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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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新しい詩「星のうた」を公開しました

ホームページ『愛のうたの絵ほん』の「虹・新しい詩」に、新しい詩「星のうた」を発表しました。

  詩「星のうた」

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tag : 高畑耕治 詩歌 詩人 詩集 うた 絵ほん

新しい詩「微笑みふっくら お月さま こころ絵ほん(はち)」を公開しました

ホームページ『愛のうたの絵ほん』の「虹・新しい詩」に、新しい詩「微笑みふっくら お月さま こころ絵ほん(はち)」を発表しました。

  詩「微笑みふっくら お月さま こころ絵ほん(はち)」

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tag : 高畑耕治 詩歌 詩人 詩集 うた 絵ほん

おたまじゃくしの真実。草野心平(二)

 草野心平の詩集『第四の蛙』(1964年、61歳)から、前回に続き好きな詩を紹介し、私の詩想を記します。
 この詩集の出版以降も彼は亡くなるまで詩集を出し続けました。蛙の世界を離れた彼の新しい詩の多くは、一人称の心平の思いを吐露したもののように感じます。直情、直述には良い面悪い面、強い面弱い面が、表裏のようにあると私は考えています。
 構築した作品の世界、蛙の世界では、心を述べ伝えようとするのは語り手の蛙です。作者は隠れているので、思い入れや強い訴えを注ぎこんでも、読者は蛙の世界での蛙の訴えに真実性があるかどうかを感じとります。そしてその声を真実なものと感じる時、読者は物語世界を超えた自分自身の世界でも共鳴する真実だと感じてしまうことさえあります。
 一方で、作者自身が顔を出した直情、直述は、はじめからこの世界、社会にいる一人としての声、訴えなので、発せられた言葉そのものが、この世俗社会での常識(たとえば金持ちは偉い)や日常の雑事の会話や主義主張と同じ場に置かれます。晩年の草野心平は、社会的な地位と評価を得ていたので、その草野心平の心境や考え方に近く生き方に興味をもつ人間には意味深い言葉であっても、詩としての普遍的な美しさや俗世での立場や性別、世代をも越えて訴えかけ共鳴を起こしうる詩本来の可能性は作品から薄れてしまっているように、私は感じます。

 次に、引用するのは、おたまじゃくしたちの会話の平易なひらがなの詩ですが、彼らの柔らかな優しい感受性から生まれた思いには、生きるということの真実が響いていると私は感じます。おたまじゃくしの言葉を聴きとりながら私は、おたまじゃくしも私のような人間と同じなんだ、そう思い、この詩に感動してしまいます。

<草野心平の詩の引用>

 おたまじゃくしたち四五匹

どうしてだろう。
うれしいんだのに。
どうして。なんか。かなしいんだろ。
へんだな。
そういえばあたしもかなしい。
うれしいからなんだよ。
そうかしら。
そうだよ。きっと。

  (みず。もやもやもや)

きみ。ひとりぼっち?
え?
わかんないなぼく。
ぼくはひとりらしいな。
どうかしらあたしは。

  (みず。もやもやもや)

ちがうよ。
みんなぼくたち。
いっしょだもん。
ぼくたち。
まるまるそだってゆく。
まるまる。
ぼくたちそだってゆく。

  (みず。もやもやもや)

きみもはなある?
あるよ。ふたつ。
ちっちゃなあな。
うふ。
からだ。ぼくたちべつべつだな。
ひとりずつね。
ひとりずつ。
ぼくたち。
まんまる。
おおきくなる。

  (みず。もやもやもや)

けど。
どうして。へんだなあ。
かなしいんだろ。
あたしかなしくないわ。
ぼくもかなしいなんて。てんでない。
へんだなあ。そうかなあ。
うれしいっていうことなんだよ。かなしっていうことは。
そうかしら。

  (みず。もやもやもや)

そうよ。きっと。
そうかな。
ひとりじゃないのね。
べつべつなんだけど。ひとりじゃない。
ほんとかな。
あんたいったわね。うれしいっていうことはかなしいっていうことって。
じゃ。かなしいことはうれしいこと?

  (みず。もやもやもや)

 <引用終わり>。

 ひとりであることと、ひとりではないこと。うれしさとかなしさ。この混じり合いぐあいがとてもよく表現されていて心に揺れ響きます。
 このおたまじゃくしと私も同じなんだという思いのまま、私が直情、直述に近いけれども、個人的な感慨ではなく、なんとか作品として伝えようとした詩を引用します。そのとき私には、虚構世界を構築する、創作することへの抵抗感、アフォリズムこそ真実ではないかとの疑念があり、模索していました。この作品集はその彷徨い渦中での果実です。
 「交わり ひとりであること(1)」(高畑耕治『死と生の交わり』から。)
 「交わり」(同上)。

 草野心平についての最終の次回は、私がいちばん好きな彼の詩を取りあげます。

出典:『草野心平詩集』(2010年、角川春樹事務所、ハルキ文庫)。
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tag : 高畑耕治 詩歌 詩人 詩集 草野心平

蛙の合唱。草野心平(一)

 私の好きな草野心平の詩を3回に分けてとりあげ、みつめます。彼の生まれは1903年(明治36年)で、前回までみつめた山之口貘と同年生まれです。獏が私の生年に60歳で亡くなったのと対照的に、心平は1988年まで長くしぶとく生きました。でもそれ以上にふたりの詩人に共通しているのは、各々の詩の独創性です。
 貘の詩も、心平の詩も、それぞれのひとりだけの顔立ちで、読めば貘、心平だとわかる心のしわが深くきざまれた独自の表情をしています。心平にはまた違う強烈な個性を放った兄弟、草野天平がいました(草野天平を青空文庫で見つけた)。

 草野心平の作品群のなかで、ひろく知られているのは、教科書に載ることも多い、蛙をテーマとした詩群です。もちろん異なる主題の作品も多く創りましたが、私は蛙の詩ひとつひとつが好きです。

 まずは、初めての第一詩集『第百階級』(1928年、25歳)から(初出形)で二篇「生殖 Ⅰ」と「冬眠」を引用します。

<草野心平の詩の引用1>

  生殖 Ⅰ

るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる

<草野心平の詩の引用2>

  冬眠
                  ●

 斬新な挑戦的な感性の詩、ともに一回きりの作品を、ポンと提示していますが、若い創作意欲が躍動していて、私はとても良いと感じます。
 心平の蛙をテーマとする詩集の中核は『<定本 蛙』(1948年、45歳)『蛙』(1938年、35歳)を踏まえてまとめられました。かえるの合唱などの表現力がとても独特で豊かなので、読む者に感じさせ考えさせる魅力に満ちています。「誕生祭」、「ごびらっふの独白」などよく知られている個性豊かな良い詩ですが、私は癖のある「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」も好きです。

 でも私はこの定本詩集以上に、『第四の蛙』(1964年、61歳)の作品をより深く心を掘り下げ襞まで感じ取り言葉の結晶とした作品だと感じるので、以降はこの詩集から特に好きな詩をみつめていきます。今回の詩は「恋愛詩集」です。(Aは略します)。

