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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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愛する。―「愛国」という言葉について。

 「愛する」という言葉は、私にとってとても大切な言葉です。この言葉は、人間であること、人間として生きること、そのように豊かなニュアンスを響かせます。
 この大切な言葉が、「愛国」、「愛国心」と使われるのを目にすると、私は悲しく、不快になってしまいます。
 なぜでしょうか?

 「愛国」。わたしにとってこの言葉が意味することを、書くと次のようになります。
 「この東海の島々を故郷に生きている人間ひとりひとりを、受け継がれて来た文化(私の場合は特に文学)を愛することです」。
 わたしが自然に感じるこのような思いを共有しあえる言葉であれば、嫌いなわけがありません。

 けれども、「愛国」、この言葉は多く次のような含意で表現されます。
 「神国日本を愛すること」。不快です。なぜか?

 神道もひとつの歴史観、宗教ですが、宗教は個人の心だけが自ら選ぶものです。特定の歴史観、宗教を、権力・暴力を後ろ盾に押付け従わせること、他の宗教を、他の宗教の信仰者、無信仰者を排斥することは、間違った、良くない、人間を歪める行為だと、私は思います。
(この点についてはジャン・ジャック・ルソーの『エミール』を通して、近日さらに書きたいと思います。

 「国家」を愛するということの、嘘、その押し付けが、不快です。
 「愛すること」、とても人間的な、人間だからこそできる、素晴らしい行為です。人間が愛する対象は、ひとりひとりの人間です。その想いがゆたかに深まり、他の生き物や、自然をも人は愛することができます。
 けれども、「国家」、組織は幻、共同幻想です。実在しない、紙の上に書かれたルール、約束事です。人間がいて、散らばった建物があり、ルール、約束事に合意し従い規則を変えていきながらも、そこにいるのは人間です。
 (吉本隆明の『共同幻想論』の真意はここにあって、いつも彼のことをあまり良く言いませんがこの書と、『言語にとって美とは何か』は独創的でとても優れた本だと思っています)。

  子どもは心が縛られていないので、この地球という星に「国境」という幻の線が、この星の地、海、空に、実際にはひかれてはいないことを知っています。「国境」が見えると信仰していのは猜疑心に蝕まれた「大人」にだけです。
 
 「愛国心」を教育で植えつける、という歪んだ発想も、とても嫌いです。
 心は、鈍感な他人が外から焼印を押しつけると傷つき焦げます。「愛する」ことを強制し、押付けられると思えるような人は、教育を知らず、歪める輩でしかありません。
 誰を愛せ、何を愛せと、命令され強制され従わせようとされて、心に素直な愛する気持ちが、芽をだし育つか?
 人間を馬鹿にしているのではないかと感じます。人を、自分勝手に愛する自由ほど、人間にとって大切なことはありません。
 (ドストエフスキー『地下室の手記』でしつこいくらい繰り返す真実は、「自分勝手」「自由」に自分で行うということが、どれほど人間にとって、生きることの根っこに関わるか、ということです。)

 今回は、不快な思いを書いたので、書きながら不快になりました。読まれた方もそうなられたのなら、ごめんなさい、謝ります。
 汚された心を洗うため、最後に、もういちど、好きな、大切な言葉を。

 「愛する」。
 この星を、宇宙を故郷に生きている人間ひとりひとりを、受け継がれて来た文化を、ともに生きる生き物を、自然を。愛する。

 この星、がんばり、太陽をまた一周しましたね、私たちと。
 あと何周できるかなんて考えずに、運動会でのように一周を、懸命に。
 次の一周に向かって。太陽系の仲間の星たちを、宇宙の底深さを感じながら。


 次回は、読書や考える日にちを少し持たせて頂いたあと、1月11日頃とする予定です。

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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治

映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』(二)。あはれ。いとほし。かなし。

 高畑勲監督作品の映画『かぐや姫の物語』を観て感動したこと、古典の『竹取物語』を読み返して感じとれた思いを前回記しました。

 どちらの作品においてもそのクライマックスである、かぐや姫が月へと昇天する場面の『竹取物語』原文の、前回に続く箇所を引用し、感じとります。

 映画『かぐや姫の物語』では、天女たちが迎えにくるこの場面を、日本の古典楽曲の柔らかな美しい調べに包んで描き出しています。かぐや姫と、竹取の翁、嫗が、引き裂かれる別れの場は、原作に忠実で、痛切です。

 原作も映画もここでは、もっとも人間らしい感情を響かせていて、心打たれます。
 『竹取物語』が創作物語として、人間の心、思い、感情を、強く浮かび上がらせた作品だということを、私は今回の引用箇所に感じずにいられません。

