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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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坂井のぶこ詩集『浜川崎から Ⅱ』。小鳥のような、雫のような、自由律。

 私も参加させて頂いています手作りの詩誌『たぶの木』や、詩誌『操車場』で作品を発表され、既に何冊ものご詩集を出版されている詩人の坂井のぶこさんが、新しい詩集『浜川崎から Ⅱ』(2013年9月、漉林書房、2000円)を出版されます。
 今回はこの詩集から、言葉の花をここに咲かせていただき、みつめ感じとらせて頂いたことを記します。

 詩人は「あとがき」でこの詩集に込めたもの、この言葉の花束がどのように生まれたかを、次のように告げ知らせてくれます。

◎ 引用 坂井のぶこ詩集『浜川崎から Ⅱ』。あとがき。
 「暮らしの中から滴り落ちた雫のような言葉たち」
 「ささやかな幸せと心の平安が欲しい」、「それを得るためにはなんと多くの感情の揺れを経験し、歩き続けなければならないことか。」
 「時々まわりの些細な出来事、取り巻いている風景が限りなく愛しく、抱きしめたくなります。陽の光、影、鳥の鳴き声、植物の香り、肌に当たる風、遠くの工場の煙、すべてを言葉にしたくなります。そういうときにすでにわたしは幸せなのかもしれません。」(引用終わり)。
  
 私はこの言葉を読んで、この詩人の現在にとっての詩、詩の生まれ出るところ、詩として書きとめ、伝えようとしている思いが、自由律俳句にとても近しいと感じます。
 尾崎放哉(おざきほうさい)や種田山頭火(たねださんとうか)が、伝統俳句の定型、約束事の屋敷から、歩み出し放浪して探しつつうたった心と、木魂しあっていると感じます。
 二人の俳人は世捨て人となりましたが、日常生活を捨てきることはできなくても、それは度合いの違いであり、心は世捨て人として生きる道もあります。
 坂井さんの言葉は、この地の囚われから飛びたとうとする小鳥たちのよう、とても自由に軽やかに思いのままに跳ね踊る言葉の雫の音楽のようです。

 尾崎放哉と種田山頭火と坂井のぶこさんの詩歌は、宮澤賢治の最晩年のノートに書きとめられた「雨ニモマケズ」とも深く響きあっていると私は感じます。
 この四人に共通しているのは、詩歌にとって、言葉、修辞がすべてといえるほど重要な要素であることを修練し創作した時期を経てわきまえたうえで、そこから歩み出て、「詩らしさ」「修辞」「定型」を、「捨てた(といえるほどまで最小に抑えた)」言葉の表現、自由律の詩歌を歌っていることです。
 
 私は、言葉の表現力、意味、イメージ、音数・音色・リズム、韻、間、字形、行数、行間、長短を活かそうとし、抒情性、叙事性、リアリズム、虚構性、象徴性、時間性、物語性など多様な可能性を追求する詩歌の創作者を尊敬し、そのような作品の美を愛しているのと同じ強さで、南十字星と北極星のように対極に輝く、修辞を削ぎ落としたうたを心から愛します。

 「多くの感情の揺れを経験し、」「暮らしの中から滴り落ちた雫のような言葉たち」に、私の心は自然に共感してふるえだします。その感動を感じとれる時間は、心の世捨て人でありがちな私も、幸せをみつけている気がします。

 以下は、詩集『浜川崎から Ⅱ』から、私がとても好きな、心がいちばんふるえた、自由律を奏でる言葉を、とても自由に摘み取り、ここに咲かせました。詩集で読者それぞれの方の心に近しく微笑みかけてくれる花を見つける幸せを探していただけたらと、思います。
(☆の記号は、区切りを表示するため私がつけました。詩集では鉛筆のかわいい絵文字になっています。)

◎ 引用 坂井のぶこ詩集『浜川崎から Ⅱ』から。

かなしいぞ
かなしいぞ
雨がふるのも
風がふくのも
なんだか魂にひびくのだ
かなしいぞ
かなしいぞ
お前の瞳の緑の色が
ピンと張ったヒゲが
わたしもお前も生きている
柔らかい毛にそおっと触る
いつでも今日が最後だぞ
お前の瞳がそういっている

