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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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ノヴァーリスの詩想(二)。詩人は歌。

 ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの詩想をみつめています。
 彼の言葉を出典から断章ごとに「カッコ」内に引用(赤紫文字は強調のため私がつけました)し、続けて私の心に呼び覚まされた詩想を☆印の後に赤紫文字で記します。

  2.「断章と研究1799-1800年」から。

 「長編小説(ロマーン)は、徹頭徹尾ポエジーでなければならない。すなわちポエジーとは、哲学とおなじく、われわれの心情を美しく調律したものであり、そこではあらゆるものが美化され、どんな事物もそれにふさわしい外観をとり――あらゆるものが自分にぴったり合う連れと仲間を見出すのである。真に詩的な書物では、すべてがいとも自然に見えながら――いとも不思議に見えもする。読者は、まさしくこのとおりだと思い、あたかもついさっきまでこの世界でまどろんでいたかのように――いまはじめて世界に対する正しい感覚が生じてきたかのように思うのである。追憶と予感はすべて、まさしくこの源から湧き出ているように思われる。――イリュージョンにとらわれている現在も――つまり、観察している当の対象すべてのなかにいわば入り込んだまま、複数のものが諧和するという無限でとらえがたい一体感を味わっている刻々の時間も――やはりこの源から湧き出ているように思われるのである。」[21]
☆ ポエジーの本質をみごとに捉えていると感じます。心情の美しい調律であること、新鮮な再発見、未知を発見する感動、不可思議な無限なひろがりとの一体感、これがポエジーです。

 「なんらかの目標に近づいたときに無用な言葉を聴かされるのは、気持ちのよいものではない。詩(ポエジー)は、無用な形成物――自己自身を形成するもの――である。だから、もし不適切な場所で詩を目にすれば、まったく我慢ならないものと映るにちがいない。――また詩が理屈をこねたり、議論しようとするなら、いや、そもそもまじめな顔つきをしようとするなら、それはもはや詩ではない。 詩は効果をねらってはならないということは、わたしにもわかっている――激しい感情的反応は、病気とおなじく、それこそ致命的なものである。
 レトリックさえも、国民病や妄想の治療のために方法をわきまえて用いるというのでなければ、誤った技法でしかない。激しい感情的反応というのは、薬剤と同じであり――これを玩んではならない。 明晰な悟性と暖かな想像力(ファンタジー)が緊密に結びつくと、魂に健康をもたらす真の糧となる。悟性は、予測どおりの決まった道しか歩まない。」[35]
☆ 詩は、理屈でも議論でもない、心が知らないうちに感じとる喜び、感動です。その世界が想像力のふくらみを持てるとき、読む者の魂に自然な微笑みを生んでくれます。

 「物語は、夢とおなじく、脈絡がないが、連想に富んでいる。詩作品は――もっぱら快い響きと美しい言葉に満ちているが――いっさいの意味と脈絡を欠いており――せいぜい個々の詩節が理解できるだけである。詩作品は、多様きわまりない事物の断片のようなものとならざるをえない。せいぜい真の詩(ポエジー)が、全体として寓意的な〔アレゴリー的な〕意味をもち、音楽などのように間接的な作用をおよぼしうるだけである。それゆえ、自然は純粋に詩的なのだ――魔術師や――自然学者の部屋――子供部屋―食料貯蔵室もそうである。」[113]
☆ 詩は、快い響きと美しい言葉に染まりながら、美しい自然に身を置き包まれたときのように、その全体の流れの中で快い喜び感動を感じるものだと、私も考えています。

 「ポエジーを生み出すのに、抒情詩人は感情や思索やイメージによるのに対し、長編小説の作家は、出来事や対話、あるいは反省や描写によって生み出そうと努める。
 ゆえに、すべては方法、つまり、芸術家の選択術と結合術にかかっているのだ。」[549]
☆ ポエジーは、芸術家が、方法により、選択し結び合わせ、生み出すもの、あたりまえだけど、とても大切なことだと思います。

 「ポエジーは、心情――その総体における内的世界――の表現である。ポエジーの媒体である言葉がすでにそのことを示唆している。というのも言葉は、あの内的な力の圏域が外部に示現したものだからである。それは彫刻と外部の形象世界との関係、あるいは音楽と音との関係にまったくひとしい。効果は――それが具体的なものであるかぎり――ポエジーにまったく対立する。一方、音楽的ポエジーというものもあって、これは心情そのものを動かし、さまざまに戯れさせる。」[553]
☆ ポエジーは、心情、内的世界の、表現。音楽的ポエジー、戯れ。これらの言葉を通して彼の言いたいことがわかる気がします。

 「心情の表現は、自然の表現と同じように、自発的で、独自でありつつ普遍的で、結合的でありつつ独創的でなければならない。あるがままではなく、ありうる姿、あるべき姿を表現しなければならない。」[557]
 「ある詩作品が、個人的なもので、場所や時間も限定され、独自なものであればあるほど、ポエジーの中心にいっそう近づく。ひとりの人間やすぐれた格言と同じく、一個の詩作品も、汲みつくせぬものでなければならない。(略)」[603]
☆ ノヴァーリスが自分に言い聞かせているようなこれらの言葉に、詩を書くひとりとして共感します。

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tag : ドイツ・ロマン派 ノヴァーリス 詩想 高畑耕治 詩歌 詩人 うた 絵ほん

ノヴァーリスの詩想(一)。魂の音響的本性。

 ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの「夜の讃歌」に前回は心を研ぎ澄ませました。彼の詩想を二回に分けてみつめます。
 彼の言葉を読んでいると私は、北村透谷「空(くう)の空の空を撃つ。北村透谷」)の熱意に満ちた言葉を思い起こし、二人に響き合うものを感じます。
 完成された論述でも体系だった論文でもない草稿と断章であることと、厳密な概念を翻訳では推し量れないことから、私にはよく理解できない部分も含まれますが、誤読であっても木魂すること響き合えることが大切だと、私は考えています。
 彼の言葉を出典から断章ごとに「カッコ」内に引用(赤紫文字は強調のため私がつけました)し、続けて私の心に呼び覚まされた詩想を☆印の後に赤紫文字で記します。

  1.「一般草稿」から。 

 「(略)われわれの言葉は――当初ははるかに音楽的であったが、しだいにかくも散文的に――かくも調子はずれに――なってしまった。現在ではむしろ騒音になり、喧しいとすら言えるものになってしまった――もしこの美しい言葉をかくも卑しめて言うとすれば。われわれの言葉はふたたび歌にならなければならない。子音は、音色を耳障りな音に変えてしまう。」[245]

☆ 日本語も概念の説明手段、伝達記号として扱われ散文化しています。文学をみても小説の言葉は音楽的で美しくもありません。それにつれ、日本語の言葉の響き、音色、調べを感じとる感性は鈍く衰えていきます。だからこそ、詩を愛するひとりとして日本語を「ふたたび歌に」したいと私は願います。


 「音楽と律動論 総合文〔棹尾文〕における――大々的な――ヘクサメーター。大々的なリズム。この大きなリズム、この内的な詩的メカニズムが頭のなかにあるひとは、意図的に働きかけなくとも、うっとりするほど美しくものを書く。最高の思索がおのずからこの独特な振動に共振し、相寄ってこよなく豊かで多様な秩序をなすとき、音響芸術の奇跡を語る古代のオルフェウス伝説の深い意味や、宇宙万有を形成し、鎮静させる音楽についての神秘的な教えのもつ深い意味が、浮かび上がってくる。ここで、魂の音響的本性へ深く鋭い視線を投げるなら、光と思索の新たな類似性が見出される――なぜなら両者は、共振するものだからである。」[380]
 ☆ 万葉集の長歌の揺り返す言葉のリズムや、美しい和歌の調べを繰り返し読み返していると、暗唱まではしていなくても、その言葉のリズムが心に海をつくってくれて、文章を書くときに自然な言葉の波の揺れ動くリズムを呼び覚ましてくれます。日本語は言霊(ことだま)を感じ取ることができる心から心へ、時を越えて受け継がれてきました。魂の音響的本性は、人類に普遍的なもので、信仰の違いを越えて祈りの唱和や信仰歌を美しいと感じる心を人間は本姓として心の底に地下水として秘めている、そこから泉を地上に湧きあげることができると、私は思っています。

 「メルヒェンは、いわばポエジーの規範〔カノン〕である――詩的なものはすべからく、メルヒェン風でなければならない。詩人は偶然を崇める。」[940]
☆ 詩的なものは、メルヒェン風。そのとおりだと私は思います。

出典:「一般草稿」『ノヴァーリス作品集Ⅲ』(小泉文子訳、筑摩文庫、2007年)。(強調の傍点は省略しました。)

