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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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ダンテ『神曲』愛。3による表現技法。

 ダンテの壮大な『神曲』全体に照応している縮図のようなひとつの(カント)、3行3連、9行に凝縮されている抒情の凄みを見つめます。
 出典の『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』の「第3章イタリアの詩形」で、天野恵氏は、地獄篇第5歌が「愛欲の獄」としてひろく知られ、ロダンの彫刻《接吻》、《地獄門》、《考える人》の種となったことを興味深く教えてくれます。(ロダンのこれらの作品の写真はウィキペディアで見る事ができます)。 

 引用された9行は、『神曲』を日本語の翻訳書で読み進めるだけでは、小説の散文を読むように、特に立ち止まることもなく、美しい文章だなと感じるくらいで、行き過ぎてしまいそうです。
 天野氏はここで原文の言葉を見つめつつ、ダンテがこの3行の詩句3連の詩行の9行に、いかに深い抒情、詩想を凝縮しているかを、教えてくれます。
 叙事詩全体に匹敵するような、抒情詩がここに輝いていることから、ダンテはやはり散文作者ではなく天性の抒情詩人であったと感じます。

 「愛される者に愛さぬことを許さぬ愛」
 この詩句に対して展開されるキリスト教的な愛の理論と、フランチェスカの訴え、「愛の本質に忠実であろうとすれば、自分もまたパオロを愛さずにはいられなかった。必然であり、避けることはできなかった」という、言葉に打たれ、地獄を巡り歩くダンテはこのあと気を失い倒れてしまいます。それだけの強さがこもった言葉、生きるということ、愛するということ、死ぬということ、人間にとっての根源的な問いかけを、この短い抒情の詩句は響かせ、ふるえ続けています。
 だからこそ、ロダンの魂は捉えられ強い感動が彼に美しい作品を作らせました。私も強く惹きつけられ、詩想が呼び起こされ胸のうちをよぎります。

 詩想の熱さと同時に強い感動を、抒情の言葉として、詩句、詩連のかたち、抒情詩として、形作るダンテの創造力がいかに優れたものかが、ここには鮮やかに現れています。
 「テルツァ・リーマという詩形を、3という数字をベースに構成された『神曲』全体の中で、三位一体や三段論法などとも有機的に関連付けながら駆使するこうした表現技法」の独自性を、ダンテが模索し見つけ作品化した意思の強靭さ、文学の伝統の深さ、世界文学の豊かさを、私は思わずにはいられません。

 日本文学の伝統にも『源氏物語』という、美しい愛の抒情のかがやきと深い宗教性をたたえつつ、歌をも織り込めた独自の詩想の絵巻物があります。その喜びを思い起こしてしまうのは、私だけでしょうか?

●以下は出典からの引用です。

3.『神曲』のテルツァ・リーマ
 それでは、ダンテがいわばテルツァ・リーマのテルツァ・リーマたるところをどのように使いこなしておるのか、地獄篇第5歌の一節を例にとってお話しすることにしましょう。この歌(カント)は「愛欲の獄」として知られるたいへん有名な部分でして、例えばロダンの《接吻》と題された作品をご存知かと思いますが、あの抱き合う二人の男女はそもそもこの歌(カント)の主人公たちでした。『神曲』にインスピレーションを得て《地獄門》の制作に取り掛かったロダンは、これをその一部にするつもりだったのです。ちなみに、《門》の正面中央の高い所にいる《考える人》がダンテその人に他なりません。(略)
 さて、問題の二人はパオロ・マラテスタとフランチェスカ・ダ・ポレンタと呼ばれた実在の人物でして、彼らの悲劇はダンテの時代のフィレンツェではよく知られた事件だったと考えられています。(略)
 さて、地獄を訪問したダンテは、殺害されたこの二人の霊に出会って、フランチェスカと会話を交わします。(略)ともあれ、まずはフランチェスカが義理の弟パオロ・マラテスタとの不倫に陥った事情をダンテに物語る有名な箇所をごいっしょに見ていくことにしましょう。彼女は自分の不倫をこう言って正当化します。

Amor, ch’al cor gentil ratto s’apprende  (11)
prese costui de la bella persona (11)
che mi fu tolta; e ’lmodo ancor m’offende.(11)
「高貴な心に素早く宿る愛は
私の美しい肉体ゆえに、この人(パオロ)を虜にしました。
その肉体は私(=魂)から奪われてしまい、その有様は今なお私に苦しみを与え続けます。

Amor, ch’a nullo amato amar perdona, (11)
mi prese del costui piacer si forte, (11)
che, come vedi, ancor non m’abbandona. (11)
愛される者に愛さぬことを許さぬ愛
この人の美しさゆえに私を強く捉え、
ご覧のとおり、今もなお私を離そうとしません。

Amor condusse noi ad una morte: (11)
Cina attende chi a vita ci spense》. (11)
Queste parole da lor ci fuor porte. (11)
愛は私たちをひとつの死へと導きました。
私たちの命を絶った者(=夫)はカインの圏が待ち受けています。」

