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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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ルソー『エミール』(十)心の信仰。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は10回目、ルソーが信仰の本質について述べた箇所です。

 ルソーの次の言葉は、国家と宗教が結び付けられ、宗教の教義が国家の教義として義務付けられていた時代にあって、とても勇気のいる言葉だったと思います。キリスト教とイスラム教の十字軍での戦争、カトリックとプロテスタントの宗教戦争、それら紛争の歴史が絶え間なく積み重ねられてきた地で彼は言い切りました。
 その結果、『エミール』は発禁の書とされ、彼は迫害をのがれ放浪する身となりましたが、ここに書かれた彼の言葉の、人間としての真実は消されることなく、読み継がれていくと私は思います。嘘、偽り、虚飾も媚びへつらいもない、言葉だからです。

 仏教に深く染まった日本で育った私、アイヌの世界観に教えられ愛している私、プロテスタントの賛美歌に親しみ育った私は、どれか一つだけが正しいという主張にはうなづけず、心が引きちぎられ、人格が分断される想いにさ迷い、病みました。ですから、ルソーの言葉にとても勇気づけられ共感しました。いまも、共感した心の声を素直に聞こうと思っています。

「すべての個々の宗教」は、「すべて風土に、政体に、民族精神に、あるいは、時代と場所とに応じてある宗教を他のものよりもとくに選ばせるようななんらかの地方的な原因に、その根拠を持っているのだ。人びとがそれらの宗教によって適宜に神につかえているかぎり、それらの宗教をすべてよいものだとわたしは思っている。」

 心の信仰、ということにも私は思春期、青春期にかけて、なぜか強いこだわりがありました。儀式を憎んでいました。生きてくる中で儀式的なものにもそれなりの効用もあり、美もあったりすることを知りましたが、本質的な想いは変わっていません。信仰は、心だと思っています。

「本質的な信仰とは、心の信仰だからである。神は、礼拝者が誠実なかぎり、どんな形式でささげようとも、決してその敬意をしりぞけはしない。」

 宗教の不寛容さが生み出すおぞましさの歴史に、私は深い人間不信に陥りました。が、そんなのは本当の宗教性ではないという、ルソーの言葉に、どんなに勇気づけられたでしょう。

「どうかわたしが彼らに不寛容の残酷な教義を説いたりすることのないように、彼らをそそのかせて同胞を憎ませ、他人にむかっておまえたちは地獄に落ちるぞなどといわせたりすることがないようにしたいものだ。」
「自分の国の宗教を信奉し、愛する義務は、不寛容の教義のような、淳良な道徳に反する教義にまで拡げられるものではない。人びとをたがいに武器をとって反抗させ、彼らすべてを人類の敵とさせるものは、この恐しい教義である。」

 私は、自分の宗派の信者以外の人間は敵とみなし地獄に落ちると決めつけられる者は、世俗の政治集団で、そこに宗教はないと思っています。 政教分離。政治と宗教は本質的に次元、精神性の方向性と深みの異なるものです。それをいっしょくたにして平然としていられる政治屋、この島国にもたむろしていますが、おぞましく感じ、厭わずにいられません。

「宗教の真の義務は、人間の制度から独立したものであることをよく心得ていてほしい。また、正しい心こそ神の真の神殿であること、どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること、道徳の義務を免除するような宗教は一つもないこと、真に肝要なことは、そういう義務だけであること、内面的な礼拝がそれらの義務の第一のものであること、信仰がなくては、どんな徳行もありえないこと、これらのことを忘れないでいてもらいたいものだ。」

 宗教は「内面的な礼拝」です。それは「どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること」、隣人を愛すことに導く言葉ではあっても、隣人を殺すことを命ずる言葉では決してないと、私は思います。


● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 わたしはすべての個々の宗教をそれぞれ有益な制度と見なしている。つまり、それは各国において、公の儀式によって神をうやまう一様な方式を規定しているものであって、すべて風土に、政体に、民族精神に、あるいは、時代と場所とに応じてある宗教を他のものよりもとくに選ばせるようななんらかの地方的な原因に、その根拠を持っているのだ。人びとがそれらの宗教によって適宜に神につかえているかぎり、それらの宗教をすべてよいものだとわたしは思っている。本質的な信仰とは、心の信仰だからである。神は、礼拝者が誠実なかぎり、どんな形式でささげようとも、決してその敬意をしりぞけはしない。
 (略)
 しかし、どうかわたしが彼らに不寛容の残酷な教義を説いたりすることのないように、彼らをそそのかせて同胞を憎ませ、他人にむかっておまえたちは地獄に落ちるぞなどといわせたりすることがないようにしたいものだ。

 現注九五:
 自分の国の宗教を信奉し、愛する義務は、不寛容の教義のような、淳良な道徳に反する教義にまで拡げられるものではない。人びとをたがいに武器をとって反抗させ、彼らすべてを人類の敵とさせるものは、この恐しい教義である。社会的寛容と神学的寛容とを区別することは、子どもじみた、無益なことだ。この二つの寛容はきりはなせないもので、一方だけを認めて他方を認めないわけにはいかないのだ。天使たちでも、彼らが神の敵と見なすような人びとと平和には暮らせないだろう。

 (略)
 信徒に説教をするさいには、わたしは教会の精神よりは福音書の精神にいっそう心を傾けるだろう。福音書では、教義は単純で倫理は崇高だし、宗教的な儀式はあまり書かれてはおらず、愛の行為が多く書かれているからだ。彼らになすべきことを教えるまえに、わたしはそれを自分で実行するようにいつも努めるだろう。それは、わたしが彼らにむかっていうことは、すべてわたし自身信じていることだということを彼らによく知ってもらうためである。
 (略)
 わたしは彼らすべてが同じように愛しあい、たがいに兄弟と思い、すべての宗教を尊重し、それぞれ、自分の宗教を信じて平和に暮らすようにしむけるだろう。わたしはだれかある人に、その人の生まれながら信じている宗教を捨てるようにすすめることは、悪事を行なうようにすすめることであり、したがって、自分でも悪を行なうことになるとわたしは思う。
 (略)
 われわれがいま置かれている不安な状態では、自分が生まれながら信じている宗教以外の宗教を信ずることは、許しがたい僭越であり、自分の信ずる宗教を誠実に実践しないのは一種の欺瞞であることは、あなたにもわかるだろう。もしわれわれが迷いだしたなら、われわれは至高の審判者の法廷で大きな弁解のことばを自ら失うことになる。神は、ひとがあえて自ら選んだ誤りよりも、むしろ人がそのなかで育てられてきた誤りのほうを容赦するものではなかろうか。
 (略)
 その上に、どんな心がまえをあなたがきめたとしても、宗教の真の義務は、人間の制度から独立したものであることをよく心得ていてほしい。また、正しい心こそ神の真の神殿であること、どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること、道徳の義務を免除するような宗教は一つもないこと、真に肝要なことは、そういう義務だけであること、内面的な礼拝がそれらの義務の第一のものであること、信仰がなくては、どんな徳行もありえないこと、これらのことを忘れないでいてもらいたいものだ。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「祈り(4)」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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ルソー『エミール』(九)自然という書物。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は9回目、ルソーが自然、福音書(キリスト教の新約聖書)とイエスについて述べた箇所です。

 諸民族の宗教と多くの宗派について語ったうえでルソーは次のような美しい言葉を書き記します。私の心に沁みわたってきて、喜びを感じとらせてくれる言葉なので、そのまま引用します。