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ノヴァーリスとフリードリヒ。ドイツ・ロマン派

 ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの「夜の讃歌」をここに咲かせます。
 彼の言葉にはロマン派の真髄ともいうべき漲る心情が波うっていて、引き込まれ飲み込まれそうになります。二十代の私はこの波に溺れかけました。
 その頃ノヴァーリスの詩とともに、絵画でのドイツ・ロマン派の中心人物フリードリヒの世界にも強く惹かれ画集を見つめていました。(彼の絵は次のサイトなどで御覧になれます。「バーチャル美術館」)。
 芸術の違いを越えて詩と絵画の美しい共鳴が響きわたっています。ふたりが志向してゆく先には、雲間からもれ来る光がさしています。後のフランス印象派のモネやスーラのあふれ揺らめく暖かな陽光ではなく、宇宙空間に散らばる星のように、夜の闇の空気を刺す冷たく澄み切った光、日の出の曙光、日の入りの消える瞬間の細く鋭く痛い光です。
 ノヴァーリスと重なる時を生きたヘルダーリンが地中海を想い、憧れ、彼の創作世界で海の光を撒き散らしたのも、ノヴァーリスと同じように闇を感じ尽くしていたからだとわたしは思います。(「ヘルダーリン、愛の詩」

 筑摩文庫の小泉文子訳で、少し長い引用、全体六節から三と四を抄出させていただきました。
 訳者改題によると、「夜の讃歌」は1800年に公刊、約30年の生涯中に(若年時の一作品を除き)ノヴァーリス自身が完成して公刊した唯一の詩作品です。
 ポオが最も詩的な主題だと言い自らの最後の詩「アナベル・リー」に結晶化した「愛する女性の死」を歌う詩です。
 ダンテがベアトリーチェを『新生』、『神曲』で永遠に蘇らせようとしたように、ノヴァーリスは先立たれた婚約者ゾフィーの墓がある丘で運命の女性の永遠の姿をはっきりと見て抱きしめます。

 韻文を散文に書き改めもしたという模索を通して形作られた言葉には濃密な詩情が立ち込めていて、散文箇所は続けざまに打ち寄せる波のような言葉の飛沫を響かせています。その響きに包まれた韻文、詩句は、万葉集の長歌に照応する反歌のように美しく木霊していて、行末と行間に沈黙と余白をより多く含み込んでいるかたちと韻律は、まるで闇にさしこむ星の光の音楽そのもののようです。
 感動を呼び覚ましてくれる独創に満ちたこの美しい作品がわたしはとても好きです。
 次回は、ノヴァーリスの断章を通して、詩を見つめます。

  「夜の讃歌」 三

 かつて苦い涙を流し、苦しみに溶けてわが希望もはかなく消え、狭くて暗い窖(あなぐら)にわが生命(いのち)の姿を埋み隠した荒れた墓丘に、わたしはひとり寂しく立ち――いかな孤独の人にもまして寂しく、言いしれぬ不安に駆られ――力なく、ただ悲痛な思いに沈んでいたとき――救いを求めてあたりを見まわし、前を進むも後ろに退くもかなわず、尽きせぬ憧れこめて、逃れゆく生命(いのち)、消え去った生命にすがりついたとき――おりしも青色の彼方から――過ぎし日の至福の高みから――夕べの神立が不意に訪れ――突如として臍(へそ)の緒が――光の枷(かせ)が――断たれた。地上の壮麗さは消え去り、ともにわが悲しみを消え失せ――憂愁も、新たな無窮の世界へと流れ込んだ――夜の熱狂、天上の眠りであるおまえが、わたしの身に訪れ――あたりは静かに聳(そび)えていった。解き放たれ、新たな生を受けたわが霊が、その上に漂っていた。墓丘は砂塵(さじん)と化し――その砂塵を透かして、神々しく変容した恋人の面差しが見えた。その眼には永遠が宿っていた――わたしがその両の手をとると、涙はきらめく不断の糸となった。数千年が、嵐のごとく遠方に吹きすぎていった。恋人の首にすがって、わたしは新たな生に恍惚(こうこつ)となって涙を流した――それこそは最初にして唯一の夢だった――そしてようやくそのときから、わたしは夜の天空と、その光である恋人への、永遠不変の信を感じている。

  「夜の讃歌」 四

 いまこそわたしは知る、最後の朝が到来する時を――光が、もはや夜と愛とを追い立てなくなる時を――まどろみが永遠となり、ただひとつの尽きせぬ夢となる時を。わたしは身内にこの世ならぬ疲れを覚える。――聖墳墓への巡礼の道は遠く、わたしは疲れ、十字架は重くのしかかった。墓丘の暗いふところに、俗なる感覚にはうかがい知れぬ水晶の波が湧きいで、墓丘の根かたで地上の洪水は砕け散る。この水晶の水を味わった者、この世の境をなす山の頂きに立ち、新たな領国、夜の住処を、眺めやった者は――まこと、この世の営みに戻ることなく、光が永遠に落ち着くことなく住まう国に還りはしない。 この者が、山上に小屋を、平和の小屋を建て、憧れ愛しつつ、彼方を見はるかしていると、ついにはあらゆる時のなかで最も好ましい時が到来し、かれをあの下方の沸き出ずる泉へとひきこんでいく――地上的なものは水面に浮かびあがり、嵐によって元の場所へ引き戻される。だが、愛に触れて聖化されたものは、溶けて流れゆき、隠された道をたどって彼岸の領域に入りこみ、さながら香りが混じりあうように、眠れる愛しき者らと融けあう。 溌剌(はつらつ)たる光よ、なおもおまえは疲れた者を呼び覚まし、仕事へと駆り立て――わたしに陽気な生を送らせようとする――だが、おまえは、追憶の苔むした墓碑からわたしを引き離すことはできない。わたしは喜んで、まめなるこの両手を働かせもしよう、おまえがわたしを必要とするところを求めて、あちこちと見てまわりもしよう――おまえの栄耀に満ちた華麗な姿を称えもしよう――おまえの造化の妙の美しい連なりを、飽かず追い求めもしよう――おまえの巨大な輝く時計の意味深い歩みを、喜んで観じもしよう――諸々の力の均衡のわけを探り、数知れぬ空間とそこに流れるっ時間の摩訶不思議な遊戯の法則を究めもしよう。だが、わたしの秘められた心は、夜と、その娘である産む愛に、変わらぬ忠誠(まこと)をつくす。光よ、おまえはわたしに永遠に忠誠をつくす心を示せるか。おまえの太陽は、わたしを認める親しげな眼を持っているか。おまえの星は、わたしが願い求めて差し伸べる手をとらえてくれるか。やさしくわたしの手を握り返し、甘い言葉をささやいてくれるか。おまえはとりどりの色と軽やかな輪郭でもって彼女を飾ったか――それとも、おまえの装飾に、より高い、より好ましい意味を与えたものこそ、彼女であったのか。おまえの生は、死の陶酔にみあうどんな喜悦を、どんな享楽を約束してくれるのか。われらを熱狂させる〔霊感を与える〕ものはすべて、夜の色彩を帯びてはいないか。夜はおまえを母のように腕に抱き、おまえはその栄光のすべてを夜に負っている。おまえが熱を帯び、炎と燃えながら世界を産むことができるようにと、夜がおまえをとらえ、繋ぎとめてくれないならば、おまえは自分自身のなかで消尽し――無限の空間に溶け失せていくだろう。まことわたしは、おまえが存在する以前に在ったのだ――母が、わたしをっ兄弟姉妹(はらから)とともにここに遣わしたのだ、おまえの世界に住み、その世界を愛をもって聖化し、永遠に見つめられる記念碑とするように――けっして萎れることのない花をそこに植えるように、と。この神のごとき慮(おもんばか)りも、まだ世界を成熟させはしなかった――われらの啓示の痕跡はなおわずかでしかない――いつかおまえが、われらのひとりとひとしくなり、憧れと熱情にあふれるまま消え失せ、死んでいくとき、おまえの時計は、時の終焉を告げるだろう。わたしは心のうちに、おまえのせわしない営みが終るのを感じる――天上の自由、至福が還り来るのを感じる。激しい苦痛のうちにわたしは、おまえがわれらの故郷から遠ざかり、いにしえの栄光に包まれた天上に反逆するのを知る。おまえの憤怒、おまえの激昂はむなしい。十字架は――われらの族(うから)の御旗は――焼き尽くされずに立つ。

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俗語詩論(三)大阪弁の私の詩

 私は日本語のなかの標準語で詩を書きながら、地方語、方言、生まれ育ちながら身に染み付けた言葉への愛着を抱き続けています。
 私の故郷、大阪の北河内・四条畷の河内弁の詩を花束にしてここに咲かせます。
 私にとって心がほっとする言葉です。同時に近いがゆえの強い愛憎を感じます。育んでくれた言葉をこのこころとからだと一体のものとして感じつつ生きていくのだと思います。

 詩「好きやねん」        (詩集『愛(かな)』から)。
 詩「かずよちゃんのはっさく」 (詩集『さようなら』から)。
 詩「河内の子どもやってん―大阪の子どものうた」 (ホームページ『愛のうたの絵ほん』から)
 詩「涙の補欠―大阪の子どものうた」         (ホームページ『愛のうたの絵ほん』から)。