 こうした言葉が私たち(=ダンテとウェルギリウス)にもたらされた。

(Inf.Ⅴ, 100-108)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は引用省略しています。(11)は各行の音節数です。
 
 あえて少し長めに引用したのには理由があります。3つの3行詩連がいずれも Amor という言葉で始っていますね。これにより3行詩連が3つ束ねられて一組になっているのです。これは、それぞれが33の歌(カント)からなる3つの篇で成り立っている『神曲』の、いわば縮図のような構造であると言えます。こうなるともはやダンテの3という数へのこだわりに象徴的な意味が込められていることは明らかでしょう。2番目の3行詩連の冒頭、第103行では、行頭の Amor に加えて動詞 amare が不定詞と過去分詞の形で2度登場し、「愛」に関わる語彙が都合3度現れますが、これが三位一体である神の「愛」にことよせた表現であることはあまりにも明白です。そして、続く3番目の3行詩連の、これまた冒頭、第106行に una morte すなわち「ただひとつの死」という表現があるのも、これに呼応したものでしょう。ここで使われたuna は不定冠詞ではありません。「唯一の」という意味を担っています。ですから、この詩行の第8音節は強音節として発音する必要があります。
 さてこの部分でフランチェスカは一体どのような主張を展開しているのでしょうか。まず、最初の3行詩連において彼女は、愛とは高貴な心にひとりでに宿るものであるという前提のもとに話し始めます。これは、(略)当時の抒情詩的伝統を踏まえた理論なのですが、ともあれ、彼女によると愛とはそういうものであり、従って、高貴な心の持ち主であったパオロが私の美しい姿に接して愛を抱いたのは、いわば必然であって避けることのできない現象であったと、こう言っているのです。そして第102行で言われている「私」というのは、フランチェスカの魂(だけ)が自分のことをそう呼んでいる点に注意してください。人間というのは、魂と肉体のふたつから成り立っています。今、ダンテと会話を交わしているのは、フランチェスカその人ではなく、彼女の魂だけなのです。そこで、その魂が、かつては一体となっていた肉体が、自分(=魂)から奪い取られてしまった、つまり、殺害された、と言っているわけです。そして、その殺害の方法が今なお自分を苦しめる、というのは、最後の告解によって自分の罪を明らかにする機会を与えられることなく殺害されてしまったことを意味しているものと考えられます。
 続く二つ目の3行詩連では、愛された者は愛し返さなくてはならない、とこれまた現代人の普通の感覚では受け入れがたい理屈を、あたかも当然のごとく彼女は主張します。ですが、ここでは先ほど注目した三位一体を象徴する愛の表現方法を思い出してください。キリスト教徒にとって、そもそも「愛」というのは人間のものではありません。それは神のもの、それどころか、神そのものであるわけです。神は人間を愛してくださっている。従って、我々もまた神を愛さなくてはならない、というのがキリスト教的な愛の理論です。つまり、フランチェスカは愛というものの持つそうした本質に忠実であろうとすれば、自分もまたパオロを愛さずにはいられなかった。これもまた必然であり、避けることはできなかったと言っているのです。
 ヨーロッパの抒情詩的伝統というのは、もともと社会的地位の高い人妻を相手とする恋愛をテーマとしています。ですから、根本的に宗教上・倫理上の問題を含んでいるわけで、作品に肯定的な意味づけを行なおうとすれば、常に大きな困難がつきまといます。若い頃のダンテも属していた《清新体派》という詩派の詩人たちは、理論的にこうした問題を解決しようとして、相手の女性を天使になぞらえる方法を編み出しました。(略)『神曲』のこの部分を読む限り、どうも『神曲』を書いた頃のダンテは《清新体派》のそうした解決方法には納得していなかったようです。
 実際第106行に始まる三つ目の3行詩連において、フランチェスカも認めているとおり、彼らの愛は二人を地獄落ちへと導く結果になります。「ただひとつの死」とは表面的には自分とパオロの二人が同時に殺害されたことを言う表現ですが、そこには《肉体の死》と《魂の死》という二つの死が同時に訪れたことを表す意味が含まれています。《魂の死》とは、地獄に落ちることを比喩的に示す表現です。キリスト教にあっては、肉体が死んでも霊魂は死ぬことがありません。それが「死ぬ」というのは、地獄に落とされて二度とそこから出ることができない状態を意味しているのです。ただ、ここに至ってもなお、フランチェスカは自分たちの愛が《清新体派》の理論に代表されるような「正しい」ものであったと主張することをあきらめません。彼女によると、二人を不当にも殺害したジャンチョット・マラテスタは、彼らよりもずっと罪深い人々の落ちていく《カインの圏》に落とされるだろうというのです。ここは旧約聖書のカインとアベルの物語からその名が採られている「近親者に対する裏切り」を働いた罪人の行く所です。
 それはともかくとして、テルツァ・リーマという詩形を、3という数字をベースに構成された『神曲』全体の中で、三位一体や三段論法などとも有機的に関連付けながら駆使するこうした表現技法は、ここだけではなく、『神曲』の随所に見られるものであって、ダンテがこの詩形を発明したのみならず、これに合わせた詩作方法をも逸早く開発し、それに習熟していたことを物語っています。