 そのことは人間の心に生れ出る特に強い感情が込められた、次の三つの言葉に美しく結晶し、月のひかりに照らし出されているかのようです。

 あはれ。いとほし。かなし。

これらの言葉が美しく咲いている原文を抜き出してみます。

 「あはれ」。原作『竹取物語』ではその創作時代を背景に、かぐや姫が最後に愛の思いを告白する対象者は帝(みかど)です。
 (映画では原作にはない、かぐや姫の、幼なじみの男の子への思慕、恋、愛、結ばれない悲しみの挿話を、高畑監督は創りあげていて、私個人は映画の設定のほうが好きですが)。

 『竹取物語』に生きる、かぐや姫の、人間の、女性として、最期の哀切きわまりない歌。人間として死に、天女として生まれる、最期の人間らしい、愛の歌。

   今はとて天の羽衣着るをりぞ
      君をあはれと思ひいでける

「あはれ」。愛。
本居宣長が『源氏物語』の魂という「ああ」と漏れ出る声。
 言葉にならない、胸が痛むほどに、あふれもれでる人間の、肉声が、かぐや姫の、涙がかがやいています。美しく、悲しい歌です。

   [天人が]ふと天の羽衣[姫に]うち着せたてまつれば、[姫は]翁を「いとほし【悲嘆を、いたいたしくて見ていられない】、かなし【どうしようもなく切なく、愛着を覚える】」と思(おぼ)しつることも失(う)せぬ。

 天の羽衣を着せられ「もの思ひ【人間的な感情】」を忘却する直前、極みの瞬間の、かぐや姫の、竹取の翁と嫗への感情が、「いとほし」、「かなし」これら二つの言葉に凝結しています。別れの、悲痛な、叫びが、月のひかりに、瞬間を永遠にとめてしまうかのようです。

 私は、紫式部が『竹取物語』に深く感動し、影響を受け、『源氏物語』にその名を書き記した思いに共感します。『竹取物語』は、創作者が人間を描きあげた、日本文学に生まれた美しい少女、かぐや姫です。月のひかりのように心を照らしだしてくれます。


● 以下は出典からの引用です。[ ]は補足された言葉、【 】は現代語訳、( )は読み仮名です。

天人(てんにん)の中に持たせる箱あり。天(あま)の羽衣(はごろも)入れり。またあるは【もう一つの箱には】、不死の薬入れり。(略)[ある天人]御衣(みぞ)を取り出でて[姫に]着せむとす。その時、かぐや姫、
「しばし待て」と言ふ。「衣(きぬ)着せつる人は、心異(こと)になるなり【地上の人間とは違った心を持つようになるのだ】といふ。もの一言(ひとこと)、言ひ置くべきことあり」
と言ひて、文(ふみ)書く。天人、
「遅し【早く】」
と、心もとながり【いらいらする】給ふ。かぐや姫、
「もの知らぬ【情理を解さぬ】ことなのたまひそ」
とて、いみじう静かに【まことに静々と】、おほやけに【帝に】御文たてまつり給ふ。あわてぬさまなり【落着いた様子である】。[かぐや姫]
かくあまたの人を賜ひて【派遣なさって】、止(とど)めさせ給へど、許さぬ迎へ【拒みようがない迎えが】まうで来て、取り率(ゐ)てまかりぬれば、口惜しく悲しきこと【私としてはどうすることもできず、ただ自分の運命を嘆き悲しむほかありません】。宮仕へつかうまつらずなりぬるも、かくわづらわしき身にて侍れば【いろいろ問題の多い身の上でございますので】。心得ず【けしからぬと】思(おぼ)しめされつらめども、心強く【強情に】、[お言葉を]承らずなりにしこと。なめげなるもの【無礼な奴と】に思しめしとどめられぬるなむ【ご記憶におとどめ遊ばされてしまったことが】、心にとまり侍りぬる【心残りでございます】。
とて、[かぐや姫]
 
 今はとて天の羽衣着るをりぞ
    君をあはれと思ひいでける

 【今はこれまでと天の羽衣を着るこの時に、心に思い浮べているのはあなたの面影で、こんなにも私の心にはあなたへの愛情が育っていたのかと、今さらにしみじみ感じています。】
とて、壺の薬そへて、頭中将(とうのちゅうじやう)呼び寄せて、[文を帝に]奉らす。中将に、天人取りて伝ふ。中将取りつれば、[天人が]ふと天の羽衣[姫に]うち着せたてまつれば、[姫は]翁を「いとほし【悲嘆を、いたいたしくて見ていられない】、かなし【どうしようもなく切なく、愛着を覚える】」と思(おぼ)しつることも失(う)せぬ。この衣(きぬ)着つる人は、もの思ひなくなりにければ【人間的感情が失われてしまうのだったから】、車に【飛ぶ車に】乗りて、百人ばかり天人を具(ぐ)して、[天に]昇りぬ。