 故郷を離れた時間が、幼少期を過ごした地での時間よりだいぶ長くなってしまったけれど、時間の濃さはいつまでも故郷で生まれ育った時間こそずっと深くて、何ものもそれを越えられないんだと感じています。
 故郷を離れて、河内弁のイントネーションが変だと友人に指摘されてしょげたこともあったけれど、「大阪の子どものうた」を小中学校の友人たちはいいと言ってくれたのは、とても嬉しいことでした。私はいつまでも河内育ちの子どもです。
 誰もがいつまでも故郷の子どもです。

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ダンテ『俗語詩論』(二)詩人の誇りと試み

 前回に続き、イタリア・ルネサンスの先駆けとして生きたダンテの『俗語詩論』をみつめます。
 今回はイタリアの高貴な俗詩についての鋭く詳細な論述を感じとり考えます。

 第2巻での詩論でダンテは、高貴な俗語詩の望ましい姿、その形式を、一点一点こまかく確認していきます。
 その項目は次のようなものです。
 一行のなかの音節数。音節の強弱。行と行の関係と組み合せのスタイル。語い。歌われること。脚韻、など。
 そのなかから、私が日本語の詩にも通じあうと思う事柄を選び出すと次の三点になります。

 ① 語いを選り分ける感性
 ② 音楽的旋律と言葉の韻律
 ③ 脚韻、技巧が勝ちすぎるのは良くないこと

① 語いを選り分ける感性

 語いについての論述には、彼の言葉に対する感性の鋭敏さが浮き出ています。
 「単純さゆえに子供らしい語」、「柔弱さのゆえに女女しいことば」、「粗暴さのゆえに田舎風のことば」、「すべすべした毛のもつれた都会風のことば」、彼が言葉を選り分けるとき、感性が受けているものは、言葉の長短、母音と子音の組み合わせと並び、そして何よりその言葉の響きであることがわかります。
 言葉に対するこのような感性は、時代、言語に関係なく、詩の創作の最も基本となるものだと教えられます。
 マラルメが詩論「詩の危機」で語る言葉と共鳴し、藤原俊成や藤原定家の和歌論とも響きあっていると私は感じます。

 ダンテが最も好んだ言葉は何でしょうか? 私は、「あたかもみがきあげられたようにある種の柔和な音で発音されるものを櫛を入れて梳かれた語」の筆頭に彼が掲げた語いamore,(愛)だと、彼はきっと答えてくれます。

② 音楽的旋律と言葉の韻律

 ダンテが詩を創作するとき、「音楽」、「歌うこと」を強く意識していたことが、伝わってきます。
 また「伴奏のあるなしにかかわらず吟誦される場合」とあるように、楽曲だけでなく、声を出して朗読する詩も彼は考察に含めています。
 「歌」と「詩」は詩歌を愛する私自身にとっても心から離れることのないテーマです。
 「歌うという行為」、管楽器、鍵盤楽器、絃楽器が奏でる「音」とか「調子」とか「メロディー」は、詩の双子のような芸術ですが、彼が詩を創作するという時、彼の詩はメロディーを必要としない詩です。
 そのことを彼は、「歌うという行為」と明確に区別して、「ことばに調和的な配列をほどこす」、言葉の「韻律に合わせて詩作する自足した行為」と呼んでいます。
 そのうえで、ダンテは高貴な俗語による崇高な詩は、メロディーを伴わずに自立して、「一つの統一的思想をあらわすために悲劇的スタイルをもって長さの等しいスタンツァをつなぎあわせたものにほかならない。」と宣言し、自らの詩句を、これがその詩だと掲げます。
  Donne che avete intelletto d’amore (まことの愛を識るあなた方)
 ダンテの芸術家、詩人としての矜持と誇りに私は強く共感せずにいられません。

③ 脚韻、技巧が勝ちすぎるのは良くないこと(日本語の詩では対句や折り返し句)

 楽曲に比べて大きな音、変化する音、刺激が乏しく、より繊細な言葉の響きを選び分ける詩人にとって、脚韻は読者にわかりやすく音の響き合いは美しく共感を得やすい創作の技法です。
 だからこそ、そのことに過剰に頼りすぎると、技巧があらわになり詩を損ないます。
 彼は、脚韻の布置にふさわしくないことを三つ挙げます。同一脚韻の語を過度に反復。無益な同音韻の多用。脚韻の険しさ。
 どれも意識的に行わない限り、目立ちすぎ、わざとらしく、稚拙に感じてしまうと、私も考えます。

 ただし彼は、詩をより美しく響かせ伝えることができる脚韻を用いることを恐れるな、とも述べます。
 「柔和な脚韻と険しい脚韻の混合こそ悲劇的文体に輝きを与える」
ことができる。
 さらに、「技法上何か新しい、試みられたことのないことを」私も次の詩句でやったんだ、と。
  Amor, tu vedi ben che questa donna (愛神よ、知ってのとおりわが君は・・・・・・)
 ポオも詩論「構成の原理」で、創作の独創性にこだわり挑んだと述べました。
 ダンテの次の声にポオは共鳴しるのだと思います。「芸術家なら、詩人なら、恐れず、何か新しい技法を試みろ」と。

●以下は、出典原文(本文)の引用です。

◎ 本文・第2巻―7
 (略)そこで読者のみなさん、ひとつ十分心に留めていただきたい。選別に値することばを選り分けるには、どれほど篩(ふるい)をかけなければならぬかを。なぜなら俗語の悲劇詩人―その姿を描くのが本論の目的である―が用いるべき高貴な俗語について考察するならば、諸君の篩のなかにはもっとも高貴な語いのみを残すよう心がけるべきだからである。
 Mamma, babbo, pate のごとくその単純さゆえに子供らしい語も、dolciada,  placevole のごとくその柔弱さのゆえに女女しいことばも、greggia, cetra のごとくその粗暴さのゆえに田舎風のことばも、そうした語のうちには数えられない。また femina, corpo のごとくすべすべした毛のもつれた都会風のことばも論外である。
 それゆえ櫛(くし)を入れて梳かれた、毛のこわい都会風のことばのみが、諸君の櫛に残されることになるであろう。それらこそもっとも高貴なものであり、高貴な俗語の構成要素なのである。そして3音節か、もしくは3音節の長さに近い語で、有気音も鋭アクセントもアクサン・シルコンフレックスも有さず、二重子音の zか xも、2個の流音の重なる双子子音も、無音の直後に来る流音も含まず、あたかもみがきあげられたようにある種の柔和な音で発音されるものを櫛を入れて梳かれた語と呼ぶのである。次の語がそれにあたる。
 amore, donna, disio, virtute, donare, letitia, salute, securtate, defesa.
 毛のこわい語はどうかといえば、前述の語をのぞいた上で、高貴な俗語にとって必要なもの、装飾的なものと思われるすべての語を称していうのである。たとえば si, no, me, te, se, a, e, i, o, u’ のようにある種の単綴音や間投詞やその他多くの語と同様避けることのできない語を必要なものと称するのである。
 一方櫛を入れて梳かれた語と結合することによって全体に美しい調和をみせるすべての多音節語を装飾的と定義しよう。ただしそれらは有気音やアクセントや二重子音や流音や極端な長さをもつといった耳ざわりな性質をそなえているのではあるが。

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ダンテ『俗語詩論』(一)悲劇的文体

 数回にわたり1800年代に生きたエドガー・アラン・ポオと、スティファヌ・マラルメの詩論を見つめました。
 今回と次回は五百数十年ほど時を遡り、イタリア・ルネサンスの先駆けとして生きたダンテの『俗語詩論』の頁をめくります。数百年の時間は芸術、魂の本質的な響き合いの妨げにはなりません。
 今回はこの詩論の全体像を、次回は詩についての鋭い論述を中心に、感じとり考えます。ポオが詩論で「この世で最も詩的な主題」として「佳人の死」を挙げた頭の片隅には、この世で結ばれることなく亡くした最愛の女性ベアトリーチェへの愛の詩集『新生』、ベアトリーチェへの魂が込められた詩篇『神曲』を書き上げたダンテが必ずいたと私は思います。(私は野間宏の小説でベアトリーチェの名を知りました。ダンテの詩そのものについても、いつか書きたいと思います。)