出典:天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)


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ダンテの詩宇宙『神曲』

 『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』の天野恵による「第3章イタリアの詩形」を通して、詩を見つめています。
 ペトラルカの美しい抒情詩を聴き取りましたが、今回と次回は、壮大な叙事詩、ダンテの『神曲』について、その詩形という観点で考えてみます。

 典型的な抒情詩人であり私が好きなポオは詩論で、「詩が詩であるのは、魂を高揚して激しく興奮させる限りであり、詩的興奮は束の間のもの。だから長編詩は実際は短詩の連作だ。『失楽園』の半分は本質的には散文だ。」と述べていることを先に記しました(「ポオの詩論(一)。美の韻律的創造。」)。
 ダンテの『新生』は散文の詞書や日記体の叙述の合間に、美しい愛の抒情詩を挿入しており、ポオの言葉が当てはまります。美しい作品だけれども長編詩としてのかたちは持ちません。

 では『神曲』はどうでしょうか?
 日本語の翻訳を読む限り、ミルトンの『失楽園』と同様に半分以上は、情景描写や物語のあらすじの展開や会話で、散文的であり小説の文章との違いは感じ取れません。

 出典の引用箇所は、そのような『神曲』を長編の叙事詩として、試作品として成り立たせている、翻訳では分からない、原文の音楽性を教えてくれます。具体的には、
 ① 各行を詩句としている音節数音節の強弱による抑揚とリズム。
 ② 各行に響きあいと3行の詩連のまとまりをもたらす脚韻

 ただこれは詩歌が必ず宿している音楽性です。これだけで短詩はなりたちますが、長い作品をつくろうとすると、積み上げることは難しく、もろく崩れ、冗漫な繰り返しに終ってしまいます。上手くいってポオの言うように、短詩の連作でしかありません。

 ダンテは叙事詩『神曲』で、この詩歌本来の音楽性に加えてさらに、作品の長さに相応しく詩句を緊密に連鎖させる詩の形を生み出したことを、私は出典に教えられました。
 具体的には、
③ 3行詩連のあいだの脚韻の連鎖
④ 百数十行ほどでの終結韻で結ばれた歌(カント)。

 その上で彼はこの詩句による緊密な構築物を、数字3へのこだわりが絡まる宗教観、自らの世界観、宇宙観を照らし出すものにまで高めます。
それぞれ三十三の歌(カント)により織り上げられ3つの世界の絵巻物。
 (地獄篇は冒頭に全体の序章である第一歌があるので三十四歌、全体は百歌です)。
⑥ 地獄篇、浄罪篇、天堂篇の3つの絵巻物、『神曲』として壮大な詩宇宙の音楽を奏で合っています。

 ダンテが、詩の伝統を踏まえながら、個性による創造力で、新しい詩形を模索し見つけだし、独自の詩宇宙を築き上げたことに私は感動します、だから彼と作品を敬愛せずにいられません。

 次回は、『神曲』の核に輝くやわらかな抒情をみつめます。
 
●以下は出典からの引用です。
1.連鎖韻とテルツァ・リーマ
(略)オッターヴァ・リーマとは別の重要な叙事詩の詩形をもう一つご紹介しましょう。イタリア語の父とも称される詩聖ダンテ・アリギエーリの代表作『神曲』において用いられた、テルツァ・リーマ terza rima と呼ばれる詩形です。『神曲』冒頭を見ながら、まずはそれがどのような形式であるのか確認しましょう。

Nel mezzo del cammin di nostra vita (11)
mi ritovai per una selva oscura (11)
che la diritta via era smarrita. (11)
私たちの生の歩みの半ばにあって
私は自分が暗い森の中にいることに気づいた。
まっすぐな道は見失われていた。

Ahi quanto a dir qual eracosa dura (11)
esta selva selvaggia, e aspra e forte (11)
che nel pensier rinoval la pura! (11)
ああ、その深い森がどのようであったか
語るのも辛いことだ。険しく、恐ろしい場所で、
思い出すだに恐怖がよみがえってくる。

Tant’ amara che poco pi morte; (11)
ma per trattar del ben ch’I vi trovai, (11)
dir dell’altre cose ch’I v’ho scorte. (11)
その苦しさは死に勝ることもないほど。
しかし、そこに私が探り当てた幸いについて語るために
その場所で見た他のさまざまな事を告げよう。

(Inf.Ⅰ, 1-9)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は引用省略しています。(11)は各行の音節数です。