 出典:『竹取物語』(野口元大・校注、新潮日本古典集成)


 終わりに、かぐや姫に捧げた私の新しい作品を、『竹取物語』に寄り添わせ咲かせます。芸術はこだまする。

   「月の。女(ひと)に。」


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tag : かぐや姫 竹取物語 詩歌 詩人 高畑耕治

新しい詩「星のゆき」をHP公開しました。

映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』(一)。芸術はこだまする。

 高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』に感動しました。この美しい作品に感じとれた思いを気ままに記します。

 読みはちがっても同じ姓をつづる高畑監督と彼のいろんな作品が私は昔から好きです。たとえば、ハイジなど。『かぐや姫の物語』は予告編で観ようと決めていました。
 映画やアニメの評論家ではないので、一人の観客として、私は次のような点に強く印象づけられました。

☆ 絵の美しさ

 水墨画や、書の筆跡を思わせる、ラフタッチの線のかすれと濃淡、彩色とその動きは、「初めて見た」と思える、新鮮でとても繊細な映像美でした。日本画の美しさを吸い上げて咲いた花びらが舞い散るようです。日本の古典文学を原作としていること、その美意識を、醸しだしています。
 
 そして単純にそれだけで押し通すのではなく、物語の場面ごとにふさわしい表現方法、油彩画のような場面も、CGでこそ描き出せる場面も、時間の織物に織り上げ、変化、展開感を高めているのが、素晴らしいと感じました。


☆ 挿入歌

 作品の登場人物がくりかえし口ずさむ挿入歌。とくに、わらべうたは、なつかしい、切ない思いを、心に染み透らせるような、美しい調べでした。
 観ているときは、私は知らないけど昔からあった歌だろうと感じ、優しい気持ちにしてくれる歌詞を聞いていました。最後の字幕に、挿入歌二曲の作詞、それだけでなく作曲も、高畑監督がしているのに驚き、感動しました。彼は詩心を抱く、詩人だなと思いました。

 私も詩のなかに自作の童謡を織り込んだいくつかの作品を書いてきましたが、作曲の才能は乏しいようです。ですからなおさら、この映画の挿入歌は素晴らしいと感じます。

☆ 原作『竹取物語』とこだましていること

 美しい芸術はこだまします。この映画を観て私は原作の『竹取物語』をすぐ読み返したくなりました。原作の古典と、映画は、美しく響きあっていました。
 高畑監督は、『竹取物語』の簡潔な原文に込められているいちばんのメッセージを、深く理解し、映像という表現で、変奏し増幅し高めていると、感じます。
 
 『竹取物語』『源氏物語』で紫式部が発見し伝えてくれたように、日本文学における、初めの物語です。それまでの民話や説話、伝説とは違う、人間の内面、愛と悲しみと苦しみ、人間の感情を響かせた創作物語です。
(『竹取物語』の文学史上のこの新しさについては、出典にある野口元大の解説がとても優れていて教えられます)。

 映画『かぐや姫の物語』は、原作『竹取物語』のこの核心を種にして芽生えた映像芸術だと感じました。かぐや姫の、愛と悲しみと苦しみに、心うたれずにいられません。

 原作には無い、少女時代の子どもたちとの遊び、兄貴分との時間が生長につれ異性としての思慕、恋となるテーマは、高畑監督の創作ですが、原作を壊していません。『竹取物語』のかぐや姫なら、そのような過去と愛を胸に秘めていると、自然に思えるものでした。

 映画と原作のこだまをもっとも強く感じるのは、月に帰ることを逃れられなくなってからの、作品のクライマックスです。今回は、月からの迎えがきて、竹取の翁、嫗と、かぐや姫が引き裂かれようとする、悲しみの場面の原文を引用します。
かぐや姫の思い、悲しみの痛さに心うたれます。

