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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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ルソー『エミール』(十)心の信仰。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は10回目、ルソーが信仰の本質について述べた箇所です。

 ルソーの次の言葉は、国家と宗教が結び付けられ、宗教の教義が国家の教義として義務付けられていた時代にあって、とても勇気のいる言葉だったと思います。キリスト教とイスラム教の十字軍での戦争、カトリックとプロテスタントの宗教戦争、それら紛争の歴史が絶え間なく積み重ねられてきた地で彼は言い切りました。
 その結果、『エミール』は発禁の書とされ、彼は迫害をのがれ放浪する身となりましたが、ここに書かれた彼の言葉の、人間としての真実は消されることなく、読み継がれていくと私は思います。嘘、偽り、虚飾も媚びへつらいもない、言葉だからです。

 仏教に深く染まった日本で育った私、アイヌの世界観に教えられ愛している私、プロテスタントの賛美歌に親しみ育った私は、どれか一つだけが正しいという主張にはうなづけず、心が引きちぎられ、人格が分断される想いにさ迷い、病みました。ですから、ルソーの言葉にとても勇気づけられ共感しました。いまも、共感した心の声を素直に聞こうと思っています。

「すべての個々の宗教」は、「すべて風土に、政体に、民族精神に、あるいは、時代と場所とに応じてある宗教を他のものよりもとくに選ばせるようななんらかの地方的な原因に、その根拠を持っているのだ。人びとがそれらの宗教によって適宜に神につかえているかぎり、それらの宗教をすべてよいものだとわたしは思っている。」

 心の信仰、ということにも私は思春期、青春期にかけて、なぜか強いこだわりがありました。儀式を憎んでいました。生きてくる中で儀式的なものにもそれなりの効用もあり、美もあったりすることを知りましたが、本質的な想いは変わっていません。信仰は、心だと思っています。

「本質的な信仰とは、心の信仰だからである。神は、礼拝者が誠実なかぎり、どんな形式でささげようとも、決してその敬意をしりぞけはしない。」

 宗教の不寛容さが生み出すおぞましさの歴史に、私は深い人間不信に陥りました。が、そんなのは本当の宗教性ではないという、ルソーの言葉に、どんなに勇気づけられたでしょう。

「どうかわたしが彼らに不寛容の残酷な教義を説いたりすることのないように、彼らをそそのかせて同胞を憎ませ、他人にむかっておまえたちは地獄に落ちるぞなどといわせたりすることがないようにしたいものだ。」
「自分の国の宗教を信奉し、愛する義務は、不寛容の教義のような、淳良な道徳に反する教義にまで拡げられるものではない。人びとをたがいに武器をとって反抗させ、彼らすべてを人類の敵とさせるものは、この恐しい教義である。」

 私は、自分の宗派の信者以外の人間は敵とみなし地獄に落ちると決めつけられる者は、世俗の政治集団で、そこに宗教はないと思っています。 政教分離。政治と宗教は本質的に次元、精神性の方向性と深みの異なるものです。それをいっしょくたにして平然としていられる政治屋、この島国にもたむろしていますが、おぞましく感じ、厭わずにいられません。

「宗教の真の義務は、人間の制度から独立したものであることをよく心得ていてほしい。また、正しい心こそ神の真の神殿であること、どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること、道徳の義務を免除するような宗教は一つもないこと、真に肝要なことは、そういう義務だけであること、内面的な礼拝がそれらの義務の第一のものであること、信仰がなくては、どんな徳行もありえないこと、これらのことを忘れないでいてもらいたいものだ。」

 宗教は「内面的な礼拝」です。それは「どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること」、隣人を愛すことに導く言葉ではあっても、隣人を殺すことを命ずる言葉では決してないと、私は思います。


● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 わたしはすべての個々の宗教をそれぞれ有益な制度と見なしている。つまり、それは各国において、公の儀式によって神をうやまう一様な方式を規定しているものであって、すべて風土に、政体に、民族精神に、あるいは、時代と場所とに応じてある宗教を他のものよりもとくに選ばせるようななんらかの地方的な原因に、その根拠を持っているのだ。人びとがそれらの宗教によって適宜に神につかえているかぎり、それらの宗教をすべてよいものだとわたしは思っている。本質的な信仰とは、心の信仰だからである。神は、礼拝者が誠実なかぎり、どんな形式でささげようとも、決してその敬意をしりぞけはしない。
 (略)
 しかし、どうかわたしが彼らに不寛容の残酷な教義を説いたりすることのないように、彼らをそそのかせて同胞を憎ませ、他人にむかっておまえたちは地獄に落ちるぞなどといわせたりすることがないようにしたいものだ。

 現注九五:
 自分の国の宗教を信奉し、愛する義務は、不寛容の教義のような、淳良な道徳に反する教義にまで拡げられるものではない。人びとをたがいに武器をとって反抗させ、彼らすべてを人類の敵とさせるものは、この恐しい教義である。社会的寛容と神学的寛容とを区別することは、子どもじみた、無益なことだ。この二つの寛容はきりはなせないもので、一方だけを認めて他方を認めないわけにはいかないのだ。天使たちでも、彼らが神の敵と見なすような人びとと平和には暮らせないだろう。

 (略)
 信徒に説教をするさいには、わたしは教会の精神よりは福音書の精神にいっそう心を傾けるだろう。福音書では、教義は単純で倫理は崇高だし、宗教的な儀式はあまり書かれてはおらず、愛の行為が多く書かれているからだ。彼らになすべきことを教えるまえに、わたしはそれを自分で実行するようにいつも努めるだろう。それは、わたしが彼らにむかっていうことは、すべてわたし自身信じていることだということを彼らによく知ってもらうためである。
 (略)
 わたしは彼らすべてが同じように愛しあい、たがいに兄弟と思い、すべての宗教を尊重し、それぞれ、自分の宗教を信じて平和に暮らすようにしむけるだろう。わたしはだれかある人に、その人の生まれながら信じている宗教を捨てるようにすすめることは、悪事を行なうようにすすめることであり、したがって、自分でも悪を行なうことになるとわたしは思う。
 (略)
 われわれがいま置かれている不安な状態では、自分が生まれながら信じている宗教以外の宗教を信ずることは、許しがたい僭越であり、自分の信ずる宗教を誠実に実践しないのは一種の欺瞞であることは、あなたにもわかるだろう。もしわれわれが迷いだしたなら、われわれは至高の審判者の法廷で大きな弁解のことばを自ら失うことになる。神は、ひとがあえて自ら選んだ誤りよりも、むしろ人がそのなかで育てられてきた誤りのほうを容赦するものではなかろうか。
 (略)
 その上に、どんな心がまえをあなたがきめたとしても、宗教の真の義務は、人間の制度から独立したものであることをよく心得ていてほしい。また、正しい心こそ神の真の神殿であること、どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること、道徳の義務を免除するような宗教は一つもないこと、真に肝要なことは、そういう義務だけであること、内面的な礼拝がそれらの義務の第一のものであること、信仰がなくては、どんな徳行もありえないこと、これらのことを忘れないでいてもらいたいものだ。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「祈り(4)」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 ルソー エミール

ルソー『エミール』(九)自然という書物。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は9回目、ルソーが自然、福音書(キリスト教の新約聖書)とイエスについて述べた箇所です。

 諸民族の宗教と多くの宗派について語ったうえでルソーは次のような美しい言葉を書き記します。私の心に沁みわたってきて、喜びを感じとらせてくれる言葉なので、そのまま引用します。

「ただ一冊だけすべての人間の眼にたいして開かれたものがある。それは自然という書物である。この偉大な崇高な書物によってこそ、わたしはその神聖な作者に奉仕し、その作者を崇拝することを学ぶのだ。何人もこの書を読まないという弁解は許されない。なぜなら、この書はどんな精神にも理解できることばでもって、すべての人間に話しかけているからだ。」

 この書は人間だれもに開かれていて、この星に、いつの時代に生まれたか、遠い古代か、遠い未来か、その違いによる差別はありません。どこに生まれたか、どの大陸、島々、どの民族か、国家か、その違いによる差別はありません。
 この星を包み込む宇宙全体の作者なら、神聖な作者なら、永遠に比してあまりにも矮小な時間の、あまりにもありふれた小さな星のしわのように矮小な、生まれた時間や地域の違いで、差別するはずがあるだろうかと、私は思います。 
 