 訳註者の岩倉具忠の解説が要約して教えてくれるように、『俗語詩論』第1巻でダンテはまず、イタリア語の「高貴な俗語」というテーマを文化史的=文学史的に探り、そのうえで、第2巻ではより詳細な詩論を語っています。 
 第1巻でダンテは、人類が最初に発した言葉を旧約聖書・創世記のアダムとイヴについて考察することから始め、バベルの塔への神の罰として人類共通の言葉が失われたことへ、さらにイタリアの各地方の俗語の考察へと説き進めていきます。
 この巻を読みながら、論の正誤よりも私は、彼がプロヴァンスやシチリアを含めてイタリアの各地方の言葉に抱く関心の強さと、その特徴を良く知っていることに、惹かれ共感しました。
 私には出身地の関西言葉、河内弁は当然身に染みついています。また父方の讃岐言葉、母方の中国地方の言葉には、囲まれて触れながら育ったので、そのイントネーション・音色や語尾音の特徴に親しみを感じます。成長した後に、東日本の言葉や九州、沖縄の言葉、アイヌの言葉など、交友や旅行や本で知った言葉へと関心がひろがるとともに、神謡や民謡で歌い継がれている言葉には標準語にはない個性を感じて惹かれ、もっと知りたい、感じたいと考えています。ダンテのこの本の動機も私の気持に近いところから生まれたのだと思います。

 第2巻からダンテは、ラテン語ではないイタリアの俗語による詩について詳細に考察を進めていきます。
 「詩的創造の実現の姿を示す詩の原典をじかに引用すること」を原則として、彼自身の「生きた詩作の体験にもとづいて新しい規範」を示しているので、これも正誤に関わらない説得力があります。
 彼は、「最高の俗語、高貴な俗語にもっともふさわしいテーマ」は、「崇高なことがら――身の保全、愛、道義――という人間の基本的価値」だと言い、「実に真に悲劇的文体を用いるのは、詩句の崇高さと構成の品格と語いの卓越が、思想の荘重さに調和している場合に限る」と言い切ります。
 彼がそのテーマを、高貴な俗語による悲劇的文体で追い求めたことは、彼自身の詩の引用、
 Amor che ne la mente mi ragiona ; (わが胸のうちに語らいかける愛が・・・・・・)、
この短い引用だけで嘘でないと伝わってきます。詩の原典の引用だからこそ思いが響きとともに広がり伝わってくるのだと私は思います。

 彼の次の言葉にも私は共感し、詩を創作することへの励ましを感じます。ひとりの生身の生きた人間だったダンテは、次のように言います。
 人間性の崇高さがこめられた詩を創作できる「注意力と判断力を相応に養うには努力と労苦が要求される。なぜなら才能の冴えと技巧への鋭意と学問の習慣なくしてはそのような仕事は到底なしあたうものではないからである。」
 そして彼もまた、「比類のない構文と呼ばれるほどのものは、この種の実例をもってのみ示しうる正則を遵用する詩人たちに親しむことがおそらくなににもまして有益であろう」と、ホラティウス、ウェルギリウス、『変身物語』のオウィディウス先人たちに学ぶところから歩みだし新しい作品を創り上げました。いつも時代にも変わらない真実だと私は思います。

●以下は、出典原文(解説と本文)の引用です。

◎ 解説―2 『俗語詩論』成立の経緯
 1302年、追放によってコムーネにおける知的・政治的活動の道を断たれたダンテは、あらたに直面した環境のなかで、知識人としてのみずからの位置づけにせまられることになる。(略)こうした状況のなかでほとんど同時期に並行してあらわされたのが『俗語詩論』と『饗宴』であった。(略)成立年代を1303年もしくは1304年から1306年頃までとする従来の年代設定は妥当であったといってよいであろう。

◎ 解説―3 『俗語詩論』の意図
 他の類似の論考の内容とくらべて『俗語詩論』の内容の示すきわだった特徴の一つは、イタリア語の「高貴な俗語」というテーマをささえている理論的基盤の堅牢さとその奥行きの深さである。(略)
 『俗語詩論』を他の類書から画然と分かつもう一つの特色は、「表現法」についての論考が、文化史的=文学史的なコンテクストのなかで進められている点であろう。(略)
 この作品では作者の生きた詩作の体験にもとづいて新しい規範が示されていることであり、またその規範の確固たる選択規準と俗語の権威が強調されていることであろう。(略)ここでは、詩的創造の実現の姿を示す詩の原典をじかに引用することが原則とされている。(略)
 古典文学の権威の重圧に対抗し、新参の俗語詩の伝統を権威づけるためには、創作の出来栄えを強調するだけでは十分でなかった。そこでダンテは、最高の俗語にもっともふさわしいテーマとしてmagnalia(崇高なことがら)――身の保全、愛、道義――という人間の基本的価値をあげ、doctores illustres (高名な詩人たち)は「こうしたテーマのみによって詩作して来たことが知られる」(略)としている。(略)このようにダンテは最高の俗語詩人の道徳的・知的品位――dignitas(詩人としてのふさわしさ)――を強調しようとする。

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マラルメの詩論(二)美しい姿がおぼろげに。

 フランスの詩人・ステファヌ・マラルメの詩論を前回に続けてみつめます。(3番目の主題からになります。)

3.花の観念

 純粋な著作の中では語り手としての詩人は消え失せて、語に主導権を渡さなければならない。語は、一つ一つちがっているためにその間に衝突を生じ、語と語はたがいの反映によって輝き出す。それが従来の抒情的息吹き、個人の息づかいや、文章をひきずる作者の熱意などにとってかわる。
 文芸の魔法とは、物のもつ音楽性としか関係のない人間の精神を、現実というひとにぎりの埃から解放すること。
 文学では、現実は暗示の対象とさえなればよく、観念という形で実体化される。
 自然界の事象は、人がそれを語り言葉の演奏が進むにつれて大気の振動現象に置きかえられすぐに消滅してしまう。そこから純粋な観念が、卑近な、具体的な記憶に悩まされずに現われる。
 私が「花」と言う時、私の声は、すぐに忘れられてしまう。が、同時に、われわれの知っている花とはちがった、現実のどんな花束にもない、におやかな、花の観念そのものが、言葉のもつ音楽の働きによって立ちのぼる。
 「詩人」のもとでは、言語は何よりもまず人間の心の底からほとばしり出る夢と歌であり、虚構の世界を作るための芸術に材料として使われる必要上、その虚像性をとりもどす。
 詩句とは幾つかの単語から作った呪文のような、国語の中にそれまで存在しなかった新しい一つの語である。ふだん使いなれた言い廻しの一部を聞きながら、まるではじめて聞くような印象をうけ、詩句の中で名を言われた対象は、記憶のかたすみで新しい雰囲気にひたってゆく。

☆ 私の木霊
 私が「花」という時、・・・・という文章には、詩の秘密をそっと差し出している美しさがあります。
 「現実のどんな花束にもない、におやかな、花の観念そのものが、言葉のもつ音楽の働きによって立ちのぼる。」
 マラルメたちがフランス象徴詩派と呼ばれるにふさわしいことを感じる言葉です。彼の象徴詩は、新古今和歌集、特に藤原定家の歌からたちのぼる音象と似通い響きあっていることを以前ブログに書きました(藤原定家の象徴詩)。
 語り手が消え、語に主導権がある。この考え方は、詩は、意識的に細部まで構築するもの、というポオの詩論を突き進めた考えです。
 マラルメと定家は極めて美しい詩を創作していると同時に、知的に複雑に組み上げようと凝りすぎた意図があらわで美しくない駄作もたくさん作っていることでも似通っています。私はそれらの無感動な頭でっかちな作品は好きではありませんが、彼らの音楽的な詩は好きです。
 そして生涯を通して詩を極めようとした芸術家である二人を深く敬愛しています。

4.この世にないもの、美しい何かの姿がおぼろげに

 「この世にないもの」を求める気持が、生涯かけた作品――無にすぎないかも知れない――の生まれる動機であり、原動力。彼岸の世界に輝いているものが、われわれのところには欠けているという意識を、逆に一種のトリックで、地上からあの禁断の、雷鳴の轟く高所へと打ち上げるという仕事を尊敬する。それは一つの遊びにはなる。
 地上の事物を見て倦怠を感じるその時この遊びが、ちょうど空の高みにある真空の力でひっぱり出されたかのように生まれ、真空は事物を地上からひき離して自分の空虚な空間をそれで満たし、われわれが意志の命ずるままにひとりで祝う祭のためにその輝かしい光景を差し出す。私が書くという行為に要求するのはこの仕事。
 地上に存在せず、人間の眼から隠れているものについて考えることは創造と同じ。
 われわれの精神に何気なしに触れてくる物の像や数を比較する時、像と像との交差する点には、装飾のように、美しい何かの姿がおぼろげにあらわれ、心をそわそわさせるような協和音が聞こえてくる。われわれの肉体の繊維が織りなすさまざまな論理の主題を、眼に見える旋律としていわば音階であらわしたものとも言える。この宇宙の、あらゆる点から他の点へとひかれた観念の「線」は神秘的に、純粋な「調和」が存在している。
 日常使う適切な語の助けを借りて、人間の口という楽器を弾く時、「永遠」がもつ律動がわれわれのものとなる。

