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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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愛する。―「愛国」という言葉について。

 「愛する」という言葉は、私にとってとても大切な言葉です。この言葉は、人間であること、人間として生きること、そのように豊かなニュアンスを響かせます。
 この大切な言葉が、「愛国」、「愛国心」と使われるのを目にすると、私は悲しく、不快になってしまいます。
 なぜでしょうか?

 「愛国」。わたしにとってこの言葉が意味することを、書くと次のようになります。
 「この東海の島々を故郷に生きている人間ひとりひとりを、受け継がれて来た文化(私の場合は特に文学)を愛することです」。
 わたしが自然に感じるこのような思いを共有しあえる言葉であれば、嫌いなわけがありません。

 けれども、「愛国」、この言葉は多く次のような含意で表現されます。
 「神国日本を愛すること」。不快です。なぜか?

 神道もひとつの歴史観、宗教ですが、宗教は個人の心だけが自ら選ぶものです。特定の歴史観、宗教を、権力・暴力を後ろ盾に押付け従わせること、他の宗教を、他の宗教の信仰者、無信仰者を排斥することは、間違った、良くない、人間を歪める行為だと、私は思います。
(この点についてはジャン・ジャック・ルソーの『エミール』を通して、近日さらに書きたいと思います。

 「国家」を愛するということの、嘘、その押し付けが、不快です。
 「愛すること」、とても人間的な、人間だからこそできる、素晴らしい行為です。人間が愛する対象は、ひとりひとりの人間です。その想いがゆたかに深まり、他の生き物や、自然をも人は愛することができます。
 けれども、「国家」、組織は幻、共同幻想です。実在しない、紙の上に書かれたルール、約束事です。人間がいて、散らばった建物があり、ルール、約束事に合意し従い規則を変えていきながらも、そこにいるのは人間です。
 (吉本隆明の『共同幻想論』の真意はここにあって、いつも彼のことをあまり良く言いませんがこの書と、『言語にとって美とは何か』は独創的でとても優れた本だと思っています)。

  子どもは心が縛られていないので、この地球という星に「国境」という幻の線が、この星の地、海、空に、実際にはひかれてはいないことを知っています。「国境」が見えると信仰していのは猜疑心に蝕まれた「大人」にだけです。
 
 「愛国心」を教育で植えつける、という歪んだ発想も、とても嫌いです。
 心は、鈍感な他人が外から焼印を押しつけると傷つき焦げます。「愛する」ことを強制し、押付けられると思えるような人は、教育を知らず、歪める輩でしかありません。
 誰を愛せ、何を愛せと、命令され強制され従わせようとされて、心に素直な愛する気持ちが、芽をだし育つか?
 人間を馬鹿にしているのではないかと感じます。人を、自分勝手に愛する自由ほど、人間にとって大切なことはありません。
 (ドストエフスキー『地下室の手記』でしつこいくらい繰り返す真実は、「自分勝手」「自由」に自分で行うということが、どれほど人間にとって、生きることの根っこに関わるか、ということです。)

 今回は、不快な思いを書いたので、書きながら不快になりました。読まれた方もそうなられたのなら、ごめんなさい、謝ります。
 汚された心を洗うため、最後に、もういちど、好きな、大切な言葉を。

 「愛する」。
 この星を、宇宙を故郷に生きている人間ひとりひとりを、受け継がれて来た文化を、ともに生きる生き物を、自然を。愛する。

 この星、がんばり、太陽をまた一周しましたね、私たちと。
 あと何周できるかなんて考えずに、運動会でのように一周を、懸命に。
 次の一周に向かって。太陽系の仲間の星たちを、宇宙の底深さを感じながら。


 次回は、読書や考える日にちを少し持たせて頂いたあと、1月11日頃とする予定です。

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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治

映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』(二)。あはれ。いとほし。かなし。

 高畑勲監督作品の映画『かぐや姫の物語』を観て感動したこと、古典の『竹取物語』を読み返して感じとれた思いを前回記しました。

 どちらの作品においてもそのクライマックスである、かぐや姫が月へと昇天する場面の『竹取物語』原文の、前回に続く箇所を引用し、感じとります。

 映画『かぐや姫の物語』では、天女たちが迎えにくるこの場面を、日本の古典楽曲の柔らかな美しい調べに包んで描き出しています。かぐや姫と、竹取の翁、嫗が、引き裂かれる別れの場は、原作に忠実で、痛切です。

 原作も映画もここでは、もっとも人間らしい感情を響かせていて、心打たれます。
 『竹取物語』が創作物語として、人間の心、思い、感情を、強く浮かび上がらせた作品だということを、私は今回の引用箇所に感じずにいられません。

 そのことは人間の心に生れ出る特に強い感情が込められた、次の三つの言葉に美しく結晶し、月のひかりに照らし出されているかのようです。

 あはれ。いとほし。かなし。

これらの言葉が美しく咲いている原文を抜き出してみます。

 「あはれ」。原作『竹取物語』ではその創作時代を背景に、かぐや姫が最後に愛の思いを告白する対象者は帝(みかど)です。
 (映画では原作にはない、かぐや姫の、幼なじみの男の子への思慕、恋、愛、結ばれない悲しみの挿話を、高畑監督は創りあげていて、私個人は映画の設定のほうが好きですが)。

 『竹取物語』に生きる、かぐや姫の、人間の、女性として、最期の哀切きわまりない歌。人間として死に、天女として生まれる、最期の人間らしい、愛の歌。

   今はとて天の羽衣着るをりぞ
      君をあはれと思ひいでける

「あはれ」。愛。
本居宣長が『源氏物語』の魂という「ああ」と漏れ出る声。
 言葉にならない、胸が痛むほどに、あふれもれでる人間の、肉声が、かぐや姫の、涙がかがやいています。美しく、悲しい歌です。

   [天人が]ふと天の羽衣[姫に]うち着せたてまつれば、[姫は]翁を「いとほし【悲嘆を、いたいたしくて見ていられない】、かなし【どうしようもなく切なく、愛着を覚える】」と思(おぼ)しつることも失(う)せぬ。

 天の羽衣を着せられ「もの思ひ【人間的な感情】」を忘却する直前、極みの瞬間の、かぐや姫の、竹取の翁と嫗への感情が、「いとほし」、「かなし」これら二つの言葉に凝結しています。別れの、悲痛な、叫びが、月のひかりに、瞬間を永遠にとめてしまうかのようです。

 私は、紫式部が『竹取物語』に深く感動し、影響を受け、『源氏物語』にその名を書き記した思いに共感します。『竹取物語』は、創作者が人間を描きあげた、日本文学に生まれた美しい少女、かぐや姫です。月のひかりのように心を照らしだしてくれます。


● 以下は出典からの引用です。[ ]は補足された言葉、【 】は現代語訳、( )は読み仮名です。

天人(てんにん)の中に持たせる箱あり。天(あま)の羽衣(はごろも)入れり。またあるは【もう一つの箱には】、不死の薬入れり。(略)[ある天人]御衣(みぞ)を取り出でて[姫に]着せむとす。その時、かぐや姫、
「しばし待て」と言ふ。「衣(きぬ)着せつる人は、心異(こと)になるなり【地上の人間とは違った心を持つようになるのだ】といふ。もの一言(ひとこと)、言ひ置くべきことあり」
と言ひて、文(ふみ)書く。天人、
「遅し【早く】」
と、心もとながり【いらいらする】給ふ。かぐや姫、
「もの知らぬ【情理を解さぬ】ことなのたまひそ」
とて、いみじう静かに【まことに静々と】、おほやけに【帝に】御文たてまつり給ふ。あわてぬさまなり【落着いた様子である】。[かぐや姫]
かくあまたの人を賜ひて【派遣なさって】、止(とど)めさせ給へど、許さぬ迎へ【拒みようがない迎えが】まうで来て、取り率(ゐ)てまかりぬれば、口惜しく悲しきこと【私としてはどうすることもできず、ただ自分の運命を嘆き悲しむほかありません】。宮仕へつかうまつらずなりぬるも、かくわづらわしき身にて侍れば【いろいろ問題の多い身の上でございますので】。心得ず【けしからぬと】思(おぼ)しめされつらめども、心強く【強情に】、[お言葉を]承らずなりにしこと。なめげなるもの【無礼な奴と】に思しめしとどめられぬるなむ【ご記憶におとどめ遊ばされてしまったことが】、心にとまり侍りぬる【心残りでございます】。
とて、[かぐや姫]
 