<草野心平の詩の引用3>

  恋愛詩集

    B

るりるよ。
死んだるりるよ。
そのときの君を思うとたまらない。
そのむねんさがよく分る。
未完成のガマニン弾をこねあげて。
君を食い殺した奴を見つけにゆきたい。
るりるよ。
けれどもじぶんにはヒル部落まで出掛けてゆく力がない。
もうそんな力は残っていない。
じぶんのために犠牲になったるりるよ。
無になったるりるよ。
じぶんもまもなく無になるだろう。
るりるよ。
君といっしょに見た西の太陽。
あのただれるようなよろこびは。
いまは血のかなしみになって眼にしみる。
もうすぐ満月ものぼってくる。
いっしょにこわあらむを歌いたかったよるりる。
死んでもきみと会えるとは信じない。
信じたいが分らない。
けれども無になることはそれに近い。
るりるよ。
月の花がひらいたよ。
たったいま。
いつものとこで。
るりるよ。
一億年のようにぼんやりして。
君とならんで。
月の花にでも化けたいよ。

ああ化けたい。

(引用了)。

 次のような詩句は私の思いを深く揺さぶり共鳴を感じてしまいます。
 「死んでもきみと会えるとは信じない。/信じたいが分らない。/けれども無になることはそれに近い。」作品のなかでの蛙の語りかけの言葉とわかりつつ、蛙の心は私の心、私も蛙になっています。
 今回は最後に、蛙になった私が歌った作品をリンクし、心平とともに、蛙になって合唱したいと思います。
 かえるの子守唄」 高畑耕治詩集『海にゆれる』から。

出典:『草野心平詩集』(2010年、角川春樹事務所、ハルキ文庫)。
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詩人・田川紀久雄の詩語り

 詩人の田川紀久雄さんのブログ「漉林書房通信 田川紀久雄日記」を、リンクに追加させて頂きました。詩や詩語りについて模索し続ける熱い想いを、癌と闘病されながら日々記されています。お読み頂けたら嬉しく思います。

 田川さんは、坂井のぶこさんと次の通り、詩語りを行われます。
第4回 いのちを語ろう ―生と死をみつめて―」
 演目予定(自作詩・金子みすゞ・高畑耕治)


 日時:3月10日(土)午後1時45分開場、午後2時開演。
 場所:東鶴堂ギャラリー
(横浜市鶴見区鶴見中央4-16-2田中ビル2F)
 料金:2000円。予約:044-366-4658 詩語り倶楽部(25名様まで)。

 今回、私の詩も演目予定に挙げてくださり、とても嬉しく感謝しております。
おそらく知らなかった新しい何かを感じ取らせていただけるのではないかと、楽しみにしています。
 
 田川紀久雄さんの詩についての詩想は以下にも記しました。
詩人・田川紀久雄への共感」。
田川紀久雄詩集『鎮魂歌 東日本大地震のための応援詩』の詩を紹介」。
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tag : 詩語り 田川紀久雄 高畑耕治 詩歌 詩人 漉林書房

地球の上での感受性。山之口貘の詩(三)

 沖縄出身の詩人、山之口貘(やまのくち ばく)の作品を通して詩を見つめ考えています。好きな詩の引用に続けて、☆印の後に、私の詩想を記します。最終の今回テーマは感受性、時間感覚、宇宙感覚です。

  

僕は間借りをしたのである
僕の所へ遊びに来たまへと皆に言ふたのである
そのうちにゆくよと皆は言ふのであつたのである
何日経つてもそのうちにはならないのであらうか
僕も、僕を訪ねて来る者があるもんかとおもつてしまふのである
僕は人間ではないのであらうか
貧乏が人間を形態して僕になつてゐるのであらうか
引力より外にはかんじることも出来ないで、僕は静物の親類のやうに生きてしまふのであらうか

大概の人生達が休憩してゐる夜中である
僕は僕をかんじながら
下から照らしてゐる太陽をながめてゐるのである
とほい昼の街の風景が逆さに輝やいてゐるのをながめてゐるのである
まるい地球をながめてゐるのである

☆私の詩想
 最終連に山之口貘の宇宙感覚がよく表われています。私が大切 、感じとることは違うという点です。
 私の私のための造語に「感主性」があります。感じ取ろうとすることです。
 山之口貘がこの詩を生むことができたのは、彼には、「空間と時間の果てがわかっていない宇宙のひろがりになぜか浮かぶ地球というこのまるい星の上に、今へばりついている」不思議さの感覚を、「感じ取ろうとして、感じていた」からだと私は思います。より素直に言うと、「僕は今この宇宙にどうして生きているんだろう」とつねに感じ取り、考えていたことが、彼の詩から伝わってきます。優れた詩人、詩の響きには、この声が微かに必ず宿っている、昼間も絶えず降り注いでいる星のひかりを浴びているように、と私は考えています。


  

草にねころんでゐると
眼下には天が深い



太陽
有名なもの達の住んでゐる世界

天は青く深いのだ
みおろしてゐると
体躯が落つこちさうになつてこわいのだ
僕は草木の根のやうに
土の中へもぐり込みたくなつてしまふのだ。

☆私の詩想
 前褐の詩で述べた、宇宙感覚がほんものであることが、よく伝ってくる詩です。上も下もない宇宙に浮かぶ地球の上から、「青く深い」天を「みおろしてゐると/体躯が落つこちさうになつてこわい」。
 山之口貘はこの感覚を生来的にいつも感じています。知識としては不要な、この感覚にこだわり、読者に伝えられるのが詩だと、私は思います。このことを感じうる心、感受性のやわらかさ、ゆたかさは、いのちを見るつめることに結びついています。だからけして不要なものではなく、とても大切なことだと私は考えています。


  夜景

あの浮浪人の寝様ときたら

まるで地球に抱きついて ゐるかのやうだとおもつたら

僕の足首が痛み出した

みると、地球がぶらさがつてゐる

☆私の詩想
 山之口貘の宇宙感覚を、最終の二行の詩句で、大げさに、少しわざとらしく、描いています。でも嫌らしさが匂わないのは、彼が初めてこのように表現したという独自性、新しさ、鮮やかさがあるからです。詩句となった表現の新しさそのものが、そのまま詩だということがよくわかります。
 詩としてこの詩句の独自性を印象的に繰り返すことはもうできません。作者が繰り返すと陳腐な表現に、他者が書くと盗作になってしまいます。散文では「足首に地球がぶらさがってゐるような感覚を覚えた」と表現を繰り返すことがゆるされるとしても。生きることがいちど限りであるように、いちど限りの表現として詩は輝きます。


  

食うや食わずの
荒れた生活をしているうちに
人相までも変って来たのだそうで
ぼくの顔は原子爆弾か
水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが
それというのも地球の上なので
めしを食わずにはいられないからからなのだ
ところが地球の上には
死んでも食いたくないものがあって
それがぼくの顔みたいな
原子爆弾だの水素爆弾なのだ
こんな現代をよそに
羊は年が明けても相変らずで
角はあってもそれは渦巻にして
紙など食って
やさしい眼をして
地球の上を生きているのだ