☆ 私の木霊
 マラルメが生涯かけた作品の生まれる動機を語るこの文章に私は共感を覚えます。その作品は「無」にすぎないかもしれない、詩を書くことは「一つの遊び」に過ぎないかもしれないと自己凝視をしながら、彼は生涯を詩にかけています。
 「この世にないもの」を求める気持」、「創造」、「美しい何かの姿がおぼろげにあらわれる」、「永遠がもつ律動」。これらの詩の本質をさししめす言葉はポオの詩論と深く通い合っていて、私の詩心も共鳴します。(ポオの詩論(二)と『ユリイカ』。星を求める蛾の願い

5.一冊の「書物」

 何物も、言葉として発せられなくては、あとにのこらない。この地上にいる目的は、交響楽を「書物」の中に移し変える技術、われわれ詩人の財産を奪いかえす技術を完成するためだ。
 詩の書物のもつ秩序は書かれる前からきまっていて、偶然を排除する。作者を省略するためには、そうした秩序が必要。どの主題も、あらかじめ、書物の中のどの場所にはめこまれるかがきまっている。それは、ロマン派式の、崇高なものをでたらめに置いてゆくやり方でも、主題を一山ずつむりに押し込むやり方でもない。
 断片が、交互に並んだり向き合ったりしている中から、全体として一つの律動が生まれる。
 精神の空間に、この均斉、詩篇の中での詩句の位置と、書物の中での詩篇の位置との双方に関して見られる均斉が飛び出す。
 世の中には元来、ただ一冊の「書物」だけしか実在せず、作品と作品との間の違いは、正しい本文を指し示すために、文明時代、文字の時代の長い間にわたって提出された版本の違いのようなものである。

☆ 私の木霊
 小説家の埴谷雄高(はにやゆたか)のエッセイで私はマラルメの、ただ一冊の「書物」、という想念を知りました。埴谷雄高もほとんどただ一冊の未完の小説『死霊』に作家生活のすべてを注ぎましたが、私にも一冊の「詩集」という夢想が、試行錯誤していた二十代からあります。宇宙のなかのただ一冊の「書物」を奏でる文学者の一人となる夢を今も変わらずに抱きながら、私は創作しています。

●以下は、引用した出典の原文です。(引用は二つの詩論「詩の危機」と「音楽と文芸」から同じ主題を自由に要約しています。今回は、「音楽と文芸」の出典原文を掲載します。)

「音楽と文芸」から。

 「散文と詩句との二つが分離するべき時期、それが現在われわれのいる時代なのであります。
 ふり返ってみますと、この二つの要素は、今世紀はじめにロマン派の強力な聴力によって、その波打って進んでゆく十二音綴詩句(アレクサンドラン)、規則正しい区切りと、詩句の跨がりを特徴とする十二音綴詩句(アレクサンドラン)の中で、結びつけられてしまったのですが、今、その溶け合っているものが、分解してそれぞれに独立するのであります。この目的のために、昨日まで、いろいろな試みがおこなわれてきましたが、「自由詩」が発見されてやっと最終的な解決が得られたのであります。
 「自由詩」とは何か。(略)詩人の一人一人が、自分に合った調子を見つけ、そこへ転調してうたう、ということであると申せましょう。そのための前提としては、人間の魂は、すべて、律動の糸のかたまりである、という事実があります。」
 「「何か別なもの」・・・・・・いったい、書物のページがふるえるのは、何か別のものを求めて、待ちかねているからだとは思えないでしょうか。(略)
 創作行為あるいは文芸の仕組み自体を人前にさらけ出すことになりますが、この「この世にないもの」を求める気持が、生涯かけた作品――といっても、畢竟(ひっきょう)、無にすぎないかも知れませんが――の生まれる動機であり、原動力であるからなのです。
 そして私は、彼岸の世界に輝いているものが、われわれのところには欠けているという意識を、逆に、一種のトリックで、地上からあの禁断の、雷鳴の轟く高所へと打ち上げるという仕事を尊敬する者であります。
 それは何の役に立つでしょうか。
 一つの遊びにはなります。
 地上の事物が根をはやして、がっしりと立っているのを見ると、われわれは倦怠を感じますが、その時、この遊びが、ちょうど空の高みにある真空の力でひっぱり出されたかのように、生まれます。その真空は、事物を地上からひき離して、自分の空虚な空間をそれで満たし、われわれが意志の命ずるままにひとりで祝う祭のために、その輝かしい光景を差し出します。
 私が、書くという行為に要求するのは、まさにこの仕事であり、私の要求が正当であるのをこれから証明いたしましょう。」
 「いつの時代でも、人間にできることといえば、ただ、自然の中に存在し、時によってまれなあるいは数多く増える、事物相互の関係を捉えることだけです。そして、自分の魂の状態に合わせて――その魂を思うままに拡大し――世界を単純化することだけです。
 地上に存在せず、したがって人間の眼から隠れているものについて考えること、これは創造と同じであります。
 そのための実際の方法としては、われわれの精神に何気なしに触れてくる物の像や数を比較するというだけで充分であります。その時、像と像との交差する点には、装飾のように、美しい何かの姿がおぼろげにあらわれることでしょう。それらの姿をからみ合わせた全体の唐草模様を見る時、人は眼の眩むような恐怖の念にとらえられます。また、心をそわそわさせるような協和音が聞こえてきます。(略)」
 「何物かの告知が感じ取られるのであります。それはわれわれの肉体の繊維が織りなすさまざまな論理の主題を、眼に見える旋律として、いわば音階であらわしたものとも言えるでしょう。「夢想」の怪物が、傷口から流す金色の血でその種族の存在を証明する際、どんな断末魔の狂い方をしようとも、この宇宙の、あらゆる点から他の点へとひかれた観念の「線」は、けっしてまげられたり、みだされたりはしません。ただ、人間の顔の内側でだけ、その「線」は神秘的になりますが、純粋な「調和」は、そこにも存在しているのであります。」

出典: 「詩の危機」「音楽と文芸」南條彰宏訳『筑摩世界文学大系〈48〉マラルメ ヴェルレーヌ ランボオ 』(1974年、筑摩書房)

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マラルメの詩論(一)語の音色。

 ポオの詩論に続いて、彼に強い影響を受けたフランスの詩人・ステファヌ・マラルメの詩論をみつめます。彼の詩「海の微風」は別のエッセイで咲かせています。(La mer 海、フランスの好きな詩)。
 出典のマラルメの言葉を、5つのテーマに要約したあと、彼の言葉に木霊する私の詩想を☆印のあとに記していきます。   

1.言語の音楽・自由詩(マラルメ詩論の要約)

 「音楽」が、この宇宙の万物の相関関係を全部あらわすという本来の機能を発揮し、その充実した明らかな姿で現われるのは、けっして金管、絃、木管などから出るなまの音響によるのではなく、最高度に達した時の知的な言語の働きによる。
 外形から見た詩篇の特徴とは、詩句が共通の拍子をもっていることと、それを最後に結び合わせる韻の一撃である。
 フランスの詩歌の魅惑は脚韻の効果が大きい。
 新しい韻の組み合せは使いふるすにつれ常套的な繰り返しになり倦怠が生まれる。
 散文と詩句はロマン派の強力な聴力によって、規則正しい区切りと、詩句の跨がりを特徴とする十二音綴詩句(アレクサンドラン)の中で結びつけられたが分解して独立し、「自由詩」が発見された。
 自由詩は、耳で聞いて快いという条件を満たす限り、音綴の数を好きなように、音色をあらゆる可能な組み合せ、誰でも自分独自の演奏法と聴覚で自分の楽器を演奏し「国語」に捧げることができる。詩人の一人一人が、自分に合った調子を見つけ、そこへ転調してうたう。
 人間の魂はすべて律動の糸のかたまり、一つの旋律だからふたたびつなぎ合わせればよい。
 厳密な詩句の記憶が無意識のうちに残っているので、故意の規則違反や意識しての不協和音が微妙な感受性に訴える。

☆ 私の木霊
 マラルメの詩論には、詩は音楽だ、言葉による音楽だというに留まらず、詩の音楽こそが宇宙の万物の響きあいをあらわす本来の音楽だ、という信念があります。だから、耳に快いという条件はとても大切なことで、そのかたちを探ることの積み重ねが詩の伝統そのものだといえます。自由詩は伝統的な定型詩の記憶のうえに形作られていることがよくわかります。
 日本の詩歌の場合、古代歌謡の自由律から五七調、七五調への変遷、三十一文字の和歌から連歌へ、十七文字の俳諧への移り変わり、音数律での字余りの効果などが、マラルメのこれらの視点と重なっていると私は考えます。

2.語の音色(マラルメ詩論の要約)

 人間の言語がかならずしも、声という楽器のもっている色彩と外観で対象を声という楽器でふさわしく表現していないのを残念に思う。
 半透明の音色をもった ombre(影)という語の横では、明るい音色をもったtnbres (闇)という語はあまり暗くは感じられない。jour(昼)という語に暗い音色が、 nuit(夜)という語には明るい音色が、皮肉にも正反対に与えられている。
 詩句は、言語の高級な補足として、その欠陥を哲学的に補う。