  ☆

旅にでたいなと
魂がいった
今はだめだよ

頭がいった
つまらないなあ

魂ちゃんはいった
心はそっぽをむいて
朝顔に水をやっていた
朝顔が咲いたら旅に出た気持ちに
なれるかなあ

  ☆

私はうたう
うたわずにはいられない
伸びてゆく草
三日月と星
眼に映る美しいものに対して
夏草の香り
土砂降りの雨
猫のシッポ
サボテンの花
オシロイバナの匂い
浜川崎も今は夏になった
この国は今放射能だらけになり
とてつもない重荷を背負わされては
いるのだが
それでもうたわずにはいられない
僅かな命の営みでも
美しさを見出さずにはいられない

  ☆

夜になると泣く
えーんえーん おーんあーん
うるさいといわれる
考えるんじゃないよといわれる
どうしてこんなにむなしくなるのだろう
暗い道をひとりで歩いてゆく
終りのない悪夢をみている
山沿いの道が頭に浮かんでくる

 ☆

煌めきはどこから生まれるのだろう
なにもない状態に自分をもどすことからしか
それは生まれては来ない
独りになったとき
心の奥に透き通った月の光や
風の響きが満ちてくる

(詩集、引用終わり)。

 次回からは自由律俳句のエッセイに戻り、尾崎放哉と種田山頭火を見つめていきます。


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tag : 坂井のぶこ 詩集 浜川崎から 詩歌 詩人 高畑耕治

荻原井泉水。句の完結性と詩行の緊密度。自由律俳句(五)

 俳人・荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、明治十七年・1884年~昭和五十一年・1976年、東京生まれ)を通して、自由律俳句を感じとります。
 彼が編纂者である出典に載せられた井泉水の俳句は、晩年の作品が中心ですが、自薦の作品といえます。

 前回、俳句を「象徴の詩」といった彼の言葉から、詩の長さについて想うことを記しました。彼には「象徴の詩」にふさわしい、最も適した、字数、音数についての、体感的な感覚があったと思います。それは伝統的な十七文字からかけ離れたものではありませんでした。

 そのうえで、私が興味深く感じたのは、彼が「連作」詠み、自薦していることです。自由律俳句であっても、一句には十七音前後の完結性がふさわしいと考えていた彼が、詩のかたちでさらに踏み出そうとしたときに、一句一句が完結しつつさらに響きあう広がりをあわせもつ「連作」の可能性を探求したように、私は感じます。

 以下、私が印象深く好きだと感じた数句を引用し、詩想を◎印の後に記します。

 蝶連作 十句
  健康とは、病気のあとの蝶がとんでいる
                    五月
  門はさして蝶々、郵便はポストにくる
  蝶として生れたことを舞いに舞う
  春は音もなく羽ばたいてくる蝶か
  橋があるので蝶々、橋を行く
  蝶のあとから参る
  蝶が消えたので風がある
  絶壁、蝶がのぼる
                   (鎌倉)
  蝶々、一の鳥居からは渚になる
                   (瑞泉寺)
  富士の見える座禅石、蝶が坐っている

◎一句一句が独立した簡潔性をもちながら、連作としたことで、句と句の間に、心理的な「時間の流れ」「物語性」が生まれています。
 その時間は一方向にばかり流れるものではなく、逆流して遡ったり、重なり混じり濁りあったり、泉のように突然湧き出したりします。
 この十句の響きあいの「時間の流れ」「物語性」をどのように感じ取るかに決まった正解はなく、読者に委ねられています。ひとりの読者でさえ、読み返すたびに、作品に感じる時間性の感覚は変わる可能性すら許されています。
 前回、一句の内部の音数律の組み合わせの自由さを、自由律俳句の特徴として見つめましたが、連作における句と句の響きあう形の自由さもまた、自由律俳句の優れた可能性だと私は思います。

 同時にこの作品は、もう所謂「詩」との違いはなく、「蝶連作 十句」というタイトルを変えて「蝶」とすれば、「詩」といえます。定型俳句の流れから生まれた口語自由律俳句と、新体詩の流れから生まれた口語自由詩が交わるところにある作品だと思います。