☆私の詩想
 遺稿詩集『鮪に鰯』の収録詩で、やはり整っている分、山之口貘独特の言い回しの輝きは薄れていますが、これまで記してきた特徴、ヒューマニズム、ユーモア、感受性が優しく響いている良い詩だとい思います。
 まとめに付け加えると、山之口貘は戦時・戦後を生きましたが、けして戦争賛歌やイデオロギーの声高な主張を書きませんでした。この詩にあるようにヒューマニズムのうえに踏ん張って、原爆や水爆、沖縄の状況についての批評精神の言葉を織り込んだ詩も書いています。それも彼の詩人としての豊かな表情のひとつであることを、見落としてはいけないと、私は思います。

出典:山之口貘全集 第一巻 全詩集(1975年、思潮社)
底本:『思弁の苑』、『山之口貘詩集』、『鮪に鰯』(遺稿詩集)。
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ユーモア、言語感覚。山之口貘の詩(二)

 沖縄出身の詩人、山之口貘(やまのくち ばく)の作品を通して詩を見つめて考えています。好きな詩の引用に続けて、☆印の後に、私の詩想を記します。今回のテーマはユーモアと彼独自の言語感覚です。


  再会

詩人をやめると言つて置きながら詩ばつかり書いてゐるではないかといふやうに
つひに来たのであらうか
失業が来たのである

そこへ来たのが失恋である
寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに

そこへまたもである
またも来たのであらうか住所不定

季節も季節
これは秋

そろひも揃つた昔ながらの風体達
どれもこれもが暫らくだつたといふやうに大きな面をしてゐるが
むかしの僕だとおもつて来たのであらうか
僕をとりまいて
不幸な奴らだ幸福さうに笑つてゐる。

☆ 私の詩想
 山之口貘ならではの独特な言い回しが躍動しています。「といふやうに」「のであらうか」「のである」の言葉の出し方と繰り返しが独自のリスムと(自分をつきはなして外から客観視する)とぼけた味わいに、読むものの心をなごませるおかしみと哀しみがにじみだしています。
 彼はどのようにしてこんな表現を身につけたのか? 天性の豊かさに生れたことはもちろんとしても、次の詩にみる要因があると私は考えています。


  晴天

その男は
戸をひらくやうな音を立てゝ笑ひながら
――ボクントコヘアソビニオイデヨ
と言ふのであつた

僕もまた考へ考へ
東京の言葉を拾ひあげるのであつた
――キミントコハドコナンダ

少し鼻にかゝつたその発音が気に入つて
コマツチャツタのチャツタなど
拾ひのこしたやうなかんじにさへなつて
晴れ渡つた空を見あげながら
しばらくは輝やく言葉の街に彳ずんでゐた

☆ 私の詩想
 沖縄出身の山之口貘にとって、生まれ育った沖縄の言葉と、上京して接した東京の言葉のギャップにはとても大きな溝があったように私は思います。大阪河内出身の私も語尾に「やんけ」と響かせる河内弁への愛着が強く、東京言葉の語尾につく「さ」の響きに、強い違和感がありました。私に比較できないほど言葉の差異を感じただろう彼は、言葉の響き、語感にとても敏感だったことが、この詩でわかります。
 「キミントコハドコナンダ」、「コマツチャツタ」、自分が生まれ育つときには使わなかったこのような言葉を、とても不思議な音として感じてしまうのです。私にとってこの意味を自然に伝える表現は「おまえどこにおんねん」、「こまってもた」(より正確には「わやや」ですが河内の人でないとたぶんわかりません)。沖縄の言葉の東京言葉とのギャップはこれ以上に大きいでしょう。
 山之口貘は、東京の日常言葉や、詩に使われる標準的な言葉を、遠いものとし眺めざるをえなかった、突き放して捉えることができたから、ふだん使われないような独特な言い回しに創り変えながら、楽しむことができたのではないかと、私は思います。


  賑やかな生活である

誰も居なかつたので
ひもじい、と一声出してみたのである
その声のリズムが呼吸のやうにひゞいておもしろいので
私はねころんで思ひ出し笑ひをしたのである
しかし私は
しんけんな自分を嘲つてしまふた私を気の毒になつたのである
私は大福屋の小僧を愛嬌でおだてゝやつて大福を食つたのである
たとへ私は
友達にふきげんな顔をされても、侮蔑を受けても私は、メシツブでさへあればそれを食べるごとに、市長や郵便局長でもかまはないから長の字のある人達に私の満腹を報告したくなるのである
メシツブのことで賑やかな私の頭である
頭のむかふには、晴天だと言つてやりたいほど無茶に、曇天のやうな郷愁がある
あつちの方でも今頃は
痩せたり煙草を喫つたり咳をしたりして、父も忙しからうとおもふのである
妹だつてもう年頃だらう
をとこのことなど忙がしいおもひをしてゐるだらう
遠距離ながらも
お互ひさまにである
みんな賑やかな生活である

☆ 私の詩想
 この詩もとても好きな詩で繰り返し呼んでいるうちに、山之口貘独自の言葉の言い回しが心に残ってしまい、まねしてみたくなったことがあります。彼の詩の言葉遣いにはそれだけの個性的な魅力があります。
 私の詩集『愛のうたの絵ほん』の詩「さらさら」と「ぴけ」は、この詩に特徴的に表われている山之口貘の温かみとおかしみのある言い回しの影響をあえて出そうと試みた創作です。主題には私の伝えたい思い入れを込めていますが、作品での一人称の語り手は高畑耕治ではなく、作品の主人公で、彼が山之口貘独自の言い回しをまねています。どのように感じていただけるでしょうか?


  数学

安いめし屋であるとおもひながら腰を下ろしてゐると、側にゐた青年がこちらを振り向いたのである。青年は僕に酒をすゝめながら言ふのである
アナキストですか
さあ! と言ふと
コムミユニストですか
さあ! と言ふと
ナンですか
なんですか! と言ふと
あつちへ向き直る
この青年もまた人間なのか! まるで僕までが、なにかでなくてはならないものであるかのやうに、なんですかと僕に言つたつて、既に生れてしまふた僕なんだから
僕なんです

うそだとおもつたら
みるがよい
僕なんだからめしをくれ
僕なんだからいのちをくれ
僕なんだからくれくれいふやうにうごいてゐるんだが見えないのか!
うごいてゐるんだから
めしを食ふそのときだけのことなんだといふやうに生きてゐるんだが見えないのか!
生きてゐるんだから
反省するとめしが咽喉につかへるんだといふやうに地球を前にしてゐるこの僕なんだが見えないのか!

