅力ある女性ですが、その心をみつめる姿が浮び上がっています。考える前に、考えることなく、言葉を並べ立て、主義主張を押し通す人たちを敬遠し、言葉にするまえに深く考え、言葉をのみこんで考える、紫式部がいます。私も性格が似通っているので、彼女の思いがとてもわかる気がします。
 どんどん口に吐き出すことに快感を感じる社交的な押しの強い人は弁論家や政治家向きですが、物語作者、歌人、詩人にはなれないと私は思います。彼女があの長大な美しい物語を織り上げ切った母体にはこのような、心の深さの方向を見つめているまなざしがあるのだと感じました。

◎引用訳文1
よろずのことは人によってまちまちである。いかにも得意そうに派手で満悦して見える人もいます。何かにつけ所在なくさびしい人が、気のまぎれることのないままに、古い思い出の手紙を読み返しては、仏前のお勤めに身を入れて、口をさかんに動かして読経し、数珠の音を高く鳴らしますのは、[他人には]好感がもてないものだと存じまして、自分の思うままにしてよいことをさえ、ただ召し使う者の目にふれるのを憚り、心の中に納めて話しません。まして宮仕えに出て人の中に交わるときには、言いたいことがあっても、さあどうかな、この人には言わないほうがよい、と思われて、分かってくれそうにない人には、言っても無駄でしょうし、何かと文句をつけて、我こそはと得意になっている人の前では、面倒だから話すことも気が進まない。特にあれもこれもすぐれている人は、そんなにいるものではありません。ただ自分の心にたてた主義主張をとりあげて、他人を無視するもののようです。
☆原文
よろづのこと、人によりてことごとなり。誇りかにきらきらしく、ここちよげに見ゆる人あり。よろづつれづれなる人の、まぎるることなきままに、古き反古(ほんご)ひきさがし、行ひがちに、口ひひらかし、数珠(ずず)の音高きなど、いと心づきなく見ゆるわざなりと思うたまへて、心にまかせつべきことをさへ、ただわが使ふ人の目にはばかり、心につつむ。まして、人のなかにまじりては、いはまほしきこともはべれど、いでやと思ほえ、心得まじき人には、いひてやくなかるべし、ものもどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければ、ものいふことも、ものうくはべり。ことにいとしもものかたがた得たる人はかたし。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになすなめり。

 次の引用箇所で紫式部は、いのちと信仰についてより露わに記しています。生きることの憂さと悲しさを綴る彼女をわたしはすぐそばに感じて、ともに静かに寄り添っていたい、言葉少なに語りあいたい気持がします。
 ここに書きとめられた言葉は、『源氏物語』で紫の上や、浮舟、薫や大君の、深いためいき、憂い、悲しみ、信仰への希求と迷い、に通い合っています。物語の情感の深さの源に紫式部の心があり、彼女の心から生まれた物語の人物たちの心とつながり、響きあい、いのちの悲しみを奏でているのが聴こえてきます。

◎引用訳文2

ほんとに、いまはもう遠慮いたしますまい。人が、どのように私を言おうが、ただ阿弥陀仏に向かって絶えず経を繰り返し唱えましょう。世の厭うべきことは、まったく少しの未練もなくなりましたので、出家し聖の生活をするのをなまけるようなことはありません。ただ一途に出家しても、臨終のとき阿弥陀仏や様々な菩薩が迎えに来てくださる雲に乗らないうちは、気持ちがぐらつくことがありそうです。そのためにためらっているのです。
 年齢もともかく[出家には]適当な頃になっています。今よりもひどくもうろくして、あるいは目が悪くなり、心のものうさが強くなるでしょうから、信心深い[人の]人まねのようですが、今はただ、ず経の生活を思っています。その願いも、罪深い人は必ずしもかなわないのでしょう。前世からの宿命の拙さが感じられることが多くございますので、何ごとにつけても悲しいのです。

☆原文
いかに、いまは言忌(ことい)みはべらじ。人、といふともかくいふとも、ただ阿弥陀仏(あみだほとけ)にたゆみなく経をならひはべらむ。世のいとはしきことは、すべて露ばかり心もとまらずなりにてはべれば、聖(ひじり)にならむに、懈怠(けたい)すべうもはべらず。ただひたみちにそむきても、雲に乗らむほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる。それにやすらひはべるなり。
 としもはた、よきほどになりもてまかる。いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経よまず、心もいとどたゆさまさりはべらむものを、心深き人まねのやうにははべれど、いまはただ、かかるかたのことをぞ思ひたまふる。それ、罪ふかき人は、またかならずしもかなひはべらじ。さきの世知らるることのみおほうはべれば、よろづにつけてぞ悲しくはべる。

 こことは別に「愛(かな)しい詩歌」に、『紫式部集』から私の好きな彼女の歌を選び咲かせます。

出典:『紫式部日記 紫式部集 新潮日本古典集成』(山本利達 校注、1980年、新潮社)
(*漢字や記号と訳文は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)

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 『紫式部日記』(一)和泉式部の歌

 気の向くままの寄り道です。今回と次回は『紫式部日記』を通して『源氏物語』の作者の千年前の思いのうち、私の心を波立たせてくれた彼女の吐息にふれます。
  今回は紫式部和泉式部の和歌について記した個所です。
次の言葉が私にはとれも印象的でした。
 「口から出るにまかせたあれこれの歌に、必ず魅力のある一点で、目にとまるものが詠みそえてあります。」
 「実にうまく歌がつい口に出てくるのであろうと、思われるたちの歌人ですね。」

 紫式部自身の和歌は『源氏物語』の豊かさに隠されてあまり評価されてこなかったようですが、物語のなかでの創作歌には歌う人間の思いの深さがにじんでいます。また彼女の人柄からか、穏やかな、もの静かな、落ち着いた内省のまなざしがあって、私は好きです。
 とくに宇治十帖の、大君、中の君、浮舟の、悲しむ女性の心の揺れ動く歌には、涙で洗われるような、苦しみと背中合わせの澄み切った美しさ、落ち着きの底にみなぎる激しい狂おしさを感じます。

 和泉式部も紫式部も強い独自の魂を彼女にしかできないかたちで表しているので、心の現れでる歌の容姿はことなっていますが、ふたりはともに深い魂の詩人であることで共鳴しています。
 紫式部は日記で、和泉式部の歌の批評力をあまり評価していませんがそれは重要なこととは思いません。大切なのは、紫式部が和泉式部の歌の本質、歌人としての本性をしっかり捉えていることにあると思います。紫式部の人間をみるまなざし、歌を感じとる心の深さがあらわれていると、私は思います。