 自然という書物、私の想いを書き加えると、人間だけではない、他の動植物や山や川や海や青空、星々と宇宙そのもの全体で織りなされた、自然という書物を、そこに生まれた生き物として、愛さずにはいられません。この愛情はその作者を崇拝する敬虔な気持ちともいいかえられて、どの時代に、地球上のどこに生まれても、ひとりひとりが感じることができる感情です。

 ルソーは続く箇所では、彼自身が生まれ育てられた時代の、スイス、ジュネーブの宗教、キリスト教をみつめます。
まず、福音書、新約聖書にある、啓示、神が人間に示したとされる奇跡、秘蹟について、次のように記します。

「わたしは啓示を承認しも否認しもしない。ただ啓示を認める義務をこばむだけである。というのは、このいわゆる義務なるものは、神の正義とは矛盾するものであり、それによって救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。これをのぞけば、わたしはこの点では、尊敬をこめた懐疑のうちにとどまっている。わたしは自分をあやまつことのない者と信じるほどのうぬばれは持ちあわさない。」

 前回、キルケゴールの信仰についての考えは、啓示も、わからないことも、不合理も、その断崖を飛び越えて、信じることが信仰だと、書きました。
 でも、私自身はルソーが危惧するように、啓示、奇跡、秘蹟を信じることが信仰だと押付けると、「救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。」と感じます。
 啓示、奇跡、秘蹟については「尊敬をこめた懐疑のうちにとどま」るルソーはだからといって、自分がただしい、信じる人は間違っているとは、けして言わず、決めつけません。わたしは彼のこの態度が好きです。

 ルソーは続けて、福音書(新約聖書)と、イエスへの想いを書き記し、最後にとても謙虚な人間として次の言葉をこぼします。

 「否定することも理解することもできないものを、黙って尊敬し、ただひとり真実を知っている偉大な存在者の前に身をむなしうしてへりくだることだ。」

 私も彼とともに、自然という美しい書物の一文字として、謙虚でありたいと願っています。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 わたしは、神がわたしに学者にならなければ地獄におとすぞと命令するとはどうしても思えなかった。そこで、わたしはすべての自分の書物を閉じてしまった。そのなかでただ一冊だけすべての人間の眼にたいして開かれたものがある。それは自然という書物である。この偉大な崇高な書物によってこそ、わたしはその神聖な作者に奉仕し、その作者を崇拝することを学ぶのだ。何人もこの書を読まないという弁解は許されない。なぜなら、この書はどんな精神にも理解できることばでもって、すべての人間に話しかけているからだ。たとえわたしが絶壁の孤島に生まれようとも、また、自分以外の人間を見たことがないとしても、たとえ世界の片隅で大昔起ったことをまったく教えられなかったとしても、もしわたしが理性を訓練し、育成するなら、またもし神からあたえられた多くの直接的な能力をよくもちいるなら、わたしは神を知り、愛し、神の事業を愛し、神の望む善を望み、神によろこばれるように地上におけるわたしの義務をのこらずはたすことを、ひとりで学ぶだろう。
(略)
 しかし、わたしは啓示にとって有利な、わたしには反駁しがたい証拠を認めるにしても、また一方、同じくその反証となる、解きがたい反対論をも認める。賛否ともに牢固たる理由があるので、どう決定してよいかわからず、わたしは啓示を承認しも否認しもしない。ただ啓示を認める義務をこばむだけである。というのは、このいわゆる義務なるものは、神の正義とは矛盾するものであり、それによって救いへの障害をとりのぞくどころが、それを倍加しかねないし、人類の大部分にとってそれを越えがたいものにするおそれがある。これをのぞけば、わたしはこの点では、尊敬をこめた懐疑のうちにとどまっている。わたしは自分をあやまつことのない者と信じるほどのうぬばれは持ちあわさない。わたしに不確定なものと思われることも、ほかの人は決定してしまったかも知れない。わたしは自分のために推理するのであって、他人のために推理しているのではない。他人を非難しないし、またまねもしない。彼らの判断のほうがあるいはわたしのよりもすぐれているかもしれない。しかしわたしの判断がそれと一致しなくとも、わたしのせいではない。