☆ 私の木霊
 私が詩にすべてを注ごうと思い試行錯誤していた頃初めて読み強く印象に焼きついた文章です。詩にとって、語の音色、語感、言葉の響きがどんなに大切か教えられました。
 日本語の文学では和歌が「言葉の調べ」として良い歌の必須の条件と受け継いできたものです。

●以下は、引用した出典の原文です。(引用は二つの詩論「詩の危機」と「音楽と文芸」から同じ主題を自由に要約しています。今回は、「詩の危機」の出典原文を掲載します。)

「詩の危機」から。

 「フランスの詩歌は、その魅惑する力をなによりもまず脚韻の効果に負っている(略)。」
 「最初は新しい発見であった韻の組み合せが、使いふるすにつれて、常套的な繰り返しになってしまう変化(略)。」
 「われわれの「六脚詩句(エグザメートル)」であるアレクサンドランに忠実な人々は、厳格で幼稚なその韻律の機構を内部からゆるめてしまう。それまで人工的な計量器械に無理に従わせられてきた耳は、解放されて、十二の音色のあらゆる可能な組み合せを、自分の力で聞きとることに喜びを感じる。」
 「国民的な韻律を濫用しすぎた結果、倦怠が生まれたからだと言えよう。国民的韻律の使用は、国旗の使用と同じように、元来、特別な場合にだけに限られるべきなのである。しかしともあれ、故意の規則違反や意識しての不協和音が、われわれの微妙な感受性に訴えるものをもつというこの特殊な事情は愉快である。(略)
 厳密な詩句の記憶が無意識のうちに残っていて、それらの演奏のかたわらにつきまとい、利益を与えているのである。」
 「現代の自由詩では、耳で聞いて快いという条件を満たす限り、公けにきめられている音綴の数を、好きなように、無限にまで崩壊させてよいのである。」
 「注目すべきことには、はじめて、ある国民の文学史の中で、国民全体の昔からの所有物であり、その隠れた鍵盤を押すと正当性が高らかに吹きならされる大パイプオルガンに競って、誰でも自分独自の演奏法と聴覚とがあれば、吹奏したり、弾いたり、叩いたりすることによって、自分の楽器をもつことができることになった。誰もがその楽器をひとり離れて演奏しながら、同時にそれを「国語」に捧げることができるのである。」
 「およそ人間の魂はどれも一つの旋律である。だからそれを、ふたたびつなぎ合わせればよいのである。めいめいがもっている笛や絃(げん)は、その目的のために存在する。」
 「美学の問題として見た場合、私の感覚は、人間の言語がかならずしも、声という楽器のもっている色彩と外観とを使って、対象をそれにふさわしく表現していないのを残念に思う。そうした色彩や外観は、たいていの場合幾つもの国語で、また時にはどれか一つの国語で、声という楽器に立派に備わっているのだが。半透明の音色をもった ombre(影)という語の横では、明るい音色をもったtenebres (闇)という語はあまり暗くは感じられない。 jour(昼)という語に暗い音色が、 nuit(夜)という語には明るい音色が、皮肉にも正反対に与えられているのを見るのは何という失望であろうか。(略)詩句は、言語の高級な補足として、その欠陥を哲学的に補う役目をもつものだから。」
 「不思議な秘法。人類の揺りかごの時代に韻律法がうまれたのも、これに劣らぬ意図からであった。
 その秘法により、中くらいの長さをもった語が、眼にとって理解可能な範囲で、線の形に最終的に並べられる。それと一緒に、語の間や各行の前後にある余白の沈黙も並べられる。」
 「詩篇の中で、詩句はたがいに似たような長さでなければならないこと、昔からある釣合いの感覚、こうした規則正しさはやはり将来も続くにちがいない。なぜなら、詩を作るという行為は、まず、一つの思想が等価値のいくつかの主題に分裂するのを、突然目の前に想い浮かべることであり、次に、その分裂した主題を、語でもってふたたび組み上げることだからである。これらの主題はたがいに韻を踏む。
 外形から見た詩篇の特徴とは、詩句が共通の拍子をもっていることと、それを最後に結び合わせる韻の一撃である。」
 「文芸の魔法とは、この飛散しやすいもの、すなわち、元来、物のもつ音楽性としか関係のない人間の精神を、現実というひとにぎりの埃から解放する以外の何事でもない。」
 「話すことは、事物の現実に対して、ただ物々交換的な関係しかもたない。文学では、現実とは、暗示の対象とさえなればよく、事物のもっている性質は、そこからひき出されて、観念という形で実体化される。
 こうした条件のもとに歌がほとばしり出る。歌とは、心の奥底の喜びが、軽くなって飛び出したものである。」
 「純粋な著作の中では語り手としての詩人は消え失せて、語に主導権を渡さなければならない。語は、一つ一つちがっているためにその間に衝突を生じ、こうして、いわば動員状態におかれている。ちょうど宝石を灯りにかざすと、長い光の線が虚像として見えるように、語と語はたがいの反映によって輝き出す。それが従来の抒情的息吹きの中に感じられた個人の息づかいや、文章をひきずる作者の熱意などにとってかわるのである。」
 「詩の書物のもつ秩序は書かれる前からきまっていて、いたるところで偶然を排除する。作者を省略するためには、そうした秩序が必要なのである。だから、断片を寄せ集めるに当たって、どの主題も、あらかじめ、書物の中のどの場所にはめこまれるかがきまっている。ちょうど、こだまが声に答える場合のような鋭敏な対応がそこにはあって――似た役割を演じる主題は、離れたところに置かれても、たがいにぴったり釣合いを保つのである。それは、ロマン派式の、崇高なものをでたらめに置いてゆくやり方でも、主題を一山ずつむりに押し込むやり方でもない。すべてがいつでも動き出せるように、懸垂状態に置かれ、断片が、交互に並んだり向き合ったりしている中から、全体として一つの律動が生まれる。その律動は究極的には、声という楽器を必要としない詩、精神の活動の場所である余白だけでできた詩であろう。」
 「「著作」の魔術的な観念(略)。書物を越えて何人かの人の精神の空間に、この均斉、詩篇の中での詩句の位置と、書物の中での詩篇の位置との双方に関して見られる均斉が、高らかに飛び出すのである。」
 「啓示を受けたように真実が見えてくる――いったい、すべての書物は、多かれ少なかれ、数のきまった繰り返し文句をいくつか含んでいる。してみると、書かれている国語は違っても聖書は一つしかないように、世の中には元来、ただ一冊の「書物」だけしか実在せず、その掟が世界を支配しているのではないか。作品と作品との間の違いは、正しい本文を指し示すために、文明時代、文字の時代の長い間にわたって提出された版本の違いのようなものである。」
 「私個人としては、作家の立場からくるかたよった意見かもしれないが、何物も、言葉として発せられなくては、あとにのこらないと思う。そして、われわれが、この地上にいる目的は、(略)交響楽を「書物」の中に移し変える技術、あるいは、単に、われわれ詩人の財産を奪いかえす技術を完成するためだと思う。なぜなら「音楽」が、この宇宙の万物の相関関係を全部あらわすという本来の機能を発揮し、その充実した明らかな姿で現われるのは、けっして金管、絃、木管などから出るなまの音響によるのではなく、最高度に達した時の知的な言語の働きによるのだからである。」

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ポオの詩論(二)『ユリイカ』。星を求める蛾の願い。

 エドガー・アラン・ポオの二つの詩論「構成の原理」と「詩の原理」から彼の詩想を感じとり見つめています。二つの詩論は体系的な学術論文ではなく、芸術家の彼は、「構成の原理」では彼自身の詩「鴉」を、「詩の原理」では彼が感動した詩人たちの英語詩を、読み感じとりながら、詩についての考えを述べています。ポオは詩論の中心にある確固とした信条を繰り返し述べています。

 今回は、詩とは何か、そして詩の主題についての彼の考えを要約し、その後☆印の後に私が感じた想いを記します。
彼の渾身の宇宙論『ユリイカ』にも触れます。
(出典は、前回「構成の原理」を、今回「詩の原理」を掲載しますが、文中には両方の詩論から彼の言葉を引用しています)。

