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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(二) はるかな空間を、ここに。

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

 今回は前回に続き、論文「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想を記します。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1

   ながめ侘びぬ秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらん(C百首 二四八・新古今秋上 三八〇)
  <ながめわびぬ あきよりほかの やどもがな のにもやまにも つきやすむらん>

 この歌の作者は月を眺めている。と同時に月に眺められ、隈なく照らし出されている。どこへ行っても遁れようのない寂寥感がそこにはある。(略)自然を眺めながら、逆に自然から眺められ、自然の中に投げ出されている自分の姿を感じているのである。晩年の作である正治百首において、内親王はこのような二重の視覚を獲得するようになる。
 宿を立ち出でてどこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。そして眺めの視線だけをどこまでも往かせようとする。見ること、感ずることに徹しようとするのである。(略)(出典引用1終わり)

☆ 自然を眺め、自然から眺められ
 月を眺め、月に眺められる、歌の作者の寂寥感についてのこの叙述に、私は赤羽淑の寂寥感が重なって感じられます。文章をとおして、人間としての共感、自分の心との重なりを感じとる心を感じます。感情移入して心に感動を覚えることは、文学の鑑賞、研究においてさえ、花咲く言葉をささえ、しっかり根付く土壌ではないかと私は思います。

「どこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。」「見ること、感ずることに徹しようとする」、この生き方は、文学に生きようとする人間に共通する、私も深く共感を覚える真実のように感じます。文学作品を書くという行為は、世界各地をくまなく巡り写真を撮り紀行文を書くという行動とは対極にあって、動かず、机の前での孤独な行為です。体を動かすことを、諦めたうえでの。そこに生きようとする者は、心の遥かな旅で地球の隅々、宇宙の果て、過去と未来、永遠まで、感じ尽くそうとします。

◎出典からの引用2
 眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識は、内親王が幼女時代から少女時代にかけて十一年ほど加茂の斎院として過された体験と無関係ではあるまい。神館の女主人として幼いときから中心的存在であったかの女は神聖な館の奥深くかくまわれているという意識と、人びとの注目をつねにあびているという意識と、背反する二重の意識をすでに幼いころからもたざるを得なかったのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆ 加茂の斎院として
 幼女、少女時代、思春期を、生まれた身分から斎院として過ごし、結婚しなかった式子内親王が、「眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識」をもたざるを得なかった、のはその通りではないかと私は思います。彼女の歌の、悲痛な静けさも、この相克の痛みからもれでた声のようにも、悲しく感じます。だからこそ、歌わずにはいられない魂の人であったのだとも。

◎出典からの引用3

 このような意識の特殊性が晩年にはつぎのような達成をみる。

   山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(C百首 二〇三・新古今春上 三)
  <やまふかみ はるともしらぬ まつのとに たえだえかかる ゆきのたまみず>

   今桜咲きぬと見えて薄曇り春に霞める世の景色かな(C百首 二一〇・新古今春上 八三)
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

   花は散てその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる(C百首 二一九・新古今春下 一四九)
  <はなはちりて そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 これらの歌における感性の特性は、まずそれらが求心的な方向をもっているということであろう。作歌主体の聴覚や視覚のうちに周囲の動きを取り込む。それからその感覚を今度はできるかぎり遠くまで解放する。
 これらの歌によってわれわれが描くヒロインは、「松の戸」「苔の扉」などのイメージがふさわしい巷を遠く離れた閑静な場所に自分を住まわせている。そこにじっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。

 このように内親王はつねに、眺める存在と眺められる存在の二重性の中に自己を感じ、閉ざすものと閉ざされるもの、意志的なものと受け身的なものの交差するところに詠ずる主体を位置させている。そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。逆な言い方をすれば、限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができためずらしい歌人だったのである。
(出典引用3終わり)

☆ はるかな空間を感性の中に
 赤羽淑の、式子内親王の理解が、人間性全体を体感するような、真実のものであったことが伝わってきます。
 想い描かれたヒロイン、式子内親王の姿と息遣いまでもが、目の前に見え感じられるようです。
 「じっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。」
  このように式子内親王は、いのち、世界に向き合い、歌ったのだと思います。

 「そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。」
  これは、歌人の、詩人の、理想とする生き様、詩人としての私の理想です。彼女の晩年と同じ年齢にあるいま、私もまた、「限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができ」る詩人でありたいと、願い、創作しています。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。

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tag : 赤羽淑 式子内親王 和歌 詩人 高畑耕治 詩歌