 今はとて天の羽衣着るをりぞ
    君をあはれと思ひいでける

 【今はこれまでと天の羽衣を着るこの時に、心に思い浮べているのはあなたの面影で、こんなにも私の心にはあなたへの愛情が育っていたのかと、今さらにしみじみ感じています。】
とて、壺の薬そへて、頭中将(とうのちゅうじやう)呼び寄せて、[文を帝に]奉らす。中将に、天人取りて伝ふ。中将取りつれば、[天人が]ふと天の羽衣[姫に]うち着せたてまつれば、[姫は]翁を「いとほし【悲嘆を、いたいたしくて見ていられない】、かなし【どうしようもなく切なく、愛着を覚える】」と思(おぼ)しつることも失(う)せぬ。この衣(きぬ)着つる人は、もの思ひなくなりにければ【人間的感情が失われてしまうのだったから】、車に【飛ぶ車に】乗りて、百人ばかり天人を具(ぐ)して、[天に]昇りぬ。

 出典:『竹取物語』(野口元大・校注、新潮日本古典集成)


 終わりに、かぐや姫に捧げた私の新しい作品を、『竹取物語』に寄り添わせ咲かせます。芸術はこだまする。

   「月の。女(ひと)に。」


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tag : かぐや姫 竹取物語 詩歌 詩人 高畑耕治

新しい詩「星のゆき」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「星のゆき」を、公開しました。

   詩「星のゆき」   (クリックでお読み頂けます)。

 12月24日に公開した詩「クリスマス」の原形です。
 
 原形ですので、素朴ですが、星も、ゆきも、こころも、詩も、素朴な美しさなので、こちらが好きと感じてくださる方もきっといらっしゃると思いました。

お読みくださると、とても嬉しく思います。

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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 ゆき

映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』(一)。芸術はこだまする。

 高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』に感動しました。この美しい作品に感じとれた思いを気ままに記します。

 読みはちがっても同じ姓をつづる高畑監督と彼のいろんな作品が私は昔から好きです。たとえば、ハイジなど。『かぐや姫の物語』は予告編で観ようと決めていました。
 映画やアニメの評論家ではないので、一人の観客として、私は次のような点に強く印象づけられました。

☆ 絵の美しさ

 水墨画や、書の筆跡を思わせる、ラフタッチの線のかすれと濃淡、彩色とその動きは、「初めて見た」と思える、新鮮でとても繊細な映像美でした。日本画の美しさを吸い上げて咲いた花びらが舞い散るようです。日本の古典文学を原作としていること、その美意識を、醸しだしています。
 
 そして単純にそれだけで押し通すのではなく、物語の場面ごとにふさわしい表現方法、油彩画のような場面も、CGでこそ描き出せる場面も、時間の織物に織り上げ、変化、展開感を高めているのが、素晴らしいと感じました。


☆ 挿入歌

 作品の登場人物がくりかえし口ずさむ挿入歌。とくに、わらべうたは、なつかしい、切ない思いを、心に染み透らせるような、美しい調べでした。
 観ているときは、私は知らないけど昔からあった歌だろうと感じ、優しい気持ちにしてくれる歌詞を聞いていました。最後の字幕に、挿入歌二曲の作詞、それだけでなく作曲も、高畑監督がしているのに驚き、感動しました。彼は詩心を抱く、詩人だなと思いました。

 私も詩のなかに自作の童謡を織り込んだいくつかの作品を書いてきましたが、作曲の才能は乏しいようです。ですからなおさら、この映画の挿入歌は素晴らしいと感じます。

☆ 原作『竹取物語』とこだましていること

 美しい芸術はこだまします。この映画を観て私は原作の『竹取物語』をすぐ読み返したくなりました。原作の古典と、映画は、美しく響きあっていました。
 高畑監督は、『竹取物語』の簡潔な原文に込められているいちばんのメッセージを、深く理解し、映像という表現で、変奏し増幅し高めていると、感じます。
 
 『竹取物語』『源氏物語』で紫式部が発見し伝えてくれたように、日本文学における、初めの物語です。それまでの民話や説話、伝説とは違う、人間の内面、愛と悲しみと苦しみ、人間の感情を響かせた創作物語です。
(『竹取物語』の文学史上のこの新しさについては、出典にある野口元大の解説がとても優れていて教えられます)。

 映画『かぐや姫の物語』は、原作『竹取物語』のこの核心を種にして芽生えた映像芸術だと感じました。かぐや姫の、愛と悲しみと苦しみに、心うたれずにいられません。

 原作には無い、少女時代の子どもたちとの遊び、兄貴分との時間が生長につれ異性としての思慕、恋となるテーマは、高畑監督の創作ですが、原作を壊していません。『竹取物語』のかぐや姫なら、そのような過去と愛を胸に秘めていると、自然に思えるものでした。

 映画と原作のこだまをもっとも強く感じるのは、月に帰ることを逃れられなくなってからの、作品のクライマックスです。今回は、月からの迎えがきて、竹取の翁、嫗と、かぐや姫が引き裂かれようとする、悲しみの場面の原文を引用します。
かぐや姫の思い、悲しみの痛さに心うたれます。

   [ご両親を]見捨てたてまつりて、まかる空よりも落ちぬべき心地する。

 人間がいます。人間の真実の心の言葉だけがもつ響き、言霊のちからが、こだまを呼び覚ましてくれるのだと感じずにはいられません。


● 以下は出典からの引用です。[ ]は補足された言葉、【 】は現代語訳、( )は読み仮名です。

 [天人の王] 屋(や)の上に飛ぶ車を寄せて、
「いざ(さあ)、かぐや姫、穢(きたな)き所【穢土(えど)】に、いかでか久しくおはせむ【どうして長くいらっしゃるのか】」
 と言ふ。立て籠(こ)めたる所の戸【戸を立てて姫を閉じこめてあった所】、すなはち【即座に】、ただ開(あ)きに開きぬ。格子(かうし)どもも、人はなくして開きぬ。嫗(おんな)抱きてゐたるかぐや姫、外(と)に出でぬ。え止(とど)むまじければ【とても引き留めることなどできそうもないので】、[嫗は姫を]たださし仰ぎて泣きをり。
 竹取こころ惑(まと)ひて泣き伏せるところに寄りて、かぐや姫言ふ、
「ここにも【わたくしも】、心にもあらで【心ならずも】、かくまかるに【こうして連れ去られるのですから】、昇(のぼ)らむをだに【せめて天に昇って行くその最後だけでも】見送り給へ」
 と言へども、
「なにしに、悲しきに、見送りたてまつらむ【お見送りしたって悲しいだけで何になりましょう】。われを、[残された後は]いかにせよとて、棄(す)てては昇り給ふぞ。具(ぐ)して【一緒に】率(ゐ)ておはせね」
 と、泣き伏せれば、[かぐや姫は]御心惑ひぬ。
「文を(手紙を)書き置きてまからむ。恋しからむ折々、取り出でて見給へ」
 とて、うち泣きて書く言葉は、
 この国に生れぬるとならば【この国に生れたというのなら】[ご両親の]嘆かせたてまつらぬほどまで【お嘆きを見ないですむ時まで】侍らで、過ぎ別れぬること。返すがへす本意なくこそ侍れ【何とも心残りでなりません】。[せめて私が今]脱ぎおく衣(きぬ)を形見と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ【こちらをご覧になって下さい】。[ご両親を]見捨てたてまつりて、まかる空よりも落ちぬべき心地する。
と書き置く。

 出典:『竹取物語』(野口元大・校注、新潮日本古典集成)

 今回の終わりに、かぐや姫の姿が浮かぶ私の作品を、『かぐや姫の物語』、『竹取物語』とともに響かせます。
芸術はこだまする。

 「星の王女さま。『 続・絵のない絵本 』」。(詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から)。

  次回は、今回の引用箇所に続く『竹取物語』原文の、美しさをみつめます。

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tag : かぐや姫 竹取物語 芸術 詩歌 詩人 高畑耕治

新しい詩「クリスマス」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「クリスマス」を、公開しました。

   詩「クリスマス」   (クリックでお読み頂けます)。

 わたしから、ふたりの、ひとりぼっちの、愛の想いへの、クリスマスの贈り物、ちいさなうたの花です。

お読みくださると、とても嬉しく思います。


 次回は、12月27日に映画『かぐや姫の物語』と『竹取物語』についてのエッセイを予定しています。

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tag : クリスマス ゆき 詩歌 詩人 高畑耕治

新しい詩「月の。女(ひと)に。」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「月の。女(ひと)に。」を、公開しました。

   詩「月の。女(ひと)に。」   (クリックでお読み頂けます)。

 わたしから、ふたりの、ひとりぼっちの、愛の想いへの、クリスマスの贈り物です。
 そして、かぐや姫への告白、ちいさな歌の花束です。

お読みくださると、とても嬉しく思います。



 次回は、12月26日に映画『かぐや姫の物語』についてのエッセイを予定しています。

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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 かぐや姫 竹取物語

赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記しています。

 今回も、論文「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」に呼び覚まされた詩想を記します。
 この論文を読んで私は、赤羽淑の、和歌の創作と、創作主体の内面についての、深い共感力と洞察力を、改めて感じずにはいられませんでした。