 ご覧のように、これもオッターヴァ・リーマ同様、11音節詩行による一定音節数作詩法ですが、こちらは3行が一組となっています。この一組を3行詩連 terzina [テルツィーナ]と呼びます。また、それぞれの3行詩連にあってはABAという、一種の交代韻ともとれる単純な形式の脚韻が踏まれていますが、注目すべきは、続く次の3行詩連の最初の行と前の3行詩連の真ん中の行とが押韻によって結ばれている点です。(略)このテルツァ・リーマにあっては、ABA/BCB/CDC/DED/・・・という具合に、ひとつの3行詩連から次の3行詩連へと、ちょうど鎖の輪が順々にがっていくように連続した押韻の仕方を連鎖韻rima incatenate [リ-マ・インカテンータ]と呼びます。
 こうした3行詩連の連鎖は、望めばいくらでも長くできるわけですが、実際には『神曲』の場合、百数十行で一区切りとなっており、このひとまとまりが歌canto[カント]と呼ばれます。そして各歌(カント)の末尾は、最後の3行詩連の後にもう1詩行が加えられて結ばれます。つまり・・・/XYX/YZY/Zという形で歌(カント)が締めくくられるわけで、その結果、最後の4行のみを取り出して眺めるならば、あたかも交代韻(YZYZ)を踏んでいるかのように見えることになり、ちょうど歌(カント)の冒頭部分(ABAB)といわば対照形をなすような終わり方であると見ることができます。(略)
 テルツァ・リーマの3行詩連はたったの3行ですから、まとまった内容を表現するためのいわば最低限の字数といって差し支えないでしょう。(略)しかしながら、この少ないキャパシティを補って余りあるのが、ひとつの3行詩連から次の3行詩連へと鎖を繋いでいく、あの特徴的な押韻方法、すなわち連鎖韻に他なりません。(略)
 テルツァ・リーマの方は、確かにある意味ではより小刻みになるものの、基本的にはもっと息の長い叙述を得意とします。この意味からも、ダンテの発明は実に的を射たものであり、これだけでも彼が天才的な詩人であったことがよく分かります。『神曲』は当時の自然科学から文化・芸術、政治、宗教に至るおよそあらゆる分野の百科全書的知識を総動員しながら、西暦1300年という時点を宇宙の誕生からその終末までの全時間の中に位置づけようとしたと考えることも可能な、実に荘重かつ息の長い作品だからです。

出典:天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)
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敬愛する編集者。加藤幾惠さん。

 11月14日のエッセイ「ダンテが100円。文学と経済価値」は文学の現況への率直な思いを記しました。ただ私が編集に携わる多くの方を憎んでいるかのような誤解を招きかねない舌足らずな表現かもしれませんので、私の真意をもう少しだけ丁寧に付け加えます。
 私は本当は編集者が好きです。私自身の職業の出発点としても、編集者を選びました。その職業に携わる方が好きだからこそ、編集者の志をもたない人、見失い驕っている人がきらいです。

 今回は好きだという側面を書きます。
 私には出会えることができたことで、生き続け書き続ける力を強めてくださった恩人であり、敬愛しつづけている3人の編集者がいます。
 私の第一作品集『死と生の交わり』を出版してくださった批評社の佐藤英之さん、書店で手にした詩を認めてくださり創刊誌『エヴァ』の扉の詩の連載をさせてくださった梶原光政さん、4冊の詩集の出版を手助けしてくださった土曜美術社出版販売の加藤幾惠さんです。
 私自身が右往左往して行方不明にもなってしまったため、今もなお頑張られていらっしゃる佐藤さん、梶尾さんには感謝していること、頑張ってくださることをいつも願っていることだけ記します。

 加藤幾惠さんに捧げる思いを書きます。
 私の詩集『海にゆれる』、『愛(かな)』、『愛のうたの絵ほん』『さようなら』はすべて土曜美術社、土曜美術社出版販売に原稿を持参し加藤幾惠さんに手渡しして編集・発行して頂きました。
 加藤さんが『さようなら』を21世紀詩人叢書に推してくださり、その時かけてくださった次の言葉を私は死ぬまで忘れません。白いおおきなワンちゃんと暮らされていた部屋で。
「これまでの詩集の詩はあまり良いとは思わなかったけど、『さようなら』はいい。」
 加藤さんが感じておっしゃってくださった言葉が心にあり続けるから、私は「いい詩を書ける、これからも書ける」と、自分に言い聞かせ、誰に何と言われようと頑張り続けることができます。

 その後個人的な身辺の変化と精神的に燃え尽き症候群のように沈んで詩から離ねる年月を過してしまいました。また浮びあがろうと、私が生きることは詩を創作することだと思い返し、数年ぶりに加藤さんに連絡をとろうとして初めて、加藤さんが急逝されていたことを知りました。ショックで、知らずにいた悔いが私にはそれからずっとありました。
 私にできる恩返し。いい詩を書き続けること。加藤さんはきっとそうおっしゃってくださいます。今も見守り励ましてくださっていると私は信じられます。
 もうひとつできるのは、編集者としての加藤さんを少しでも伝える努力をすること。
 数日前ウィキペディアの「日本の書籍編集者」の項目に「加藤幾惠」さんの記事をやっと書けました。私が知らない加藤さんの人生とお仕事をご存知の方は伝えて頂けたら、また記事を書き加え広めて頂けたらと思います。敬愛する編集者・加藤幾惠さんを、ひとりでも多くの方に知って頂きたいと願っています。

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田川紀久雄詩集『鎮魂歌 東日本大地震のための応援詩』の詩を紹介

 詩人・田川紀久雄さんの詩「生きてさえいれば / それでも聲を出し続ける / 虚しさは生きている証拠だ」 を、私のホームページ『愛のうたの絵ほん』の「好きな詩・伝えたい花」で紹介しました。