◎引用訳文
 和泉式部という人こそ、興をそそる手紙をやりとりした人(です)。和泉式部の手紙にはよくない点があるけれど、気楽に手紙を走り書きした時に、その方の[文章の]才のある人で、ちょっとした言葉の美しさも感じられるようです。歌は、うまく趣向をこらすこと、古歌についての知識、歌のよしあしの判断[これらの点では]本当の歌人という感じではないようですが、口から出るにまかせたあれこれの歌に、必ず魅力のある一点で、目にとまるものが詠みそえてあります。そうであっても、人の詠んだ歌を、非難し批評している場合には、さあそれほど歌というものが十分わかってはいないのでしょう、実にうまく歌がつい口に出てくるのであろうと、思われるたちの歌人ですね。気はずかしくなる立派な歌人だなとは思いませんけれど。

☆原文
 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたのざえある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしきひとふしの、目にとまるよみそえはべり。それだに、人のよみたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌のよまるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。

出典:『紫式部日記 紫式部集 新潮日本古典集成』(山本利達 校注、1980年、新潮社)
(*漢字や記号と訳文は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)
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催馬楽。紫式部と流行唄。

 詩歌と歌謡の交わりを考えています。前回とりあげた神楽歌は主に宮廷儀礼で謡われましたが、そこからあふれでてひろく謡われた流行唄(はやりうた)が催馬楽(さいばら)です。
 私が今回言いたいのは、紫式部は流行歌も好きだった、という一点です。
 まず、『源氏物語』に登場している二曲を引用して催馬楽に触れてみます。

◎引用1
貫河(ぬきかは)
貫河の瀬々(せぜ)の やはら手枕(たまくら) やはらかに 寝(ぬ)る夜(よ)はなくて 親避くる夫(つま)
親避くる夫は ましてるはし しかさらば 矢はぎの市(いち)に 沓(くつ)買ひにかむ
沓買はば 線がいの 細底(ほそしき)を買へ さし履(は)きて 表裳(うはも)とり着て 宮路(みやぢ)かよはむ

<訳:
貫河の、浅瀬浅瀬のふちに生えている小菅。その小菅のような、やわらかな手枕。
やわらかな手枕をまいて、のんびりと寝る夜とてはない、親が許さないあのおひと。
親が許さなければ許さないほど、いよいよいとしいあのおひと。
(会えぬ間に、遠い都へ召されるおひと。)
それならば、矢はぎの市に、わら沓を買いに行きましょう。
沓を買うなら、ひものついている細身の沓を買いましょう。
細身の沓をはいて、腰衣をつけて、さっそうと、都大路を歩きましょう。>

梅が枝(え)
梅が枝に 来(き)居(ゐ)る鶯(うぐひす) や 春かけて はれ
春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ
あはれ そこよしや 雪は降りつつ

<訳:
梅の枝に来て留まっている鶯。それが春にかけて、鳴いているけれど、その
春にかけて、雪が降り降りしていることだ。>

 
 「貫河」は現在のポップス、歌謡曲、演歌と同じような歌詞で、千年前も今も変わらない恋の情を謡っている、と私は感じます。「梅が枝」は囃し詞(はやしことば)が、のびやかな歌声を伝えてくれます。どちらも当時の人たちが気持ちよく謡っていたのが、わかる気がします。

 私は『源氏物語』の与謝野晶子訳を読んで、催馬楽が物語のいろんなところにちりばめられ描かれているのがとても印象的でした。物語の作者として意識的効果的に描写した側面とは別に、紫式部自身が彼女の周囲の人たちと同じように、当時の流行唄(はやりうた)の催馬楽が好きだったのだと思います。(彼女の『紫式部日記』にも歌と楽曲を楽しんだ様子が記されています。)
 出典の仲井幸二郎「源氏物語と催馬楽」は、このことを次のように教えてくれます。

>◎引用2
 「(略)『源氏物語』の中に、催馬楽(さいばら)はこのように散見できるのであるが、その数はのべにして五十六曲、曲目数としても二十三曲に及んでいる。歌詞の現存する催馬楽が六十一曲として、訳三分の一強の曲目が『源氏物語』に取り込まれているということになる。
 逆に『源氏物語』五十四帖の本文のうち、催馬楽がなんらかの形で登場する巻々が二十九巻あるから、これも半数以上の巻に見られる(略)。
 『源氏物語』の中におりにふれて口ずさまれたり、和歌に引用されたりするということは、『源氏物語』の作者を中心とする宮廷生活の中には常識的に謡われる歌であったということであろう。
 催馬楽はいわば民謡風な歌を、外来の雅楽調に編曲して謡うものであり、したがってそれ自体も呂(りょ)調と律(りつ)調に分かれている。(略)
 催馬楽が『源氏物語』の中に謡われるチャンスには、大きく分けて二通りの場合が考えられる。
 一つは宮廷の御遊や、貴族邸の管弦の遊びに、琵琶・筝(そう)の琴(こと)・琴(きん)の琴(こと)・あずま琴などの楽器により演奏され、それに合わせて謡う、いわば正式な宴席における歌としての催馬楽であり、いま一つは、伴奏もせいぜい笛か、扇拍子程度の、気楽に謡うときとか、女のもとを訪れるときの手段の一つとして利用するなど、いわば鼻歌とか、口ずさみふうに謡われる場合である。」

 紫式部と歌謡曲。ともすれば日本の文学の正統系譜のど真ん中にいる紫式部や『源氏物語』、優れた伝統作品は尊いものとして神聖視されがちですが、私は彼女も一人の女性として生きていたこと、当時流行っていた俗な歌も楽しんでいたことを、見失わずにいたいと思います。このことは他の優れた歌人たちについても同じようにいえます。(時代は大きく跳びますが、たとえば宮澤賢治の作品や生き方を私はとても好きですが、彼のすべてを神聖視するかのような批評は逆に生身の彼を貶めているのではないかと私は感じます)。
 でも紫式部は『源氏物語』を794首もの創作和歌を美しく連ねた歌物語として織りあげたことも確かです。

 『源氏物語』は聖と俗のあわいを揺れ動く人間を捉えているからこそ、豊かな真実を伝えてくれます。それができたのは作者がそのどちらをも心魂に抱えていて感じることができたからです。詩歌もまた歌謡と厳格には切り分けられない心の聖と俗に生まれでて響いているものです。俗な部分がないかのように目隠しをし、歌の情をそぎ落とした詩は、貧しく干乾び枯れてしまうと、私は思います。

 催馬楽を通して、著者はさらに、民謡の芸謡化と専門家の登場、催馬楽が芸謡でありつつひろく流行唄(はやりうた)として愛唱されたことなど、人にとって歌謡もまたいつの時代もなくてはならないものであったこと、あり続けることを、教えてくれます。