 以上とともに、わたしは聖書の崇高さに驚かされること、福音書の神々しさがわたしの心に話しかけることをわたしは告白する。哲学者のはなやかにかざりたてた著作を見たまえ。この書物とくらべれば、彼らの著作はなんとみすぼらしくなることか。かくも崇高でしかもかく単純な書物が、人間の手になるということがありうるだろうか。この書がその生涯をえがいている人物が、かれ自身、単なる人間にすぎないということがありうるだろうか。そこに狂信者や宗教的野心家の口調がみられるだろうか。彼の行状にはなんという柔和さ、なんという純潔さがあることか。また、彼のあたえる教訓には、なんという感動的な美しさがあることか。彼の述べる格率にはなんという気高さがあることか。彼の談話にはなんという深い知恵がこもっていることか。彼の返答には、なんという沈着さ、なんという巧妙さ、なんという正確さがみられることか。情念をおさえるなんという威力だろう。こういう人間、ひるむこともなく、またてらいもせず、行動し、苦しみ、死ぬことを知っているこういう賢者が、どこにいるだろう。(略)しかし、イエスは、彼だけがひとり教訓と模範を示したあのけだかく清らかな倫理を、自国の人びとの間にいて、どこからえたのだろうか。
 (略)
 それにもかかわらず、この同じ福音書には、あきれるようなことがら、つまり、理性に反することがら、すべて思慮分別ある人には理解することも承認することもできないことがらが満ちみちているのだ。こういう矛盾ばかりのなかで、いったいどうしたらよいだろう。わが子よ、いつもつつしみぶかく用心ぶかくしていることだ。否定することも理解することもできないものを、黙って尊敬し、ただひとり真実を知っている偉大な存在者の前に身をむなしうしてへりくだることだ。


出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 今回の終わりに私の詩「小さな島、あおい星の乳房のをこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 ルソー エミール

ルソー『エミール』(八)真の宗教は唯一つしかないというのなら。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。

 「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回は8回目、ルソーが宗教の真実性ついて根本的な考えを述べた箇所です。

 ルソーは、多くの宗教が乱立しているなかで、感ぜざるを得ない問いをまず書き記します。
 「だから、もし世界に真の宗教は唯一つしかないというのなら、また、それを信じなければ、誰でも必ず地獄に落ちるというなら、人はあらゆる宗教を勉強し、探求し、比較し、それらの宗教が確立されている国々をめぐり歩くことに一生をかけなくてはならないことになる。」
 
 生まれながらに宗教的なものに惹かれてしまう資質、心性をもつ私にとって、この言葉は切実なものです。今も机の上には『コーラン』が読みかけで置かれ、『浄土三部教』『法華経』『密教経典』が開かれ読まれるのを待っています。私のいつか読もうと想い続けている心性の底流には、ルソーのこの言葉が流れ続けているのを感じます。
 「もし世界に真の宗教は唯一つしかないというのなら」、すべての宗教をしらないでは、恐いのかもしれません。

 クリスチャン、信者になることの意味を、思春期、青春期に思い悩み続けました。キルケゴールの諸著作、特に『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』にある「信仰するとは、人間には知り得ない地平へ、決断し、断崖を越え飛ぶこと」、という考えには深く感動しました。が、私は、ひとつの宗派への信仰へは、「飛び越え」られずに、これまできました。自分をみつめかえすと正確には、「飛び越えることをせずにきた」と思います。心の底に「どうしてただ一つの宗教だけを」という問いが消えずにいるからです。

 その問いは、ルソーの次の言葉でも言い換えられます。

「もしキリスト教徒の子供は、深い、公平な検討も行なわないで、父親の宗教に従うのがよいとしたら、トルコ人の子供も同じように自分の父親の宗教に従って悪い理由がどこにあろう。」

 そして、何より、私にとって、ルソーの次の言葉にあるままの、宗教の負の歴史と側面を見つめるとき、決断し飛び越えただひとつの宗教を信仰することで逆に、人間という生き物の弱さを見えなくなり感じられなくなり、忘れてしまうことを畏れるからです。