「ただ一冊だけすべての人間の眼にたいして開かれたものがある。それは自然という書物である。この偉大な崇高な書物によってこそ、わたしはその神聖な作者に奉仕し、その作者を崇拝することを学ぶのだ。何人もこの書を読まないという弁解は許されない。なぜなら、この書はどんな精神にも理解できることばでもって、すべての人間に話しかけているからだ。」

 この書は人間だれもに開かれていて、この星に、いつの時代に生まれたか、遠い古代か、遠い未来か、その違いによる差別はありません。どこに生まれたか、どの大陸、島々、どの民族か、国家か、その違いによる差別はありません。
 この星を包み込む宇宙全体の作者なら、神聖な作者なら、永遠に比してあまりにも矮小な時間の、あまりにもありふれた小さな星のしわのように矮小な、生まれた時間や地域の違いで、差別するはずがあるだろうかと、私は思います。 
 
 自然という書物、私の想いを書き加えると、人間だけではない、他の動植物や山や川や海や青空、星々と宇宙そのもの全体で織りなされた、自然という書物を、そこに生まれた生き物として、愛さずにはいられません。この愛情はその作者を崇拝する敬虔な気持ちともいいかえられて、どの時代に、地球上のどこに生まれても、ひとりひとりが感じることができる感情です。

 ルソーは続く箇所では、彼自身が生まれ育てられた時代の、スイス、ジュネーブの宗教、キリスト教をみつめます。
まず、福音書、新約聖書にある、啓示、神が人間に示したとされる奇跡、秘蹟について、次のように記します。

「わたしは啓示を承認しも否認しもしない。ただ啓示を認める義務をこばむだけである。というのは、このいわゆる義務なるものは、神の正義とは矛盾するものであり、それによって救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。これをのぞけば、わたしはこの点では、尊敬をこめた懐疑のうちにとどまっている。わたしは自分をあやまつことのない者と信じるほどのうぬばれは持ちあわさない。」

 前回、キルケゴールの信仰についての考えは、啓示も、わからないことも、不合理も、その断崖を飛び越えて、信じることが信仰だと、書きました。
 でも、私自身はルソーが危惧するように、啓示、奇跡、秘蹟を信じることが信仰だと押付けると、「救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。」と感じます。
 啓示、奇跡、秘蹟については「尊敬をこめた懐疑のうちにとどま」るルソーはだからといって、自分がただしい、信じる人は間違っているとは、けして言わず、決めつけません。わたしは彼のこの態度が好きです。

 ルソーは続けて、福音書(新約聖書)と、イエスへの想いを書き記し、最後にとても謙虚な人間として次の言葉をこぼします。

 「否定することも理解することもできないものを、黙って尊敬し、ただひとり真実を知っている偉大な存在者の前に身をむなしうしてへりくだることだ。」

 私も彼とともに、自然という美しい書物の一文字として、謙虚でありたいと願っています。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 わたしは、神がわたしに学者にならなければ地獄におとすぞと命令するとはどうしても思えなかった。そこで、わたしはすべての自分の書物を閉じてしまった。そのなかでただ一冊だけすべての人間の眼にたいして開かれたものがある。それは自然という書物である。この偉大な崇高な書物によってこそ、わたしはその神聖な作者に奉仕し、その作者を崇拝することを学ぶのだ。何人もこの書を読まないという弁解は許されない。なぜなら、この書はどんな精神にも理解できることばでもって、すべての人間に話しかけているからだ。たとえわたしが絶壁の孤島に生まれようとも、また、自分以外の人間を見たことがないとしても、たとえ世界の片隅で大昔起ったことをまったく教えられなかったとしても、もしわたしが理性を訓練し、育成するなら、またもし神からあたえられた多くの直接的な能力をよくもちいるなら、わたしは神を知り、愛し、神の事業を愛し、神の望む善を望み、神によろこばれるように地上におけるわたしの義務をのこらずはたすことを、ひとりで学ぶだろう。
(略)
 しかし、わたしは啓示にとって有利な、わたしには反駁しがたい証拠を認めるにしても、また一方、同じくその反証となる、解きがたい反対論をも認める。賛否ともに牢固たる理由があるので、どう決定してよいかわからず、わたしは啓示を承認しも否認しもしない。ただ啓示を認める義務をこばむだけである。というのは、このいわゆる義務なるものは、神の正義とは矛盾するものであり、それによって救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。これをのぞけば、わたしはこの点では、尊敬をこめた懐疑のうちにとどまっている。わたしは自分をあやまつことのない者と信じるほどのうぬばれは持ちあわさない。わたしに不確定なものと思われることも、ほかの人は決定してしまったかも知れない。わたしは自分のために推理するのであって、他人のために推理しているのではない。他人を非難しないし、またまねもしない。彼らの判断のほうがあるいはわたしのよりもすぐれているかもしれない。しかしわたしの判断がそれと一致しなくとも、わたしのせいではない。

 以上とともに、わたしは聖書の崇高さに驚かされること、福音書の神々しさがわたしの心に話しかけることをわたしは告白する。哲学者のはなやかにかざりたてた著作を見たまえ。この書物とくらべれば、彼らの著作はなんとみすぼらしくなることか。かくも崇高でしかもかく単純な書物が、人間の手になるということがありうるだろうか。この書がその生涯をえがいている人物が、かれ自身、単なる人間にすぎないということがありうるだろうか。そこに狂信者や宗教的野心家の口調がみられるだろうか。彼の行状にはなんという柔和さ、なんという純潔さがあることか。また、彼のあたえる教訓には、なんという感動的な美しさがあることか。彼の述べる格率にはなんという気高さがあることか。彼の談話にはなんという深い知恵がこもっていることか。彼の返答には、なんという沈着さ、なんという巧妙さ、なんという正確さがみられることか。情念をおさえるなんという威力だろう。こういう人間、ひるむこともなく、またてらいもせず、行動し、苦しみ、死ぬことを知っているこういう賢者が、どこにいるだろう。(略)しかし、イエスは、彼だけがひとり教訓と模範を示したあのけだかく清らかな倫理を、自国の人びとの間にいて、どこからえたのだろうか。
 (略)
 それにもかかわらず、この同じ福音書には、あきれるようなことがら、つまり、理性に反することがら、すべて思慮分別ある人には理解することも承認することもできないことがらが満ちみちているのだ。こういう矛盾ばかりのなかで、いったいどうしたらよいだろう。わが子よ、いつもつつしみぶかく用心ぶかくしていることだ。否定することも理解することもできないものを、黙って尊敬し、ただひとり真実を知っている偉大な存在者の前に身をむなしうしてへりくだることだ。


出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「小さな島、あおい星の乳房のをこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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ルソー『エミール』(八)真の宗教は唯一つしかないというのなら。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は8回目、ルソーが宗教の真実性ついて根本的な考えを述べた箇所です。

 ルソーは、多くの宗教が乱立しているなかで、感ぜざるを得ない問いをまず書き記します。
 「だから、もし世界に真の宗教は唯一つしかないというのなら、また、それを信じなければ、誰でも必ず地獄に落ちるというなら、人はあらゆる宗教を勉強し、探求し、比較し、それらの宗教が確立されている国々をめぐり歩くことに一生をかけなくてはならないことになる。」
 