 口語自由詩においても、行の独立性、改行、行間は、詩と行分ける散文(形だけ詩らしく改行した散文)の違いを生む、緊密度が必要な要素だからです。連作の一句一句の独立性と、詩連を形作る詩行の緊密度には、ほとんど質的な差異はないと私は感じます。
 新しい詩型は古典詩歌の破調、破調はやがて自然に感じられる時がきて、詩歌の川の流れはより豊かに輝きます。

 星 十句(から二句)
  夕べ一つ星無数のつづく星を予言して、消ゆ
  夜の星か露草の露として朝に満つ

◎十句ありますが、連作意識は弱く、この二句が独立した句としてそれぞれ美しいと私は感じました。

 狂体 二句 (アポロ十一号月面着陸)
  月へうさぎ狩りに行く詩人(うたびと)ではなく
  月から見るわが地球の円き青きうつくしさこそ

◎「狂体二句 (アポロ十一号月面着陸)」と付記されてこそ強さが増すので、タイトルを含めた全体を作品と捉えるのが良いと感じさせる、まとまりがあります。口語自由詩がタイトルと本文のまとまりの作品であることと似ています。

  いのちまだ死なずにいた蝉のまた鳴く

  たしかに枯れ色の蝶の、この葉ではなく        

◎独立した二句。それぞれ完結した美を奏でつつ、木魂し、響きあいをも感じさせます。象徴の詩であり、彼の人間性とまなざしを感じる、好きな句です。

 次回からは、荻原井泉水を師とした二人の強烈な個性、種田山頭火と尾崎放哉を通して、自由律俳句を見つめます。

 出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房)


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 俳句 自由律俳句 荻原井泉水

荻原井泉水。象徴の詩。自由律俳句(四)

 今回は自由律俳句を切り拓いたもう一人の俳人・荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい、明治十七年・1884年~昭和五十一年・1976年、東京生まれ)を通して、自由律俳句を感じとります。
 最初に出典から、彼が俳句をどのように捉えていたかが、よく伝わってくる言葉を引用します。

● 以下、出典「井泉水の自由律俳句」からの引用です。

「一つの鍵」大正三年、一九一四年、『自然の扉』
 「俳句は印象の詩である。ただ、目に触れた印象を印象的に表白したといふだけではつまらない。その印象は如何に小さいものであつても、大きな自然を思はせるものでなくてはいけない。(中略)これを巨細な描写をしても駄目である。却つてそのものを失ふ。これは短い言葉で暗示的に表現してこそ初めて其心持を伝へることが出来る。
 俳句は印象より出発して象徴に向ふ傾きがある。俳句は象徴の詩である。」(引用終わり)。

 私は最後の言葉は、俳句の本質を捉えていると思います。「俳句は象徴の詩である。」。印象の強さと、短い言葉で暗示的に表現してこそ、俳句という文芸を、その強み、奥行き、深みである「象徴」にまで高められるのだと感じます。
 彼が自由律俳句という新しい方向に進みながら、「短い言葉」から踏み外さなかったのは、伝統の十七音の長さに捕らわれたためではなく、短いからこそ象徴に高められるという本質を体感していたからだと私は思います。

 口語自由詩での長詩の創作に私は拘りを持っていますので、言葉は長く費やすほど、少なくとも詩行においては象徴性が薄められていくと思います。(ですから長い作品そのものを象徴にまで高めることに私は情熱を注ぎ込んでいます。)

 次に、このような俳句観にたって彼が生み出した俳句から、私が印象深く好きだと感じた数句を引用し詩想を◎印の後に記します。

● 以下俳句は出典からの引用です。

  力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝

◎「象徴」は意味の明確性とは対称にあり、なんとなく感じとるものです。冒頭句「力一ぱいに」が印象強く最後まで響きます。音楽性に富み、「泣く、啼くNAKU」の繰り返し、「児とkOTO」と「TOriTOnO」は母音オO音、特に「とTO」音が、リズム感を生み出しています。