以下、論考の中心箇所の原文をそのまま引用し、続けて創作者の一人としての私の詩想を添えてゆきます。
◎の後の文章が、出典からの引用文(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています)、◇の後の文章が共鳴した私の詩想です。

◎ 出典原文の引用1
定家の「もみもみ」に関しては正徹のことばが参考となる。
  寝覚などに定家の哥を思ひ出しぬれば、物狂ひになる心地し侍る也。もふだる体を読み侍る事、定家の哥程なる事は無き也。(正徹物語)
  定家の一条京極の家より父の許へ、

   玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風

 と読みてつかはされし、哀れさもかなしさも云ふ限りなく、もみにもうだる哥様也。・・・・・・定家は母の事なれば、哀れにもかなしうも身をもみて読めるはことわり也。(同)
「もむ」という動詞に使われ、また「身をもむ」というふうに対象が限定されている。
(原文引用1終わり)

◇正徹は、母の死に際して定家の歌を「哀れさもかなしさも云ふ限りなく」、定家が「身をもみて」詠んだに違いないと感じています。この表現に私は日本の詩心ならではの、悲しみの表現を感じます。
オウィディウス『変身物語』では、古代ギリシア人が悲しみが極まった際に我知らずする肉体的な表現、「胸をうちたたく」が頻出しました。身をもんで悲しむ日本人の肉体的な表現との、動と静、その対照的な姿を感じずにいられません。
ただ、肉体的な表現が、激しく強く主張する姿であろうが、耐え忍び打ち震える姿であろうが、心の、悲しみと痛みの強さは、変わらず、通じあい、響きあっているのだと思います。だからこそ、文学の感動は、民族性の壁を打ち破ることができます。


◎ 出典原文の引用2
俊成の歌が「すげなげ」「何となげ」に詠んでいるのに対し、定家は「哀れにもかなしうも身をもみて」詠んでいるというのである。「玉ゆらの」は、定家にしては主観的抒情のかった歌であるが、それを真直ぐ単純に詠出してはいない。心と自然形象をからみ合わせ、反復法、同行音の繰返しなどを用いながら、たたみかけるような調子で母を失った悲しみを奏でている。この技巧や推敲過程の中に主体の深い思い入れがたたみこまれ、そこから、沁みでてくる複雑微妙な効果が「もみもみ」なのであろう。
(原文引用2終わり)

◇赤羽淑の、定家の「玉ゆらの」の歌についてのこの感じとり方は、詩のかたちと詩のこころ、詩歌という芸術表現の核心を捉えていると感じます。前褐の『定家の歌一首』をとりあげた私のエッセイ「藤原定家の象徴詩」で、彼女はこの歌をより深く徹底して感受し照らし出していて素晴らしいのですが、その萌芽がここにあったのだと私は思いました。


◎ 出典原文の引用3
 定家の歌の「もみもみ」とした風姿は、俊頼よりも濃やかな「やさしさ」「艶」などの情調を有しているが、式子内親王になると、さらに深く内部生命に根ざしたものとなる。

   玉のをよ絶えなばたえねながらへば忍ぶる事のよわりもぞする(新古今・1034)

の歌などは、身をもむポーズよりも魂そのものをもみくだく悩ましげな姿態を感じさせる。しかし、よくみると押韻・畳句など手のこんだ技巧がかくされているのである。技巧がたんなる技巧に終らずに、強くとおった抒情に微妙な旋律を与えている。魂の声がそのまま歌の調べの中にひびき出たといった風に自然な技巧なのである。
抒情と技巧が相即不離になっていて、これこそ内在律と呼ぶにふさわしい。
(原文引用3終わり)

◇「内部生命」いう言葉に私は赤羽淑の、北村透谷の情熱的な文学論に近しい熱情を感じます。文学を愛する者の熱い者が抱く熱い思いです。
 「内在律」という言葉にも、萩原朔太郎の詩論に近しい詩歌についての根本的な感受性を感じます。
 式子内親王のこの歌を、朔太郎は熱愛し、私もまた熱愛しています。
ここで言われている「抒情と技巧が相即不離」となり、「魂の声がそのまま歌の調べの中にひびき出たといった自然な技巧」は、詩人である私が創作の時間にいつも心に想い願い目指している、詩歌の理想の姿です。


◎ 出典原文の引用4
「もみもみ」の式子内親王におけるあり様は、着想の面白さや外からの構想力によるのではなく、内からおのれを責めてゆく過程を通してあらわれる風姿なのである。内親王はおのれの感情に耽溺しない。また自然のむーどの中に融和しようともしない。つねに対象をつきつめ、おのれを責め、それを徹底させてゆく。その透徹の過程には緊張と葛藤が生じ、そこから創造される歌の姿が「もみもみ」としたものなのである。
(原文引用4終わり)

◇式子内親王に対して、彼女の風姿、歌風、創作主体としての生きざまを、深く感受する、心うたれる、美しい言葉です。「その透徹の過程には緊張と葛藤が生じ」、「そこから創造される」、そこからしか創造できないのが、歌、詩歌、文学だと、私も体感してきました。体感し生きていこうと願う、いつの時代にもかわらない、創作主体にとっての真実が、この言葉に照らし出されていると、私は深い共感をおぼえ、式子内親王に憧れ、彼女の歌を愛し、魂をゆさぶられ、私のうちからの創作へと駆られてゆきます。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」『古典研究』第3号、1968年。


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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 赤羽淑 和歌 式子内親王 藤原定家

詩誌『たぶの木』9号をHP公開しました。

 手作りの詩誌『たぶの木』9号(漉林書房)を、私のホームページ『愛のうたの絵ほん』に12月21日公開しました。
  
   詩誌 『たぶの木』 9号(詩誌名をクリックしてお読み頂けます。)

 漉林書房の詩人・田川紀久雄さん編集・発行の小さな詩誌です。

 参加詩人は、田川紀久雄、坂井のぶこ、山下佳恵、高畑耕治です。
 今号には作家・詩人の神谷恵山下佳恵詩集『海の熟語』評をお寄せくださいました。

 私は創刊号から9号まで、詩人として自分が現在創り得る、いちばん良いと思える作品を、この詩誌で活字にしています。

 ご覧頂けますと嬉しいです。

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tag : たぶの木 田川紀久雄 坂井のぶこ 山下佳恵 神谷恵 高畑耕治

赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記しています。

 今回と次回は、論文「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」です。
 この論文を読んで私は、赤羽淑の、和歌の創作と、創作主体の内面についての、深い共感力と洞察力を、改めて感じずにはいられませんでした。

 以下、そのことを特に感じ共鳴した箇所を抜粋して、創作者の一人としての私の詩想を添えてゆきます。
 ◎の後の文章が、出典からの抜粋文、◇の後の文章が共鳴した私の詩想です。

◎作品が少ないにかかわらず高く評価されてきたことは歌自体の価値によるもの◇創作者としての私のいちばんの願いも、作品自体、歌自体の価値こそが評価され続けることです。式子内親王にとって最上の賛辞だと思います。私もまたこの言葉の通りだと思います。

◎周辺の事情が不明であることも作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方にかなって好都合である。

◇「作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方」、とても根本的なことだと思います。
同じ時代の人物、近い時代の人物ほど、ひどいばあいにはろくに作品を創らなくても話題性でもてはやされたりもします。詩人の場合、同時代に理解者をに得られず死後になって作品自体の価値を見直されることも多くあります。
 近視眼になることに気をつけて大きな心で見つめなおせば、豊かな古典の流れに輝き続けているものは、人間の心に共感をひき起こさずにはいない作品自体の美しさです。創作者と日常の衣食住なしには生存できませんが、
文芸の価値は作品自体が、作品だけが語り続けてくれると私も考えています。

◎たんなる表現技法や構想力の問題ばかりでなく、創作の全過程に作用する能力を予想したいい方である。それは、創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力ともとれる。
「うかりける」の歌についてみると、懸詞・縁語・倒置法・逆説などさまざまの趣向や技巧を凝らし、一首を複雑と曲折と暗示でみたしながらそれらを渾然と一体化している。その過程は並大抵の苦労ではなかろうが俊頼は見事に言いつづけ、詠みおおせているのである。


◇優れた文芸作品、芸術の創作主体、創作者への共感と、深い洞察に満ちた言葉だと私は感じます。
言葉による、表現技法、構想力、さまざまな趣向と技巧が、文芸には不可欠です。言葉で生み出す創作芸術なのだから当たり前のことで、それなくして芸術は創れません。
けれどそこまでは、職人の手習いで学べて模倣できる技の習熟度で巧拙を比較しうる段階です。
そのうえで、その価値を最後に芸術にまで、より高めうるかどうかは、「それらを渾然と一体化」する「創作の全過程に作用する能力」、「創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力」にあると、私も感じ、思います。