それでもうそだと言ふのが人間なら
青年よ
かんがへてもみるがよい
僕なんだからと言つたつて、僕を見せるそのために死んでみせる暇などないんだから
僕だと言つても
うそだと言ふなら
神だとおもつて
かんべんするがよい

僕が人類を食ふ間
ほんの地球のあるその一寸の間

☆ 私の詩想
 前回とりあげた詩「玩具」とともに、私がいちばん好きな山之口貘の詩です。この詩を書けるのは彼しかいない、彼が沖縄に生まれたから初めて生まれた詩だと感じさせる詩です。
 彼の詩のもうひとつの魅力である感受性、時間感覚、宇宙感覚が最終行に浮かびあがっています。このことについて、次回とりあげたいと思います。

出典:山之口貘全集 第一巻 全詩集(1975年、思潮社)
底本:『思弁の苑』、『山之口貘詩集』、『鮪に鰯』(遺稿詩集)。

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心、ヒューマニズム。山之口貘の詩(一)

 沖縄出身の詩人、山之口貘(やまのくち ばく)の詩が私は好きです。生年は1903年(明治36年) で、1963年私が生まれた1ヶ月ほど後になくなったんだと知りました。
 今回から3回、私が若い頃愛読した彼の詩を通して詩を見つめなおし考えます。各回とも好きな詩の引用に続けて、☆印の後に、私の詩想を記します。今回のテーマは人の心、ヒューマニズムです。

  来意

もしもの話この僕が
お宅の娘を見たさに来たのであつたなら
をばさんあなたはなんとおつしやるか

もしもそれゆえはるばると
旗ヶ岡には来るのであると申すなら
なほさらなんとおつしやるか

もしもの話この話
もしもの話がもしものこと
真実だつたらをばさんあなたはなんとおつしやるか

きれいに咲いたあの娘
きれいに咲いたその娘
真実みないでこの僕がこんなにゆつくりお茶をのむもんか。

☆ 私の詩想
 ときおり引用されているのを見かける、愛されている詩です。言葉のリズムののびやかさと、最終行のおかしみに、読むとさわやかさを感じます。読んで楽しい詩が今は少なすぎると私は思います。


  玩具

掌にのこつたまるい物

乳房のまんまの

まるい温度

それからここにもうひとつ

これはたしかに僕の物です と

あの肌に

捺した

指紋

☆ 私の詩想
 山之口貘は詩の多くで、詩行とタイトルにひねりをくわえて味を出します。この詩もそうですが、男性視線でのこの詩のタイトルは、好き嫌いが分かれそうな気がします。それでも私がとりあげたのは、詩行に女性への思慕、乳房と肌の体温への愛情が偽りなくあふれていると私は感じるからです。はじめの3行がとても好きです。
「僕の物」という言葉にも蔑視ではなくて、喜びとひとりの大切な女性への愛情が響いています。


  妹へおくる手紙

なんといふ妹なんだらう
――兄さんはきつと成功なさると信じてゐます。とか
――兄さんはいま東京のどこにゐるのでせう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六、七年振りに手紙を書かうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです
そんなことは書けないのです
東京にゐて兄さんは犬のやうにものほしげな顔してゐます
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなつて
とひつめられてゐるかのやうに身動きも出来なくなつてしまひ 満身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです
ミナゲンキカ
と、書いたのです。

☆ 私の詩想
 一人称の告白体で書かれていますが、書き流されたのではなく、推敲の繰り返しにより言葉を選びぬいた作品、詩です。それを感じさせないのが詩人のちからだと思います。
 山之口貘は第一詩集のタイトルを『思弁の苑』としていることからも感じられますが、深く「考えるひと」で、自分をいったん突き放してとらえなおします。だから住所不定の身の上をあらわす言葉からも、おかしみの混じる明るい心の景色が広がってきます。


  親子

大きくひらいたその眼からして
ミミコはまさに
この父親似だ
みればみるほどぼくの顔に
似てないものはひとつもないようで
鼻でも耳でもそのひとつひとつが
ぼくの造作そのままに見えてくるのだ
ただしかしたったひとつだけ
ひそかに気を揉んでいたことがあって
歩き方までもあるいはまた
父親のぼくみたいな足どりで
いかにももつれるみたいに
ミミコも歩き出すのではあるまいかと
ひそかにそのことを気にしていたのだ
まもなくミミコは歩き出したのだが
なんのことはない
よっちよっちと
手の鳴る方へ
まっすぐに地球を踏みしめたのだ

☆ 私の詩想
 遺稿詩集『鮪に鰯』の作品です。私は山之口貘の詩は第一詩集『思弁の苑』の作品に、彼独特の個性と味があって優れていると思います。この作品は言葉が整っている分、彼の個性が薄れていますが、それでもとりあげたのは、この詩にも彼の詩のいちばんの良さが消え去ることなくあるからです。それは何か?

 今回とりあげた四篇の詩がどうして心に響くんだろ?
 山之口貘の詩の言葉の泉の輝きが生れ出てくる地下水として豊かに波うっているものは、人の心、ヒューマニズムです。
 森英介の詩を通して、現代詩には愛が欠けている、と私の想いを記しました。愛の純詩『地獄の歌 火の聖女』(四)。
 もうひとつ根本的なことだと思うことを付け加えると、人間として素直に大切だと感じられる心、思いのあたたかみ、いとおしみが欠けている、そのことにこだわり伝えたいとの思いが込められている本当の詩がおとしめられている、と感じています。

 誤解を避けるために付記しますが、そのような作品が生れていないわけではなくて、現代詩の主流を自称する詩人・評論家と彼らに迎合するマスコミに、ヒューマニズムの豊かな優れた作品を感じとる細やかな感性と詩心、詩精神がないだけだと私は考えています。
 私のホームページ『愛のうたの絵ほん』『好きな詩・伝えたい花』で紹介させて頂いている詩人の、詩の一篇一篇には、豊かな人間性が込められていて、心を洗われ、心に沁み、心ときめき、心あたたまり、心ゆれる、美しい個性の輝きがまばゆい詩作品です。

 人間が良い生き物か、悪い生き物か、その捉え方は人それぞれの感じ取り方考え方、信条、信仰だとしても、詩は人間による言葉を通しての心と精神の表現でしかありえません。だから優れた詩、人の心に届き、美しい、いい、好きだと感じとらせてくれる詩には、必ずヒューマニズムが響いています。 言葉による作品を通して、人の心の揺れ動く姿と温度を、独自の個性で新鮮な姿で浮かび上がらせ、伝えるのが本当の詩人だと私は思います。
 山之口貘はそのひとり、天性の優れた詩人です。

出典:山之口貘全集 第一巻 全詩集(1975年、思潮社)
底本:『思弁の苑』、『山之口獏詩集』、『鮪に鰯』(遺稿詩集)。
*生年・没年は、ウィキペディアを参照しました。
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tag : 高畑耕治 詩人 詩集 山之口貘 ヒューマニズム

心の歌、魂に響く詩を。『地獄の歌 火の聖女』(七)

 詩人・森英介、本名佐藤重男詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめています。
 彼の詩集から、強く感動した詩篇全体作品と、強い響きの詩句を含む詩連を選びました。(抄)とある詩は全体ではなく、引用を略した詩連があります。またこの詩集には聖書や他の詩人の詩からの多くの詩句引用があり、詩集を構成する一部として鑑賞できますが、以下では略しています。
 この詩人と詩集について最終の今回は次の五つの詩を感じとり、私が感動したままに詩想を☆印の後に添えます。

生(抄)、母、酬い(抄)、冬、 ねがひ。


  

あゝ
心臓が

ぴちと
たち切れさうです

(略)

あゝ
心臓が、

たち
切れる

☆ 私の詩想
 このひりひりするぎりぎりの、心の痛みは、この言葉でこのようにしか表せない、と感じてしまう表現です。心に刺さります。
 詩の源は、焼きつけられた強烈な心象、それを最も鮮明に写す言葉を探し出すことだと、詩の根本を思い出させてくれます。(このことについては以前つぎのエッセイを書きました。詩と詩集についての覚え書)。


  

わたしだけ
どうしていきることができないのです

老いたまへる母上よ
母上よ

いまは
小言ひとつおつしやらず

かなしみの
かほ

そらし
たまひて

いのり
そのことをゆるしたまへるか

母上よ
いまは

いきることもわすれて
歌つてゐるのです!