詩「生きてさえいれば」
詩「それでも聲を出し続ける」
詩「虚しさは生きている証拠だ」


 田川さんの詩集『鎮魂歌 東日本大地震のための応援詩から、私の心にとくに強く木霊する好きな詩を紹介させて頂きました。
 この詩集に込められた思いの切実さ、鎮魂の祈りは、偽りの無いものだと私は感じます。悲しみの言葉なのに、
肉聲の響きが心に沁みこんできて体温をうちから感じ温まるはなぜでしょうか。末期癌と毎日闘病されている田川さんの研ぎ澄まされた心からあふれだす伝えずにはいられない思いが、いのちのふるえる歌そのものだからだと私は思います。ほんとうの詩心を感じとって頂けたら、とても嬉しく思います。
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詩人・田川紀久雄への共感

 詩人の田川紀久雄さんは、漉林書房を運営して自らの詩集を刊行され続けるとともに、詩誌『操車場』(詩と評論)を編集、発行され、現在「末期癌日記」を連載されています。
 発行日本年12月1日の第54号から、私が心から共感する言葉を少しだけ引用させて頂きます。

二〇一一年十月二十九日(土)晴
(略)名詩といわれても「こんなの解らない」と答える人が多い。詩集「百歳」を書いた詩人の本は書店でも売れている。でもこのような詩は詩人たちは少しも相手にしない。解りやすい詩は詩ではないと思っているのだろう。詩人達は冷たい眼で見る癖がある。今私は密教のようにすべてを包む暖かい世界を描きたいと願っている。そして出来るだけ解りやすい言葉を選んで書いている。(略)

二〇一一年十月三十一日(月)晴
(略)詩人にとって大切なのは良い作品を書くこと以外にない。人間同士の上下関係は必要がない。先輩を敬うことと、詩そのものとは別な問題である。詩人は単独者でいることが必要である。詩人が地位とか名誉を思うようになったらお終いだ。つねに自由人でありたい。(略)

 これらの言葉は私の詩への思いに重なっていて、自分の言葉のように思います。このように書ききれる田川さんが私は好きだし、いつわりない詩人だと感じます。
 彼の言葉は、悲しいほどに、切実です。詩は魂の切実なふるえ、伝えずにはいられない思いから生まれます。

 田川さんの詩を数編、私のホームページの「好きな詩・伝えたい花」で紹介させて頂けることになりました。できましたら、近日中にお知らせしたいと思います。
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詩が好き。書き手と読み手を結ぶ。

 今回は『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』の天野恵氏による「第3章イタリアの詩形」のまとめの言葉から、共感する言葉を拾い上げつつ思うことを記します。
 前回、芸術の創作の根底には、伝統を踏まえた個性による創造力が必ずあることを記しました。現在の日本の言葉の芸術をみつめると次のような傾向があるように私は思います。

1.短歌の創作。古来からの伝統にもとづく歌のかたちが出来上がっているので、形式において創造力を発揮できる余地はかなり限られている、語彙の意味とイメージの選択により個性を表現している。
2.詩・詩歌の創作。古来の漢詩とは断絶していて、和歌を否定し伝統を軽んじがち。西洋詩を模倣した新体詩、文語・口語自由詩は、伝統を踏まえることを捨て、調べ、歌、音楽を見失った。かたちがなく、どのようにも作れ、音楽性がなければ、行分け散文でしかない。
3.いわゆる現代詩。詩じゃない、歌じゃない、干からびた知性の自己満悦。

 否定的な言葉になりましたが、天野恵氏のイタリア詩についての次の言葉に、日本語で創作しようとする詩の書き手は耳を澄ませることが必要ではないかと私は思います。
「現代詩といえども、これを書いた詩人は古典的な形式や技法を熟知しています。」
「知識ではなく感覚でもってひとりでに掴むことのできる要素が多く、それらはいずれも古典的な形式となんらかのつながり持っています。」
 日本語で育まれた心にとっての五七調、七五調にわきでる快い感覚といったものです。
「規則をよく知っていて、そのうえでそれを無視するのと、もともと規則の存在自体を知らないがゆえにこれを守らない、というのはまったく違う。」

 和歌にも俳句にも漢詩にも新体詩にも文語詩にも、表現を豊かに美しくするための創意と工夫が満ちていて研ぎ澄まされた感性と波打つ心の情緒があふれています。詩が好きで、日本語が好きで、詩を書くのだから、私は培われたくみ尽くせない伝統の豊かさを学び感じとって、個性の創造力を高めたいと願っています。

 一方で、詩を読み、楽しむことは、どこまでも自由、気まぐれでよいと私は思います。だから、天野氏の言葉に私はとても共感します。
「韻律法の知識など一切無視してしまって、詩人の意図とは異なる、いわば《勝手な》読み方をしながら詩を楽しむことは十分に可能です。」
「作品が一旦作者の手を離れてしまえば、鑑賞者はそれを好きなように解釈し、味わえば良いのです。」
「《創造的な》鑑賞の仕方が広く行われている間が、その作品にとっては華」