◎定家が、これは創作主体の胸裡ふかく根ざしたものだから表現だけを模倣しても及ばない姿であるとしたのは卓見

◇『定家の歌一首』の著者だからこその言葉だと思います。藤原定家は、技巧家との一般的な評価から踏み込んで、定家が「表現だけを模倣しても及ばない姿」があり、それは「創作主体の胸裡ふかく根ざしたもの」だと知りぬいた創作者であったことを教えてくれます。


● 以下は、出典原文の引用です。(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています。)

 式子内親王は残された作品が少ないが古来高く評価されてきた歌人である。また当時の歌壇とはほとんど没交渉で孤独な生涯をおくられたにもかかわらず、新古今風を代表する歌人の一人と認められている。その作品や身分の高貴さが際立っているのに反し、周辺の事情や伝記などは全く模糊として謎につつまれている。そのためか古来さまざまの憶測や伝説が生じ、歌風についての理解もまちまちであった。
 作品が少ないにかかわらず高く評価されてきたことは歌自体の価値によるものであろうし、周辺の事情が不明であることも作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方にかなって好都合である。そしてひとりの作歌活動をつづけてその歌風が時代の先端をゆくということは、個人様式と時代様式のかかわりを示すものとして興味深い。歌風についての従来の評価がまちまちで、極端に異質的な理解や対立的な位置づけがなされて来たが、それも様式の問題――作風の形成過程――として統一的に把握できのではなかろうか。

(略)
 式子内親王の歌についての批評のなかでもっともするどくその核心にふれるものは「後鳥羽院御口伝」であろう。
  近き世になりては、大炊御門前斎院・故中御門の摂政・吉水前大僧正、これら殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。
「殊にもみもみとあるやうに詠まれき。」と評されている。「もみもみ」ということが歌の風体についていわれているのか、そういう風体を導く創作態度をいっているのかこの部分だけでは判然しない。

「御口伝」ではほかに俊頼と定家について「もみもみ」という標語を用いているので、その方面から解明の手がかりを得ようと思う。
まず俊頼については、
  俊頼堪能の者也。哥の姿二様によめり。うるはしくやさしき様も殊に多く見ゆ。又もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。
この一様すなはち定家卿が庶幾する姿なり。
   うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を
  この姿なり。
とあり、定家については
 定家は、さうなき者なり。・・・・・・やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。
と評している。両者とも「堪能」とか「生得の上手」と称されている歌人であるから、そういう特殊な能力によって詠み出された「人はえ詠みおほせぬやうなる」「まことありがたく見ゆ」る姿が「もみもみ」なのである。

引例となった「うかりける」の歌について定家は「これは心ふかく言心まかせてまねぶともいひつづけがたく、まことにおよぶまじきすがた也。」(近代秀歌遺送本)と評している。模倣を許さぬような卓絶した表現形態だというのである。
「後鳥羽御口伝」の「人はえ詠みおほせぬ」といい、この「いひつづけがた」いような姿というのは、たんなる表現技法や構想力の問題ばかりでなく、創作の全過程に作用する能力を予想したいい方である。それは、創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力ともとれる。
「うかりける」の歌についてみると、懸詞・縁語・倒置法・逆説などさまざまの趣向や技巧を凝らし、一首を複雑と曲折と暗示でみたしながらそれらを渾然と一体化している。その過程は並大抵の苦労ではなかろうが俊頼は見事に言いつづけ、詠みおおせているのである。

定家が、これは創作主体の胸裡ふかく根ざしたものだから表現だけを模倣しても及ばない姿であるとしたのは卓見で、同じような傾向を示す定家を後鳥羽院が評しているのといちじるしく対蹠的である。すなわち、
  惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。ただ、詞・姿の艶にやさしきを本体とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばば、正体なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の者にてあれ。(後鳥羽院御口伝)
と、定家を「生得の上手」と認めながら、それを詞や姿の上に限って心の作用との関連から論及することをしない。しかし、「その骨すぐれざらん初心の者まねばば、正体なき事になりぬべし。」とあるから、何かとおるべきものが貫いていることは認めている。風体の上からいえば、歌のつづけがらにみられる渾然たる有機的統一、曲折に富みながら腰の強さなどを意味するのであろうが、それはやはり創作主体に帰すべきものであろう。

原文引用終わり

 出典:赤羽淑「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」『古典研究』第3号、1968年

 次回も、この論文を通しての詩想を記します。


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赤羽淑の論文から(一)。『源氏物語』、光、匂、薫。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記します。

 今回は『源氏物語』をみつめた論文「源氏物語における呼名の象徴的意義 ―「光」「匂」「薫」について―」です。

 私はこの論文を読んで、紫式部を想います。『源氏物語』を書き連ねる時間に、光源氏、匂宮、薫とともに息をしていた紫式部の面影が浮かびます。
 彼女は物語に生きる男性に語りかけながら、呼びかけながら、筆を進めたでしょう。執筆にのめりこんでいた日々には、間近に存在を感じて生活し、共に眠り、契り、夢にまで現われたでしょう。

 赤羽淑はこの論文で、紫式部が彼らに与え呼びかけた名前、「光」「匂」「薫」、それぞれの言葉に込めら想い、それぞれの言葉から立ちのぼり現われ出るもの、象徴しているものを、あくまで原典、紫式部の言葉をみつめ、用例を丁寧にひろいながら、教えてくれます。

 たとえば、作中にちりばめられた光の描写の諸相を見つめることで得られた認識野言葉、「光の、感覚的に具象化された美は、月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美」、その感受力から生まれた言葉に、私は深い共感を覚えます。

 また、「匂」という言葉はその源では、視覚的な意味をも持っていたとして、「薫」と対比してゆく論述は言葉の年輪を見つめているのがとても魅力的で、惹きこまれます。

 『源氏物語』は大河のような絵巻物ですから、私も一読者として私自身のこころの在り様からの好みがあります。
 光に対しては、物語の上流にある、貴公子としての面目躍如の輝きばかり眩しい絶頂期よりは、畏れや疑いといった負の感情、病や悲しい出来事が増えてくる、物語が下流に近づくにつれて、感情の深み、人間の多様な心もようへの共感が増してゆくのが感じられ、私は引き込まれてしまいます。
 また、宇治十帖の二人の男性に対すると、「匂」より「薫」の感じ方、考え方、生き方に、共感するものを感じます。
(ただそれは、現在の年齢が影響している気もします。私がいま青春期にいたら、恋愛狂い、恋愛の機微、諸相がきらびやかに展開する、物語の上流にこそ惹かれるだろうとも思います)。

 赤羽淑は、「光」は、「匂」と「薫」の両面を分身としてあわせもった人物だと、目を見開かせてくれます。
 光は出生した日から、明と暗をあわせもって生まれ、貴公子時代にも影がある人間だったから、魅力的なのだと教えられます。
 「天上的発光体―日月など―の強烈な豪華さはないが」、「月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美」です。
 そのような男性に育て、生きさせたのは、紫式部の人間についての深い心の眼差しがあったからこそとも感じます。

 宇治十帖、浮舟に私は強く惹かれてしまいますが、「薫」と「匂」の両極の、対照的な男性の間で、恋に激しく揺れ動き翻弄され引き裂かれる若い女性の魂の悲しみに、「人間」と「運命」を想わずにいられない、作者の渾身の想いの強さを感じるからです。

 『源氏物語』を深く愛する赤羽淑は、これらのことを、次のようなとても明瞭な言葉で伝えてくれます。
 「全く対照的な性格描写は類型的なようであるが、それは単なる類型ではなく、宇治の世界に於ける普遍的な人間性の葛藤や苦悩、更には深い世界観を描出する為の巧妙な構想力である。
 最後のクライマックスたる浮舟の悲劇は、この二人の個性の設定から必然的に発展するものに外ならない。「光」・「匂」・「薫」という三人の微妙な陰影と運命を荷う人間像は、ひかり・にほふ・かをるという名にいみじくも象徴化されている」。

 言葉のもつ象徴性について、深く感じとらせてくれる優れた論文です。


● 以下は、出典原文の引用です。(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています。)