あゝ
かほふせたまひて!

☆ 私の詩想
 私も親不孝を重ねてきたので、この詩はとても痛く悲しいです。ただ心うたれるばかりです。
 素晴らしい詩歌、文学のひとつの証しは、読者は、この作品の言葉は私のことを、私の心を書いたのではないか?これは私の思い、私の言葉だと、感じさせてしまうことです。私はこの詩を私の言葉だと感じてしまいます。そのような詩です。


  酬 い

(略)

不在の
戸口に

一束(ひとたば)の
紫の

菫の 花を
差上げてきたところです

これだけが
私にできる

こころの
情けの

酬い!
いのり!

噫(ああ)
いまはゆるしあつて

愛しあつてはいけなかつた日のことを
めをつむりながらいだきしめてゐる!

☆ 私の詩想
 森英介の詩集のところどころに、小さな花が咲いています。この詩の「紫の/菫の 花」のように。
 詩心は花に寄り添っていると私は思います。詩心は心に宿る詩の種、詩の花を咲かせてくれます。
 森英介の詩心と通い合う心の種から咲いてくれた私の詩の花、あお紫の「りんどう」も、彼の詩の花といっしょに私の心に揺れて続けています。


  

わたくし
べつのくにへゆきたいのです

この冬のむかうに
べつのくにがあるのではありませんか

よんでください
おしへてください

きのふの
ミサは

わけて
かなしうございました!

☆ 私の詩想
 私が初めて読んだ森英介の詩です。詩人・中村不二夫さんが森英介についての文章(森英介『火の聖女』、初出「詩と思想」2000年8月号)で引用されていました。この詩を読んで私は彼の詩集を読もうと思い決めました。
 私が好きな八木重吉の詩「うつくしいもの」といのりのこころが通い合う、美しい詩だと思います。


 ね が ひ

おめしになつてください
肉体は

売りつくしてしまひました!
だれも

きずつきませぬやうに
きずつきませぬやうに

ほんとに
すみませんでした!

☆ 私の詩想
 最後の二連は、この詩人の裸の傷だらけの心そのもので、とても悲しく響きます。やはり既に書いたように太宰治と響き合っていると思います。同時代に苦闘した原民喜峠三吉の祈りの詩とも響き合って感じられます。
 良い作品を生み出しながら、太宰治は嫌われることも多いけれど愛され、森英介は忘れ去られそうでした。その原因は、小説と詩の違いだけでしょうか?
 良い小説家の良い小説を伝える小説家、評論家はいても、良い詩人の良い詩を伝えることのできる詩人、評論家が余りに少なかったためだと私は思います。党派意識、縄張り争い好きで他の良さを感じとれず傲慢で独善的な、吉本隆明(文学で意義ある仕事をしたと私は評価していませんのでここに名前をあげたくないのですが)、この人に代表されるマスコミ受け狙いの批評屋が、文学における詩歌の豊かさを、偏狭に隠し貧しく見せかけてきたことをとても残念に思います。
 今回私が、森英介と出会えたのは、詩人・中村不二夫さんの前述の文章が収録されている詩論集『詩の音』(2011年、土曜美術社出版販売)によります。良い詩を掘り起こし伝えることで詩の世界を豊かにしようとされ続けている中村さんの姿勢に私は強く共感します。今も心に響く良い詩は書かれています。そのような詩の存在を伝えるのが詩を愛する本当の批評者の存在意義ではないでしょうか。
 私もまた、書かれてきた、書かれている心の歌、魂に響く良い詩を伝えていきたい、そのような詩を私も生み出し伝えたい、それだけを今思います。

出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。ふりがなはカッコ( )内に記し、強調の傍点は略しました。
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美しい絵と音、いのり。『地獄の歌 火の聖女』(六)

 詩人・森英介、本名佐藤重男詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめています。
 彼の詩集から、強く感動した詩篇全体作品と、強い響きの詩句を含む詩連を選びました。(抄)とある詩は全体ではなく、引用を略した詩連があります。またこの詩集には聖書や他の詩人の詩からの多くの詩句引用があり、詩集を構成する一部として鑑賞できますが、以下では略しています。
 今回は次の四つの詩を感じとり、私が感動したままに詩想を☆印の後に添えます。

粉雪、火の歌、蒼穹(抄)、天の花束。


 粉 雪

凍えるやうな

水晶の

何んといふうつくしさ

あなたの

ひとみ

まぢかに澄み

凍える朝(あした)の粉雪(こなゆき)に

わたしは

これで

よいと思つた。

☆ 私の詩想
 心象と言葉に描きだされ浮かびあがる表象が溶け合っている、静かな美しい絵のような短詩です。詩の長短と、詩によって初めて生まれでる世界の拡がり・膨らみは、別のものだと、教えられます。


  火の歌

宇宙のまへに裸身となつて
またとない友情を信ずるやうになりました


生きていてください。


火の気のないこの部屋に
あなたのいのちの火の歌が


いま
うまれました。

☆ 私の詩想
 冒頭の「宇宙のまへに裸身となつて」、研ぎ澄まされた心だから生まれたとても美しい詩句です。静かなおだやかな慈しみにゆれる愛の歌、いのちのいのりの歌です。


  蒼 穹

はしる
はしる

青い海
はてしない蒼穹の

飛ぶ 飛ぶ
ちぎれぐも

(略)

あゝ
あゝ

けむりときえた
わたしのいつしやう

(略)

追はるゝ
わたしの

ちぎれぐも
蒼穹!

☆ 私の詩想
 心のかなしみが、言葉の響きとイメージにより、青空をちぎれ雲となって、ながれ溶けてゆくような、美しい詩です。


 天の花束

めをあけると
すいせんがのぞいてゐる

楚々たる
きいろ

つよい
よもぎいろ

香はしき哀愍(あいみん)の
汝が黒髪(くろかみ)

ひたひ め はな くち ほゝ ゑくぼ
ましろきうなじ

おくれ毛
みゝ

貝殻!
すなはまの

真珠の
肌の

とほき嘆きの
潮騒の

波うついのち
ちゝ 柔腰 せすぢ

野の
森の

かも鹿の
愁ひ漂ふ

気高き
脛(はぎ)の

嗟(ああ)
すいせん!

あふれる
感謝

わたしは
こんなにも純粋(ひとすぢ)になりました!

神秘の
くさむら!