>◎引用3
 「『源氏物語』に登場する催馬楽のありようは、催馬楽が芸謡としての様相を見せていることを思わせる。すなわち、芸謡と考えられるものとは、民間の労働の歌や祝い歌が琵琶や三味線にのせられ、専門の芸能者の歌となったものであるが、催馬楽もまた、民謡として謡われていた歌が、儀礼的な宴会の場の歌として謡われたことがまず第一にある。(略)
 催馬楽もまた、手拍子、扇拍子の民間の歌が、楽器を伴奏にして、雅楽の調子にのせて謡われるようになったものである。このように謡うにしても演奏するにしても、その専門家の現れたことが、催馬楽の芸謡化の顕著な姿であった。雅楽寮(うたづかさ)という、音楽の専門家を抱える役所が宮廷の御遊などの音楽面の担当者であり、『源氏物語』「胡蝶」の巻などには六条院の舟楽に召されている記事が見える。あるいは「唱歌(そうが)の人々」(若菜上)、「声よき人」(明石)などの記事は、催馬楽を謡った専門家の存在を思わせるものである。  民謡は本来、名もなき人々の集団が謡い伝えた歌であった。それが別な目的を見出して特定な専門家の歌となったり、楽器の伴奏を伴うようになったりしたとき、すでに芸謡化したと考えてよい。とすれば催馬楽もまた一種の芸謡であり、しかも専門家の手にとどまることなく、宮廷を中心として愛唱され、いわゆる流行唄(はやりうた)的な性格を持っていたものであることを、『源氏物語』の記述は伝えているといえる。」  

次回は、『紫式部日記』に気の向くまま寄り道します。

出典: 「源氏物語と催馬楽」仲井幸二郎 『鑑賞 日本古典文学 歌謡Ⅰ』(1975年、角川書店)。
(*漢字や記号は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)

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神楽歌。短歌との別れ。

 詩歌と歌謡の交わりを主題に、古代歌謡の豊かな姿をみつめました。今回は続く時代、『古今和歌集』がまとめられ短歌の規範が確立された時期に生まれた歌謡である神楽歌(かぐらうた)を見つめます。(神楽歌と関係のふかい催馬楽(さいばら)については次回取り上げます。) 
 
 私自身が、古代歌謡には親しみを抱いてきましたが、神楽歌と催馬楽については、そのようなものがあった、ということくらいしか知りませんでした。まず、どのようなものだったか、イメージできるよう、出典から一首を引用します。出典の著者、池田弥三郎は、このタイプの神楽歌の特徴を次のように教えてくれます。

◎引用1
  難波潟(なにはがた)

本  難波潟(なにはがた) 潮満ち来れば 海人衣(あまごろも)
末  海人衣 田蓑(たみの)の島に 鶴(たづ)立ち渡る


 「大前張(おほさいばり)の中でも、(略)四首は、すべて形式は短歌であって、上の三句を本方が歌い、第三句を繰り返して下の句へ続けて末方が歌う。そういう歌い方をする短歌形式のものが、前張の中でも、最も大事なものだったのだろう。」

 このように、短歌と似通う点をもちながら、神楽歌は、声を出し曲のふしにのせて歌われた歌謡です。形式もこれだけではなく、囃し詞(はやしことば)も様々です。著者の以下の引用の言葉も、歌謡の特徴をよくとらえています。
 
◎引用2
 「歌謡の伝承  歌われる歌は、その文句の意味を理解しながら歌うということは少なくて、ふしに乗って、合理解を加えながら歌っていくから、形の変化は思いがけない形に走っていってしまう。(略)しかし、歌っている人々は細かい意味の追求はしないで、漠然と気分的に理解しているのだろう。」
 たとえば幼児向けの流行歌はあっという間に全国中で元気に楽しく口ずさまれますが、幼児たちは言葉の意味はあまり理解していません。曲にのった言葉を音として心から楽しみます。これが歌のいちばんの良さだと、わたしは思います。

 そのような歌謡の特徴、良さは、歌うその時の心をときめかせ輝きますが、伝承するための表記の点で絶えず次のような問題を孕んでいました。(音と声を記録する録音技術が手にされた20世紀以降、この問題は小さくなりましたが)。
 歌謡がどのように書き留められたか、誤った理解をしないよう、注意する必要があるということです。若干長くなりますが、この点の興味深い著者の考察を引用します。

◎引用3
 「(略)作品としての神楽歌、ならびに催馬楽を考えた場合、その歌詞の記載にあたっては、どこまで、それが歌われた場合の形を留めるべきか、ということについての処理の問題がある。
 例を挙げてみよう。例えば「採物」の『榊(さかき)』の形である。
 まず『鍋島家本神楽歌』(三一書房刊『日本庶民文化史料集成』第一巻所収)によれば、― (略)  
  ○榊

   さかきばのーーーーーーーーーかーーーーをーーーかーーーぐーーーはーーーーしーーーーみーーーーとめくればーーーーーー八ーーーそーーーーうーーーーぢーーーびーーとーーーぞーーーまとーーーーゐーせーーーりーーーけーーーーるーーーまーーーとーーゐーーーーせりける
末方 おけ あちめ おーーー
本方 おけ

こういう形である。(略)
 しかし、今まで、一般的には、神楽歌としては、右の形としては採録されていない。従来の採録の形はおよそ次の形である。― 今、仮に小西甚一氏による岩波版『日本古典文学大系本』を挙げる。―

  榊葉の 香をかぐはしみ 求め来れば 八十氏人ぞ 円居せりける 円居せりける

 この採録の方針は、譜本的な特質は一応見送り、呪術的に繰り返される『阿知女作法』除くが、第五句の繰り返しは採録し、本方・末方の発唱担当は記し留めておく、ということである。
 そして第三の形としては、この歌の場合は、『拾遺和歌集』に神楽歌として採録してあって、それは短歌として
  榊葉の香を香はしみ 覓(もと)め来れば八十氏人ぞ円居せりける
となっている。
 さて、右の三様の記録の、そのそれぞれを右の順に(1)・(2)・(3)とすれば、神楽歌・催馬楽の歌詞は、もし思い切って整理して、素材的なものに還元して、(3)の形をとるとすれば、多くは短歌の形のものになってしまい、そのあるものは、片歌・旋頭歌の形となってしまう。しかしそれではあまりに、いわゆる歌謡の形と離れてしまい、謡い物としてのおもかげと絶縁してしまうというところから、(1)の形までは戻らずに、(1)と(3)との妥協の形として、従来は多く、(2)の形をとってきたわけである。(略)
 実はこのことは、逆に『万葉集』採録の歌が、(3)の形であって、中には(2)、もしくは(1)の形への還元ということを念頭におかなければならぬ歌もあるのだという、重要な暗示を、われわれに与えないではいない。」