  みどりゆらゆらゆらめきて動く暁

◎この句の魅力は音楽性「ゆらゆらゆら」に感じます。

  けふはいちにち光なき海が悶え寄る

◎彼のいう、強い印象そのものの句で、「悶え寄る」という擬人化の詩句から立ち昇る「象徴」そのものは読者に委ねられています。男性としての私の感覚からは海に女性が重なりますが、読者の自由です。俳句は作者による意味、イメージの限定が弱く、読者の自由度が高い文学だと思います。

  冬日きらめき魚引き上ぐる君らの裸

◎この句は逆に、漁師の動きを絵画的な情景として描いている分、読者の自由度は狭く、一枚の絵を目の前にするかのような句だと思います。

  かなかな鳴きつぐかなかなはなくてふと暮るる

◎音楽のような句でせみの鳴き声に包まれます。「かなかなKANAKANA」、「なNA」の音が響きわたったあと、「なくて」で急転し、「ふとくるるfUtokUrUrU」と静かな「ウU」音に静まってゆきます。調べの美しさ、情景が溶け、象徴に高まっています。

  空を歩む朗々と月ひとり

◎擬人化をまじえた叙景だけの句ですが、心象風景と重なり合う、象徴の句だと感じます。

  妻の追憶のすつぱい蜜柑を吸うてゐる

◎「つま」「ついおく」の「つtU」、「すっぱい」「すうて」の「すsU」、母音「ウU」音が主調に静かな調べが、追憶の思いのさびしさを震わせています。

  仏を信ず麦の穂の青きしんじつ

◎「信ず」「しんじつ、真実」、観念、理念の言葉を織り交ぜながら、押し付けがましさや説教を感じさせないのは、「麦の穂の青き」が、象徴になりえているからだと感じます。

  自分の茶碗がある家に戻つてゐる

◎しみじみとした感慨の句。自由律俳句だからこその味わいがあります。

 荻原井泉水は92歳でなくなりました。彼の弟子の尾崎放哉と種田山頭火を見つめる前に、次回は井泉水の戦後の句を通して、自由律俳句を感じとります。

出典『俳句の歴史 室町俳諧から戦後俳句まで』(山下一海・1999年、朝日新聞社)十七.自由律俳句の誕生。

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詩誌『たぶの木』 7号をHP公開しました。

 手作りの詩誌『たぶの木』7号を、私のホームページ『愛のうたの絵ほん』に公開しました。
  
   詩誌 『たぶの木』 7号 (漉林書房)

 漉林書房の詩人・田川紀久雄さん編集・発行の小さな詩誌です。
 私は作品を活字にでき読めて、とても嬉しく思います。
 参加詩人は、田川紀久雄、坂井のぶこ、山下佳恵、高畑耕治です。ぜひご覧ください。


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tag : 詩人 たぶの木 田川紀久雄 坂井のぶこ 山下佳恵 高畑耕治

新しい詩「母」をHP公開しました。

中塚一碧楼。一度きり、水滴の美。自由律俳句(三)

 前回につづき、中塚一碧楼(なかつか・いっぺきろう、明治二十年・1887年~昭和二十一年・1946年。岡山県生まれ)の自由律俳句から、私の心に特に響いた作品をとりあげ、詩想を記します。カッコ( )内は現代かなづかいでの読みを私が加えたものです。

 今回は、自由律俳句の音数律の自由度について、掘り下げて考えます。

  夜の菜の花の匂ひ立つ君を帰さじ (よるのなのはなのにおいたつきみをかえさじ)

 この句も、切れ字の伝統を捨てていて、上・中・下の明確な切れ目がありません。詩句の意味の切れ目は「よるの・なのはなの・においたつ・きみを・かえさじ」ですが、どこをつなげごこで切るかは読者の任意性にまかされていて、「よるのなのはなの8音・においたつきみを8音・かえさじ4音」とも、「よるの3音・なのはなのにおいたつ10音・きみをかえさじ7音」など幾通りかの読み方ができます。
 俳句は短い字数なのでこの音数律の自由度、切れ目の任意性があっても、短詩、句としてのまとまりを感じます。