1. 詩とは何か  (ポオの詩想の要約) 
① 「詩の原理」とは天上の美を求める人間の願望だ。この原理の顕われは常に魂を高揚する興奮の中に見出される。その唯一の判定者は美意識だ。
② 天上の美に達せんとする狂おしい努力、人間精神の本性に適ったこの努力こそ、世の人々が詩として理解し、また享受し得たもののすべてを、彼等に与えてきたのである。
③ かなたには未だ到達しえない何かがある。渇望は人間の不滅性に由来している。それは人間が永遠に存在することの必然の結果であり、同時にその証しである。それは星を求める蛾の願いなのである。
③ 美の観照においてのみ魂の喜ばしい、強烈で純粋な高揚や興奮に達し得る、これが詩情だ。美こそ詩の唯一の正統的領域だ。詩は、知性や良心とは二次的な関係しかない。真理や義務には何の係わりもない。
④ 心情の陶酔である情熱や、理性の満足である真理は美とは全然相容れない。真の芸術家なら、まずそれらの調子を抑えて主眼に相応しい補助手段に止め、次いで詩の雰囲気であり真髄でもある美の中に、できる限りそれらを包み隠そうと絶えず努力する。
⑤ 「教訓詩」では、暗黙に、また公然と、直接、間接に、あらゆる詩の究極の目的は真理であると考えられているが、真理は厳正な言葉、単純、正確、簡潔、冷静沈着で、感情に左右されてはならず、詩的とは正反対の心の状態になければならない。
⑥ 美に最高の表現を与える調子(トーン)は、悲哀の調子、憂愁だ。
⑦ 美と最も密接に結びついている佳人の死は、紛れもなく此の世の最も詩的な主題だ。
⑧ 愛――真実の、聖なるエロスとしての愛は、紛れもなくあらゆる詩の主題の中で最も純粋かつ真実のものだ。
⑨ 魂を養う詩的霊感が宿るもの。美しい自然。高貴な思想。天上的な主題(モチーフ)。宗教的衝動。高潔な自己犠牲の行為。女の美しさ。女の魅力的な愛の仕種。
⑩ 詩人は女の愛の誠実さ、純粋さ、強さ、その神の如き荘厳さに拝跪し、それを崇拝する。

2. ☆ 私の詩想のこだま

 ポオが詩とは何かを語る言葉に私は、ポオは本当に詩人だと感じ、強く共感します。彼が詩を語るとき、繰り返し迸りでてくる言葉は、「天上の美」、「魂の高揚と興奮」、「人間の願望・渇望」、「不滅性、永遠」、「悲哀、憂愁」、「死」、「愛」です。
 彼がおしゃべりなだけで空虚な評論家でなく、芸術家として詩人として伝えようとしていることは、彼の最も美しい詩「アナベル・リー」がこれらの言葉が指し示すものを、詩としてきらめかせていることから、そして何よりその詩が読む私の魂に美しく響くことから、感じとれます。
 「天上の美」と彼が語るとき、キリスト教の神や天国のイメージが浮びあがります。私は美しいと感じます。同時に、紫式部の『源氏物語』や式子内親王と和泉式部の和歌が、手をのばし仰ぎ見る阿弥陀仏や西方浄土のイメージと、私の想いのうちでは響きあう音楽となって重なり溶け合います。そこにあるのは美。私も、かなたのいまだ到達し得ない何か、天上の美を渇望する人間、星を求める蛾です。
そうせざるを得ない真実だけが美しく響いています。どれが真理かわからない人間にもできること、わからないからそうせずにはいられないことです。
 美しいと心ふるえるとき、「魂の喜ばしい、強烈で純粋な高揚や興奮」、感動だけが光り輝く瞬間に時が止まり永遠を映しだします、それが詩、詩情だと、私も考えていて、詩を求めて生きています。

 「詩は、知性や良心とは二次的な関係しかない。真理や義務には何の係わりもない。真の芸術家なら、まずそれらの調子を補助手段に止める」。この言葉の受け止め方で、その人の詩観があらわになると思います。
 詩は知性により真理を光らせるものだと考える人もいるし、詩は良心を表現し義務を思い起こさせるものだと考える人もいます。さらに社会的な正義を伝え社会的行動に駆りたてるものと考える人もいます。
 私は、ポオの詩観に響きあう者です。詩は美にふるえる魂、人間の心の感動、愛だと、考えています。知性も良心も人間として言葉で表現する以上自然に現われるものだから、押し殺す必要も全くないけれども、その逆に全面に押し出して、「真理」を語り伝えること、「義務」を呼び起こすこと、「正義の行動」に駆りたてること、それが詩の目的、詩の意味だと断言する人に対しては、嘘を感じます。
 有史以来人間が考え求め続けてきながら絶対的なものが見つからない、「真理」、「義務」、「正義の行動」を、詩は伝えられ、詩人は伝えるべきだと主張する人は傲慢だと私は思います。詩人は、教祖でも、教師でも、政治屋でもありません。それらを目的として追うのは、詩の言葉ですることではありません。知性で、論理で、情熱で、これだけが正しいと説経できる神経をもつ人が吐き散らせばよいと思います。そんな言葉を私は聞きませんが。
 「真理」も、「義務」も、より正しい「行動」も、生きていくうえで考え摸索せざるは得ないけれど、詩人として詩作品で行うことではなく、一人の社会に生活する市民として意見を述べ合い選択していけばよい事柄だと私は思います。
 
 ポオは散文詩との副題をつけた宇宙論の『ユリイカ』を、詩ととらえてほしいと、読者に要求しました。彼は宇宙の成り立ちから未来までを語る『ユリイカ』を、鋭い知性で書き、真理を語ろうとしました。この作品の言葉は、詩と対極にある散文です。
 芸術としての美、詩だとこの作品を呼ぶことには無理があることを、彼が意識していない訳がありません。だとしたら、なぜ彼がこの作品が詩として評価されることにこだわったのか?
 私は彼が『ユリイカ』でほんとうに表現したかったものが、「天上の美」だったからだと考えています。 真理を知性で語りながら、ほんとうに伝えたかったのは、より大きな詩情だったからだと感じます。『ユリイカ』はおしゃべりな駄弁で、説経がましく真理の押し付けがましさも匂うけれど、それでも私が好きなのは、ポオが命を賭けて書き上げたこの作品には、星を求める蛾の願いが、哀しく響いているからです。蛾の褐色まみれの言葉で書かれた作品を読むと、私も蛾だから、真理がそこになくても込められた詩情を、美しいと感じずにはいられません。

 最後に、ポオの詩と詩論を私がとても好きな一番の理由は、「詩の主題の中で最も純粋かつ真実のもの」を、ポオは「愛」だと言い切るからです。私も「愛」だと彼にこだまします。

 次回は、ポオに大きな影響を受けたフランス象徴詩派のマラルメの詩論を見つめます。

●以下は出典からの原文引用です。(赤紫文字は私が強調するために付けました。)
(出典は、前回は「構成の原理」、今回は「詩の原理」を掲載していますが、両回とも文中には二つの詩論から彼の言葉を引用しています。)

◎「詩の原理」から。

 「長い詩などというものは存在しないというのがぼくの立場である。」
 「一篇の詩が詩の名に値するのは、魂を高揚し、興奮させる限りにおいてであるのは言うまでもない。詩の価値はこの高揚する興奮に比例する。だが、およそ興奮は、精神の必然によって、やがては醒めるものだ。一篇の詩を、いやしくも詩と呼ぶに足らしめるほどの興奮が、相当長い作品を通じて終始保たれるなどということは、とうてい不可能である。」
「『失楽園』(略)。実際、この偉大な作品は、あらゆる芸術作品の生命に不可欠の統一性を度外視して、単に一連の小詩篇としてそれを見るときにのみ、詩作品と見做され得るものなのである。」
 「この世の最上の叙事詩ですら、それが与える究極的、総体的、絶対的効果は無きに等しい。
 「一篇の詩が不当に短い場合も確かにあり得る。甚(はなはだ)しく短いと、単なるエピグラム風に堕してしまう。極端な短詩は、ときたま輝かしい、また生き生きとした効果を生むこともあるが、深遠な、或いは持続的な効果を生むことはない。」
 「ぼくが邪説というのは「教訓詩」のことである。そこでは、暗黙に、また公然と、直接、間接に、あらゆる詩の究極の目的は真理であると考えられている。すべての詩作品は教訓を垂れるべきであって、作品の詩的価値はこの教訓をもって判断されなければならないというのである。」
 「真理を確固たらしめるには、華やかな言葉よりも厳正な言葉が必要である。単純、正確、簡潔でなければならない。冷静沈着で、感情に左右されてはならない。つまりできるかぎり詩的とは正反対の心の状態になければならない。」
 「人間精神の底に宿っている不滅の天性は、かくして明らかに美的感覚である。人が己を取り捲いているさまざまな形や音や香りや情緒に喜びを感ずるのも、この美的感覚があるからである。百合の花が湖面に映り、アマリリスの眼差しが鏡の中に写し取られるように、これらの形や音や香りや情緒も言葉や文字に再現されて、もうひとつの喜びの源となる。」

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ポオの詩論(一)。美の韻律的創造。

 萩原朔太郎の『詩の原理』についてのエッセイで数回、エドガー・アラン・ポオの詩論について触れました。また彼の作品のうち私が一番好きな詩「アナベル・リー」を「愛(かな)しい詩歌」に咲かせました。(ポーの詩「アナベル・リー」)。
 今回と次回は、彼の二つの詩論「構成の原理」と「詩の原理」から彼の詩想を感じとります。
二つの詩論は体系的な論文ではなく、芸術家である彼は、「構成の原理」では彼自身の詩「鴉」を、「詩の原理」では彼が感動した詩人たちの英語詩を、具体的に読み感じとりながら、詩についての考えを述べています。中心となる確固とした信条は、どちらの詩論でも繰り返しています。
今回はまず、詩の形式についての彼の考えを要約し、☆印の後に私の詩想を記します。