 著者のこの最後の指摘は、古代の歌謡と詩歌の交わりの深さを教えてくれます。『万葉集』のなかの、東歌(あづまうた)をはじめとする民謡調の歌は、記された姿の短歌であると同時に、またはその源流で歌謡として謡われてもいた、ということです。
 このことは逆からみると、ある時に、歌謡は、文字で書くことを主として謡わずに詠むだけの短歌と、枝分かれした、とも捉えられます。著者は、『古今和歌集』の編纂過程に、その分岐点があったと述べます。この勅撰集は、理知と機知で巧みに練り上げた言葉を評価する、歌から遠ざかる方向に向かっています。
 民謡と短歌、謡う歌と書きとめる歌の別れは、歌謡と詩歌の別れでもあったのだと、私も思います。

◎引用4
「(略)はじめ『続万葉集』という名だったらしい書名が、急に、『古今和歌集』となったことの、隠れたいきさつである。
 つまり一千首という、区切りのいい数の「今」の歌。それは『古今和歌集』という名の「和歌」にふさわしい、音楽・声楽と絶縁して、文字によって、紙の上に固定した、撰者らの文学観によって支持されている歌に対して、むしろ、『続万葉集』という名の「万葉」にふさわしい、選者らの文学観以前の、紙の上に固定しないで、口唱せられ、発唱せられることによって、はじめてその目的を達成した、「古」に該当する歌とが、一つの選集の中に併存しているという事情である。
 そして、この意味での「古き歌」は、『古今和歌集』の巻二〇を最期として、少なくとも、文学としての短歌の世界からは、離脱していってしまう。『古今和歌集』が、『続万葉集』の名を捨てて、その名を採用したときに、古き歌の排除は宣言せられたのだが、なお、捨てられずに、尾骨のごとくに残ったのが、巻二〇であった。」

 独立して分かれた後も、歌謡と詩歌はすぐそばで交わり続けながら、新しい歌を生み出してきました。
 次回は、神楽歌から派生した催馬楽(さいばら)を通してその姿を見つめたいと思います。

出典:「神楽歌・催馬楽 総説、本文鑑賞」池田弥三郎『鑑賞 日本古典文学 歌謡Ⅰ』(1975年、角川書店)
(*漢字や記号は、読みやすいように書き換えた箇所があります。)
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古代の物語歌(二) 慈悲の物語歌

 歌謡と詩歌の交わりの視点から古代歌謡を見つめなおしています。今回は最終回として古代の物語歌から、聖徳太子の飢え人についての歌をとりあげ、古代歌謡と和歌について考えます。

 この物語歌について、出典著者の土橋寛は次のように述べています。
 「片岡山の生き倒れを歌った歌を、宮廷で歌うような場はありえなかったと思われるのであり、(略)とすれば、法隆寺の法要などの折に、この片岡説話が語られるとき、この歌が夷振(ひなぶり)で歌われたものと解されるのである。」
 また『万葉集』には和歌の姿で採られています。

作品(原文と訳文)

  『日本書紀』104

十二月の庚午(かのえうま)の朔(つひたちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ)、片岡(かたをか)に遊行(い)でます。時に飢者(うゑたるひと)、道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。よりて姓名(かばねな)を問ひたまへども、言(まを)さず。皇太子、視(みそな)はして飲食(をしもの)を与(たま)ふ。即ち衣装(みけし)を脱ぎて、飢者(うゑたるひと)に覆(おほ)ひて言(のたま)はく、「安(やす)らかに臥(こや)せ」とのたまふ。則(すなわ)ち歌(うた)ひて曰(のたま)はく、

  しなてる 片岡山に
  飯に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ。
  親なしに 汝(なれ)生(な)りけめや
  さす竹の 君はや無き。
  飯に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ。

<訳:
(しなてる)片岡山に、食物に飢えて臥している旅人よ、ああ。
おまえは親無しに生れて来たわけでもあるまい。
(さす竹の)領主はいないのか(面倒を見てくれる親も領主も、いないわけではるまいに)。
食物に飢えて臥しているその旅人よ、ああ(かわいそうに)。>

  『万葉集』巻三

上宮聖徳皇子、竹原井に出遊(い)でましし時、竜田山の死人を見て、悲傷(いた)みて御作(つくりませる)歌一首

  家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥(こや)せる此の旅人あはれ


 聖徳太子のものとされるこれらの歌謡と和歌は、彼そのひとが歌ったものかどうか、その確かさはどうであれ、歌われた心に私は共感します。仏教の慈悲の心はたしかに伝えられてきたのだと感じとれます。
 どちらも心に響く歌ですが、『日本書紀』と『万葉集』には異なった姿で伝えられています。『日本書紀』と『万葉集』の歌のかたちの、違いと特徴、共通点を通して、古代の歌謡と和歌の交わりについての考えをまとめてみます。

☆ 『日本書記』
◎ 歌のかたち
  散文の説話に挟みこまれた歌謡
◎ 表現方法
  法隆寺の法要などで説話が語られるときに、ふしをつけて歌われた。
◎ 表現形式
  5音・7音に限られない自由な音数律にのびやかさがある。(ふしに合わせ謡われるときには言葉の引き延ばしや緩急がつく)。
 詞句のくり返し、対句があり、それによる押韻、韻律が美しく響く。
◎ 特徴
  謡われる声が響くその時その場に輝きがある。(ふしも声も、謡われた後には消えさるものだけに、意識が高まる)。
  その時を感じつくしその情感に浸り尽し燃えつくす刹那の感情の真実さ、強さをその命とする。

☆ 『万葉集』
◎ 歌のかたち
  三十一文字の和歌
◎ 表現方法
 和歌として書き記され詠みあげられた。 
◎ 表現形式
  5・7・5・7・7音、三十一文字の、均斉美。
  鼓動に似た音数のリズムが心に自然に快く響く。
◎ 特徴
  声に出して詠まれるときにも、文字が意識されている。(文字として残し伝承し詠み返すことへの意識がある)。
  時の流れのなかで、くり返し詠み、心に焼きつけ、伝えていく、変わらぬ永遠をみつめる真実さ、強さをその命とする。

☆ 古代の歌謡と和歌の交わり
◎ 共通する源
  歌謡も、和歌も、声調・言葉の響きが、美しさが湧き出す泉、共通の源となっている。
◎ 謡われたもの、詠まれたもの。歌謡と和歌。
 古代の歌謡は、文字のない時代に謡われるものとして生まれた。
 その後も謡われることが表現方法の中心であったとしても、筆録の時代になって和歌と同じように詠まれる歌謡もあらわれた。
 表現される時と場により、謡われることもあり、筆録文学として詠まれることもある、歌謡も生まれた。
 古代の和歌は、歌謡のゆたかな音楽性をとりこみながら、詠みあげられるものとして生まれた。