 生まれながらに宗教的なものに惹かれてしまう資質、心性をもつ私にとって、この言葉は切実なものです。今も机の上には『コーラン』が読みかけで置かれ、『浄土三部教』『法華経』『密教経典』が開かれ読まれるのを待っています。私のいつか読もうと想い続けている心性の底流には、ルソーのこの言葉が流れ続けているのを感じます。
 「もし世界に真の宗教は唯一つしかないというのなら」、すべての宗教をしらないでは、恐いのかもしれません。

 クリスチャン、信者になることの意味を、思春期、青春期に思い悩み続けました。キルケゴールの諸著作、特に『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』にある「信仰するとは、人間には知り得ない地平へ、決断し、断崖を越え飛ぶこと」、という考えには深く感動しました。が、私は、ひとつの宗派への信仰へは、「飛び越え」られずに、これまできました。自分をみつめかえすと正確には、「飛び越えることをせずにきた」と思います。心の底に「どうしてただ一つの宗教だけを」という問いが消えずにいるからです。

 その問いは、ルソーの次の言葉でも言い換えられます。

「もしキリスト教徒の子供は、深い、公平な検討も行なわないで、父親の宗教に従うのがよいとしたら、トルコ人の子供も同じように自分の父親の宗教に従って悪い理由がどこにあろう。」

 そして、何より、私にとって、ルソーの次の言葉にあるままの、宗教の負の歴史と側面を見つめるとき、決断し飛び越えただひとつの宗教を信仰することで逆に、人間という生き物の弱さを見えなくなり感じられなくなり、忘れてしまうことを畏れるからです。

 「わが子よ、各人が自説に夢中になり、自分以外の人類よりも自分に理があるとひたすらに思いこむとき、その傲慢と不寛容がどれほどの愚かしさに人をおとしいれるものであるかを、見るがよい。」

 ただ、このあとに続く箇所で、ルソーも言うように、私には、信仰している一人ひとりの方が正しいとも間違いだとも傲慢にいえるわけがありませんし、個人の心性としては、宗派は問わず、信仰に思い悩み信仰した、しないに関わらず信仰に関心を抱いてしまう人に、人の心に、親しみと共感を感じます。
 自分という人間を、人間の心を見つめずにはいられない、まなざしをもつ方が好きです。そのことだけはあわせて書き記しておきます。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 そして、わたしの身になって考えてもらいたい。わたしは、あなたの証言だけをたよりに、あなたのいうあらゆる信じられないことがらを信じ、あなたがわたしに教えてくれる正義の神とこれほど多くの不義、不正を両立させなくてはならないかどうか、考えてもらいたい。どうか、この神によっておびただしい未曾有の奇蹟が行なわれたというその遠い国を見に行かせてもらいたいし、そのエルサレムの住民たちがなぜ神を悪党のようにとりあつかったか、そのわけを知りに行かせてもらいたい。(略)
 なんということか。神が死んだこの町では、昔の住民も、いまの住民も、神をまったく認めていないのだ。しかも、あなたは、わたしに、二千年もたって、二千里も離れたところにいるこのわたしに、その神を認めさせたいと思っている。あなたが聖書と呼び、わたしにはかいもくわからないこの書物をわたしが信用する前に、わたしは、あなた以外の人から、いつ、だれによってこの書がつくられたのか、どういうふうにしてそれがあなたの手もとに到達したかを聞かなくてはならないし、あなたがわたしに教えてくれることは、あなたと同様によく心得ていながら、その書を排斥する人びとが、その国でその排斥の理由としてどんないい分をもっているか、そういうことを聞かなくてはならない。(略)それには、自分ですっかり調査するために、どうしてもヨーロッパにもアジアにもパレスティナにも出かけなければならないことは、あなたにもよくおわかりだろう。
 (略)
 だから、もし世界に真の宗教は唯一つしかないというのなら、また、それを信じなければ、誰でも必ず地獄に落ちるというなら、人はあらゆる宗教を勉強し、探求し、比較し、それらの宗教が確立されている国々をめぐり歩くことに一生をかけなくてはならないことになる。なんびとも、人間の第一の義務をまぬがれられないし、なんびとにも他人の判断を信用して任せる権利はない。自分の労働だけで生活している職人でも、文字を知らない農夫でも、きゃしゃな、内気な少女でも、ほとんどベッドから離れることもできないくらいの病弱者でも、すべての人が、例外なしに、勉強し、思索し、討論し、旅行し、世界をめぐり歩かなければならない。つまり、ひとところに住みついた国民はいなくなろう。地球全体が巡礼ばかりでいっぱいになって、その巡礼たちは、大きな費用をかけて、長い旅路に疲れながら、地球上で信奉されているさまざまな信仰を、自分で確かめ、比較し、検討して歩くことになる。
(略)
 宗教の研究のほかには、研究することはありえないことになる。そして、この上もなく頑健で、時間をこの上もなく上手に使い、理性をこの上もなく正しく利用し、もっとも長生きした人が、老年になって、かろうじてどうしたらよいかがわかることになろう。彼が死ぬ前に、自分がどんな信仰にはいって生くべきであったかが学べたらたいしたことだということになる。
 (略)
 もしキリスト教徒の子供は、深い、公平な検討も行なわないで、父親の宗教に従うのがよいとしたら、トルコ人の子供も同じように自分の父親の宗教に従って悪い理由がどこにあろう。
 (略)
 わが子よ、各人が自説に夢中になり、自分以外の人類よりも自分に理があるとひたすらに思いこむとき、その傲慢と不寛容がどれほどの愚かしさに人をおとしいれるものであるかを、見るがよい。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

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ルソー『エミール』(七)ユダヤ教、キリスト教、イスラム教

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は7回目、ルソーがユダヤ教、キリスト教、イスラム教のあり方について根本的な批判を述べた箇所です。

 私は両親がプロテスタントのクリスチャンの家庭で、日曜学校で教会にも通い、新約聖書にも親しみ、「主の祈り」を最初に暗唱した詩と思い育ちました。
そのような私は世界史で知った、宗教戦争、十字軍の歴史に、かなり大きなショックを受けました。世界史は殺しあいと戦争の血塗られた年表だと感じました。

 ヨーロッパが世界だとそこに居住するほとんどの人が考えていた時代に、ルソーはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の特定の宗教だけを擁護せず、さらに述べています。

 「人類の三分の二は、ユダヤ人でも、回教[イスラム教]徒でも、キリスト教徒でもない。そして、モーセやイエス・キリストの話もまたマホメットの話もいまだかつて聞いたことのない人びとが、何百万人いることだろう。」

 ここでは引用はしませんでしたが、彼はこの箇所で続けて、日本人のことも、トルコのハーレムに囲われた女性たちにも想いを馳せ、それらの地の人が、ヨーロッパの三宗教を信仰すること時代の困難を考え、それにもかかわらず信仰しない者は地獄に落ちるという宗教が正しいといえるのかと、強く問いかけます。

 私は深い共感を覚えずにいられませんでした。アイヌの森で、アイヌの神々を信じた優しい民族の一人一人を、なぜ地獄におとせるのか? 私の愛する日本文学の紫式部、深く仏の心をさがした彼女をなぜ地獄におとせるのか? 貧しさに生きた農民、庶民、町民、工員が、生活の貧窮の果てに最期のよすがとしてすがりついた、仏、観音さま、祈りを、過ちだと断罪してなぜ地獄におとせるのか?
 私もルソーとともに、言わずにいられません。