匂宮の冒頭は、「光かくれ給ひにし後、かの御影に立ち継ぎ給ふべき人、そこらの御末々にあり難かりけり。」と書き出されている。「光云々」は、直接には、光源氏の薨去を指すのであるが、それと共に、世の希望、光明の消滅と、暗黒の世界の到来を暗示している。即ち、「光」は、光源氏という特殊な個人的存在を表わすと同時に、それに附随し、源氏物語の世界全体を光被する一般的普遍的観念をも意味している。ここに、「光」という名が、源氏という個人に偶然に与えられたものでないことが分る。
 同様のことは、「匂」と「薫」についても指摘することが出来る。光隠れた後の残影の中に現われる「匂」と「薫」は、文字通り光の分身であるが、それぞれに異った個性を有して宇治の世界を展開させる。その対照的な人間像は、「匂」と「薫」という呼名にいみじくも象徴されているのである。われわれは、ここに、作者の象徴的表現の絶妙さを認めることが出来る。
(略)
 以上の考察によって源氏物語における光の性格が明らかであるが、要約すると、源氏という個人の崇高な精神美と、高貴な身分から発する光の、感覚的に具象化された美は、月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美である。それは天上的発光体―日月など―の強烈な豪華さはないが、世の人々に希望を与え来世へ導く光明となり、源氏物語の世界を普く光被するのである。この意味で個人的存在に普遍性が与えられ、そこに「光源氏」が源氏物語を統一する理想的存在としての高い意義が認められるのである。
(略)
 要約すると「薫」の内面的で崇高な美に対する「匂」の華美な官能美、薫の自然的生得的芳香に対する「匂」の技巧的人工的な匂、「薫」のつつましく思い澄した道心に対する「匂」の浮気な徒心(あだごころ)、「薫」の内省的懐疑的消極性に対する「匂」の外抗的意志的積極性、「薫」の陰鬱性に対する「匂」の明朗性、以上の全く対照的な性格描写は類型的なようであるが、それは単なる類型ではなく、宇治の世界に於ける普遍的な人間性の葛藤や苦悩、更には深い世界観を描出する為の巧妙な構想力である。最後のクライマックスたる浮舟の悲劇は、この二人の個性の設定から必然的に発展するものに外ならない。「光」・「匂」・「薫」という三人の微妙な陰影と運命を荷う人間像は、ひかり・にほふ・かをるという名にいみじくも象徴化されているのであり、その人物と名前との本質的有機的な相互関係において、言語記号のもつ最高の機能を十分に果たし得ているのである。

● 原文引用終わり。

 出典:赤羽淑「源氏物語における呼名の象徴的意義 ―「光」「匂」「薫」について―」『文芸研究』28号、1958年。

 次回は、式子内親王の和歌についての赤羽淑名誉教授の論文を通して詩想を記します。

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好きな言葉「愛のうたの絵ほん」(二)。詩は音楽、絵画。

 前回に続き今回も、好きな言葉「愛のうたの絵ほん」を通して、
詩をみつめます。

 詩は、白紙に生みだす、言葉の音楽、言葉の絵画。

1.詩は言葉の音楽

① リズム、音数律の快さ

3音+(間)、3音+間、3音+沈黙
「のnO」が脚韻のように、
がリズム、間(ま)を生み、3行詩のよう。

愛の(nO)
うたの(nO)
絵ほん(n沈黙)


最終文字の「ん」
「の」NOのように子音+母音ではなく
子音nだけ。子音+無音に溶けて沈黙が続くと感じる。

② 音色

詩は言葉の調べ。音色と抑揚ある、旋律。

・母音の音色。
「あ」  高く開かれた明るい音色。
「い、え」中ほどの閉じた強い音色。
「う、お」低く閉じた静かな音色。

・子音の音色
n音:弱くくぐもり内向する
t音:強く発散主張する
h音:はかなくほんわり


③ 音色と抑揚。言葉の旋律の楽譜(三線譜)

(音数)  1  2  3 4    5 6  7 8    9  10  11 12
高開明音  A           tA       
中閉強音   I                 E
低閉静音    nO 間   U    nO 間     hO n 沈黙 


2.詩は言葉の絵画

①漢字とひらがな、文字のかたち

「愛」と「絵」は漢字のかたちが好き。
(「あい」も好き、「え」一文字は弱く感じる)。
漢字は一目、瞬時で意味を伝える。

「うた」、「ほん」は、
「歌」、「本」より、やわらかなひらがなの丸みを選んだ。
ひらがなは画数が少なくまるみのある曲線が心をやわらかくする。

② 詩句、詩行の並び

詩作品では、文字と文字の並び、詩行の並び、余白も、
書や絵画に通じる、白紙に描きあげる表現。

 詩は初めから解が見つかると予想され決められた、知性による計算、演算ではないと思います。
 だから、詩を作るときに計算はしません。

 私は、無音の白紙に、言葉の音楽と絵を描きたくて、
こんなことを感じとりさぐり見つけだしつつ、創作しています。

 ただ忘れてはならないのは、芸術が生まれてくるのは、想い、願い、感動からだということです。
伝えずにはいられないそれらの強さこそが、作品のいのちです。

 伝えるために、美しい音と色を懸命にさがし生み出す努力が、創作だと私は思います。

 


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好きな言葉、「愛のうたの絵ほん」(一)。

 今回は、気楽に書き流しますので、気楽に読み流して頂けたら、嬉しいです。

愛のうたの絵ほん」、この言葉を私は、詩集名にし、十数年してから、ホームページ名にもしています。
とても好きだからです。

1.意味
 好きな語句、詩句が連なっているから。愛、うた、絵、ほん、(絵本)。
 突きつつめた凝視する切迫した言葉(たとえば、「死と生の交わり」)が好きですが、対極にある、やさしくあたたかく、生きたいと思える言葉も好きです。

2.音
 とても好きな音、あ、い、う、え、お、が聞こえるから。Aア Iイ no Uウ tano Eエ h Oオ n。
 詩作品でわたしはおなじように、音色、響きのうつくしさに徹底してこだわります。こだわらないなら散文を選びます。

3.かたち
 「うた」、「絵ほん」 を、「歌」、「絵本」にしていないのは、ひらがなのまるみの美しさが好きだから、それだけの理由です。
 詩作品でわたしはおなじように、文字のかたち、並ぶ姿のうつくしさに徹底してこだわります。こだわらないなら散文を選びます。

 私の思い入れです。
 次回も、この短い言葉をとおして詩を、もう少し深く感じとります。

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オウィディウス『変身物語』(十一)。野蛮な戦争から、平和的な技芸に。

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の『変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。

 最終回も前回に続き、ピュタゴラスを通して述べられたオウィディウスの死生観です。

 ここには、ピュタゴラスの死生観、輪廻転生(りんねてんしょう)、霊魂の不死が語られています。仏教と通い合うものがあります。アイヌのユーカラ、世界観にも近しいものがあり、私は親しく感じます。

 オウィディウスは、ピュタゴラスの言葉としてこの死生観を伝えます。ピュタゴラスはこれが真理だと信じ信仰していたでしょう。真理は複数あっては齟齬が生じ破綻するので、他の真理の主張を厳しくはねのけ、真理ではないと断罪します。
 文学は真理を主張し押しつけることを目的とする手段ではありません。人間にわからないものはわからないものとして、悩み、愁い、迷い、惑い、悲しみ、苦しみます。
 この一節も、オウィディウスが、自分自身の信仰、ただひとつの真理だと、直接、主張し押し付け演説したなら、私は逆に、どうして人間にそんなことがわかるんだと、反発し、疑うと思います。
 ピュタゴラスに語らせるオウィディウスもまた、死を前に、惑い、悩み、迷っているからこそ、私は文学として、共感する自分を見つける気がします。

 オウィディウスの『変身物語』をみつめてきた最後にこの引用を選んだのは、次の詩行への深い共感からです。
 「野蛮な戦争だけに馴れていたひとびとを、平和的な技芸に向かわせた。」 

 文学、詩歌は、平和的な技芸です。素晴らしく、美しく、人間が生み出せ、感動をつたえあえる、心の文化です。オウィディウスは真の詩人でした。戦争は人間を貶めるだけの野蛮なものと痛いほど知っていて、比べようも無い「平和的な技芸」の価値、人間にとっての意味を知っていました。
 だからこそ、初回に引用した彼の、「この作品によって私は永遠に生きるのだ」、この言葉に彼が込めた思いの真実を、『変身物語』を、私は深く愛します。