 私は古代の歌謡と和歌の交わりの姿は、このようなものであったように感じます。
 歌謡と詩歌の境界には完全な断絶などなくて繋がっています。声を響かせ謡うことをより目指したものか、筆録され伝承することをより目指したものか、作品による度合いの違いがあるだけだと思います。
 今書かれた詩歌に曲がつけられ歌曲として歌われることがあるように、歌謡の歌詞を美しい詩句として心に刻むことがあるように、歌謡と詩歌は愛し合う男女のように交わりながら、お互いを豊かにしていくものだと、私は思います。生まれ出た泉にふたりを、地下水系のように結びつけているのは、人の心、感動すること愛することができる人間の心です。

 次回からは、神楽歌(かぐらうた)・催馬楽(さいばら)を聴きとることに進めたいと思います。

出典:「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)
(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすさを考えて変えた箇所があります。)

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新しい詩「こころ絵ほん(よん)天の川、愛のうた」を公開しました

古代の物語歌(一) 悲恋の物語歌

 歌謡と詩歌の交わりの視点から古代歌謡を見つめなおしています。今回と次回は古代の物語歌をとりあげます。
今回の物語は古代の同母兄妹の悲恋物語です。

作品(原文と訳文)

天皇崩(かむあが)りまして後、木梨軽太子(きなしのかるのみこのみこと)、日継(ひつぎ)知ろしめすに定まれるを、
未だ位に即位(つ)きたまはずありし間(ほど)に、その同母妹(いろも)軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて、
歌日たまひしく、

  あしひきの 山田を作(つく)り
  山高(やまだか)み 下樋(したび)を走(わし)せ、
  下訪(したど)ひに 我が訪ふ妹を
  下泣きに 我が泣く妻を
  今夜(こぞ)こそは 安く肌触れ。
  
<訳:
あしひきの)山田を作り、山が高いので水を引くために地下水道を走らせる。
そのようにひそかにわが想う妹、こっそり泣いてわが慕う妻を、今夜こそ心安らかに
肌触れたことよ。>

此は志良宜(しらげ)歌なり。

また歌ひたまひしく

  笹葉(ささば)に 打つや霰(あられ)の
  たしだしに 率寝(ゐね)てむ後(のち)は 人は離(か)ゆとも。
 
<訳:
笹の葉に強く降る霰の音がタシダシと聞こえる。(その音ではないが)確かに共寝をすることができたなら、
その人が後で離れて行こうとも(私はかまわない)。>

  愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば、
  刈菰(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば。
 
<訳:
いとしいままに寝ることさえ寝たら、刈菰の葉が乱れるように、二人の仲がばらばらになってもかまわない。
寝ることさえできたら。>

此は夷振(ひなぶり)の上歌(あげうた)なり。

[軽大郎女]
かれ後にまた恋慕(おも)ひかねて、追い往(いでまし)し時に、歌ひたまひしく、

  君が行き 日長(けなが)くなりぬ。
  山たづの 迎へを行かむ。 待つには待たじ。
 
<訳:
あなたのおでましは、随分長い日数になりました。私は(やまたづの)迎えに行きましょう。
じっと待っているなぞ、もういやでございます。

 いつの時代にも男女の恋愛の感情は強く、心に響く抒情詩を生みます。この物語歌については、悲恋があった後に物語がつくられ、別に謡われていた歌謡のうちからこの物語にふさわしいものが選びとられた可能性もあります。
 そのように独立した別々の歌謡だったとしても、言葉に込められた感情、恋の思いの強さが、古代の人々の心をうち、今わたしの心をうつことに変わりはありません。愛することに理由づけなどなく、理性で考えることでもなく、どうしようもなくただそうなのだという、ふたりの愛(かな)しみが、響いている姿はいのちのはだかの、ありのままのふるえ、美しい抒情詩だと、わたしは感じてしまいます。

 この物語歌がどのように謡われたかについて、出典著者の土橋寛は、歌の後に記されている「此は志良宜(しらげ)歌なり」(略)の歌謡名の注が、宮廷の楽府(または雅楽寮)で一定の歌い方で歌われたことを示していると教えてくれます。
 ただし、「志良宜(しらげ)歌」の解釈について著者は「尻上げ歌」と曲調の変化の意味だと注釈していて、そのように解釈する学者も多いようですが、異論もあります。
金達寿は、「志良宜歌」をめぐって(『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)所収)で、次のように異論を述べています。
「志良宜歌とはいったいなにか。(略)土田杏村(きょうそん)全集第十三巻「上代歌謡」によると、志良宜歌とは「尻上げ歌」などというものではなく、古代朝鮮の「新羅歌(しらぎうた)」であったとしている。」
 私は学者でなく学識もありませんが、古代からの交流関係があり日本への移住者もいて、日本が文学を中国や朝鮮半島から学びとっていたことを考えると、「新羅歌(しらぎうた)」だと、耳には自然に聞こえる気がします。
 古代の中国や朝鮮半島の歌謡との影響関係や共通性については、今後学び知りたいと私は考えています。

以下、出典からの引用です。

 この物語は同母兄妹の悲恋物語である。(略)『書記』には、

 [太子]容姿(かほ)佳麗(うるは)しくして、見る者自らに感(め)でき。同母妹軽大娘皇女、亦艶妙(かほよ)し。太子、恒(つね)に大娘皇女と合(みあはし)せむと念ぜども、罪有らむことを畏りて、黙(もだ)せり。然るに感(め)でたまふ情(みこころ)、既に盛(さかり)にして、殆(ほとほと)に死(みう)するに至りまさむとす。爰(ここ)に以為(おもほ)さく、「徒に空しく死なむよりは、罪有りと雖も、何(いか)でえ忍ばめや」とおもほす。遂にみそかに通(あ)ひまして、乃(の)ち悒(いきとほる)懐(おもひ)少しく息みぬ。

と記している。
 罪を恐れておさえていた恋慕の情が、次第に燃え盛るのをどうすることもできず、どうせ死ぬのなら想いを遂げて死のうと、タブーを破る決意をした経緯が簡潔に述べられている(略)。
軽太子は軽大郎女との禁じられた恋を犯したことによって、宮廷の官人をはじめ天下の人民に背かれ、ついに捕らえられて伊予の湯(道後温泉)に流された。この歌は軽大郎女が太子の後を追うて伊予に行く時の歌であるが、そののち二人は伊予で共に自殺したと『古事記』には伝えている。

 歌の後に記されている「此は志良宜(しらげ)歌なり」「此は夷振(ひなぶり)の上歌(あげうた)なり」の歌謡名の注は、これらの歌が宮廷の楽府(または雅楽寮)で歌われたことを示すもので、独立歌謡のみならず、物語歌も、一定の歌い方で歌われたことが知られる。

出典:「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)
(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすいよう変えた箇所があります。)