 「つまり、そんなことは何も知らなかったという理由で、なぜあの人のよい老人を地獄におとすのか。あんな善良で、あんなに親切で、しかも、ただ真実だけしか求めなかったのに。」

 この切実な問いを簡単に切り捨てられるような者の言葉、教理を受け入れることは、私にはできません。ルソーの問いかけはさらに続きます。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 はじめに唯一つの国民を選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない。自分の手によって創られたものの最大多数の者を永劫の責苦におとしいれるような神は、わたしの理性が示してくれた寛大で善良な神ではない。
 (略)
 相互に排斥しあい、しりぞけあう多種多様なおびただしい宗教のなかに、かりに一つ正しい宗教があるとすれば、ただ一つだけが正しいのだ。だが、その宗教を確認するためには、一つの宗教を検討するだけでは不十分であって、宗教という宗教をことごとく検討しなくてはならない。そして、どんな問題についても、相手を理解しないで非難してはならない。
 (略)
 われわれはヨーロッパには、三つの主要な宗教[訳注:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教]を持っている。一つはただ一つの啓示[旧約聖書]を認め、他の一つは二つの啓示[旧約聖書と新約聖書]を、残りの一つは三つの啓示[旧約聖書と新約聖書とコーラン]を認めている。いずれも他をいみ嫌い、呪詛し、盲目だとか冷酷だとか頑迷だとか虚偽だとかいって非難している。最初に三者の論拠をよく調査し、その論拠をよく聴いておかなかったならば、公平な人なら、三者の間に立ってあえて判定を下すことはできまい。
 (略)
 人類の三分の二は、ユダヤ人でも、回教[イスラム教]徒でも、キリスト教徒でもない。そして、モーセやイエス・キリストの話もまたマホメットの話もいまだかつて聞いたことのない人びとが、何百万人いることだろう。
(略)
 かりにほんとうに福音が全地球上に知らされるようになるとしても、それで人はどんな利益をうるだろうか。ある国に、最初の伝道師が到着した日の前日にその伝道師の説教を聞かないで死んだ者がだれかひとりはあるに違いない、ところで、その死んだだれかをわれわれはどうしたらよいのか。全世界に、イエス・キリストの教えを一度も聞いたことのない者がたったひとりでもいたとしたら、このただひとりの人間のための異議は、人類の四分の一の反対論に劣らず力づよいものとなろう。
 (略)
 あなたはわたしに二千年も前に、世界の向こうのはてに、何だか知らない小さな町に、ひとりの神が生まれ、そして死んだことを話す。そして、この神秘を信じなかった者はすべて地獄におちるといいきかす。自分の知りもしない人の権威だけにたよってすぐにも信じるとしたら、これは随分奇妙ななことではないか。どうしてあなたの神は、わたしにぜひとも教えようと思った事件を、なぜそんな遠い時代に起させたのだろう。地球の向こう側に起ったことを知らないのは罪悪だろうか。他の半球に、ヘブライ民族とエルサレムの町があったことを、わたしは推察できるだろうか。それは月世界で何が行なわれているかを、わたしに知れというにひとしい。あなたは、それをわたしに教えにきたという。だが、なぜそれをわたしの父に教えにこなかったのか。つまり、そんなことは何も知らなかったという理由で、なぜあの人のよい老人を地獄におとすのか。あんな善良で、あんなに親切で、しかも、ただ真実だけしか求めなかったのに。彼は、あなたの怠慢のために永久に罰せられなくてはならないのだろうか。まじめに考えてもらいたい。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「あどけない星魂の話をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。

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ルソー『エミール』(六)雑多な宗派と、心の礼拝と。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は6回目、ルソーが諸民族の宗教、宗派ついて根本的な批判を述べはじめる箇所です。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」は、ここから中心的な主題が展開されていきます。ルソーはこの主題について感じ想うことを己の魂に真実のまま書き記したために、『エミール』は当時の国家、宗教界から弾劾され発禁ともされ、ルソーは晩年を迫害の不安のもとで過ごしました。
 けれども私にとって、ここに彼が書き記していることは、思春期から青年期の思い悩み考えていたことそのものでした。ルソーが既に言葉にしてくれていた、という驚きと深い感動は、私から消えることはないと思います。
 
 今回の引用箇所からその核心ともいえる言葉をまず抜き出してみます。宗教、宗派についての真率な問いです。

 「宗教の儀式と宗教とを混同しないようにしよう。神の求める礼拝は、心の礼拝である。」
 「地上に勢力を張り、たがいに他が虚偽や誤謬を犯していると非難しあっているあの種々雑多な宗派」
 「わたしだけが、そしてわたしの宗派だけが正しい考え方をしている。ほかのはみな間違っている」
 「どこまでいっても人間の証拠ではないか。」、「神とわたしとの間に何と多くの人びとが介在することか!」

 この地球上の諸民族は、さまざまな宗教、宗派を信仰していて、それぞれ自分たちの信仰している宗教が正しいと主張してきました。その主張が互いの、排斥となり、戦争をひき起こし、殺しあいを肯定してしまうように変貌してしまうとき、それが本当の宗教の姿といえるでしょうか?
 どうして自分の主張だけが正しいといえるのか? 人間を介して伝えられた人間の言葉を、信仰していることは、世界中のあらゆる、宗教、宗派に共通しているのではないでしょうか?

 私の母方の祖母は浄土真宗を信仰し、阿弥陀如来に一心に念仏を唱え亡くなりました。私は祖母が思い描いた極楽に往生して微笑んでいてほしいと祈ります。
 私の父は戦災遺児の苦難を労わり助けてくれた牧師さんに導かれプロテスタントのクリスチャンとして信仰し亡くなりました。私は父が天国で微笑んでいてほしいと祈ります。
 肉親だからこその想いは強いですが、私のありのままの気持ちを書くと、特定の宗派の信者だけが救われて、信者以外は呪われ地獄に落ちると吹聴するような、宗教者は偽者だ、本当の信仰をしらない、間違っていると感じます。
 宗教家の顔をしながら、天の名を借り悪用して、宗教抗争、宗教戦争を、平然と行い許容できる者は、宗教家の仮面に隠れた、現世強欲だけにしか実は興味の無い、政治屋に過ぎないと思い、怒りを覚えます。
 そのような者は、信仰とはなにかを、「心の礼拝」を、知らないのだと私は思います。