☆ 私の詩想
色彩が鮮やかに心に広がる美しい絵のような詩です。
「わたしは/こんなにも純粋(ひとすぢ)になりました!」この詩句があるところが、森英介という詩人を教えてくれます。おそらく多くの「現代詩人」は、全体の作品構成を壊す余分なこのような直情の言葉をいれることを厭い避けます。詩の上手さ完成度を競いあうことに興味があるからです。
 わたしは、森英介が伝えずにはいられない思いを、作品をぶち壊しながら、歌うのが、とても好きです。本来の詩人だと感じます。彼が言葉、表現を粗末にする詩人でないことは、今回引用した言葉の音楽性と絵画性で心象世界を浮かびあがらせ膨らませる美しい作品群で十分に感じとれます。
 そのうえで、詩歌にとっていちばん大切なものは何か、書かずにはいられないもの、感動が心にあるかどうか、それだけだと、私は彼の詩に教えられます。

出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。ふりがなはカッコ( )内に記し、強調の傍点は略しました。

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太宰治と森英介。『地獄の歌 火の聖女』(五)

 詩人・森英介、本名佐藤重男詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめています。
 彼の詩集から、強く感動した詩篇全体作品と、強い響きの詩句を含む詩連を選びました。(抄)とある詩は全体ではなく、引用を略した詩連があります。またこの詩集には聖書や他の詩人の詩からの多くの詩句引用があり、詩集を構成する一部として鑑賞できますが、以下では略しています。
 今回は次の二つの詩を感じとり、私が感動したままに詩想を☆印の後に添えます。

禽獣(抄)、どぶ浚ひ(抄)。


  禽 獣

たとひ
禽獣のやうなひとでも

わたしのためにいき
いつしよに死んでくれるひとがほしい

明日は
最後なのだ

それが何んの関係があらう
非人間的な 聖女

平凡に
わたしとともに絶望し

不安に戦(をのの)いて生きてくれる
女のひとがほしいのだ

(略)

どたんばです
死んでからなど

とても
信じられるわけが無い

生きるといふこと
生きられないひとが

生計を
立てるといふこと

最後のひと日を
いつしよに生きるといふこと

噫(ああ)
恨みは 微塵(みぢん)もない

聖女の愚かさ
阿呆な詩人

酬いることもできないくせに
けふ一日(ひとひ)も苦痛なくせに

あなたと生きたい
あなたと生きたい

さう
おもつてくらしたのです

三年は
流れ

詩は少しも金にならず
生活が行詰り冬の風が戸をたゝきます

何故生きることができなかつたのか
今でもよくわかりません

まるで
世間には愚弄されどほしでした

今まで何をしてきたの!
あゝ わたし

詩の中を
歩いてきたのです

(略)

恋をしました
最後に!

そのひとは
肉身のない肉身の

聖女!
噫(ああ)

それゆゑにこそ
恋をいたしました

何んの恨みがありませう
禽獣のやうに慕つてゐるのです

(略)

あなた!
禽獣の哀しみをゆるしたまふあなた!

いま 禽獣が
禽獣であることにひざまづいたのです

かなしみに  鰥(やもめ)ぐらしに
感謝してゐるのです

さうです
聖女が

吠えつかれ
呪はれてゐるのです

あゝ
キリストは

☆ 私の詩想
 作者がこの詩集を『地獄の歌 火の聖女』と名付けた、その主題が激しく響いてきます。転落の思い、深い悲しみからの叫びにも似た裏返るような痛みに満ちた愛を求める肉声は、なぜか、いのりに限りなく近づいてゆきます。自らの醜さを凝視し吐き出す声は、愛を、本当に美しいものを求めずにはいられない魂だからこそ、生み出し得るものではないかと、私は思います。


  どぶ浚ひ

どぶ浚(さら)ひ
怖ろしいことだ

どんなよにも
流れ澱んでゐる溝の、

いくら浚つても
また溜る どぶ!

(略)

どぶは
どぶであることしかできないのだ

かなしい、
しかしくるしみたくはない

また浚つてくださるあなた
みてゐるのがたまらない!

放つといて
やせてはいけない

朝焼けの
美しい堤(つつみ)のうへを

思はず
感ぜず

かぜにふかれて
去りたまへ

ひとりで
くい そしてあらためて

這ひあがりたい
たとひ

てんらくしたとても
めをそむけてさりたまへ

むなしきいのち
むなしきあくた

何故に
浚ひ 愛し 涙するや

みぞのあくたに
生活も仕事もあるわけはない

いまは
つくりたまへるみのうへにかへるのです

あなた
どぶ浚ひ!

(略)
いつしよに
あきらめてうたひませう

ふたりのしごと
ふたりのせいくわつ

そんなもの
のぞむのがをかしいのです

むなしくさらひ
永遠によどむ

たゞそれだけの
主の はからひ

詩は
生きることのできないものゝ叫び
愛されたことのないものゝ涙
虐げられたものゝ訴へだ

どぶ浚ひ
どぶ浚ひ

芥の
嘆き!

☆ 私の詩想
 「かなしい、/しかしくるしみたくはない」という詩句や、終りの三連の詩句は、とても強く私の心のうちで反響を繰り返します。
 「禽獣」とともにこの「どぶ浚ひ」は、敗戦後の同じ時を生きた太宰治の資質と作品、とりわけ『斜陽』の直治の心象世界と、文学として重なり合っていて、とても近いと感じます。その心の世界は私の心を揺り動かし生きることを見つめ直さずにはいられない力を持っています。太宰は幸せには生きられなかったけれど、彼の小説は今も心から心へと木霊し続けています。私も太宰の小説が好きです。
 森英介のこれらの詩も、太宰の小説とともに、強い感動を呼び覚ましてくれるから、私はとても好きです。小説と詩、表現の形は異なっても、優れた文学は響き合っています。
 その木霊を聴きとれるひとの心に、森英介の心の愛の声がどうか届きますように。

出典:地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。ふりがなはカッコ( )内に記し、強調の傍点は略しました。

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愛の純詩『地獄の歌 火の聖女』(四)

 詩人・森英介、本名佐藤重男詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめています。
 彼の詩集から、強く感動した詩篇全体作品と、強い響きの詩句を含む詩連を選びました。(抄)とある詩は全体ではなく、引用を略した詩連があります。またこの詩集には聖書や他の詩人の詩からの多くの詩句引用があり、詩集を構成する一部として鑑賞できますが、以下では略しています。
 今回は次の二つの詩を感じとり、私が感動したままに詩想を☆印の後に添えます。

風雨哀哭(抄)、落日(抄)。

  風雨哀哭

生きてゐるうちは
いつしよにくらしてみませんか

天国も
いつしよにくらしてみませんか

(略)