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古代の芸謡(二) 乞食者(ほかいびと)の歌

 歌謡と詩歌の交わりの視点から古代歌謡を見つめなおしています。今回も古代の芸謡を前回に続きとりあげます。ただし宮廷で謡われた専門の語部(かたりべ)による芸謡ではなく、都市の一般の民衆を聴衆とした芸人である乞食者(ほかいびと)が謡った芸謡です。

作品(原文と訳文)

  おし照るや 難波(なには)の小江(をえ)に
  蘆(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る
  葦蟹(あしがに)を 大君召すと。
  何せむに 吾(わ)を召すらめや。
  明(あき)らけく 吾が知ることを
  歌人(うたひと)と 吾を召すらめや
  笛吹きと 吾を召すらめや
  琴(こと)弾きと 吾を召すらめや。
  彼(か)も此(かく)も 命(みこと)受けむと
  今日(けふ)今日と 飛鳥(あすか)に至り
  立てども 置勿(おくな)に至り
  策(つ)かねども 都久野(つくの)に至り、
  東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
  参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば、
  馬にこそ 絆(ふもだし)懸(か)くもの
  牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ、
  足引の この片山の
  もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)ぎ垂れ、
  天光(あまて)るや 日の気(け)に干(ほ)し
  囀(さひづ)るや 韓臼(からうす)につき
  庭に立つ 手臼(てうす)につき、
  おし照るや 難波の小江の
  初垂(はつた)りを 辛(から)く垂れ来て、
  陶人(すえひと)の 作れる瓶(かめ)を
  今日行きて 明日取り持ち来、
  吾が目らに 塩塗りたまひ
  時賞(もちはや)すも 時賞すも。

<訳:
(おし照るや)難波の入江に小屋を作って隠れ棲んでいる葦蟹を、大君がお召しになるという。いったい何のために私(蟹)をお召しになるのだろうか ― そんなはずはあるまい。私がよく知っている事柄を、歌人として私をお召しになるのだろうか、笛吹きとして私をお召しになるのだろうか、琴弾きとして私をお召しになるのだろうか ― いやそんなはずはあるまい。ともかくも大君のおことばを承ろうと、(今日今日と)飛鳥に至り、(立っていても)置勿に至り、(築きもしないのに)都久野に至り、そして(皇居の)東の御門から参入して、おことばを承ると、(馬にこそ絆は懸けるものだのに、牛にこそ鼻縄は着けるものだのに、馬でも牛でもない私に縄を懸けて足を引っ張る ― 足引きの)この片山の楡の枝の皮を、たくさん剥いできて吊り下げ、それを(天光るや)日の光に干し、(囀るや)韓臼でつき、(庭に立つ)手臼でついて、(おし照るや)難波の入江の初垂れの塩の辛いのを作ってきて、陶器作りが作った瓶を、今日行ってすぐ明日運んできて、(其の中に楡の皮と塩と蟹を漬け)、私の目に塩を塗って、ご賞味なさいます、ご賞味なさいます。>

  乞食者(ほかいびと)の鹿の歌と蟹(かに)の歌を初めて『万葉集』に見つけたとき、とても強く心に焼きつきました。『万葉集』は様々な姿の歌を束ねていますが、それらのなかでも一際異色さが際立っていると感じつつ、また共感も覚えた歌でした。
 
 蟹(かに)が謡っていることが、何よりとても好きです。アイヌのカムイユーカラは様々な生きものが自ら謡っているとても豊かな歌謡ですが、古代の日本に通じ合うこの芸謡があることを、私はとても嬉しく思います。

 今回、引用文献を読み返して、乞食と芸人の境界のあいまいさ、職業的芸能がうまれでてきたところについて、感慨のような思いを抱きます。私もある意味心の乞食者(ほかいびと)なのだと思います。
 もう一点、社会的な批評精神、権力者、お上に対する風刺が込められていることに、私は庶民出身の乞食者(ほかいびと)の一人として強い共感を覚えます。芸に生きるもの同志の時代を越えた共感です。

以下、出典からの引用です。

 『万葉集』には「乞食者(ほかいびと)」の鹿の歌と蟹(かに)の歌を採録しているが、その芸能は共同社会や氏族社会の中で成立・伝承されていた民族的な芸能の段階をまだ十分には脱却していない。にもかかわらず、それは一般の民衆を聴衆とする芸謡であり、したがって歌の内容も、支配者に奉る寿歌(ほがいうた)を引っくり返した時世風刺であることは、注目に値することである。(略)

 「乞食者(ほかひびと)」は(略)、カタヰは片居で、道の傍らに座って物を乞ういわゆるコジキであるが、ホカヒビトの方はホカヒ(祝言)を述べ立ててその代償に物を貰う者であるから、両者は一応区別しなければならないはずであるのに、(略)同類のものとして扱われているのは、彼らの生活の実態が厳密には区別しがたいものであったからだろう。
 ホカヒは農村のような共同社会にも、氏族社会にも、宮廷社会にもあるが、それを生活の手段とする職業的なホカヒビトが出現したのは、生活の手段を失ったためであった。生活の手段を失ったコジキはいつの時代にもあるが、特に律令時代班田の課役の強化によって、あるいは飢饉災疫の流行によって、土地を捨てて離散する窮民が増加したことは、(略)知られ、それはおそらく大化の公地公民制の実施以後次第に強まってきたものと思われる。彼らは人の集まる市に出て来ていわゆるカタヰとなるか、ホカヒの心得のある者は、権門勢家の門に立って祝言を述べて物を貰う職業的ホカヒビトになり、市に立って民衆を相手にホカヒの芸能を売ることもしたであろう。いったいホカヒは下の者から上の者に奉る形式を取るものであるから、彼らが権門勢家の門に立つ場合は当然純粋なホカヒを演じたはずであるが、不特定多数の民衆が集まる市においては、ホカヒの対象はないのであるから、その芸能は純粋なホカヒではありえず、一人一人の見物人の関心に訴えるものにならざるをえない。職業的芸能は都市の市民によって育てられていくのであって、その傾向はこの乞食者の歌に、すでに現われているのである。

 (略)蟹が大君のお召しを受けて皇居に出掛けることを歌っているのは、「歌人(うたひと)と 吾を召すらめや 笛吹きと 吾を召すらめや 琴(こと)弾きと 吾を召すらめや」の句が示しているように、徴発される芸能人の姿が蟹の姿を借りて表現されているのであって、それは天武四年二月大倭・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張等の国々に勅して、「所部(くにのうち)の百姓(おほみたから)の能く歌ふ男女、及び侏儒(ひきひと)。伎人(わざひと)を選びて貢上(たてまつ)れ」とあるような芸能関係の技能者の徴発事実をふまえているのである。『職員令』によれば、雅楽寮には歌人三十人・歌女百人、笛工(ふえふき)八人が置かれ、男子は課役を免ぜられ、女子は養丁を給せられるから(略)、一応はよいようであるが、生業を離れるわけであるから、家族にとっては迷惑なことだったに違いない(略)。難波の蟹が芸能人として召されることを歌っているのは、蟹が伝統的に寿祝芸能の主人公であることの上に、飛鳥藤原朝における芸能人の徴発という現実の状況が重ねあわされているのである。
 