 これらの、胸にわだかまりとして抱き苦しんでいた私の疑念を、ルソーは『エミール』の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」に書き連ねていきます。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 諸民族が、神を語らせることを思いついて以来、各民族はそれぞれ自分流に神に語らせ、自分の好きなことを語らせるようになった。神が人間の心に告げたことしか耳を傾けなかったとすれば、地上にはいまだかつてただ一つの宗教しかなかったにちがいない。
(略)
宗教の儀式と宗教とを混同しないようにしよう。神の求める礼拝は、心の礼拝である。そして、その礼拝は、誠実な場合は、つねに一定している。神が聖職者の衣服のかっこうや聖職者の発言することばの順序や、祭壇の前で彼の行なう身振りや、彼のすべての跪坐の仕方に非常に大きな関心をいだいているなどと想像することは、はなはだしく気ちがいじみた虚栄心にとらわれることである。
 (略)
 わたしは、地上に勢力を張り、たがいに他が虚偽や誤謬を犯していると非難しあっているあの種々雑多な宗派を眺めた。「どれが正しい宗派なのか」とわたしは問うた。いずれも「わたしの宗派だ」と答えた。「わたしだけが、そしてわたしの宗派だけが正しい考え方をしている。ほかのはみな間違っている」と、それぞれの宗派は、わたしにはいうのであった。「では、どうしてあなたの宗派が正しいということがわかるのですか」「神がそう告げたからだ」「では、神がそういったとだれからあなたは聞いたのです。」「そのことをよく知っているわたしの牧師からだ。わたしの牧師はそう信ぜよとわたしにいう。だから、わたしはそう信じるのだ。彼は彼とちがったことをいう者は皆嘘をついているのだという。だからそういう人びとのいうことの耳をかたむけないのだ。」
 なんだと! 真理は一つではないのか――とわたしは考えた。
 (略)
 真理の使徒よ、あなたはわたしがいつまでも判定を下しえないようなどんなことをわたしに告げることがあるのか。――神がみずから語ったのだ。神の啓示に聞くがよい。――それは別のことだ。神は語った! これこそ確かに大したことばだ。いったいだれに神は語りかけたのか。――神は人類にたいして語ったのだ。――それではなぜわたしは神のことばをひとつも聞いたことがないのか。――神は神のことばをあなたに伝えるようにほかの人びとに命じたのだ。――なるほど。それは神の語ったことばをわたしに告げようとする人びとのことだ。わたしはむしろ神自身から聞きたかった。そのほうが神にとってよけい手数がかからなかったろうし、わたしは誘惑からまぬかれたことだろう。――いや、神は神がつかわした人びとの使命を明らかにして、あなたを誘惑から保証してくれたのだ。――どういうふうにしてそれを?――奇蹟によって。――では、その奇蹟はどこにあるのか――書物の中に。――では、その書物をだれがつくったのか。――人びとが。――では、だれがその奇蹟を見たのか。――それを証言する人びとだ。――なんと? どこまでいっても人間の証拠ではないか。あいも変らず他の人びとが報告したことをわたしに報告する人びとではないか。神とわたしとの間に何と多くの人びとが介在することか!
 (略)
 ごくわずかな名もしれない人びとの前で行われ、残りのすべての人びとにはただ噂でしかなんにも知られないような若干の特殊な徴候(しるし)だけを唯一の信任状としてその執行者にあたえるのは、正当なことといえるだろうか。世界のあらゆる国々をつうじて、もし民衆や単純素朴な人びとが実際に見たといっているすべての奇蹟を真実だとみなすならば、どの宗派も正しいことになるし、奇蹟の数は自然的な事象よりも多くなろう。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「水のいのりをこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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ホームページに「虹:野の花・ちいさなうた」を咲かせました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、「虹:野の花・ちいさなうた」をつくり、公開しました。

   「虹:野の花・ちいさなうた」   (クリックでお読み頂けます)。


いちりん、いちりん、ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。

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ルソー『エミール』(五)わたしが悪を行なうなら。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、読み感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は5回目、ルソーが人間の善と悪について述べている箇所です。
 
 ここには、人間の心の、善と悪についての、印象深い言葉が述べられています。
「どうして来世に地獄を求める必要があろう。地獄はもうこの世から悪人の心のなかにあるのだ。」
「正義に対する第一の報酬は、自分がその正義を実行していると感じることである。」

 これらのルソーの言葉には、真実性とともに、危うさを私は感じます。その通りだと想う一方で、「心の地獄に気づかぬままの悪人もいる」、「悪を正義と思い込み実行している悪人もいる」、鈍い心に満ちているから、ルソーの書くように、「わたしは地上に悪を見ている」のだと思います。

 さらに彼は、神の善性への信仰から次のようにも述べます。
「神はわたしに、善を愛するためには良心を、善のなんたるかを知るためには理性を、善を選ぶためには自由をあたえたのではなかったか。もしもわたしが悪を行なうなら、弁解の余地はない。」
「善行への誘(いざな)いに一度も心をゆだねたことのないほど堕落した人間が、ただのひとりでもこの全地球上にいるとあなたは思うだろうか。」

 これらの言葉に私は親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」、(善人でさえ往生することができるのだから、どうして悪人が往生できないはずがあろうか)といい信仰を思います。
 善と悪。人間が人間である限り、信仰とからまりあう問いであり続けるもの。

善と悪。私は、フランクルの『死と愛』、シモーヌ・ヴェイユの主要な著作を思い起こさずにいられません。
 フランクルもヴェイユも、第二次大戦とアウシュビツ収容所に代表される大虐殺の悪のただ中で、「それでも、悪の底の、いちばん底深くに、人間の善性は、ある」、という信念を捨てずに、伝えようとしました。心が刺しぬかれて、忘れることができずにいます。

いまも、心で、人間の魂で、感じとろうとするたび、いたるところ、「わたしは地上に悪を見ている」。それでも、生きようとし続けるのは、この信念だけは私も捨てずにいようと意思しているからだと、思います。

これらのことばのあと次回以降、ルソーは、全地球上の人間をみつめ、信仰についてさらに問いを深めていきます。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。
(*似通う主題についての言葉をまとるため、前回引用箇所も含め、本文の順序を少し前後させています)。

 わたしが自分の種[人類]のなかでの自分の個人的な位置を知ろうとして、そのさまざまな地位、階級やそれをしめる人びとがながめるとき、わたしはどうなるだろう。(略)わたしは地上に悪を見ているのだ。
 (略)
 どうして来世に地獄を求める必要があろう。地獄はもうこの世から悪人の心のなかにあるのだ。
 (略)
 だれが永遠に生きようと望む者があろうか。死はあなた方が自分にあたえる不幸にたいする救済法なのだ。自然はあなた方が永久に苦しむことのないようにと望んだのだ。
 (略)
 わたしは善人はやがて幸福になるといっておく。そのわけは、善人の創造者、あらゆる正義の創造者が、善人を感じやすい存在につくったけれども、彼らを苦しむようにはつくらなかったからであり、また、善人はこの地上における自分の自由を悪用しなかったがために、みずからの過失によってその目的をあやまることがなかったからである。そうはいっても、彼らはこの世では苦しんだのだ。だから、来世ではそのつぐないをうけるだろう。
 (略)
 そして正義に対する第一の報酬は、自分がその正義を実行していると感じることである。
(略)
神はわたしに、善を愛するためには良心を、善のなんたるかを知るためには理性を、善を選ぶためには自由をあたえたのではなかったか。もしもわたしが悪を行なうなら、弁解の余地はない。自分で望んでいるからこそ、わたしは悪を行なうのだ。
 (略)
 善行への誘(いざな)いに一度も心をゆだねたことのないほど堕落した人間が、ただのひとりでもこの全地球上にいるとあなたは思うだろうか。
 (略)
 神の叡智によって確立され、神の摂理によって維持されている秩序をなにものにもまして愛さなくてはならないこのわたしが、この秩序がわたしのために乱されることを望んだりするだろうか。
(略)
正義と真理との源泉、寛仁で、正善な神! あなたにたいする深い信頼をこめつつ、わたしの心に宿る最高の願いは、どうかあなたの意志が行なわれますように、ということである。あなたの意志にわたしの意志を結びつけることによって、わたしはあなたの行なうことを行ない、あなたの善意に従うのだ。わたしはそのむくいとして最高の幸福にあらかじめあずかれるものと信じている。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「祈り(1)」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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ルソー『エミール』(四)情念と、良心と、感情と。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、読み感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は4回目、ルソーが人間の良心、感情について述べている箇所です。
 ルソーは波のうねりのような文章を連ねて「情念」、「良心」、「感情」について熱く語っています。波の浮き沈みが激しさのままに流れ去ろうとする想念をとらえるために、波頭のしぶきと波の底のよどみ、彼が人間の本性にみる「高めるもの」と「引き下げるもの」それぞれを、文脈から掬いとってみます。