1. 詩のかたちについて (ポオの詩想の要約) 
① 人間精神の不滅の天性は、美的感覚だ。形や音や香りや情緒は言葉や文字に再現されて、もうひとつの喜びの源となる。      
② 言葉の詩とは「美の韻律的創造」だ。詩情を吹きこまれた魂が懸命に求める究極目的、天上の美の創造に最も近づくのは、恐らく音楽においてだ。
③ 詩が詩であるのは、魂を高揚して激しく興奮させる限りであり、詩的興奮は束の間のもの。だから長い詩などというものは存在しない。長編詩は実際は短詩の連作だ。『失楽園』の半分は本質的には散文だ。最上の叙事詩も究極的、総体的、絶対的効果は無きに等しい。
④ 甚(はなはだ)しく短いと、単なるエピグラム風に堕してしまう。極端な短詩は、深遠な持続的な効果を生むことはない。

⑤ (ポオは、)詩を、数学のような正確さと厳密な結果をもって構成し作品を完成させようする。
⑥ 畳句(リフレイン)の効果、快感は専(もっぱ)ら同じ音の単調な反覆から引きだされる。畳句の使い方の変化(ヴァリエーション)で効果は出せる。
⑦ 結句が強力であるためには、響きのいいこと、長く延ばして強勢を置けることが必要。この音を実現し、同時に詩の(主題の)調子(トーン)をできるだけ帯びている単語を選ぶことが必要。
⑧ 韻律(リズム)、歩格(ミーター)、連の長さと全体の配列をも明確に。韻律形式(ヴァーシフィケーション)。単なる韻律(リズム)には変化の可能性が殆どない。歩格や連の変化の可能性は実に無限。押韻と頭韻の原理の適用を拡大することから生ずる他のさまざまな耳慣れない斬新な効果によって助成できる。言葉自体の響きのよさで言葉を選ぶ。
⑨ 音楽は詩の重要な添性。拍子、リズム、押韻といったさまざまな形式面で詩の非常に大きな要素だ。
⑩ 潤色、暗示性、この二つが恒に要求される。隠喩表現。寓意。象徴は詩の最後の連の最後の一行において理解される。

2. ☆ 私の詩想のこだま 

ポオの詩論に私が強く感じるのは、「詩は天上の美の創造」だというゆるがぬ信条です。詩のかたち、形式についての言葉の底流にも、この考えが水音となり流れています。同時に彼は、詩が美を創造するのは音楽によってであり、詩は「美の韻律的創造」だと言います。本来的な抒情詩人に共通した、音に対する敏感な美的感覚が彼にもあって、私が好きな詩「アナベル・リー」は韻律美そのものです。
もうひとつ私が深く共感するのは、詩は魂の高揚、興奮だという言葉です。私の言葉に言い換えると、詩は魂と心の感動以外のなにものでもない、という本質です。
長編詩は短詩の連作でその大部分は散文、叙事詩も同じ、とする激しい主張に彼が詩にだく純粋さを感じ共感します。
短詩についての言葉は、アクセントにメリハリがあり脚韻も鮮明な英語の韻律に適した長さに関わっています。日本語のように抑揚の乏しく静かなやわらかな音の言語には当てはまらず、日本語に適した韻律的長さは、十七文字から三十一文字であり、日本のそれ以上の長さの日本語の詩は「俳句や短歌の連作」だとも言えると私は考えます。
詩を構成し形作る意思の強さは、芸術家にとって当然のことですが、ポオの場合、畳句(リフレイン)、韻律(リズム)、歩格(ミーター)=詩脚・音節、拍子、押韻、言葉自体の響きのよさと、言葉の音と響きに意識が集中していて、詩を言葉の音楽ととらえ創作している姿が鮮明に浮び上がっています。
彼の詩は「天上の美」だから、それをこの世の言葉で表現する技術、手段として、潤色、暗示性、隠喩表現、寓意、象徴性が重要になります。それ以外に「天上の美」は造形しようがないと言えます。

次回はポオの「詩そのもの、詩の主題」についての詩想をみつめなおします。

●以下は出典からの原文引用です。(赤紫文字は私が強調するために付けました。)
(出典は、今回「構成の原理」を、次回「詩の原理」を掲載しますが、文中には両方の詩論から彼の言葉を引用しています。)

◎「構成の原理」から。

「一番よく知られている『鴉(からす)』を例にとってみよう。その構成の一点たりとも偶然や直感には帰せられないこと、すなわちこの作品が一歩一歩進行し、数学の問題のような正確さと厳密な結果をもって完成されたものであることを明らかにしたいと思う。」
「いわゆる長編詩は、実際は短詩の連作、いわば短い詩的効果の連続にすぎない。今更言うまでもなく、詩が詩であるのは、魂を高揚して激しく興奮させる限りにおいてであって、しかも激しい興奮は、真理の必然によって束の間のものだ。それ故、少なくとも『失楽園』の半分は本質的には散文である。つまり、一連の詩的興奮の合間には必然的にそれと対応するだけの沈滞を交えていて、恐ろしく長いため、全体的には芸術上のはなはだ重要な要素である総体性、すなわち効果の統一を失っているのである。」
「詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない。こうした限度内でなら、詩作品の長さは作品の価値、言い換えると興奮や高揚、更に言い換えると作品が誘発し得る真の詩的効果の度合いと、数学的関係を保ち得るであろう。なぜなら、短さは明らかに目指す効果の強さに正比例するはずだからである。」
「すなわち美こそ詩の唯一の正統的領域である。」
「最も強く、最も魂を高め、かつ同時に最も純粋である悦びは、美の観照にあるとぼくは信じている。事実、人が美について語るとき、その意味するところは、想像されるように、決してその性質のことではなく、実は効果のことなのである。つまりいま言った(知性や感情のではない)魂の強烈かつ純粋な高揚のことなのであって、それは「美」の観照の結果経験されるものだ。ぼくが美を詩の領域と称するのは、結果(効果)は直接の原因から生じ、目的はその達成に最も適した手段をもって達成されるというのが紛れもない芸術上の法則だからであって、前述の特異な高揚が詩において最も容易に達成されることを否定するほど愚劣な者はさすがに誰ひとりいない。」
真理という目的、すなわち知性の満足とか、情熱という目的、すなわち心情の興奮とかは詩においても或る程度は達せられるが、散文においてこそ遥かに容易に達せられる。実際、真理は正確さを、情熱は素朴さ(真の情熱家にはぼくの言う意味が分かってもらえるだろう)を要求するが、それらはぼくが主張するように、興奮とか魂の快い高揚をもたらす美とは全然相容れないものである。」
「とは言っても、情熱や或いは真理でさえも、詩の中に持ち込んではならない、持ち込んでも無益だということには決してならない。それらは、ちょうど音楽における不協和音のように、対比によってはっきりさせたり、全体の効果に有利に働くかもしれないのである。だが真の芸術家なら、まずそれらの調子を抑えて主眼に相応しい補助手段に止め、次いで詩の雰囲気であり真髄でもある美の中に、できる限りそれらを包み隠そうと絶えず努力するであろう。」
 「美に最高の表現を与える調子(トーン)は何か(略)。ぼくの全経験からすれば、それが悲哀の調子であることは明白なことだ。いかなる類の美も、その展開の極致においては、それを感受する魂を興奮させ、涙させずにはおかないものだ。それゆえ憂愁はあらゆる詩の調子のうちでも最も正統的なものである。」
「普通用いられる技法上の効果(芝居でいう山場の方がもっと適切であるが)のすべてを注意深く思いめぐらしているうちに、畳句(リフレイン)の効果ほど弘く用いられているものはない(略)。
普通用いられているところでは、畳句とか折り返し句は抒情詩に限られているばかりか、効果の点で音と思想双方の単調さに頼っている。快感は専(もっぱ)ら同じことの反覆という感じから引きだされる。そこでぼくは、全体として音の単調さは守りながら、一方では絶えず思想の単調を破ることによって、効果に変化をもたせ、それによって効果を高めることにした。つまり畳句そのものは殆ど変えず、畳句の使い方に変化(ヴァリエーション)をもたせて、絶えず斬新な効果を生み出すことを心に決めたのである。」
「畳句を用いることは既に決めたのだから、詩を連に分かち、畳句を各連の結句とするのは当然の帰結であった。そのような結句が強力であるためには、響きのいいこと、長く延ばして強勢を置けることが必要なのは勿論のことで、こうした考えから、最も引き延ばせる子音 r音と、最も響きのいい母音o音を結びつけることがどうしても結論されてくる。
この音を実現し、同時にぼくがこの詩の調子として予め決めておいた憂愁をできるだけ帯びている単語を選ぶことが必要になった。こうして捜してくると、≪Nevermore≫という言葉がどうしても見逃せなくなってくる。」

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