   [ご両親を]見捨てたてまつりて、まかる空よりも落ちぬべき心地する。

 人間がいます。人間の真実の心の言葉だけがもつ響き、言霊のちからが、こだまを呼び覚ましてくれるのだと感じずにはいられません。


● 以下は出典からの引用です。[ ]は補足された言葉、【 】は現代語訳、( )は読み仮名です。

 [天人の王] 屋(や)の上に飛ぶ車を寄せて、
「いざ(さあ)、かぐや姫、穢(きたな)き所【穢土(えど)】に、いかでか久しくおはせむ【どうして長くいらっしゃるのか】」
 と言ふ。立て籠(こ)めたる所の戸【戸を立てて姫を閉じこめてあった所】、すなはち【即座に】、ただ開(あ)きに開きぬ。格子(かうし)どもも、人はなくして開きぬ。嫗(おんな)抱きてゐたるかぐや姫、外(と)に出でぬ。え止(とど)むまじければ【とても引き留めることなどできそうもないので】、[嫗は姫を]たださし仰ぎて泣きをり。
 竹取こころ惑(まと)ひて泣き伏せるところに寄りて、かぐや姫言ふ、
「ここにも【わたくしも】、心にもあらで【心ならずも】、かくまかるに【こうして連れ去られるのですから】、昇(のぼ)らむをだに【せめて天に昇って行くその最後だけでも】見送り給へ」
 と言へども、
「なにしに、悲しきに、見送りたてまつらむ【お見送りしたって悲しいだけで何になりましょう】。われを、[残された後は]いかにせよとて、棄(す)てては昇り給ふぞ。具(ぐ)して【一緒に】率(ゐ)ておはせね」
 と、泣き伏せれば、[かぐや姫は]御心惑ひぬ。
「文を(手紙を)書き置きてまからむ。恋しからむ折々、取り出でて見給へ」
 とて、うち泣きて書く言葉は、
 この国に生れぬるとならば【この国に生れたというのなら】[ご両親の]嘆かせたてまつらぬほどまで【お嘆きを見ないですむ時まで】侍らで、過ぎ別れぬること。返すがへす本意なくこそ侍れ【何とも心残りでなりません】。[せめて私が今]脱ぎおく衣(きぬ)を形見と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ【こちらをご覧になって下さい】。[ご両親を]見捨てたてまつりて、まかる空よりも落ちぬべき心地する。
と書き置く。

 出典:『竹取物語』(野口元大・校注、新潮日本古典集成)

 今回の終わりに、かぐや姫の姿が浮かぶ私の作品を、『かぐや姫の物語』、『竹取物語』とともに響かせます。
芸術はこだまする。

 「星の王女さま。『 続・絵のない絵本 』」。(詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から)。

  次回は、今回の引用箇所に続く『竹取物語』原文の、美しさをみつめます。

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tag : かぐや姫 竹取物語 芸術 詩歌 詩人 高畑耕治

新しい詩「クリスマス」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「クリスマス」を、公開しました。

   詩「クリスマス」   (クリックでお読み頂けます)。

 わたしから、ふたりの、ひとりぼっちの、愛の想いへの、クリスマスの贈り物、ちいさなうたの花です。

お読みくださると、とても嬉しく思います。


 次回は、12月27日に映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』についてのエッセイを予定しています。

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tag : クリスマス ゆき 詩歌 詩人 高畑耕治

新しい詩「月の。女(ひと)に。」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「月の。女(ひと)に。」を、公開しました。

   詩「月の。女(ひと)に。」   (クリックでお読み頂けます)。

 わたしから、ふたりの、ひとりぼっちの、愛の想いへの、クリスマスの贈り物です。
 そして、かぐや姫への告白、ちいさな歌の花束です。

お読みくださると、とても嬉しく思います。



 次回は、12月26日に映画『かぐや姫の物語』についてのエッセイを予定しています。

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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 かぐや姫 竹取物語

赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記しています。

 今回も、論文「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」に呼び覚まされた詩想を記します。
 この論文を読んで私は、赤羽淑の、和歌の創作と、創作主体の内面についての、深い共感力と洞察力を、改めて感じずにはいられませんでした。

以下、論考の中心箇所の原文をそのまま引用し、続けて創作者の一人としての私の詩想を添えてゆきます。
◎の後の文章が、出典からの引用文(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています)、◇の後の文章が共鳴した私の詩想です。

◎ 出典原文の引用1
定家の「もみもみ」に関しては正徹のことばが参考となる。
  寝覚などに定家の哥を思ひ出しぬれば、物狂ひになる心地し侍る也。もふだる体を読み侍る事、定家の哥程なる事は無き也。(正徹物語)
  定家の一条京極の家より父の許へ、

   玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風

 と読みてつかはされし、哀れさもかなしさも云ふ限りなく、もみにもうだる哥様也。・・・・・・定家は母の事なれば、哀れにもかなしうも身をもみて読めるはことわり也。(同)
「もむ」という動詞に使われ、また「身をもむ」というふうに対象が限定されている。
(原文引用1終わり)