 詩をいいなと感じ、好きだなと感じ、感動し、みつけ、喜べる、大切なのはそれだけだと思います。
 詩が好き、ただその心が、書き手と読み手を結んでくれます。

●以下は、出典の引用です。
第3章を終えるに当たって
 (略)20世紀以後のイタリア詩は、一般に本書で扱ったような古典的な形式に則って書かれてはいません。もちろん、そうした現代詩といえども、これを書いた詩人は古典的な形式や技法を熟知していますし、(略)そもそもイタリア語を母語とする詩人がイタリア語を母語とする読者に向けて書いたというだけで、すでに私たちには感じ取れなくても、イタリア人にとっては知識ではなく感覚でもってひとりでに掴むことのできる要素が多く、それらはいずれも古典的な形式となんらかのつながりを持っています。要するに、規則をよく知っていて、そのうえでそれを無視するのと、もともと規則の存在自体を知らないがゆえにこれを守らない、というのはまったく違うわけでして、その意味では、古典的な形式を持たない現代詩は、私たち外国人にとって伝統的な作品以上に受容が難しいことになります。
 では、私たち日本人にはイタリア詩を鑑賞する道は完全に閉ざされているのでしょうか。いや、そんなことはありません。韻律法の知識など一切無視してしまって、詩人の意図とは異なる、いわば《勝手な》読み方をしながら詩を楽しむことは十分に可能です。(略)これは詩に限らずすべての芸術作品について言えることですが、作品が一旦作者の手を離れてしまえば、鑑賞者はそれを好きなように解釈し、味わえば良いのです。さらに言いますと、ある意味ではそうした《創造的な》鑑賞の仕方が広く行われている間が、その作品にとっては華とも言えるのです。限られた専門家だけが、羊皮紙の写本に書かれたテキストをためつすがめつしながら、韻律法に従うとここはどう読まれるべきだとか、この部分の解釈は当時の用例からするとどうあるべきだとか、そんな考証にばかり熱を上げていても、作品自体が大多数の人々から見向きをされなくなってしまったのではどうしようもありません。

出典:天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)
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ペトラルカ。抒情詩の創造

 今回は『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』から、ペトラルカの『カンツォニエーレ』126番の最初の詩節と、結びの詩節の抜粋を引用します。全68行の定型詩カンツォーネの標準形です。
 愛する女性への思慕の情が清流のように流れきらめいていて、せせらぎのように美しい抒情詩だと感じます。
 700年近い時を流れてきた水を手にすくい口に含めることをとても嬉しく思います。

 もうひとつ、著者・天野氏の定型詩カンツォーネについての言葉は、詩の定型、標準形ということについての考えを深めてくれます。
 「何世代もの詩人たちが長い時間を掛け、膨大な試行錯誤を繰り返しながら作り上げていった伝統を、ペトラルカがこれまた長年にわたる推敲を積み重ねて集約し、それがさらに後の人々によって《標準形》として受け入れられた」。
 「むしろ形式面に関しても作品ごとに詩人に創造力を要求する、それほど高級な、格式高い詩形」。

 詩歌は言葉の芸術なのだから、伝統を踏まえたものでしかありえない。伝統という言葉は垢にまみれているけれどその核にあるのは、少し先に生まれた命からの生きざまの受け渡しです。
 一方そうであると同時に、個々の詩人の、伝統と格闘する個性の創造力がなければ、心に響く作品は生まれてこない。
 とても当たり前のことですが、やり遂げることは難しく、だからこそ生きる喜びともなりえるのが、芸術の創造、創作だと私は思います。

●以下は、出典からの引用です。
1. ペトラルカのスタンツァ
 さて、それでは『カンツォニエーレ』126番の最初の詩節の成り立ちをごいっしょに見ていくことにしましょう。

Chaiare, fresche et dolci acque, (7) a 1
Ove le belle membra (7) b 2
Pose colei che sola a me par donna; (11) C 3
gentil ramo ove piacque (7) a 4
(con sospir’ mi rimembra) (7) b 5
a lei di fare al bel fiancho colonna; (11) C 6
herba et fior’ che la gonna (7) c 7
leggiadra ricoverse (7) d 8
co l’angelico seno; (7) e 9
aera sacro, sereno; (7) e 10
ove Amor co’begli occhi il cor m’aperse: (11) D 11
date udenzia insieme (7) f 12
a le dolente mie parole extreme. (11) F 13

滑らかで涼しく甘美なる流れよ、
この中に、身を浸したのだ、
敬愛する貴婦人として私には唯一と思われる女性が。
高貴なる樹木よ、それには彼女が
(ため息とともに思い出される)
美しい身体を好んでもたせかけたのだ。
草よ、花よ、それらを彼女は
天使のような胸と雅やかな衣で
覆ったのだ。
穏やかなる聖なる風よ、その中で
愛神は(彼女の美しい瞳によって)私の心臓を射抜いた。
皆そろって聞いてくれ、
苦しみに満ちた私の最期の言葉を。
(Rvf, 126, 1-13)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は省略しています。( )内の数字は各行の音節数です。