● 以下、出典の引用です
 
 冷たい死の恐怖におびえている人間たちよ、どうしてあの世を恐れるのか? 暗闇と、名前だけの虚像を? 詩人たちのたわごと、架空の世界のあの危難を、どうしてこわがるのか? われわれのからだは、火葬堆(づみ)の炎に焼かれようとも、ながい年月のうちに朽ち果てようとも、何の苦しみも受けるものではないと知るべきなのだ。霊魂にいたっては、これは死ぬことがなく、以前のすみかを去っても、つねに新居に迎えられて、そこに生きつづけ、そこをすみかとする。
 万物は変転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気にいったからだに住みつく。獣から人間のからだへ、われわれ人間から獣へ移り、けっして滅びはしないのだ。(略)霊魂も、つねに同じものではありながら、いろんな姿のなかへ移り住む――それがわたしの説くところだ。だから、警告しよう。口腹の欲に負けて、人の道をあやまってはならぬ。そのためには、非道な殺戮によって、われわれの同類というべき魂たちをそのからだから追い出してはならないのだ。生命によって生命を奪うことは許されぬ。
(略)
 天空と、その下にあるものはみな、姿を変えてゆく。大地も、そこにあるすべてのものもだ。この世界の一部であるわれわれも、その例にもれない。それというのは、われわれは単に肉体であるだけでなく、飛びまわる霊魂でもあり、野獣のなかに住むことも、家畜の胸へはいりこむこともできるからだ。だから、それらの動物たちのからだが安全無事で、敬意をもって遇せられるようにしてやろうではないか。そこには、われわれの親兄弟や、あるいは、ほかの何かのきずなによってわれわれと結ばれた者たちの、それとも、少なくともわれわれと同じ人間の、霊魂が宿ったかもしれないのだ。
(略)
 ヌマは、これらをはじめとするいろんな教えを胸にたたんで、祖国へ帰り、民たちの心からなる懇望によって、ラティウムの国の支配権を手にしたという。そして、幸せにも、妖精(ニンフ)エゲリアを妻とすると、「詩女神」たちの導きを得て、おごそかな祭の儀式を民に教え、野蛮な戦争だけに馴れていたひとびとを、平和的な技芸に向かわせた。
 老いたヌマが、その生涯と統治を終えたとき、ラティウムの女たちや、民たちや、元老たちは、ひとしくヌマの死を悲しんだ。

● 引用終わり

 オウィディウスの『変身物語』をみつめてきました。最後にこの作品と木魂する私の詩を響かせます。お読み頂けると嬉しいです。

  詩「小さな島、あおい星の乳房の 」(高畑耕治HP『愛のうたの絵ほん』から)

 出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫

 次回からは久しぶりに私の好きな和歌の時空に戻り詩想を感じとりたいと思います。


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オウィディウス『変身物語』(十)。ピュタゴラス、殺すことによって生きてゆくとは。

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の『変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。

 今回と最終回はピュタゴラスを通して述べられたオウィディウスの死生観です。

 ピュタゴラスを、最初の菜食主義者、獣肉を食することをよしとしない最初のひとだった、「彼のこの賢明な言葉は、ひとの信を得るにはいたらなかった。」とオウィディウスは書きます。
「賢明な言葉」に、彼の共感が示されています。そのことと、彼が生活において菜食主義者として生活したかは別なことがらだと思います。

 この主題は、ひとりひとりの宗教観、信仰とも密接に関わってきます。私は二十歳の頃、「青年は老人だ」とノートに記していました。死生をみつめ間近に感じる想いの強さ、生き方に迷い、信仰を思うことに、近いものを感じていました。その後も変わらないので、私は青年期からずっと老人でいるのかもしれません。

 プロテスタントの家庭で育ち、祖母は浄土真宗を信仰していて、さまよう思いもありました。文学にのめり込んでからも宗教は心のそばにいつもあります。ゾロアスター教やジャイナ教、ウパニシャッド、原始仏典、惹かれ教えられる宗教にとりまかれています。
 その渦の中で菜食主義についても悩みました。(個人が決断することで、他者がその決断を批判できることがらではありません)。
 詩集『死と生の交わり』詩「殺す」詩「鎮魂歌―救済のための祈り―同反歌」という、とても苦しい作品があります。込められた心は変わらず私にあります。(リンクしましたのでタイトルからお読みいただけます)。

 私自身は、一つの真理を選び跳び信仰する手前の地でさまよいつつ、こころの真実を文学として表現することを選び、生きています。
 私は菜食主義に共感しつつそうできたらいいと思いつつ選んできませんでした。青春期にそのように悩みはじめるまでに食べ自らの肉体としてきたことは消し去れないとの想いがありました。食物連鎖から逃れられる生き物はいないという想いもあります。

 このような私が菜食主義を貫く方の意思、信仰に畏敬を感じつつ、心に親しく真実を感じるのは、狩猟民族であったアイヌの神謡、アイヌ・ユーカラの世界観、死生観です。
 彼らは他の動物を殺し食べないと生きられないことを知り尽くし感じ尽くしたうえで、その動物たちとともに生きています。動物たちが生かしてくれていると謙虚に感謝し、生かしてくれた熊にもウサギにも鮭にも祈りを捧げます。

 私の心にとっては、人間として生を与えられた生き物のあり方としての真実を感じます。私は、私は私が食べてきた、私を生かしてくれた、すべての動植物そのものだと想い、いまを生きています。

● 以下、出典の引用です

 この地にピュタゴラスという人物がいた。サモスの生まれではあったが、この島とそこの支配者たちをのがれ、圧政を憎んで、進んで亡命者となったのだ。(略)
 獣肉を食膳に供することを非とした最初の人は、このピュタゴラスだったし、はじめてつぎのようなことを語ったのも彼だ。もっとも、彼のこの賢明な言葉は、ひとの信を得るにはいたらなかった。
 「人間たちよ、忌まわしい食べ物によって自分のからだを汚すようなことは、しないことだ! 穀類というものがあり、枝もたわわな果実がある。葡萄の樹には、はちきれそうな葡萄もなっている。生(なま)でもうまい草木もあれば、火を通すことで柔らかくなる野菜もあるのだ。乳もあれば、じゃ香草の花の香にみちた蜂蜜にも、こと欠きはしない。大地は、惜しげもなく、その富と快適な食糧とを供給し、血なまぐさい殺戮によらない食べ物を与えてくれる。獣たちは、肉によって飢えを鎮めるが、しかし、すべてがそうであるというわけではない。たとえば、馬や羊や牛は、草を喰って生きている。ただ、荒くれた兇暴な性質のものだけが、血にまみれた食物を喜ぶのだ。アルメニアの、虎、怒り狂う獅子、狼、熊などがそれだ。ああ、どれほどの罪であろう! 臓腑(ぞうふ)のなかに臓腑をおさめ、肉をつめこむことで貪欲な肉をふとらせるとは! ひとつの生き物が、ほかの動物を殺すことによって生きてゆくとは! こよなく慈悲深い母である『大地』が生みだす、こんなにも豊かな富に囲まれていながら、荒々しい歯で痛ましい肉を噛み裂き、あの『一つ目族(キュクロペス)』の習わしを再現することだけが喜びだというのか? 他の生物を滅ぼすことなしには、飽くなき貪婪な口腹の欲を鎮めることができないというのか?
(略)
 どこかの誰かが、余計にも、獅子たちの食べ物を羨やんで肉をくらい、それを意地きたない腹へ送りこむことを始めたのだ。こうしたことから、罪への道が開かれた。おそらく、最初は、剣が血にまみれてあたたかくなったのは、野獣を殺すことによってであっただろう。そして、それだけならよかったのだ。われわれの生命を奪おうとする動物を殺すことは、道にはずれたことではないとおもう。が、殺すのはよいとしても、食ってもよいというわけではなかった。

● 引用終わり

 今回の最後に、ピュタゴラスやオウィディウスと、木魂する私の詩を響かせます。お読み頂けると嬉しいです。

  詩「青い空のあの白い」(高畑耕治HP『愛のうたの絵ほん』から)


 次回も、この天の川に輝く、わたしの好きな神話の美しい星を見つめます。

 
出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫

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オウィディウス『変身物語』(九)。オルペウスの死

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。
 今回は、楽人であり詩人であるオルペウスの死です。

 私は文学が好きになり詩を書き始めた頃からずっと、オルペウスが好きです。この世と神話の世界とあの世を行き交う魂のような存在に憧れます。また、彼が竪琴をひき詩を口ずさみ歌うと、動物たち、草花たち、樹木たち、石も岩も川の水までもうっとり聞き惚れる、イメージに、文芸と平和の象徴を感じて、尊敬をおぼえるような存在です。

 オウィディウスが、今回のオルペウスの死の物語を書いていたとき、彼はオルペウスに自分の姿を投影していると、私は感じます。「楽人オルペウスは、森の木々や、獣たちの心を引きつけていた。岩石までもが、引き寄せられて、彼の後を慕っている。」このような詩人をきっと尊敬していたからです。

 そのように愛する詩人の死は、残虐なものであったと、オウィディウスは物語ります。ローマから追放された地で『変身物語』を執筆している自らの悲しい境遇が、文章に沁みこんでいるように私には感じられます。

 「自分の言葉が効(き)き目をあらわさないのは、これがはじめてだ。声を出しても、相手を感動させることができない。――こうして、不敬な女たちは、彼を殺した。」

 この言葉から、オウィディウスが詩の本質は感動だと考えていたこと、心の鈍い者には伝わらないこと、物質的な暴力へ抗する手段でも力でもないことを、知り尽くしていたことを感じます。
 詩人は現世では嘲笑され、殺される、と。