◇正徹は、母の死に際して定家の歌を「哀れさもかなしさも云ふ限りなく」、定家が「身をもみて」詠んだに違いないと感じています。この表現に私は日本の詩心ならではの、悲しみの表現を感じます。
オウィディウス『変身物語』では、古代ギリシア人が悲しみが極まった際に我知らずする肉体的な表現、「胸をうちたたく」が頻出しました。身をもんで悲しむ日本人の肉体的な表現との、動と静、その対照的な姿を感じずにいられません。
ただ、肉体的な表現が、激しく強く主張する姿であろうが、耐え忍び打ち震える姿であろうが、心の、悲しみと痛みの強さは、変わらず、通じあい、響きあっているのだと思います。だからこそ、文学の感動は、民族性の壁を打ち破ることができます。


◎ 出典原文の引用2
俊成の歌が「すげなげ」「何となげ」に詠んでいるのに対し、定家は「哀れにもかなしうも身をもみて」詠んでいるというのである。「玉ゆらの」は、定家にしては主観的抒情のかった歌であるが、それを真直ぐ単純に詠出してはいない。心と自然形象をからみ合わせ、反復法、同行音の繰返しなどを用いながら、たたみかけるような調子で母を失った悲しみを奏でている。この技巧や推敲過程の中に主体の深い思い入れがたたみこまれ、そこから、沁みでてくる複雑微妙な効果が「もみもみ」なのであろう。
(原文引用2終わり)

◇赤羽淑の、定家の「玉ゆらの」の歌についてのこの感じとり方は、詩のかたちと詩のこころ、詩歌という芸術表現の核心を捉えていると感じます。前褐の『定家の歌一首』をとりあげた私のエッセイ「藤原定家の象徴詩」で、彼女はこの歌をより深く徹底して感受し照らし出していて素晴らしいのですが、その萌芽がここにあったのだと私は思いました。


◎ 出典原文の引用3
 定家の歌の「もみもみ」とした風姿は、俊頼よりも濃やかな「やさしさ」「艶」などの情調を有しているが、式子内親王になると、さらに深く内部生命に根ざしたものとなる。

   玉のをよ絶えなばたえねながらへば忍ぶる事のよわりもぞする(新古今・1034)

の歌などは、身をもむポーズよりも魂そのものをもみくだく悩ましげな姿態を感じさせる。しかし、よくみると押韻・畳句など手のこんだ技巧がかくされているのである。技巧がたんなる技巧に終らずに、強くとおった抒情に微妙な旋律を与えている。魂の声がそのまま歌の調べの中にひびき出たといった風に自然な技巧なのである。
抒情と技巧が相即不離になっていて、これこそ内在律と呼ぶにふさわしい。
(原文引用3終わり)

◇「内部生命」いう言葉に私は赤羽淑の、北村透谷の情熱的な文学論に近しい熱情を感じます。文学を愛する者の熱い者が抱く熱い思いです。
 「内在律」という言葉にも、萩原朔太郎の詩論に近しい詩歌についての根本的な感受性を感じます。
 式子内親王のこの歌を、朔太郎は熱愛し、私もまた熱愛しています。
ここで言われている「抒情と技巧が相即不離」となり、「魂の声がそのまま歌の調べの中にひびき出たといった自然な技巧」は、詩人である私が創作の時間にいつも心に想い願い目指している、詩歌の理想の姿です。


◎ 出典原文の引用4
「もみもみ」の式子内親王におけるあり様は、着想の面白さや外からの構想力によるのではなく、内からおのれを責めてゆく過程を通してあらわれる風姿なのである。内親王はおのれの感情に耽溺しない。また自然のむーどの中に融和しようともしない。つねに対象をつきつめ、おのれを責め、それを徹底させてゆく。その透徹の過程には緊張と葛藤が生じ、そこから創造される歌の姿が「もみもみ」としたものなのである。
(原文引用4終わり)

◇式子内親王に対して、彼女の風姿、歌風、創作主体としての生きざまを、深く感受する、心うたれる、美しい言葉です。「その透徹の過程には緊張と葛藤が生じ」、「そこから創造される」、そこからしか創造できないのが、歌、詩歌、文学だと、私も体感してきました。体感し生きていこうと願う、いつの時代にもかわらない、創作主体にとっての真実が、この言葉に照らし出されていると、私は深い共感をおぼえ、式子内親王に憧れ、彼女の歌を愛し、魂をゆさぶられ、私のうちからの創作へと駆られてゆきます。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」『古典研究』第3号、1968年。


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詩誌『たぶの木』9号をHP公開しました。

 手作りの詩誌『たぶの木』9号(漉林書房)を、私のホームページ『愛のうたの絵ほん』に12月21日公開しました。
  
   詩誌 『たぶの木』 9号(詩誌名をクリックしてお読み頂けます。)