出典:「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)
(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすいよう変えた箇所があります。)

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古代の芸謡(一)「神語(かみがたり)」の長歌

 歌謡と詩歌の交わりの視点から古代歌謡を見つめています。記紀歌謡を中心とする古代歌謡のなかで、私がとても好きな歌謡を以前ブログ「古代歌謡。無韻素朴の自由詩。」に咲かせました。
 古代歌謡という花々のなかでこの抒情恋愛詩は、次の歌と並んで同じ「芸謡」という丘に咲いています。

作品(原文と訳文)


  八千矛の 神の命(みこと)は
  八島国(やしまくに) 妻枕(ま)きかねて、
  遠々(とほどほ)し 越(こし)の国に
  賢(さか)し女(め)を 有りと聞かして
  妙(くは)し女を ありと聞こして、
  さ婚(よば)ひに 在(あ)り立たし
  婚ひに 在り通(かよ)はせ、
  太刀が緒も いまだ解かずて
  襲(おすひ)をも いまだ解かねば、
  嬢子(をとめ)の 寝(な)すや板戸を
  押そぶらひ 我が立たせれば
  引こづらひ 我が立たせれば、
  青山に ぬえは鳴きぬ。
  さ野(の)つ鳥(とり) 雉(きざし)は響(とよ)む。
  庭(には)つ鳥 鶏(かけ)は鳴く。
  慨(うれた)くも 鳴くなる鳥か、
  この鳥も 打ち止めこせね。
  いしたふや 海人駈使(あまはせづかい)。
  事(こと)の 語り事(ごと)も 此(こ)をば。


<訳:
八千矛の神様は、八島の国の中では(思うような)妻を得ることができないで、遠い遠い越の国に、賢い女がいるとお聞きになり、美しい女がいるとお聞きになって、妻問いに意気揚々とお出かけになり、妻問いにさっそうとお通いになって、太刀の緒もまだ解かずに、襲もまだ脱がずにいると、その乙女の寝ている(部屋の)板戸を、押しゆさぶって私が立っていると、引っ張り引っ張りして私が立っていると、(もう)木の茂った山では、ぬえ鳥が鳴いてしまった。(さ野つ鳥)雉も鳴いている。(庭つ鳥)鶏も鳴いている。(せっかく辿り着いたばかりだのに)腹立たしくも鳴く鳥どもめ。この鳥をぶっ叩いて(鳴くのを)止めさせてくれ。(いしたふや)海人駈使(あまはせづかい)が事の語り事として、このことを申し上げまする。>

 私は飾りのない純心率直な万葉集の「正述心緒」のような歌が一番好きですが、一方で言葉を芸術として高めた歌も好きです。「芸謡」は芸に生きた芸人による歌です。この歌の流れと心象と響きの美しさに、私は芸を磨きあげた芸人の誇りを感じます。

 この歌謡と、今回引用した歌謡は、宮廷の専門的な芸能者だった、伊勢の海人部(あまべ)出身の「海人駈使(あまはせづかい)」によるものです。
 彼等は天語部(あまかたりべ)として八千矛(やちほこ)神の妻問い物語、この二首をふくむ四首の「神語(かみがたり)」と呼ばれる美しく響く言葉ゆたかな長歌を伝えてくれました。

 私はこれらの長歌は筆録され詠まれた歌だと思っていましたが、引用の著者は次のように記しています。
 「この語部は広庭などを舞台として独演的に演じたものではないかと想像されるのであり、地の文に相当する説明的な語りを混じえながら、四首の歌を歌ったものであろう。多少の身振りを伴っていたことも考えてよい。」
 
 歌謡としてどのように謡われ、舞われたのでしょうか? その時その場に遡り聴くことはできませんが、書き留められ伝えられた言葉のゆたかさが、想像をふくらませてくれることを、私は嬉しく思います。

 この歌にはまた、表現形式としての「人称の転換」があります。日本の古代歌謡に叙事詩が生まれなかった姿が浮かび上がっています。
 叙事詩のように三人称で謡いだされても、途中で一人称に変わってしまう。そして主人公の心を謡うという一番の関心事、目的にかなう姿、抒情的歌謡となる。
 この特質は日本の詩歌の美しい個性だと私は思います。叙事詩より抒情的歌謡に私は感動するし、その姿が好きです。

以下、出典からの引用です。
 
 専門的な芸能人による「芸謡」は、観客・聴衆を楽しませることを目的としている点で、民謡とも異なり、抒情詩とも異なる性格を持つが、その具体的な生態は時代によって大いに変化している。芸謡の発達は、民衆が芸能人を育成する経済力を持つのでなければ期待できないのであり、それは当然都市の民衆でなければならないが、そのような条件が整ってくるのは、早くとも平安中期以後で、それによって遊女・傀儡子(くぐつ)・白拍子(しらびょうし)による今様が流行して、わが国の真の芸謡史が始まるのである。
 古代にも専門的な芸能人と呼びうるものもいることはいるが、それはおもに宮廷社会の中であり、かつ専門的とはいっても、きわめて未熟な程度であった。そのような芸能人として、宮廷の語部(かたりべ)・遊女(遊行女婦)・乞食者(ほかいびと)を挙げることができよう。

 宮廷でもいろいろな機会に酒宴が催され、勧酒歌と謝酒歌が歌われるのは民謡と同じであるが、特に儀礼的な意味を持つ重要な酒宴は新嘗会であり、それはまた重要な宮廷歌謡の場でもあった。(略)儀礼的な宮廷歌謡や古詞の奏上のあとでは、御神楽や民間の酒宴がそうであるように、開放的・娯楽的な歌謡や物語が列席の人々を楽しませるために演ぜられたであろうと思う。
 宮廷の専門的な芸能者が活躍する場は、おそらくそういう機会であり、伊勢の海人部(あまべ)出身の「海人駈使(あまはせづかい)」が、天語部(あまかたりべ)として八千矛(やちほこ)神の妻問い物語を語りかつ歌ったのも、そういう場においてであったろうと思う。この「神語(かみがたり)」と呼ばれるものは、四首の長歌が主で、物語の部分はほんのわずかであることから見ると、この語部は広庭などを舞台として独演的に演じたものではないかと想像されるのであり、地の文に相当する説明的な語りを混じえながら、四首の歌を歌ったものであろう。多少の身振りを伴っていたことも考えてよい。