 さらに字数を多くして多行にまで拡大させた場合、詩としてのまとまりは崩壊し、散文に限りなく近づき、ほとんど変わらなくなると私は思ます。散文も読みやすさを考慮して句読点はつけますが、それの位置を動かすことに対して書く手のこだわりはそれほど強くありません。
 ですから私自身は、詩歌であることにこだわる作品を書く場合には、必ず余白、改行、句読点の位置を明記、して、読む字数、詩句の切れ目、読むリズムを、表現します。その拘りの意識のない、なんとなく詩のかたちにした作品が行分け散文です。

 自由律俳句を生みだした俳人たちが、意欲し宣言したものの、従来の俳句の字数17文字を大きく超えたり、複数行にわたる作品を作らなかったのは、短詩型への志向、好みだけではなく、上記の理由による詩とする難しさを感じたからではないかと、私は考えます。

 以下に、中塚一碧楼の自由律俳句から、私がいいなと感じた作品を引用します。

          ふるさと、二句
  青田の中白雲のひゞき地に入る
  青き海へ礫す弟と小石あらむ限り


☆連句としての意識が、初句の「青」に働いています。

  水鳥を見たはかない満足で帰ります

☆口語調による散文化を敢えて意識し選んでいます。

  あはれ蝉のうまれ出でし木のもと
☆生と死を見つめる、感動の強い句。

  一つの星のほのかなるや星のつらなり

☆「ほHO」の音の頭韻が美しい。

  山一つ山二つ三つ青空

☆「一つ」「二つ」「三つ」が童話調で優しい句。

  とつとう鳥とつとうなく青くて低いやま青くて高いやま

☆字数の伝統の殻を自由に破るんだと意志を感じるのびやかな句。

  松の木のすがた又の松の木のすがた冬の日ひかり

☆「まMA」の音の頭韻と、「の」音の繰り返しが生むリズムが音楽的な句。

 これらの作品を読むと私は、水滴の美しさを感じます。言葉の滴です。自由に揺れ光を変化させるそのやわらかさが、美しいと感じます。そのかがやきの姿は一度きり生れて二度と生れず、規則性、再現性がありません。
  水滴は限られた条件を超えては大きくなれず、割れ壊れ流れてしまいます。自由律俳句の美しさは、水滴の割れる寸前のゆらめきにあるのだと私は感じます。

■ 出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房)

 次回は、ほぼ同時代に異なる個性で自由律俳句へと歩んだ俳人をみつめます。

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tag : 中塚一碧楼 自由律俳句 詩歌 詩人 高畑耕治

中塚一碧楼。切れ字の伝統を捨て自由を。自由律俳句(二)

 前回は、中塚一碧楼(なかつか・いっぺきろう、明治二十年・1887年~昭和二十一年・1946年。岡山県生まれ)の自由律俳句の宣言ともいえる言葉について考えました。
 今回は、彼の自由律俳句そのものから、特に私の心に響いた作品をとりあげ、詩想を記します。カッコ( )内は現代かなづかいでの読みを私が加えたものです。

  児の心ひたぶるに鶏頭を怖づ (このこころひたぶるにけいとうをおず)

☆音数律は、5音・5音・7音で、通常と同じ17音ですが、中・下の通常7音5音が逆転しています。「ひたぶるに」の5音のあと通常音数ある2音を期待する「ため」のような時間が生まれており、「けいとうおおづ」の7音は通常音数5音に付け加えられた「おづ」が字余りで浮き出し強調される効果がでています。心象の強いイメージの句ですが、「鶏頭」が鶏のトサカそのものか、同名の花を指したのか、私にはわかりません。どちらにしてもその強烈な「赤」色を怖れる心理はわかります。

  親鳥まどろみ春の潮鳴りたうたうたう (おやどりまどろみはるのしおなりとうとうとう)

☆音数律は、8音・7音・6音の21音です。上は3音余計にある長さが「まどろみ」という意味とあっています。
 下の「とうとうとう」は母音「オOウU」の音色の抑揚と繰り返すリズムで、波のイメージと溶け合っていて、音と表象が一体となり心に浮かび揺れ動きます。

  蚊遣りの草のしめりを知りたりしふたり (かやりのくさのしめりをしりたりしふたり)