 ご覧のように計13行からなるスタンツァですが、その構成を(略)示しますと「a b C, a b C : c d e e D f F」(小文字は7音節詩行、大文字は11音節詩行。同じアルファベットは脚韻を踏む)ということになります。(略)
 ひとつ強調しておきたいのは、上にまとめたカンツォーネの形態というものは決して《規則》ではないということです。トロバドール以降、何世代もの詩人たちが長い時間を掛け、膨大な試行錯誤を繰り返しながら作り上げていった伝統を、ペトラルカがこれまた長年にわたる推敲を積み重ねて集約し、それがさらに後の人々によって《標準形》として受け入れられたものだというのが正しい。ですから、ペトラルカ以前は言うまでもなく、以後の作品の中にも、いやそればかりかペトラルカ自身の作品の中にさえ、こうした標準形とは異なる形式のカンツォーネが見受けられます。トロバドールの時代このかた、カンツォーネというのは、むしろ形式面に関しても作品ごとに詩人に創造力を要求する、それほど高級な、格式高い詩形だったのです。
 さて、この作品においては同一の構成を持つスタンツァが5個連結されています。(略)そして、最後に暇乞いの詩節であるコンジェードが置かれています。それでは、このカンツォーネのコンジェードを実際に確認しましょう。

Se tu avessi ornamenti quant’ai voglia, (11) A 66
Poresti arditamente (7) b 67
Uscir del boscho, et gir fra la gente. (11) B 68

もしお前が自ら望むほどの美しさを備えていたならば
自信を持って
森をあとにし、人々の間へ出ていくこともできるのだが。
(Rvf, 1, 66-68)
*出典の原文にある各音節と強弱の記号は省略しています。( )内の数字は各行の音節数です。

 ここで tu と呼ばれているのはこのカンツォーネそのものです。ペトラルカは、今作ったばかりのカンツォーネに向かって声をかける体裁をとりながら、(略)「本当はもっと美しい詩を作って世に問いたいところなのだが、こんな駄作では到底それは無理だ」と嘆いてみせているわけです。もちろん、これは修辞技法としての、つまり額面上の謙遜であって、実際にはむしろ作品の出来について並々ならぬ自信を持っていることの表れと解するべきでしょう。(略)

出典:天野恵「第3章イタリアの詩形」から。『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(2010年、三修社)
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ペトラルカの詩法(一)。字余りと字足らず。

 私にとって、イタリア詩は、その源流のラテン語オイディウスの『変身物語』以降は空白地帯でした。
 西欧の詩歌とその法を見つめなおそうと思い見つけて読むことができた出典の『イタリアの詩歌音楽的な、詩的な音楽』はとても教えられることの多い発見に満ちた心を豊かに揺らしてくれる本でした。
今回と次回はそのなかから、ペトラルカのカンツォーネを見つめます。

 まず、ドイツ詩を見つめた際にも記しましたが、詩行中のメリハリ、音節の強弱がはっきりしていることを、日本語のメリハリがまったくない個性と対照的で、鮮烈に感じます。
 西欧人の自己主張の強さと、日本人の控えめな奥ゆかしさの違いが詩歌に浮き出ていることから、詩歌は心の表現だという当たり前だからこそ大切なことを再認識させられます。
 現在は西欧人に近づくことを進歩、論理的な押しの強い主張を良しとする風潮に染まっていますが、私は日本古来の奥ゆかしさ、他に譲る優しい気持ちが好きだし大切にしたいと考えています。そんな優しい心の人にはこの世は生きづらいけれど、私はそんな人が好きだし大切だし幸せをえてほしいと願います。
 だから日本で受け継がれてきた他者を思いやる心こそ人が生きる上で根本的にとても大切なことだと、争いを繰り返し殺し合いを続けてきた、続けている西欧の人たちに逆に伝えたいと願います。

 もう一つ、ペトラルカの詩の技法と力量についての、出典の論考に共感します。
 日本に生きる私には、五七五、五七調、七五調の音数律のリズム、美しい調べが心に沁み込んでいます。だからこそ、字余りや、字足らずを織り交ぜる詩の技法による変化、転調は、単調さを崩して、新鮮な言葉の音楽に連れ戻してくれます。
 このことは、イタリア詩でも日本語の詩でも、言葉の個性を越えて共通しているんだと、感じることができました。