1.人間の本性を高めるもの。良心。感情。
「永遠の真理の研究へ、正義と道徳的美にたいする愛へ」「感情が人間の心に呼びさまし」「良心は魂の声」「甘美な感情」「歓喜に脈打つ」「やさしい感動がその眼をうるませる」「善への愛と悪への憎しみ」「自身への愛と同じように自然なもの」「良心のはたらきは、判断ではなくて、感情」「存在するとは、感じること」「観念を持つ前に感情を持った」「良心!」「人間の本性の優秀性と人間の行為の道徳性を生みだす」

2.人間の本性を引き下げるもの。情欲(情念)。悟性、理性。
「官能の奴僕である情欲に隷属」「情欲によってさまたげ」「情念は肉体の声」「自分自身しか愛せなくなった人間」「凍てはてたその心」「この不幸な人はもう感じなくなっているのだ。というより、もはや生きてはいない。死んでいるのだ。」「規律なき悟性と原理なき理性」「過ちから過ちへとさまよう」「禽獣の上にわたしをぬきんでさせる何ものも」

 ルソーは、「自分自身しか愛せないかどうか」、善と悪、道徳性をとらえています。情欲(情念)という言葉も、「自分の欲望だけを満足させること」という意味で使い、相手がいて相手を想い相手と高めあう「愛」とははっきり分けて考えています。
 同時に彼は、「感情」と「悟性、理性」を対立させ、「感情」こそ人間の証だといっていることに、私はふかい共感を覚えます。「悟性、理性」の名のもとに人間が他の動物たちの上に立つとする驕った考えの嘘、それらは人間を「過ちから過ちへと」さまよわせる「悲しい特権」だとみなします。
 「悟性、理性」を磨きあげてきた賢明な現代社会は、世界大戦を防ぎえず、原子爆弾を投下しても、「賢しらな」大義、言い訳を捏造するばかりで、相変わらず軍備増強競争に血眼です。どんなに知性的な風貌をし、頭がよくても、「この不幸な人はもう感じなくなっているのだ。というより、もはや生きてはいない。死んでいるのだ。」と私は思います。

 「存在することは、感じること」、とても美しい言葉だと私は思います。
「甘美な感情」「歓喜に脈打つ」「やさしい感動がその眼をうるませる」、これらを感じとれることが、生きること、人間らしく生きていること、そう思います。文学はこの真実を伝えあう芸術です。

「良心は魂の声」「良心のはたらきは、判断ではなくて、感情」。人間には、どんな時代にも変わらない、大切なものがあることを、心に響かせ続けていたいと、私は願います。


● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。
(*似通う主題についての言葉をまとるため、前回引用箇所も含め、本文での順序を少し前後させています)。

 人間の本性について思索したとき、わたしはそこに二つの明別される原理が見いだされるように思った。その一つは、永遠の真理の研究へ、正義と道徳的美にたいする愛へ、それを観照することが賢者の愉悦となるような叡智界の領域へと人間を高く昇らせるものであり、他の一つは、人間をそれ自身のいやしい部面へひき下げ、官能の支配に屈服させ、官能の奴僕である情欲に隷属させ、せっかく第一のものの感情が人間の心に呼びさましたものを、情欲によってさまたげるものであった。
 (略)
  良心は魂の声であり、情念は肉体の声である。
 (略)
 いやしい情念のために、狭い魂のなかに甘美な感情を窒息させられてしまった人間、あまり自分のうちにはまりこんでしまって、ついには自分自身しか愛せなくなった人間は、もはや恍惚たる境地を味わうことはない。凍てはてたその心は、もはや歓喜に脈打つこともたえてない。やさしい感動がその眼をうるませることもけっしてない。その人にはもはや心をたのしませるものはなに一つない。この不幸な人はもう感じなくなっているのだ。というより、もはや生きてはいない。死んでいるのだ。
 (略)
 というのは、われわれは知る前に感じるからである。そして、われわれは自分の幸福を望み、不幸をさけるすべを教えられるのではなくて、そういう意志を自然からさずかっているのだが、それと同じように、善への愛と悪への憎しみは、われわれにとって、われわれ自身への愛と同じように自然なものだ。良心のはたらきは、判断ではなくて、感情である。われわれの観念はすべてわれわれの外部から由来するのだけれども、それらの観念を評価する感情はわれわれの内部に存在している。
 (略)
 われわれにとっては、存在するとは、感じることである。われわれの感性は、異論の余地なく、われわれの知性に先行しているのであって、われわれは観念を持つ前に感情を持ったのだ。
 (略)
 良心! 良心! 神聖な本能よ、不滅の天の声よ、無知で狭隘(きょうあい)な、しかし知性ある自由な一存在の確乎たる案内者よ、善悪に関してあやまつことのない審判者よ、人間を神にも似せしめる者よ、なんじこそ人間の本性の優秀性と人間の行為の道徳性を生みだす者だ。なんじが存在しなければ、ただ規律なき悟性と原理なき理性との助けをかりて、過ちから過ちへとさまよう悲しい特権を感じるのみで、わたしは自分のうちに、禽
獣の上にわたしをぬきんでさせる何ものも感じないのだ。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「交わり‐ひとりであること(4)」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。

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ルソー『エミール』(三)わからなくなればなるほど、わたしは。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、読み感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は3回目、宇宙の秩序からルソーが、至高の知性を想う箇所です。

 ルソーは次のように述べます。
「宇宙の明白な秩序から至高の知性を暗示されないものがあろうか。」
「それが何であろうとも、宇宙を動かし、あらゆるものを秩序づけるこの存在、それをわたしは神と呼ぶ。」

 私自身は「神」という名称はあまり好きではありません。人間の歴史のなかで、泥まみれにされ、手垢にまみれ、宗教戦争、宗派抗争の大義の旗印などに、おそろしいほどに悪用されてきたからです。
(幼子が無心に「かみさま」と声にするのは好きです。それ以外は無理に単語を貼り付けずただ想い念じるほうが私の心には近しく感じます。このあたりの想いは続くエッセイで書いていきます。)

 けれども、ルソーがその語でなんとか指し示そうとする、「至高の知性」という何者かを想わずにはいられません。ですから、私はその存在を定義づけ信仰するという明言より、次のような人間らし言葉のほうに偽りなさを感じて惹かれ共感します。
「だからといって、わたしが神なる名称をあたえた存在がわたしに前よりわかりやすくなりはしない。その存在は、わたしの感官からもわたしの悟性からもひとしくかくされている。」
「結局、わたしは神の無限の本質を凝視しようと努めれば努めるほど、いっそうその本質がわからなくなる。しかし、神は存在する、それでわたしには十分だ。神がわからなくなればなるほど、わたしは神を崇拝する。」

 ルソーのこの信仰告白の一節の言葉は、ニュートンの言葉とも深く響き合っています。
ニュートンは主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』で万有引力を精緻に証明し尽くした後、万有引力の「原因」の仮設はたてない、なぜそうであるのかはわからないと謙虚に、「一般的注解」として次のように書き記しています。
「支配も、摂理も、目的因もない神は、運命や自然以外のなにものでもありません。(略)さまざまな場所さまざまな時刻にちりばめられた全事物の種々相は、ひとり必然的存在の想念と意志とからのみ生じえたところでしょう。」(出典:『自然哲学の数学的諸原理』)