 けれども、彼の死を悼んでくれるものたちをも知っていました。鳥たち、獣たち、固い石も木々も河川も、水の精や、森の精たちが悲しみにくれ、泣いてくれることを、知っていました。死の国で彼は最愛のひとを探し、見つけ、抱きました。もう二度と引き離されることはないと。
 詩人は現世で殺され、死んで生き返る。ここには、オウィディウスの厭世感、死生観が色濃くにじんでいます。
文学の一面を象徴するようなこの物語は、神話となり、この世のそばにいつもあり、オルペウスやオウィディウスがその世界にいま生きているのを、私は感じてしまいます。
文学は、物質的な暴力へ抗する手段でも力でもないからこそ、時空を超えて、想いと想いを結び、交わり、息しています。
 
● 以下、出典の引用です

 このような歌によって、トラキアの楽人オルペウスは、森の木々や、獣たちの心を引きつけていた。岩石までもが、引き寄せられて、彼の後を慕っている。と、そのときのことだが、トラキアの女たちが、丘の頂きからオルペウスを見つけた。胸に子鹿の皮をつけた、こころ狂った女たちだ。ちょうど、オルペウスは、竪琴をかきならし、それにあわせて歌をうたっているところだった。
 女のひとりが、そよ風に髪をなびかせながら、こういう。
 「ほら、あすこに、わたしたち女性の侮蔑者がいるわ」
 こういって、アポロンの息子であるこの楽人の、歌声うつくしい口のあたりに、神杖(チュルソス)を投げつけた。(略)
 もうひとりが石を投げたが、その石は、空中を飛んでいるあいだに、歌声と竪琴との調和のよさにうっとりとなって、このような狂暴な行ないにたいして許しを乞うかのように、楽人の足もとに落ちて、じっとしていた。(略)
 が、すさまじい叫びと、口のまがったプリュギア風の笛、太鼓や手拍子、それに、バッコスの信女たちのわめき声が、竪琴の音(ね)をかき消した。こうなると、もう、楽人の歌も聞きとれない。石が、かれの血で赤く染まった。
 最初に襲われたのは、まだ歌い手の声にわれを忘れている無数の鳥たちや、蛇たちや、獣の群れだった。狂った女たちは、オルペウスにほまれを与えているこれらの聴衆を、引きさらっていった。(略)

 荒々しい女たちは、これらの道具を奪い取り、恐ろしい角(つの)をもった牛たちを引き裂いたあと、楽人の命を奪おうと、駈けもどる。オルペウスは手をさしのべる。自分の言葉が効(き)き目をあらわさないのは、これがはじめてだ。声を出しても、相手を感動させることができない。――こうして、不敬な女たちは、彼を殺した。(略)
 鳥たちも悲しみにくれて、オルペウスを悼(いたんだ。獣の群れも、固い石も、同じだった。しばしば彼の歌に引き寄せられた木々も、泣いた。そういえば、木は、葉を落とし、あたかも頭を丸めて喪に服しているかのようだった。河川も、みずからの涙によって水かさを増したという。水の精や、森の精たちも、黒で縁どられた衣服を着け、その髪を乱れるにまかせたのだ。(略)
 オルペウスの霊は、地下へくだった。前に見た場所は、ことごとく身覚えていた。死者たちの「楽園」を探しまわり、エウリュディケを見つけ出すと、こらえきれないで、ひしと腕にだいた。(略)

● 引用終わり

 今回の最後に、オルペウスの魂と、木魂する私の詩を響かせます。お読み頂けると嬉しいです。

  詩「さようならこんにちは」(高畑耕治HP『愛のうたの絵ほん』から)


 次回も、この天の川に輝く、わたしの好きな神話の美しい星を見つめます。

 出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫


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オウィディウス『変身物語』(八)。悲しい吠え声を

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の『変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。

 二回に分けて、トロイア戦争の敗戦国の王妃ヘカベと、娘のポリュクセナ、息子のポリュドロスの悲劇をみつめています。この一節のオウィディウスの言葉、詩句には、とても強く迫ってくるものがあります。生を凝視し歌う彼の魂が言葉に乗り移っているように、わたしは感じます。

 今回は、息子ポリュドロスの死を目の当たりにした母へカべの絶望です。
 前回に続き、今回も、これでもかこれでもかと、母へカべを襲います。最愛の子どもたち、最後のひとりまで、奪われたヘカベは、絶望し、復讐し、悲しい吠え声をあげさまよう、犬へと変容します。

 神話の世界と交わり行き交いする物語は、史実そのものではありません。ヘカベは、幼い末息子のポリュドロスの死を見せつけられたあげくに、絶望のうちに、死んだのかもしれません。

 詩人オウィディウスは、彼女の生きざまと、思い、声を伝えようとしたこの作品で、息子を殺害したトラキアの王に対して、ヘカベに復讐、あだ討ちを遂げさせます。敗戦国の、身内すべてを殺害された、独り身の老女が、王を殺せたか? 史実を伝えることより、オウィディウスは、願いも物語を紡いだのだと、私は思います。
 オウィディウスもまた、最愛の者を殺害された者の、絶望を、そのまま闇に葬り去ることが許せなかったのだと、許せないのだと私は思います。
 『変身物語』の母ヘカベの絶望と復讐と、悲しい吠え声は、この物語が生まれたとき、彼女ひとりだけのものではなくなりました。絶望にほうり出された、悲しく、心痛める、ひとりひとりの声に高められ、変身した、と私は思います。
 「この成りゆきではヘカベが可哀そうすぎる」、あまりにと、私の心にも、悲しい吠え声が、いまも聞こえます。

● 以下、出典の引用です

「(引用前回からの続き)
わたしは何もかも失ってしまった。が、いましばらくは生きていようとおもうだけの理由が、ひとつだけ残っている。この母にとっていちばん可愛い子、いまではひとりだけになってしまったが、もともとは末息子の、ポリュドロスがいることだ。(略)――それはそうと、この娘(こ)のむごい傷と、無慈悲な血にまみれた顔とを、すぐにも洗ってやらねば!」
こういうと、白髪をかきむしりながら、老いの足をひきずって海岸へと出かけていった。
「さあ、みんな、水がめを渡してちょうだい」
不幸な母親は、トロイアの女たちにこう呼びかけた。澄んだ水を汲むためだ。と、そのとき、岸にうちあげられたポリュドロスの死体が目にはいった。トラキアできの剣でつくられた傷が、大きく口をあけている。トロイアの女たちは叫びをあげた。が、ヘカベは、悲しみに声も出ない。まさに悲しみが、声と、こみあげる涙を、同時に呑みこんでしまったのだ。まるで固い岩そっくりに、からだが硬直する。足もとの地面に目をそそぐかとおもうと、けわしい顔を空へ向ける。目の前の息子の顔と、傷とを、見こう見するが、目はどうしても傷のほうへ行きがちだ。怒りがたぎり、怒りで武装する。
(略)
こんなしらをきり、でたらめの誓いをたてている男を、ヘカベははげしい勢いでにらみつけた。怒りがこみあげて、にえたぎる。がまんならなくなって、相手をつかまえると、捕虜仲間の女たちを呼んで、加勢を頼んだ。不実な男の両眼に指を突きさして、目の玉をくりぬく。怒りが、そんなにも彼女を凶暴にしていたのだ。それから、さらに手を突っ込むと、相手の罪深い血でわが身を汚(けが)しながら、もうそこにもない目の玉のかわりに、目のあった場所をえぐり取った。
 トラキアの民は、自分たち王の災厄を憤り、得物(えもの)や石を投げつけてヘカベを攻撃し始めた。ヘカベは、しわがれたうなり声をあげながら、飛んで来る石を追って、それに噛みつこうとする。ものをいおうとして口を開くが、言葉にはならないで、吠え声が出て来たのだ。――この場所は、いまも残っていて、この出来ごとによって「犬の墓」と呼ばれている。ヘカベは、むかしの不幸を末長くおぼえていて、この後も、トラキアの野に、その悲しい吠え声をひびかせた。
 ヘカベの運命は、味方であるトロイア人はもちろん、敵であるギリシア人の心をも動かし、さらには、あらゆる神々の哀れをさえ誘った。そうだ、あらゆる神々のだ。ユピテルの妃であり、その姉妹(きょうだい)でもあるユノーさえもが、この成りゆきではヘカベが可哀そうすぎるといったくらいだったのだ。

● 引用終わり

 今回の最後に、ヘカベの悲しみと、木魂する私の詩を響かせます。お読み頂けると嬉しいです。

  詩「母」    (高畑耕治HP『愛のうたの絵ほん』から)


 次回も、この天の川に輝く、わたしの好きな神話の美しい星を見つめます。

 出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫

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オウィディウス『変身物語』(七)。女のおまえさえも

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の『変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。

 二回に分けて、トロイア戦争の敗戦国の王妃ヘカベと、娘のポリュクセナ、息子のポリュドロスの悲劇をみつめます。この一節のオウィディウスの言葉、詩句には、とても強く迫ってくるものがあります。生を凝視し歌う彼の魂が言葉に乗り移っているように、わたしは感じます。