秋の、 肌に 深くして
わたしは 悟りました

信ずるとは
歌ふことだと悟りました

あなたさまは
おしごとに死んではいけない

生きて

働いて
 
歌つて

いつしよにくらすのです

それで よいのです

あなたの

風雨のあとの

むらさきの

小さな 花

それでよいのです

台風が また くるかもしれません

あなたさまが もう

この世に

おいでにならぬとしたら

さらに あらためて

訴へまうしあげるでせう

生きて
ゐるうちは

いつしよに
くらして みませんか

☆ 私の詩想
 かなしい響きの求愛の歌です。現代詩が読まれない大きな理由に、愛がない、ことがあると私は考えています。現代詩は「技巧的に上手く構成したり理知を鋭くきらめかせたり寓意や比喩で実在しないものを浮かびあがらせたり」していますが、賢しらさが臭う言葉の伽藍を目にして、上手いと評価はできても、心うたれることがないので、あまり読みたいと思えません。愛がなくなったのではなく、詩や文学が本当に好きな人は、音楽を通して、また心豊かな近代までの詩歌を通して、愛を素直に自然に求めています。
 この詩の愛(かな)しみの声は、とても美しいと私は感じます。このような詩が私は好きです。


  落 日

(略)

あなたは

わたしとめぐりあつたのです

わたし

つまり 人生に絶望した

歌を失くした詩人

いや 詩人のやうな

それでゐて 決してさうでなかつた

或る漠とした 放浪児

さうです

それでもわたしは

あなたさまとなら生きられると思ひました

しかし

うまれたときから

わたしの人生は終つてゐたやうです

(略)

あなたに悪いけど

生きてみやう思ふのです

みんな忘れて わづかのほこりをすてゝ

人間のやうに!

コスモスが

いたるところ

あふれるばかりに咲いてをりました

愛するひとを愛しえずに!

☆ 私の詩想
 愛の歌、とても強く心に響きます。萩原朔太郎(『詩の原理』純詩)やポー(ポオの詩論『ユリイカ』)が詩論で繰り返し語っているように、私もまた、詩がいちばん詩らしい純詩は、純愛の詩だと思っています。愛の詩がいちばん好きです。そして悲恋ほど心うたれ哀切に感じるのが、ありのままの人の心だと思います。時代と場所にかかわりなく、これまでも、これからも、ずっと。
 この国でも古代歌謡(古代歌謡。無韻素朴の自由詩。)、万葉集の正述心緒(相聞歌、ただに思いを述べたる)から絶えることなく美しい愛の詩歌が歌われ続けていることを思うと、心が温まります。
 苦しみや悲しみに満ちた過酷な現代にあってほしいのは、愛の詩だと願っているのは、私だけでしょうか。

出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。ふりがなはカッコ( )内に記し、強調の傍点は略しました。
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tag : 森英介 佐藤重男 地獄の歌 火の聖女 萩原朔太郎 万葉集 古代歌謡 高畑耕治 詩歌 うた

詩ごころ子どもごころ。『地獄の歌 火の聖女』(三)

 詩人・森英介、本名佐藤重男詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめています。
 彼の詩集から、強く感動した詩篇全体作品と、強い響きの詩句を含む詩連を選びました。(抄)とある詩は全体ではなく、引用を略した詩連があります。またこの詩集には聖書や他の詩人の詩からの多くの詩句引用があり、詩集を構成する一部として鑑賞できますが、以下では略しています。
 今回は次の三つの詩を感じとり、私が感動したままに詩想を☆印の後に添えます。

 童子(抄)、捨身(抄)、七月

  童 子

暗がりに がさがさと
盥(たらひ)にもがく 夕べの小蟹

かに かに こがに
気になりて 眠られず

のぞきにおきる 暗がりの
かに かに かに 泡ぶくかに

おまへはどうして泡ふくの
何を憤慨してゐるの

かに かに
盥の こがに

ハサミふりたて あがくよ こがに
滑り落ちるよ 眼をむいて

夜更けに覗く千里(ちさと)さん
かには お家へかへりたい

かには 淋しく 哀しいの
こゝではない こゝではない

あゝ
朝になつたらかへします

こどもの蟹は お母さんのひざもとへ
親は こどものそばへかへします

千里さん
千里さんは泣いてゐる

無垢、 永遠の幼けなさ!

(略)

木に 花に 鳥に
風と 浪と 瞬く星と 太陽と

野も
山も

葡萄の畠 森の小逕
嗚呼

雲も 流れも 仔犬(いぬころ)も
すべて眠るもの 走るもの みないのち!

(略)

わたしはこどもにかへりたい

(略)

☆ 私の詩想
 ぜんぶ引用したい好きな詩なのですが、とても長いので略しました。本来的な詩人は子どもの心を失わずにいます。そのことをよく伝えてくれます。たとえば中原中也にも「嬰児」というやわらかなこころそのままの詩を書いています。
 子ども心は、歌が好きです。この詩の音感を大切にしている優しい言葉は、リズムをもって弾みながら、心にこだまします。


  捨 身

(略)

飢ゑじにの どんぞこの
むくろのそばに

よちよちとてをあげてはしりだす
またたふれる あの嬰児

あなたの むねは 
ぎゆんと こはばる!

☆ 私の詩想
 最終連の鋭敏な心の感じとり方と、言葉の選び方、表し方が、森英介の詩人としての資質を伝えてくれます。とても強く心に響き残る詩句です。


  七 月

ルルルル
ルッ ルッ
ルッ ルッ ルッ


生きてゐるうちに
生きてゐるうちに
生きてゐるうちに


ルッ ルッ ルッ
ルルルル
ルッ ルッ


生きて ゐるうちに
生きて ゐるうちに


ルッ
ルッ
ルッ


ルルルル





生きて
ゐるうちに


     ルルルル

☆ 私の詩想
 詩には、言葉の響きの音楽で伝える側面と同時に、文字そのものの形(ひらがな、カタカナ、漢字)と空白(詩句の言葉の間、詩連の行の間)で伝える側面があります。この詩はとても細やかな感性でそのふたつの技術で言葉と間を選び、すこしずつ形をかえながら流れる音と文字の清流のように形づくられています。とても美しい詩だと私は感じます。

出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。ふりがなはカッコ( )内に記し、強調の傍点は略しました。

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tag : 森英介 佐藤重男 地獄の歌 火の聖女 中原中也 高畑耕治 詩歌 詩人 詩集

いのり・魂・心・歌・詩『地獄の歌 火の聖女』(二)

 詩人・森英介、本名佐藤重男の詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめます。
 彼の生きざまを前回記しましたが、彼も詩人の峠三吉や原民喜、作家の太宰治と同じ過酷な時代を生き抜いたひとりの人間の心を深く知る文学者です。

 今回から、彼の詩を次のようにとりあげみつめていきます。彼の詩集は7百頁を超え、九十余篇の詩で構成されていて、個々の詩も長い作品が多くあります。どのような引用が最も良いか考えました。
 私は詩を読む立場では次のように考えています。詩作品全体で初めて得られる感動が一番大切ですが、それと同時に>心に焼きつく詩句それだけの裸身の輝きもまた、詩の偽らざる感動です。ですから、彼の詩集から、強く感動した詩篇全体と、強い響きの詩句を含む詩連を選ぶことにしました。
 具体的には次の著者による解説と16の詩作品です。
(抄)とある詩は、全体ではなく長さを考慮しやむを得ず略した詩連を含みます。