 漉林書房の詩人・田川紀久雄さん編集・発行の小さな詩誌です。

 参加詩人は、田川紀久雄、坂井のぶこ、山下佳恵、高畑耕治です。
 今号には作家・詩人の神谷恵山下佳恵詩集『海の熟語』評をお寄せくださいました。

 私は創刊号から9号まで、詩人として自分が現在創り得る、いちばん良いと思える作品を、この詩誌で活字にしています。

 ご覧頂けますと嬉しいです。

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tag : たぶの木 田川紀久雄 坂井のぶこ 山下佳恵 神谷恵 高畑耕治

赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記しています。

 今回と次回は、論文「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」です。
 この論文を読んで私は、赤羽淑の、和歌の創作と、創作主体の内面についての、深い共感力と洞察力を、改めて感じずにはいられませんでした。

 以下、そのことを特に感じ共鳴した箇所を抜粋して、創作者の一人としての私の詩想を添えてゆきます。
 ◎の後の文章が、出典からの抜粋文、◇の後の文章が共鳴した私の詩想です。

◎作品が少ないにかかわらず高く評価されてきたことは歌自体の価値によるもの◇創作者としての私のいちばんの願いも、作品自体、歌自体の価値こそが評価され続けることです。式子内親王にとって最上の賛辞だと思います。私もまたこの言葉の通りだと思います。

◎周辺の事情が不明であることも作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方にかなって好都合である。

◇「作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方」、とても根本的なことだと思います。
同じ時代の人物、近い時代の人物ほど、ひどいばあいにはろくに作品を創らなくても話題性でもてはやされたりもします。詩人の場合、同時代に理解者をに得られず死後になって作品自体の価値を見直されることも多くあります。
 近視眼になることに気をつけて大きな心で見つめなおせば、豊かな古典の流れに輝き続けているものは、人間の心に共感をひき起こさずにはいない作品自体の美しさです。創作者と日常の衣食住なしには生存できませんが、
文芸の価値は作品自体が、作品だけが語り続けてくれると私も考えています。

◎たんなる表現技法や構想力の問題ばかりでなく、創作の全過程に作用する能力を予想したいい方である。それは、創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力ともとれる。
「うかりける」の歌についてみると、懸詞・縁語・倒置法・逆説などさまざまの趣向や技巧を凝らし、一首を複雑と曲折と暗示でみたしながらそれらを渾然と一体化している。その過程は並大抵の苦労ではなかろうが俊頼は見事に言いつづけ、詠みおおせているのである。


◇優れた文芸作品、芸術の創作主体、創作者への共感と、深い洞察に満ちた言葉だと私は感じます。
言葉による、表現技法、構想力、さまざまな趣向と技巧が、文芸には不可欠です。言葉で生み出す創作芸術なのだから当たり前のことで、それなくして芸術は創れません。
けれどそこまでは、職人の手習いで学べて模倣できる技の習熟度で巧拙を比較しうる段階です。
そのうえで、その価値を最後に芸術にまで、より高めうるかどうかは、「それらを渾然と一体化」する「創作の全過程に作用する能力」、「創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力」にあると、私も感じ、思います。

◎定家が、これは創作主体の胸裡ふかく根ざしたものだから表現だけを模倣しても及ばない姿であるとしたのは卓見

◇『定家の歌一首』の著者だからこその言葉だと思います。藤原定家は、技巧家との一般的な評価から踏み込んで、定家が「表現だけを模倣しても及ばない姿」があり、それは「創作主体の胸裡ふかく根ざしたもの」だと知りぬいた創作者であったことを教えてくれます。


● 以下は、出典原文の引用です。(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています。)

 式子内親王は残された作品が少ないが古来高く評価されてきた歌人である。また当時の歌壇とはほとんど没交渉で孤独な生涯をおくられたにもかかわらず、新古今風を代表する歌人の一人と認められている。その作品や身分の高貴さが際立っているのに反し、周辺の事情や伝記などは全く模糊として謎につつまれている。そのためか古来さまざまの憶測や伝説が生じ、歌風についての理解もまちまちであった。
 作品が少ないにかかわらず高く評価されてきたことは歌自体の価値によるものであろうし、周辺の事情が不明であることも作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方にかなって好都合である。そしてひとりの作歌活動をつづけてその歌風が時代の先端をゆくということは、個人様式と時代様式のかかわりを示すものとして興味深い。歌風についての従来の評価がまちまちで、極端に異質的な理解や対立的な位置づけがなされて来たが、それも様式の問題――作風の形成過程――として統一的に把握できのではなかろうか。

(略)
 式子内親王の歌についての批評のなかでもっともするどくその核心にふれるものは「後鳥羽院御口伝」であろう。
  近き世になりては、大炊御門前斎院・故中御門の摂政・吉水前大僧正、これら殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。
「殊にもみもみとあるやうに詠まれき。」と評されている。「もみもみ」ということが歌の風体についていわれているのか、そういう風体を導く創作態度をいっているのかこの部分だけでは判然しない。