☆とても音楽的な句です。「の」が2音、「り」が6音、「し」が3音、畳韻のように繰り返され、「しsI」と「りrI」に隠れた母音I音が、全19文字中の半数近い9文字に響いています。
 上・中・下の区切りが、切れ字を捨てて曖昧にしているのも自由律俳句の特徴です。この句の場合、意味の切れ目の「かやりの・くさの・しめりを・しりたりし・ふたり」をどのようにつなげるかは、読者の任意で、「4音・7音・8音」でも、「7音・4音・8音」、「7音・9音・3音」どのように切っても間違えではありません。その自由度が自由律だからです。さらに言えば作者は、上・中・下、句の中に2回の深い切れ目を置くことにも拘りを捨てているので、俳句の伝統から読者が自由に2回の切れ目を選んでいるとも言えます。

  わが行く冬の野の小鳥よ翔ちて小鳥よ (わがゆくふゆのののことりよたちてことりよ)

☆この句は全20音で、やはり上・中・下の読み方にも広い自由度があります。「わがゆく4音・ふゆのののことりよ9音・たちてことりよ7音」、「わかゆくふゆの7音・ののことりよ6音・たちてことりよ7音」、「わがゆくふゆののの9音・ことりよ4音・たちてことりよ6音」。恐らく作者は、読者がどこで何回切ってもかまわないと考えていると思います。

 麦秋の河のうねりうねり入る海や (ばくしゅうのかわのうねりうねりいるうみや)

☆この句も幾通りにも切れるからこそ自由律です。作者が切れにこだわりがあったなら、たとえば切れ字に代わる表現方法を工夫して、「麦秋の河の うねりうねり 入る海や」のように余白を入れるか、「麦秋の、河のうねりうねり、入る海や」とすることもできただろうからです。

 次回は、自由律俳句のこの音数律の自由度について、もう少し掘り下考えます。

 ■ 出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房)

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tag : 中塚一碧楼 自由律俳句 詩歌 詩人 高畑耕治

中塚一碧楼。根なし草、継承。自由律俳句(一)。

 前回まで、俳句という文芸に固有な季語のうち、花の名を季語とする美しい俳句の花を感じとってきました。
 今回からは一転して、季語に捕らわれない新しい俳句を創ろうとした四人の俳人を見つめ、その作品を感じとります。
 俳句という文学形式について、季語だけでなく、根幹にある音数律(5音7音5音の十七音)、たとえば、「ふるいけや(5音)、かわずとびこむ(7音)、みずのおと(5音)」この音数律の型をも壊して、新しい俳句を創り出そうとしました。自由律俳句です。
 もう一点、当初は文語交じりでしたが次第に口語表現を見つけていきました。口語自由律俳句です。

 私が書いている詩も明治時代の、文語定型詩から、口語自由律詩へと移り変わってきました。俳句の口語自由律と同じ方向性への歩みといえますが、短詩形文学の短歌と俳句は、字余り、字足らずを許容し、時に破調さえ生まれはするものの、今なお文語定型律が詠まれ続けていることからもわかるように、音数律はその文学形式そのものとも言える強く硬い枠組みです。十七音が俳句、三十一音が短歌、と言い切れるほどの強さの揺るぎない。

 今回はまず、中塚一碧楼(なかつか・いっぺきろう、明治二十年・1887年~昭和二十一年・1946年。岡山県生まれ)の自由律俳句の宣言ともいえる言葉を、出典から引用し、彼の志に感じた私の詩想を記します。

出典からの引用
● 一碧楼の自由律宣言
「俳句ではない」(大正二年、1913年、「第一作」第七号)
 「私の詩を俳句だと云ふ人があります。俳句ではないと云ふ人があります、私自身は何と命名されても名なんか一向構はないんです。(中略)私の詩は今迄言ふ俳句とは全く立脚点を異にして居るのです、第一私は俳句から最も大切な季題趣味といふものを何とも思つて居りませぬ。(中略)私は全然季題の囚はれから脱し得たと自信して居ます。私の書いた詩に季語があるから俳句と見られ、季語が無いから俳句ではないと云ふ様にみられる事は私は最もつらい事なんです。(中略)形式が十七字そこらにならうと、三十一字そこらにならうと幾字にならうと構ひませぬ。」
● 出典 『俳句の歴史 室町俳諧から戦後俳句まで』(山下一海・1999年、朝日新聞社)十七.自由律俳句の誕生。 