 わが国の歌は、『記』『紀』『万葉』を通じて、ある人物の行動を歌う場合でも、前半は「こと」(行動)を歌いながら、それを最後まで貫くことはなく(したがって叙事詩にはならない)、後半は、其の人物の「こころ」を代弁したり、その人物に対する歌い手の「こころ」を述べて全体を収斂するのが鉄則である。
 これを言いかえると、後半の部分で人物の心を叙することに重点が置かれ、初めに行動を叙述するのは、単なる素材(または主題)としての意味しか持っていないということである。その点からすれば、「神語」歌全体はもちろん、第一首目の八千矛神の歌でも、基本的には抒情的歌謡であって、これに「物語歌謡」という名を与えることは、むしろ誤りとすべきであろう。

以上の出典:「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)

 なお表現形式として挙ぐべきは歌謡の中の「人称の転換」である。たとえば古事記の八千矛の神の歌は「八千矛の神の命は八島国妻まぎかねて・・・・・」の三人称で始りながら、叙事的に歌謡は進行し途中で、
  「娘子(をとめ)の寝(な)すや板戸をおそぶらひ【我が】立たせれば引こづらひ【我が】立たせれば・・・・・」
のごとく一人称(I)に主語が転換して行くのがそれであり、歌謡の人称は非人称的で(Impersonal)、単なる文法の人称のみでは解決できない。かかる歌謡は叙事的な物語的な風をおび、作者が局外者であるためにそこに個性味が少なく、つまり謡い手は演技者のごとき役をつとめるのである。(略)

この文章の出典:「古代歌謡」小島憲之『古典日本文学Ⅰ』(1978年、筑摩書房)所収。
(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすいよう変えた箇所があります。)
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古代の民謡、歌垣の歌

 歌謡と詩歌の交わりの視点から古代歌謡を見つめています。今回から作品そのものから、聴きとります。最初は古代の歌垣で謡われた民謡です。

作品(原文と訳文)

歌垣の歌  

  霰(あられ)降る 杵島(きしま)が岳(たけ)を 嶮(さが)しみと、
  草取りかねて 妹が手を取る


〈訳:
(霰降る)杵島の岳が嶮しいので、(山に登るのに)草に取りつくことができずに、妹の手を取るよ。〉

  高浜(たかはま)に 来寄する浪の 沖つ浪。
  寄すとも寄らじ、子らにし寄らば。


〈訳:
高浜(地名)に寄せて来る沖の浪。(その沖の浪が)寄せて来ても、(私は)寄らないで、子らに寄ろう。
*子らは、娘たちをいう。〉

 古代歌謡の母体には民謡があります。民謡はわかりやすく誰もが共感しやすい言葉、日常生活の俗な言葉で謡われますが、論理的な意味がつながらない、なんとなくわかるがつじつまは合わない歌詞も多くあります。
 そのことについては、引用文献の「遊び文句」という捉え方が的確だと私は思います。

 歌う目的、歌う集団の者で共有したい言葉、言いたい言葉、伝えたい言葉は、短く簡単なもので、それ以外の大部分の歌詞は「遊び文句」、意味はどうでもよい語呂合わせ、なんとなくわかれば雰囲気や情景が共有できて楽しむための歌詞にすぎないことが多い、ということです。
 それが民謡的発想、民謡のおもしろみでもあると、感じ取れればよいのではないかと思います。

 そして次の言葉が民謡の本質を射ぬいていると私は感じます。
 歌がうたわれるのは、歌の場をなしている行事や労働などの目的を助けることにおもな目的があって、単なる娯楽のためではないから、歌の目的のみならず、歌の主題や素材も、歌の場と関係することが多く、その場に参加している人々全体に関係の無い個人的な経験や感情を歌うようなことは、拒否されるのである。

 この歌垣の歌2編も、肝心な文句はとても短いものですが、男女が情感をこめて求愛のために謡いあったとき、お互いのこころを充分に高めあい、結びつけ合う心のこもる響きだったのではないでしょうか。
 言葉は短くてもよく、本当は無くてさえよくて、その時その場の生の声のふるえを伝えあうことが、歌謡のいのちだからです。歌垣の歌の言葉の素朴さが逆に、そのことを教えてくれていると、私は思います。

以下、出典からの引用です。

 民謡は春の山遊び(山行き)や秋の盆踊りなどの年中行事、臨時の祝い事、田植えや臼挽きなどの労働作業など、村という共同社会の成員の集団作業で歌われるものが多く、ひとりで歌われる民謡は、牛追い歌とか櫓漕ぎ歌などきわめて限られたものがあるにすぎない。そして歌がうたわれるのは、歌の場をなしている行事や労働などの目的を助けることにおもな目的があって、単なる娯楽のためではないから、歌の目的のみならず、歌の主題や素材も、歌の場と関係することが多く、その場に参加している人々全体に関係の無い個人的な経験や感情を歌うようなことは、拒否されるのである。(略)

(一首目の解説)
 もしこの歌が歌い手の体験を歌ったものであるなら、「草取りかねて 妹が手を取る」は、歌垣における男女の結合ないし婚約を意味する「即興的主題」(歌の場=環境に即した主題の意)であり、それ以外は「遊び文句」にすぎない。(略)「・・・・・岳を嶮(さが)しみと 草取りかねて」は「妹が手を取る」の理由づけをなす遊び文句なのである。だから合理的であるとか不合理であるかということは問題外であって、むしろ大の男が、「草取りかねて 妹が手を取る」という反合理的なおかしさが、遊び文句としての生命なのである。

(二首目の解説)
 これは『常陸風土記』茨城郡高浜の条に出ている二首の民謡の一つ。(略)
 歌は「高浜」の地名を詠み込んで、そこに「来寄する浪」(即境的景物)を提示し、その「寄す」から歌垣の行為「子らに寄る」(即境的主題)に転換した型どおりの民謡的発想である。民謡における語呂合わせは、即境的景物または行為(Aで表す)から、人事的な恋の主題(Bで表す)に転換する方法として用いられるもので、この歌のおもしろさは、AとBがそれによってつなぎ合わされる点にあるのであり、言語遊戯そのものを目的とする語呂合わせとは異なる。(略)「寄すとも寄らじ」は、「来寄する浪」から「子らにし寄らば」へ転換するためのいわば遊び車であって、「寄らじ」の目的格は何か、という日常論理的な問題は、歌の目的からいえば、実はどうでもよいことなのである。
 やや逆説的な言い方をすれば、「草取りかねて 妹が手を取る」のおもしろさが、不合理というより反合理(ひっくり返し)的論理にあるのに対し、この歌などは何に、「寄らじ」であるのか歌い手自身も答えられぬような、苦しまぎれのつなぎ方のおかしさにあると言えよう。

「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)
(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすいよう変えた箇所があります。)
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