 解説(抄)、童子(抄)、捨身(抄)、七月、風雨哀哭(抄)、落日(抄)、禽獣(抄)、どぶ浚ひ(抄)、
粉雪、火の歌、蒼穹(抄)、天の花束、生(抄)、母、酬い(抄)、冬、 ねがひ。


 それぞれの詩について、感動したままに私の詩想を☆印の後に添えたいと思います。

 今回は森英介による詩集の解説冒頭の歌と言葉です。

●「解説」から。

これがわたしの歌、
誰かゞ遠くで泣いてゐる。
架橋のした、
うすくもりびの流れのみづおも。
どこへもゆかない
熱い いのりだけが残つた、
これがわたしの歌。

 詩は学問でもなく技芸でもない、その時々に燃焼する魂の記録、心の思ひ迫つた訴へにほかならないといふ朔太郎の言葉が真実ならば、私の歌も詩といへようか。


☆ 私の詩想
 「熱い いのり」、「燃焼する魂」、「心の思ひ迫つた訴へ」、そのような「歌」を、詩と感じるか、考えるか、人により、詩人により、異なります。それはそれで良いと思います。
 いつの時代にも、そのような歌を詩だとはみなさず見下した学者や自称専門詩人はいました。そして戦後、1945年以降に現代詩を自称、主張してきた大多数の知的な現代詩人は、同様に見下していると私は思います。だからこそ、森英介のこの詩集を埋もれさせてしまいました。

 私は少数派ですが、そのような歌こそ、詩だと考えている人間です。なぜなら、詩の本質は感動であり、感動は生きようとする人間の「熱い いのり」、「燃焼する魂」、「心の思ひ迫つた訴へ」、そのような「歌」だからです。素直に言えばそのような歌にめぐり会え触れえたときに感動せずにいられないから、私は文学、詩を好きなのです。

 そのような私には、現代詩人の知的な技巧に優れた巧みな構成の「現代詩」はうまいと思っても心ふるえないので、読むと虚しくさびしくなります。平安期貴族の唐の文芸を模倣した漢詩のようで、傲慢で得意げな気取りが鼻について嫌になります。
 でも一方で、いつの時代も、今も変わることなく、文学を、詩歌をかまえずに愛する人は、その心は素直に、そのような「歌」こそ詩だと、自然に感じとっています。読んで感動し時に心で涙します。そのように断言できるのは、私が「現代詩人」ではなく、そのひとりだからです。

 私が、素晴らしい詩だと感じずにはいられない、森英介の「歌」そのものを、次回から見つめます。

出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。

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tag : いのり 地獄の歌 火の聖女 森英介 佐藤重男 高畑耕治 詩歌

詩集『地獄の歌 火の聖女』と詩人(一)

 新しい年の初頭にあたり、新しい詩から発表を始めたい気持ちが強くありますが、作品は容易には生まれ笑顔をみせてくれませんので、詩について書きたいことから書き始めます。
 今回からしばらく、詩集『地獄の歌 火の聖女』詩人・森英介、本名:佐藤重男の詩をみつめ考えていきます。
 私は昨年暮れに詩人・中村不二夫さんの詩論集『詩の音』に収録された「森英介『火の聖女』」を読むまでこの詩人のことをまったく知らず、出会える機会がありませんでした。中村さんが引用された一篇の彼の詩「冬」に、彼が本来の詩人だと感じ『火の聖女』を古書を手にとりその思いを強くするとともに、このような詩人が詩を愛する人にひろく知られることなく忘れられてしまうのは、とても悲しいし、日本の詩歌にとってよくないことだとも思います。ですから、私の出来る範囲で感動を伝え、紹介したいと考えています。(このブログと同時に、ウィキペディアにも記事を書きます。)
 初回は、彼の生きざまの紹介です。以下の内容は全面的に、この詩集の復刻版に添えられた、堺誠一郎と松浪信三郎の文章により、適宜要約しました。

 堺誠一郎「森英介と火の聖女のこと」
 森英介は私より十二年下の若い友人であったが、彼は生前ついに一篇も売れなかった序詩を含む九十一篇の詩と、高村光太郎氏の序文、それに彼自身が書いた解説と跋を加えるとゆうに七〇〇頁を越える大冊の詩集を、みずから印刷工になって活字をひろい約半年かかって完成したが、仮製本一冊を手にしただけで、本が出来る二日前昭和二十六年(1951年)二月八日無名のまま三十四歳の短い生涯を終った。

 〈以下は、松浪信三郎「『火の聖女』の森英介」「詩学」昭和四十五年(1970年)十二月号初出も参照・補記しました。〉
 森は本名佐藤重男、大正六年(1917年)三月十三日、山形県米沢市生まれ。昭和十一年(1936年)早稲田大学哲学科入学、昭和十四年(1939年)中退。昭和十五年(1940年)結婚、昭和十六年(1941年)召集・浜松の航空隊入隊後、青森県三沢基地に転属、病いとなり豊橋の陸軍病院に送還され、昭和十八年(1943年)召集解除。長男、次男が生れた後、昭和二十年(1945年)の敗戦前に離婚。
 昭和十八年(1943年)豊橋陸軍病院にいるころ高村光太郎との文通がはじまり、敗戦後昭和二十一年(1946年)九月岩手県花巻の山小屋を訪ね初めて面会。同月、〈詩魂の恢復による政治文化の行動的統一と表現〉をめざして総合雑誌『労農』を米沢で創刊。第三号に、佐藤徹というペンネームで初めて詩「アヴァンギャルドの歌」を発表後この号で休刊。
 放浪後昭和二十二年(1947年)東京で彼の「火の聖女」澤由紀夫人にめぐり会った。夫人は敗戦後台湾から夫と三人の子供たちと引揚げ、社会教育関係の婦人団体に所属し、上野地下道に群がる戦災孤児や身寄りのない女性たちの世話をしていた。彼女の姿は森にとって生きた聖母マリアとして映った。このころから彼は本格的に詩を書き始め、彼の詩のほとんど全部は死ぬ前の二年間に書かれている。
 これらの詩はすべて聖女をたたえる歌である。美貌の聖女は彼にとって信仰の導き手であると同時に、肉体を持った現実の女性であり、彼は全身全霊をもって彼女に恋いこがれた。生活の面でも愛情の面でも彼は地上の幸福から遮断されることで地獄の住人でしかなく、そのことによって次第に信仰に昇華して行った。昭和二十五年(1950年)五月米沢市の日本カトリック教会で洗礼を受けた。
 詩集『火の聖女』は、彼の死後米沢で二百部発行。早大同窓の堺誠一郎の尽力により文芸評論家の武田友寿と古田暁の賛同のもと作家の井上靖、遠藤周作、詩人の田村隆一、村野四郎、井上洋治、同窓の(現・早大文学部教授)松浪信三郎の推薦文を得て、1980年北洋社の阿部礼次編集長により復刻、発行された。原詩集にある土屋輝余子のデッサン三点のうち一点も収録されている。
 
 次回から、彼の詩集と詩をみつめていきます。

 出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年)。
 参考:中村不二夫「森英介『火の聖女』」(「詩と思想」2000年、8月号初出。詩論集『詩の音』2011年所収、ともに土曜美術社出版販売)。
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