次回は、ペトラルカの魅力的なのカンツォーネを引用して感じ取りたいと思います。

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ダンテが100円。文学と経済価値

 個人的な身辺事情で、ブログの公開ペースが鈍り文筆家として悲しく恥ずかしく思っています。
 そのことと直接結びつきませんが、二十歳代からずっと読もうと思いながら二十数年読めずにいた、ダンテの『新生』と『神曲』を、読み終えてから彼の著作について書きたいという思いも重なっています。なぜなら、少なくともダンテは『神曲』を彼の命をかけて、全生涯をかけて書いていること、そのような彼の生きざまを私は心から尊敬し、私もそのような作品を書きたいからです。
 読み始めている『新生』と『神曲』は、筑摩世界文学体系11で、神田の古本屋街で、100円で、見つけました。
 貧乏者の私にとっては掘り出し物だけれど、全生涯をかけた作品が100円、ダンテはどう思うでしょうか?
 たぶん彼は気にしないと私は思います。芸術の真の価値と、経済価値、需要に左右される価格は、ぜんぜん別物です。ダンテにとっても、私にとっても。
 私は自分の作品、著作を心から愛するだけで、その子どもたちに価格はつけられません。つけるとしたら無限大しかありません。値切りできるのは生命保険会社だけです。無限大でしかない私にとっては意味のないことだから100円でも、0円でも、どうでもよいです。
 私がこの文章で言いたいのは、すべての価値を価格で計れると決めつける現在人は合理的かもしれないけれど、やはりその思慮はとても浅い、と私は考えているということだけです。お金にはかえられないものがあることを、知らない、わからない、人が現在の主流であっても、私はそのような人は、幼なすぎるし、押しつけがましく、嫌いです。
 このブログの受け止め方で、その人が文学を心でわかっている人かどうかが、本当にそうか、身振りだけか、わかると思います。また文学にかかわる出版社、編集者が、本物か、偽物か、商売だけのサラリーマンか、文学に志ある人かも、はっきりわかると考えます。
 私が敬愛する、心から感動して涙が流れた崎本恵さんの小説を「あなたの小説は面白くない」と言って切り捨てるような情けなく恥ずかしい大手出版社の編集者がいます。
 文学を愛する者としてその驕った人に直接私は言いたい、「あなたは稼げる流行のジャンルだけの編集屋に専念しろ、文化に中途半端にかかわるな、有害だ、わかりもしない文学に口をはさんで文学を貧しくするな、せめて心の豊かさを育む文学、文化の障害にだけはならないよう他の儲けを目指すジャンルに行って、サラリーマンに徹しろ。お前の考えや感じ方が、新たな豊かな創造を理解しきれるなんて驕るな。争いが嫌いな私にまでこんなことまで吐かせるお前が嫌いだ」。心がすさむブログになりました。ごめんなさい。
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詩を聴きとり、創作すること。フランス詩法。

 杉山正樹著『やさしいフランス詩法』を読んで感じ考えたことに、少し付け加えたくなったことを書きます。
 まず、「La mer 海、フランスの好きな詩」に中原中也訳で以前咲かせたランボーの詩「永遠」の好きな一節を見つけて懐かしく嬉しく感じたので、引用します。

Elle est retrouvée.
Quoi? -L'Éternité.
C'est la mer allée
avec le soleil.

[ɛ-lɛ Rǝ-tRu-ve ]
[kwa le-tɛR-ni-te]
[sɛ-la-mɛ: Ra-le]
[a-vɛk-lǝ-sɔ-l ɛ j]

[RIMBAUD,Vers nouv.et chansons, -L'Éternité v.1~4]
(ここにあったか。何が?―永遠が。太陽とともに行ってしまった海だ。)

 もう一点は、このフランス詩法で分かりやすく丁寧に説明されている、詩句、音節数、句切り、句またぎ、脚韻、詩節、諧調など、詩を作り聴きとるための技法が究めようとするところは、フランス語の個性にきらめく細部の相違は当然ありながらも、日本語の詩歌の詩法や歌論と通じ合っていて同じだなと、改めて感じたことです。
 そのことが凝縮して表れているのは、この本の巻末のつぎの一節です。

●出典引用
「(略)母音も子音も多様に変化、対立しながら、音の表現力とは関係なく、詩句の諧調を形作ることがあります。この音の多様性による諧調こそ本来の意味での諧調といえましょう。(詩原文と発音記号は略)[LAMARTINE,Nouv.médit.,ⅠⅩ.Ischia v.65~68]
(穏かな空から降り注ぐ柔かい光を浴びながら、月がミゼーノ岬のほうに滑るように傾き、曙の光のなかに色あせて見えなくなるまで、ジャスミンの花のしたに座り、わたしたちはいっしょに歌うだろう。)
 この4行詩は諧調に富んだ詩句として有名ですが、この比類のない流動的な美しさは母音と子音の巧みな組合せ、強勢音節と無強勢音節の調和のとれた連続から生み出されています。しかし、ここでは客観的な分析など不可能であり、また不要です。諧調の有無を判断するのは耳だけであり、諧調に富むとされている名詩をできるだけたくさん読んだり聴いたりして、われわれの聴感覚をみがくよりほかに道はありません。」
●引用終わり

 詩の音楽、諧調についてのこの著者の言葉は、詩句の本質を捉えていると私は思います。
 共感しつつ付け加えるなら、一番大切なのは詩が好きなこと、心から好きな詩を繰り返し読むこと、誰になんといわれようと自分ではいい、好きだと感じ言い切れる詩を書き繰り返し読んで自分の心の諧調・音楽をしることが、道だと思い私は歩いています。
 もうひとつ、音の諧調ととともに、日本語の独自の個性・魅力である、文字のかたち、ひらがな、漢字、かたかな、記号の組合せと流れも、詩の美しさ、諧調を形作っていることを忘れずに見つめる喜びを感じとることが大切だと思います。

出典:『やさしいフランス詩法』(杉山正樹、1981年、白水社)
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