 私はいま口語自由律詩を書いています。文語定型詩、文語自由律詩と、詩人たちが手探りし言葉を磨き生み出してきた作品群に連なる形で。
 ただ近代詩の発端の新体詩は西欧詩を輸入して真似た翻訳詩にあるので、伝統に深く根ざしていません。漢詩や和歌や俳句とは断絶した、新しい時代の新しい詩という意識が強く働いていたと思います。

 一碧楼の言葉に私はとても強く共感します。季語、音数十七音が俳句という詩型の枠組みが強固なだけに、強い意思が必要であったと思います。
 彼のいう、季語を捨て、音数「形式が十七字そこらにならうと、三十一字そこらにならうと幾字にならうと構ひませぬ」、その詩歌は、口語自由律の詩歌、口語自由詩そのものです。
 ですから、新体詩からの近代詩の歩みと、口語自由律俳句は、違う出発点から歩いてきたけれど、交わっていると私は思い、感じます。

 文語定形律俳句からの歩みは、きつい拘束、縛りから抜け出そうとする格闘が、私にはとても魅力的です。なぜなら、文化の断絶の傲慢な宣言は根ざし草に過ぎず、不毛だと私は考えるからです。現代詩のように。
 記紀歌謡の時代、万葉集の和歌につながる土壌から詩歌の花は開く、その時代に使われた言葉、詩句は、今も生きています。とても素晴らしいことです。謙虚に受け継ぎつつ、新しい表現の仕方を探し、見つけようとすることが、詩歌の花をいつまでも豊かに咲き続かせることだと私は思います。

 だから私は、古代の自由律歌や、長歌歌物語日記文学随筆の伝統、それぞれの優れた特徴を引き継ぐものと意思して、詩歌を創作しています。

 だからといって、詩歌、文学は、花。咲いたその姿そのものが、美です。
 詩論も、どのように創ろうと考えるかの主張も、咲いた花が美しく、心ふるわせるものであって初めて意味をもちます。

 次回は、中塚一碧楼の自由律俳句そのものを、より深くみつめます。


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永遠終戦祈念日。戦争と私の詩(三)

 今日8月15日は1945年、敗戦日。数え切れない人が望まぬ殺し合いを強いられた戦争が終わった日。その日からもう二度と戦争を起こさない、永遠終戦日とするよう祈念し私に言い聞かせる日です。
 ほとんどの人は戦争を望みません。だから戦争を手段として悪用しようとする少数者に煽られ騙されないよう、永遠終戦を祈念し、その意思を確認し続けるために、意味ある日です。

 戦争で亡くなった人は、私の祖父もそうですが、自分が殺された戦争が繰り返されることを、どうして望むでしょうか。犬死させられたことを死んだあと美化されてなにが嬉しいでしょう。
 ただ一つ残された者にできるのは、彼らが望みもしなかったこと、戦争を繰り返さないために、あらゆる努力をすることです。
 
 詩人として、平和への願い、戦争を厭う強い想いが種となり芽吹き咲いた作品の花を、広島と長崎の原爆の日に振り返りました。

 あの夏の戦争が終わった日が、永遠に終戦記念日であり続けるよう、私は祈念し続けたいと思います。
 その想いから、今年咲いた、夏の花です。

 詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」(2013年 詩誌『コールサック』76号に掲載されます)。
   ・ プロローグ 死。手のひらと肌と。(母から、祖母に)
   ・ たきぎと、ぼたもち。(孫から、祖母と祖父に)
   ・ 美しい国。憎悪咲き乱れる、
   ・ 星の王女さま。『続・絵のない絵本』
   ・ エピローグ 愛。もういちど、みんなで。(母から、祖父に)

 戦時を通じて願いを壊され亡くなられた方々の無念を思い続け、平和を願い、戦争を厭う心を芽吹かせ、歌の花を咲かせたいと、私は願います。

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tag : 終戦 戦争 詩歌 詩人 高畑耕治

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