「御口伝」ではほかに俊頼と定家について「もみもみ」という標語を用いているので、その方面から解明の手がかりを得ようと思う。
まず俊頼については、
  俊頼堪能の者也。哥の姿二様によめり。うるはしくやさしき様も殊に多く見ゆ。又もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。
この一様すなはち定家卿が庶幾する姿なり。
   うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を
  この姿なり。
とあり、定家については
 定家は、さうなき者なり。・・・・・・やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。
と評している。両者とも「堪能」とか「生得の上手」と称されている歌人であるから、そういう特殊な能力によって詠み出された「人はえ詠みおほせぬやうなる」「まことありがたく見ゆ」る姿が「もみもみ」なのである。

引例となった「うかりける」の歌について定家は「これは心ふかく言心まかせてまねぶともいひつづけがたく、まことにおよぶまじきすがた也。」(近代秀歌遺送本)と評している。模倣を許さぬような卓絶した表現形態だというのである。
「後鳥羽御口伝」の「人はえ詠みおほせぬ」といい、この「いひつづけがた」いような姿というのは、たんなる表現技法や構想力の問題ばかりでなく、創作の全過程に作用する能力を予想したいい方である。それは、創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力ともとれる。
「うかりける」の歌についてみると、懸詞・縁語・倒置法・逆説などさまざまの趣向や技巧を凝らし、一首を複雑と曲折と暗示でみたしながらそれらを渾然と一体化している。その過程は並大抵の苦労ではなかろうが俊頼は見事に言いつづけ、詠みおおせているのである。

定家が、これは創作主体の胸裡ふかく根ざしたものだから表現だけを模倣しても及ばない姿であるとしたのは卓見で、同じような傾向を示す定家を後鳥羽院が評しているのといちじるしく対蹠的である。すなわち、
  惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。ただ、詞・姿の艶にやさしきを本体とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばば、正体なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の者にてあれ。(後鳥羽院御口伝)
と、定家を「生得の上手」と認めながら、それを詞や姿の上に限って心の作用との関連から論及することをしない。しかし、「その骨すぐれざらん初心の者まねばば、正体なき事になりぬべし。」とあるから、何かとおるべきものが貫いていることは認めている。風体の上からいえば、歌のつづけがらにみられる渾然たる有機的統一、曲折に富みながら腰の強さなどを意味するのであろうが、それはやはり創作主体に帰すべきものであろう。

原文引用終わり

 出典:赤羽淑「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」『古典研究』第3号、1968年

 次回も、この論文を通しての詩想を記します。


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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 うた 絵ほん 赤羽淑

赤羽淑の論文から(一)。『源氏物語』、光、匂、薫。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記します。

 今回は『源氏物語』をみつめた論文「源氏物語における呼名の象徴的意義 ―「光」「匂」「薫」について―」です。

 私はこの論文を読んで、紫式部を想います。『源氏物語』を書き連ねる時間に、光源氏、匂宮、薫とともに息をしていた紫式部の面影が浮かびます。
 彼女は物語に生きる男性に語りかけながら、呼びかけながら、筆を進めたでしょう。執筆にのめりこんでいた日々には、間近に存在を感じて生活し、共に眠り、契り、夢にまで現われたでしょう。

 赤羽淑はこの論文で、紫式部が彼らに与え呼びかけた名前、「光」「匂」「薫」、それぞれの言葉に込めら想い、それぞれの言葉から立ちのぼり現われ出るもの、象徴しているものを、あくまで原典、紫式部の言葉をみつめ、用例を丁寧にひろいながら、教えてくれます。

 たとえば、作中にちりばめられた光の描写の諸相を見つめることで得られた認識野言葉、「光の、感覚的に具象化された美は、月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美」、その感受力から生まれた言葉に、私は深い共感を覚えます。

 また、「匂」という言葉はその源では、視覚的な意味をも持っていたとして、「薫」と対比してゆく論述は言葉の年輪を見つめているのがとても魅力的で、惹きこまれます。

 『源氏物語』は大河のような絵巻物ですから、私も一読者として私自身のこころの在り様からの好みがあります。
 光に対しては、物語の上流にある、貴公子としての面目躍如の輝きばかり眩しい絶頂期よりは、畏れや疑いといった負の感情、病や悲しい出来事が増えてくる、物語が下流に近づくにつれて、感情の深み、人間の多様な心もようへの共感が増してゆくのが感じられ、私は引き込まれてしまいます。
 また、宇治十帖の二人の男性に対すると、「匂」より「薫」の感じ方、考え方、生き方に、共感するものを感じます。
(ただそれは、現在の年齢が影響している気もします。私がいま青春期にいたら、恋愛狂い、恋愛の機微、諸相がきらびやかに展開する、物語の上流にこそ惹かれるだろうとも思います)。