 今回は母ヘカベと娘ポリュクセナの嘆きです。
 
 敗戦し滅びた国の、母と娘の悲劇を伝えるこの説話でも、詩人オウィディウスは、娘ポリュクセナとなりきり、母ヘカベにもなりきり、彼女たちの思いになりきり、語っています。
 オウィディウスがこの作品を書き続けていた時間には、娘ポリュクセナも、母ヘカベも死んでいました。絶望のうちに、言葉を奪われ、無言で。
 オウィディウスは、絶望のうちになくなった二人の女性の無念の声になりきり、その思いを死の国から蘇らせたともいえます。

 わたしはこの話を読み、オウィディウスを通して語る、王妃ヘカベと、娘のポリュクセナの声を聞くと、原民喜と峠三吉を思わずにいられません。
 二人の詩人もまた、原爆の惨劇に陥れられた、罪の無い多くの少女や子供たちの、絶望の声になりきり、蘇らせてくれました。その声は、私の胸からもう消えることはありません。読者の思いに木魂し、語り継がれます。

 人間がいて、文学があるかぎり、消え去ることはありません。絶望のうちに消えていった悲しみさえ、いのちの声として蘇らせ、響かせてくれる文学を大切にしたいと私は思います。

● 以下、出典の引用です

いまでは母親にとってほとんど唯一の慰めであるこの娘が、その母親の手から奪い去られた。ふしあわせにもめげぬ乙女は、男まさりの気丈さで、アキレウスの墓前へ連れ出される。この無慈悲な塚に、いけにえとして献げられるのだ。残忍な祭壇の前に立ち、自分を贄(にえ)とするための、残酷な儀式が用意されているのを知ったときも、王女としての誇りを忘れなかった。(略)
――「(略)いまのわたしのたったひとつの願いは、わたしが死んだことを母が知らないでいられたらということです。母だけが気がかりで、母のことをおもうと、死んでゆく喜びも褪(あ)せるのです。もっとも、母がほんとうに嘆かねばならないのは、わたしの死よりも、自分が生きていることのほうなのですのに。
(略)どうか、わたしのなきがらは、金子(きんす)と引きかえなどではなしに、母親の手へ返していただけますように! 葬いの悲しい権利は、黄金によってではなく、母の涙によってあがなわせてください。(略)」
 こういったが、涙はこらえていた。聞いているみんなのほうが、そうはできなかった。儀式を司るネオプトレス自身も、涙を流していた。さし出された胸に剣を突きたてるのが、こころ苦しかった。乙女は、がっくり膝を落として、地上にくずおれたが、最後の瞬間まで、泰然自若とした表情を崩さなかった。(略)
彼女を引きとったトロイアの女たちは、(略)乙女の死と、母親の運命を嘆く。ついこのあいだまで王妃と呼ばれ、母后と尊ばれて、アジアの繁栄の象徴であったヘカベが、いまでは、捕虜としてさえありがたがられはしないのだ。(略)
そのヘカベが、いま、あんなにも雄々しい魂のぬけ去った、娘の遺体を抱きしめている。あれほどたびたび、祖国や子供たちや夫のために流した涙を、娘のためにも流すこととなったのだ。その熱いしずくを傷口にそそぎ、唇に唇を重ねて、叩きなれた胸を打ち叩く。固まった血を白髪でなでながら。あれやこれやの嘆きをつらねる。われとわが胸をかきむしりながら、こうもいった。
「娘よ、おまえはここに横たわっている。おまえは、おまえの母親の最後の悲しみなのだ。でも、ほかに、どんな悲しみが残っていよう? 目の前のこの傷は、お前の傷というよりは、わたしの傷だ。(略)おまえは女だから、刃物からは守られているとおもっていた。だのに、女のおまえさえも、剣で倒れた。(略)
こんなにも大勢の者をなくしたあとで、今度は、ただひとり母親の嘆きを和らげてくれていたおまえが、かたきの墓へのいけにえとなった! それなら、わたしは、敵に捧げるための贄を生んだのか! (略)おまえに捧げられるものは、母の涙と、ひとつかみの異国の砂だけなのだ!(引用次回へ続く)。

● 引用終わり

 今回の最後に、オウィディウスが伝えてくれた母と娘と、原民喜や峠三吉の詩と木魂している、悲しく心痛む、けれど忘れられない、詩人・武内利恵の詩「行水」を聴きとります。
  
  詩「行水」武内利栄。(愛しい詩歌 「武内利栄の詩。悲歌の、感動。」から。)

 次回も、この天の川に輝く、わたしの好きな神話の美しい星を見つめます。

出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫

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オウィディウス『変身物語』(六)。悲しみの糸杉

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の『変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。

 今回はキュパリッソスの嘆きです。

 短い挿話にもかかわらず、鹿と美少年キュパリッソスの糸杉への変身の物語は、次の二つの点で、とてもつよくわたしのこころに響きます。

 ひとつは、この話が、鹿を深く思う少年の物語であることです。ここには、詩人オウィディウスの、人間以外の生き物をふくめたおおきな生命観を感じます。後の最終回でピュタゴラスの挿話をとおしてこの主題を取り上げますが、鹿と少年の交感には、人間だけを特別扱いしていない想いはあきらかに感じとれます。
 わたしは他の生物すべては人間に従い命令されるために創られてずっとある、という世界観には貧しさを感じ好きではありません。
 たとえば、アイヌのユーカラのように、狩猟民族であるからこそアイヌモシリ、アイヌの森そしてあの世でも、クマや鮭、ゆたかな動物たちとともに生きていて、対等に、食料とするときも食料となって自分たちを生かしてくれた動物や植物に感謝して祈る、そのような世界観に、いのちを敬う気持ちをひき起こされ、好きだと感じます。そのような世界、社会で育まれた人は、自然に動植物を大切にするします。
 今の社会でなら、身近な犬や猫、ともに生きている他の生き物を、大切に想い、大切にするひとがわたしは好きです。

 心打たれるもうひとつの点は、鹿を誤って殺してしまったキュパリッソスの姿と、彼を愛した神アポロンの最後の言葉です。引用します。

   少年は、呻(うめ)くばかりで、神々への最後の願いとして、いついつまでも嘆いていたいというのだった。
 
   「おまえへの哀悼は、わたしがするとしよう。そのかわり、おまえは、ほかのひとたちを悼(いた)み、悲嘆
にくれている者たちの友となるのだ」


 悼む心です。鎮魂の想い、ともいえます。人間にはできないこと、どうしても叶わぬこと、隔てられてしまい届かぬ悲しみがあります。だからこそ、人間であることの最も強く、尊い感情は、愛の告白と、鎮魂の祈りにあると、わたしは感じます。
 悼み、嘆きのままに、キッパリソスが変身してゆく糸杉は、まるでゴッホの絵の糸杉のように身をくねらせ泣いています。いついつまでも。

● 以下、出典の引用です。

この木々たちの仲間いりをしたのが、あの円錐状の糸杉だ。これも、今は木になっているが、もとは少年で、竪琴と弓矢の神であるアポロンに愛されていた。(略)
ほかの誰よりもこの鹿をかわいがっていたのは、ケオスでいちばんの美少年キュパリッソスだった。少年は、この鹿を連れては、新しい草を食べさせに行ったり、澄んだ泉の水を飲み、背中にまたがって、きゃしゃな口につけた真っ赤な手綱で、あちらこちらへ走らせて、大喜びしている。
 夏の真昼間だった。磯に住む「蟹」の曲がった鋏(はさみ)も、熱い日射しで焼けるようだった。疲れた鹿は、草地に身を投げ出して、木陰の涼しい空気を吸っていた。この鹿を、少年キュパリッソスが、うっかり、鋭い投げ槍で刺し貫いたのだ。
 鹿が無残な傷を受けて、死にかかっているのを見ると、少年は、自分も死にたいとおもった。少年を愛するアポロンが、どんなにか、慰めの言葉をかけたことだろう! が、少年は、呻(うめ)くばかりで、神々への最後の願いとして、いついつまでも嘆いていたいというのだった。今や、際限もない悲しみのために血も涸(か)れて、からだが緑色に変わりはじめた。そして、さきほどまでは真っ白な額(ひたい)にかかっていた髪の毛が、逆立って、固くなり、先細の梢(こずえ)となって、星空を仰ぐようになった。アポロンは、溜息をついて、悲しげにこういった。
 「おまえへの哀悼は、わたしがするとしよう。そのかわり、おまえは、ほかのひとたちを悼(いた)み、悲嘆にくれている者たちの友となるのだ」

● 引用終わり。

今回の最後に、キュパリッソスの嘆きと、木魂する私の詩を響かせます。お読み頂けると嬉しいです。

  詩「さよならぱて」(高畑耕治HP『愛のうたの絵ほん』から)

 次回も、この天の川に輝く、わたしの好きな神話の美しい星を見つめます。

出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫


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