 ルソーのいう「至高の知性」、ニュートンのいう「必然的存在」、夜空を、宇宙を見あげ、想い、感じるとき、「かくされている」その存在を感じるかどうかに、信仰の境界線があると、私は思います。このことについては、強要、押付けも、明言、告白を強いることも、ほんとうはできないのではないかと思います。
 人間の、心、想いはゆれるもの。宇宙に対しての、愛、憎。人としての想いの真実を響かせる人間でありたいと私は思います。次回以降もこの思いをより深めていきます。

 今回の終わりに、私の詩「愛(かな)しみの銀河をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 偏見に曇らせられない眼であって、宇宙の明白な秩序から至高の知性を暗示されないものがあろうか。もろもろの存在間の調和と、各部分が他の部分の保存のために行なっているみごとな協力とを無視しようとするには、どれほど多くの詭弁をつみ重ねなくてはならないことだろう。
(略)
 意欲し、実行しうるこの存在、自力で能動的に働くこの存在、要するに、それが何であろうとも、宇宙を動かし、あらゆるものを秩序づけるこの存在、それをわたしは神と呼ぶ。わたしはこの名称に、叡智と力と意志の観念を集めて結びつけ、それらのものの必然的な結果である善意の観念を結びつける。しかし、だからといって、
わたしが神なる名称をあたえた存在がわたしに前よりわかりやすくなりはしない。その存在は、わたしの感官からもわたしの悟性からもひとしくかくされている。
 (略)
 神は一つの精霊であるというような話を聞くとき、わたしは神の本質をいやしめるこういう評価に対して憤激を覚える。それは神とわたしの魂が同じ性質のものであるからのように見なされているからであり、また、神が唯一の絶対的な存在、自力で感じ、思考し、意志する唯一の真に能動的な存在、われわれが思想、感情、活動力、意志、自由、存在をそれからえている唯一の存在ではないかのように見なされているからである。われわれが自由であるのは、われわれが自由であるように神が望むからにほかならない。そして、解きあかせない神の本体がわれわれの魂にたいする関係は、まさにわれわれの魂がわれわれの肉体にたいする関係に似ている。神が物質、身体、精神、世界を創造したのかどうかについては、わたしは何も知らない。創造という観念は、わたしにとりつくしまもない。わたしの能力にあまるのだ。わたしはこの観念を、自分に理解できる範囲内で信じている。しかし、わたしは神が宇宙とすべて存在するものとを形成したこと、神があらゆるものを作り、あらゆるものに秩序をあたえたことを知っている。神は疑いもなく永遠である。だが、わたしの精神は永遠の観念を理解できるだろうか。なぜ観念のないことばで自分をいいくるめる必要があろう。わたしに考えられることは、神が万物に先立って存在するということ、万物が存在するかぎり存在するだろうということ、そして、いっさいのものがいつか終滅すべきであるとしても、神はその後でさえも存在するだろうということである。
 (略)
 神は聡明である。しかし、どのように聡明であるのか。人間は推理を行なうとき聡明であるが、至高の叡智は、推理する必要がない。至高の叡智にとっては、前提もなければ、結論もないし、命題すらない。それは純粋に直観的であり、すべて存在するものばかりでなく、すべて存在しうるべきものをもひとしく見ている。至高の叡智にとっては、あらゆる真理がただ一つの観念にすぎない。同様に、あらゆる場所がただ一つの点にすぎず、あらゆる時がただ一つの瞬間にすぎない。人間の能力は手段を介して働き、神の力はそれ自体で働く。つまり、神はみずから意欲するから行なうことができる。彼の意志は神の力となる。神は善なる者である。
(略)
 しかし、人間における善意は自分の同胞にたいする愛であり、神の善意は秩序にたいする愛である。というのは、神が存在するものを維持し、各々の部分を全体に結びつけるのは、秩序によってそうするからである。神は正しい。これはわたしの信じて疑わないところだが、そのことは神の善なる者であることの一結果である。人間の不正は人間のしわざであって、神のしわざではない。
 (略)
 結局、わたしは神の無限の本質を凝視しようと努めれば努めるほど、いっそうその本質がわからなくなる。しかし、神は存在する、それでわたしには十分だ。神がわからなくなればなるほど、わたしは神を崇拝する。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。

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ルソー『エミール』(二)。なぜ宇宙が。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、全11回にわたり読みとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は2回目、ルソーが自分をとりまく宇宙に眼をむけみつめている箇所です。
 
 最初の一文、まず「わたし」に眼を向け、「能動的で、知的な存在」であり「思考する名誉」をもつ人間としての自負についての言葉は、デカルトの『方法序説』の「われおもう、ゆえにわれあり」という認識と、同じ地を踏みしめていると感じます。

 そこから、目をあげ宇宙を感じる一文は、とても美しく、「わたしは一種の戦慄をおぼえる。」という言葉は、パスカルの『パンセ』の「人間は考える葦である」というくだりに瞬く銀河のような言葉と瞬き合っていると感じます。

 私は二十歳前後のさ迷った時期、精神的にかなり不安定になりつつ、「回っている地球の自転を絶えず感じる感受性に生きよう(感じられなくなったら死のう)」と思っていました。そんなわたしにとって『パンセ』の言葉はずっと大切なものです。

 人間の思索が真実をとらえるとき、その想い、声、言葉が、時を超えて響き合っていることに、私は感動します。

 今回の最後に引用した言葉も、とても美しく、私は深く共感し、心のこだまが鳴り止むことがありませんが、
そのなかでも私は、人間の真実を感じる次の一言がいちばん好きです。