 赤羽淑は、「光」は、「匂」と「薫」の両面を分身としてあわせもった人物だと、目を見開かせてくれます。
 光は出生した日から、明と暗をあわせもって生まれ、貴公子時代にも影がある人間だったから、魅力的なのだと教えられます。
 「天上的発光体―日月など―の強烈な豪華さはないが」、「月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美」です。
 そのような男性に育て、生きさせたのは、紫式部の人間についての深い心の眼差しがあったからこそとも感じます。

 宇治十帖、浮舟に私は強く惹かれてしまいますが、「薫」と「匂」の両極の、対照的な男性の間で、恋に激しく揺れ動き翻弄され引き裂かれる若い女性の魂の悲しみに、「人間」と「運命」を想わずにいられない、作者の渾身の想いの強さを感じるからです。

 『源氏物語』を深く愛する赤羽淑は、これらのことを、次のようなとても明瞭な言葉で伝えてくれます。
 「全く対照的な性格描写は類型的なようであるが、それは単なる類型ではなく、宇治の世界に於ける普遍的な人間性の葛藤や苦悩、更には深い世界観を描出する為の巧妙な構想力である。
 最後のクライマックスたる浮舟の悲劇は、この二人の個性の設定から必然的に発展するものに外ならない。「光」・「匂」・「薫」という三人の微妙な陰影と運命を荷う人間像は、ひかり・にほふ・かをるという名にいみじくも象徴化されている」。

 言葉のもつ象徴性について、深く感じとらせてくれる優れた論文です。


● 以下は、出典原文の引用です。(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています。)

匂宮の冒頭は、「光かくれ給ひにし後、かの御影に立ち継ぎ給ふべき人、そこらの御末々にあり難かりけり。」と書き出されている。「光云々」は、直接には、光源氏の薨去を指すのであるが、それと共に、世の希望、光明の消滅と、暗黒の世界の到来を暗示している。即ち、「光」は、光源氏という特殊な個人的存在を表わすと同時に、それに附随し、源氏物語の世界全体を光被する一般的普遍的観念をも意味している。ここに、「光」という名が、源氏という個人に偶然に与えられたものでないことが分る。
 同様のことは、「匂」と「薫」についても指摘することが出来る。光隠れた後の残影の中に現われる「匂」と「薫」は、文字通り光の分身であるが、それぞれに異った個性を有して宇治の世界を展開させる。その対照的な人間像は、「匂」と「薫」という呼名にいみじくも象徴されているのである。われわれは、ここに、作者の象徴的表現の絶妙さを認めることが出来る。
(略)
 以上の考察によって源氏物語における光の性格が明らかであるが、要約すると、源氏という個人の崇高な精神美と、高貴な身分から発する光の、感覚的に具象化された美は、月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美である。それは天上的発光体―日月など―の強烈な豪華さはないが、世の人々に希望を与え来世へ導く光明となり、源氏物語の世界を普く光被するのである。この意味で個人的存在に普遍性が与えられ、そこに「光源氏」が源氏物語を統一する理想的存在としての高い意義が認められるのである。
(略)
 要約すると「薫」の内面的で崇高な美に対する「匂」の華美な官能美、薫の自然的生得的芳香に対する「匂」の技巧的人工的な匂、「薫」のつつましく思い澄した道心に対する「匂」の浮気な徒心(あだごころ)、「薫」の内省的懐疑的消極性に対する「匂」の外抗的意志的積極性、「薫」の陰鬱性に対する「匂」の明朗性、以上の全く対照的な性格描写は類型的なようであるが、それは単なる類型ではなく、宇治の世界に於ける普遍的な人間性の葛藤や苦悩、更には深い世界観を描出する為の巧妙な構想力である。最後のクライマックスたる浮舟の悲劇は、この二人の個性の設定から必然的に発展するものに外ならない。「光」・「匂」・「薫」という三人の微妙な陰影と運命を荷う人間像は、ひかり・にほふ・かをるという名にいみじくも象徴化されているのであり、その人物と名前との本質的有機的な相互関係において、言語記号のもつ最高の機能を十分に果たし得ているのである。

● 原文引用終わり。

 出典:赤羽淑「源氏物語における呼名の象徴的意義 ―「光」「匂」「薫」について―」『文芸研究』28号、1958年。

 次回は、式子内親王の和歌についての赤羽淑名誉教授の論文を通して詩想を記します。

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