 「わが子よ、各人が自説に夢中になり、自分以外の人類よりも自分に理があるとひたすらに思いこむとき、その傲慢と不寛容がどれほどの愚かしさに人をおとしいれるものであるかを、見るがよい。」

 ただ、このあとに続く箇所で、ルソーも言うように、私には、信仰している一人ひとりの方が正しいとも間違いだとも傲慢にいえるわけがありませんし、個人の心性としては、宗派は問わず、信仰に思い悩み信仰した、しないに関わらず信仰に関心を抱いてしまう人に、人の心に、親しみと共感を感じます。
 自分という人間を、人間の心を見つめずにはいられない、まなざしをもつ方が好きです。そのことだけはあわせて書き記しておきます。

● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 そして、わたしの身になって考えてもらいたい。わたしは、あなたの証言だけをたよりに、あなたのいうあらゆる信じられないことがらを信じ、あなたがわたしに教えてくれる正義の神とこれほど多くの不義、不正を両立させなくてはならないかどうか、考えてもらいたい。どうか、この神によっておびただしい未曾有の奇蹟が行なわれたというその遠い国を見に行かせてもらいたいし、そのエルサレムの住民たちがなぜ神を悪党のようにとりあつかったか、そのわけを知りに行かせてもらいたい。(略)
 なんということか。神が死んだこの町では、昔の住民も、いまの住民も、神をまったく認めていないのだ。しかも、あなたは、わたしに、二千年もたって、二千里も離れたところにいるこのわたしに、その神を認めさせたいと思っている。あなたが聖書と呼び、わたしにはかいもくわからないこの書物をわたしが信用する前に、わたしは、あなた以外の人から、いつ、だれによってこの書がつくられたのか、どういうふうにしてそれがあなたの手もとに到達したかを聞かなくてはならないし、あなたがわたしに教えてくれることは、あなたと同様によく心得ていながら、その書を排斥する人びとが、その国でその排斥の理由としてどんないい分をもっているか、そういうことを聞かなくてはならない。(略)それには、自分ですっかり調査するために、どうしてもヨーロッパにもアジアにもパレスティナにも出かけなければならないことは、あなたにもよくおわかりだろう。
 (略)
 だから、もし世界に真の宗教は唯一つしかないというのなら、また、それを信じなければ、誰でも必ず地獄に落ちるというなら、人はあらゆる宗教を勉強し、探求し、比較し、それらの宗教が確立されている国々をめぐり歩くことに一生をかけなくてはならないことになる。なんびとも、人間の第一の義務をまぬがれられないし、なんびとにも他人の判断を信用して任せる権利はない。自分の労働だけで生活している職人でも、文字を知らない農夫でも、きゃしゃな、内気な少女でも、ほとんどベッドから離れることもできないくらいの病弱者でも、すべての人が、例外なしに、勉強し、思索し、討論し、旅行し、世界をめぐり歩かなければならない。つまり、ひとところに住みついた国民はいなくなろう。地球全体が巡礼ばかりでいっぱいになって、その巡礼たちは、大きな費用をかけて、長い旅路に疲れながら、地球上で信奉されているさまざまな信仰を、自分で確かめ、比較し、検討して歩くことになる。
(略)
 宗教の研究のほかには、研究することはありえないことになる。そして、この上もなく頑健で、時間をこの上もなく上手に使い、理性をこの上もなく正しく利用し、もっとも長生きした人が、老年になって、かろうじてどうしたらよいかがわかることになろう。彼が死ぬ前に、自分がどんな信仰にはいって生くべきであったかが学べたらたいしたことだということになる。
 (略)
 もしキリスト教徒の子供は、深い、公平な検討も行なわないで、父親の宗教に従うのがよいとしたら、トルコ人の子供も同じように自分の父親の宗教に従って悪い理由がどこにあろう。
 (略)
 わが子よ、各人が自説に夢中になり、自分以外の人類よりも自分に理があるとひたすらに思いこむとき、その傲慢と不寛容がどれほどの愚かしさに人をおとしいれるものであるかを、見るがよい。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

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 次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。


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