 人間として生きていることに、人間を取り巻いている宇宙に、おののくことができる感受性は、人間の眼差しと知性をも、謙虚さで洗い流してくれます。

 「なぜ宇宙が存在するかということは、わたしにはわからない。」

 洗われた心の目で見あげると、夜空、宇宙は、なんて美しいでしょう。いちめんに詩が瞬いています。

 今回の最後に、私の詩「天の川」をこだまさせます。(作品名をクリックして、お読み頂けます)。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 だから、わたしはたんに感覚的で受動的な存在ではなくて、能動的で、知的な存在である。そして、哲学がこれについてなんといおうとも、わたしは思考する名誉を持っているとあえて自負する。
 (略)
 わたしはいわば自分自身を確保したので、自分の外部のものを眺めはじめる。すると、自分がこの広大な宇宙のなかに投げこまれ、呑みこまれてしまい、あたかも無数の存在のなかに溺れたようになって、それらがなんであるかも、それら相互の間の関係も、またわたしにたいする関係もまったく知らないでいるありさまを凝視して、わたしは一種の戦慄をおぼえる。
(略)
 この宇宙は運動している。そして、一定の法則に従った、その規則正しい、一様な運動には、人間や動物の自発的な運動に現われているようなあの自由がまったくみとめられない。世界は、だから、ひとりで動く一つの巨大な動物ではない。したがって、世界の運動には、何か世界に外在する原因があるのだ。それはわたしには認知できないけれども、内心の確信はこの原因をありありとわたしに感得させるので、わたしは太陽の運行もそれをおし進める力を想像しないでは眺めることができないし、また、地球が回転するにしても、それを回転させる手を感じるような気がするのだ。
 (略)
 つまり、ほかの運動によってひき起されない運動はすべて、自発的な意志的な行動から由来するほかはない。非生命体は、ただ[物理的な]運動によって動くだけである。それに意志のないところに真の行動はないのだ。これがわたしの第一の原理である。だから、わたしは一つの意志が宇宙を動かし、自然に生命をあたえているものと信じている。
 (略)
 動かされている物質がわたしに一つの意志を示すとすれば、ある種の法則に従って動かされている物質は、わたしに一つの知性を示す。これがわたしの第二の信仰箇条だ。行動し、比較し、選択することは、思考する能動的な存在のはたらきである。だから、その存在は実在するのだ。では、おまえはその存在が実在していることをなにによってみとめるのか、とあなたはわたしに尋ねるだろう。それがみとめられるのは、回転する天体や、われわれを照らす太陽のなかばかりではない。また、わたし自身のうちばかりではない。草を食む仔羊(こひつじ)にも、空を飛ぶ小鳥にも、落下する石にも、風に吹き散らされる木の葉にも、それはみとめられるのだ。
 わたしは世界の目的はしらないけれども、世界の秩序については判断が下せる。
(略)
 なぜ宇宙が存在するかということは、わたしにはわからない。しかし、どんなふうに宇宙が変化してゆくかは、認めないではいられない。すなわち、宇宙を構成するもろもろの存在が相互に助けあう内密な対応関係を認めないではいられない。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。

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ルソー『エミール』(一)。眼差し、人間をまっすぐに。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、今回から全11回にわたり、読みとり考えていきます。

 『エミール』は子どもの誕生から成人するまでの教育を主題とした全五篇まであるとても豊かな著作です。
 わたしは青春期にこの著作を読み、たとえば第五篇の「女性は走るようには生まれついていない。女性が逃げるときは、つかまえてもらうためなのだ。」、この一文など(文脈から抜き出すと女性蔑視と誤解される恐れはありますが)、こんな見方もあるのかと驚きずっと忘れられずにいる、そのような言葉に満ちています。

 わたしがもっとも深く共感したのが、今回からみつめる「サヴォワの助任司祭の信仰告白」です。著者ルソーが若い遍歴時代に出会った聖職者との魂の交流から生み出された珠玉の言葉だと私は感じます。『エミール』では、サヴォア生まれの貧しい聖職者の言葉として書かれていますが、明らかに、ルソー自身の宇宙観、世界観、宗教観が、奔流のように流れていて、魂を揺さぶられる思いがするのは、初めて読んだ二十代、宗教、信仰に思い悩み苦しみ始めた二十代のときも、著者ルソーがこの著書を書き終えた年齢となってしまったいまも変わりません。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の流れの中から、私の魂を特に揺さぶり、想い、考えずにはいられないと感じる、主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。全11回と長くなりますが、どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 初回は、ルソーが哲学者たちの言説と態度、生き方について根本的な批判を述べた箇所です。
 
 ルソーの、哲学者たちに対しての言葉は、深く、鋭く、隠されている嘘、ごまかしを暴き出さずにはいません。この眼差しは、「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の全体を貫き流れています。だからこそ、私は彼の言葉に惹かれ、共感せずにはいられません。

 二十歳前後のころから、私は精神的にかなりさ迷いました。文学は当然ですが、哲学書や宗教書に「真理」を探し求めました。いまも、そうしてしまう心のあり方は、少しもかわっていません。ただ人間には「真理」をもとめることはできても確信することは不可能なのなら、そのことに謙虚な「真実」に生きよう、と考えています。さ迷いの苦しみのなかで、その道標になってくれたのが、今回読み返している『エミール』です。

 ここでルソーが、哲学者たちとして描いている姿については、私は、アカデミックな学者、社会科学者、自然科学者、そして宗教家についてもあてはまると、思います。
 辛辣ですが、引用した次の言葉など、権威的な見せかけを、刺し貫いていると私は思います。

 「彼らはみな傲慢で、断定的で、独断的で、彼らのいわゆる懐疑主義においてさえもそうであって、知らないものはなに一つなく、なに一つ証明せず、おたがいに嘲笑しあっている。」
 「全体の小部分にすぎない身でいながら、われわれはその全体そのものが何であるか、また、その全体にたいしてわれわれはどういう関係に立っているかを決定しようとのぞむほどに、うぬぼれているのだ。」
 「かんじんなことは、他人と違った考え方をすることだ。信仰者のあいだでは、彼は無神論者になるが、無神論者のあいだにはいれば、信仰者になるにちがいない。」
 私は、自信に満ちて「真理」を語る人間を、疑います。
 どうして、そんなに「傲慢で、断定的で、独断的」に、自分の考えを私に押しつけられるのだろうと不思議でならず、人間なのに「うぬぼれているのだ」と感じてしまいます。

 もし「哲学する」ということに意味があるなら、「傲慢で、断定的で、独断的」で、「うぬぼれてい」ては、人間も、宇宙も、世界も、社会も、宗教も、とらえることができないと知ること、それだけが出発点ではないかと、私は考えています。

 ルソーは人間であること、人間として生きることを、とてもまっすぐに見据える眼差しを持っています。だから彼の心は、心にまっすぐ響いてきます。こだまします。魅力的です。

 私の出発点、最初の詩集『死と生の交わり』の巻頭詩「ねがい」を、今回はこだまさせます。(作品名をクリックしてお読み頂けます)。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 わたしは哲学者たちの書物を参照してみた。彼らの著作をひもとき、彼らのさまざまな意見をしらべてみた。彼らはみな傲慢で、断定的で、独断的で、彼らのいわゆる懐疑主義においてさえもそうであって、知らないものはなに一つなく、なに一つ証明せず、おたがいに嘲笑しあっていることをわたしは知った。
(略)
 わたしは、人間精神の不完全さというものが、こういうような意見の驚くべき多様性を生んだ第一の原因であり、傲慢ということがその第二の原因であることがわかった。
(略)
 その限界がわれわれには知りえない一つの広大な全体があって、その創造主はそれについてわれわれにばかばかしい議論をかってにさせておくのだが、その全体の小部分にすぎない身でいながら、われわれはその全体そのものが何であるか、また、その全体にたいしてわれわれはどういう関係に立っているかを決定しようとのぞむほどに、うぬぼれているのだ。
 たとえ哲学者たちが真理を発見することができようとも、彼らのうちのだれが真理に関心をいだくだろうか。どの哲学者も、自分の体系がほかの体系よりも立派な根拠の上に立っているのではないことをよく承知しているけれども、それが自分の体系であるという理由から、それを主張する。たまたま真実のものと虚偽のものを知っていても、自分の見つけた虚偽をすてても、他人の発見した真理をとりあげるような者は、ただのひとりもいない。自分の名声のためには、すすんで人類をもあざむくというようなことのない哲学者がどこにいるだろう。自分の心ひそかに、名声をあげること以外の目的をめざしているような者がどこにいよう。一般の人の上にぬきんでさえすれば、また、競争者たちの光彩を消してしまいさえすれば、彼はそのうえ何を望むことがあろう。かんじんなことは、他人と違った考え方をすることだ。信仰者のあいだでは、彼は無神論者になるが、無神論者のあいだにはいれば、信仰者になるにちがいない。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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新しい詩「愛、しずかな変奏」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「愛、しずかな変奏」を、公開しました。

   詩「愛、しずかな変奏」   (クリックでお読み頂けます)。


ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。

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