新しい詩「花まつり」、「花まつり、恋うた」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「花まつり」と「花まつり、恋うた」を、公開しました。変奏です。

    詩「花まつり」

    詩「花まつり、恋うた」

(クリックでお読み頂けます)。

ちいさな、二りんのうたの花です。
お読みくだされば、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた

赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(一)  閉ざされて、開かれて。

 赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の著書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)は詩歌の本質をとらえていると感じる私の愛読書です。
 赤羽名誉教授は定家と同時代の私が敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の和歌についても歌人の魂に迫る論文を執筆されていらっしゃり、「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」についての私の詩想は次のエッセイに既に記しました。

  赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。

  赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。

 今回からは、式子内親王の詩魂をさらに深く感じとるため、赤羽淑名誉教授の二つの視点からの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を読みとり、呼び覚まされた私の詩想を記していきたいと思います。

 まず数回にわたり、論文「式子内親王における詩的空間」を感じとります。
 最初に、このエッセイを執筆しながら感じていたことを記しますと、赤羽名誉教授が式子内親王の歌を慈しみ感じとる心を文章に感じながら、敬愛する歌人の歌を読み返す時間は、文学のゆたかさにつつまれ、幸せと喜びを感じました。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
  一

   秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重もとぢよ蔦の紅葉 (新勅撰秋下 三四五)
  <あきこそあれ ひとはたずねぬ まつのとを いくえもとじよ つたのもみじば>

 (略)「秋こそあれ」というのは、(略)「秋こそ尋ね来たれ」という意であろう。
 (略)式子内親王の歌には際立った特性が認められるのである。それは、「幾重もとぢよ蔦の紅葉」と強い命令形で言いきる調子に表わされている。たしかに内親王の世界は幾重にも閉ざされた彼方にある。内親王自身がわれとわが身をそのような場所に置いている。われわれは内親王の世界を、まずこのように閉ざされ、隔絶した空間として受け取る。(略)(出典引用1終わり)

☆ 強い命令形、閉ざされ、隔絶した空間
 赤羽淑は論文の冒頭に引用する歌を通して、まず式子内親王の「際立った特性」を、「強い命令形で言いきる調子に表わされている。」と示します。この歌でも「秋こそあれ」「幾重もとぢよ」という語調の切迫さがささめき響いています。(この論文の後半でこの個性は歌人の本質に根ざすものとして再びとりあげられます。)
 式子内親王の、愛唱されている歌、私の好きな歌のおおくに、この個性が響いていて、私はこの歌人を、いのちと魂を、静かに絶唱する人、だから好きなのだと思います。
 歌は、孤独、閉ざされ、隔絶した空間を凝視し、その空間で息することから生まれてきます。このことは生まれながらの歌人であることの証だと私は思います。孤独の底なしの深さが、式子内親王の歌の魅力があふれ出してくる源です。

◎出典からの引用2
 ところで式子内親王はそのような存在としての自己を意識し、そのような存在として彼女を見つめている他者の目をも意識していたのではなかったろうか。文治五年以前ころに作られたA百首にすでにそう思わせるものがある。

   跡絶えて幾重も霞め深く我世を宇治山の奥の麓に(A百首 六)
  <あとたえて いくえもかすめ ふかくわが よをうじやまの おくのふもとに>

   たたきつる水鶏の音も深にけり月のみ閉づる苔のとぼそに (同 二一)
  <たたきつる くいなのおとも ふけにけり つきのみとずる こけのとぼそに>

 ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている世界を見ることができはしないだろうか。
 蔦が幾重にも閉ざした松の戸は、秋に向かっては開かれているのである。「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。「跡絶えて」の歌においても人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。「月のみ閉づる苔のとぼそに」という場合も、この苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。

 式子内親王の歌の世界は、はるか彼方に幾重にも閉ざされてあるようなあり方と、その内部で、他者に対してまぎれようもなくあらわな存在をむき出してしているようなあり方と、矛盾するものが同時にみられる。この両義性、または二重性はどこから来るのだろうか。(出典引用2終わり)

☆ 閉ざされた世界、開かれている世界
 赤羽淑は、歌をとおしてさらに式子内親王の心に迫り、感じとります。「ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている」。
 人間は孤独な自己意識が深まれば深まるほど、自己ではない、自己を取り巻くものを、限りなく強く希求せずにいられません。その意味で、赤羽淑は、式子内親王をとおして、人間そのものを、人間である自分を、凝視していると、私は感じます。
 閉ざされた世界と、むき出しにあらわな開かれた世界、歌人の心にひろがる矛盾、二重性を、歌に掬い挙げる感性に満ちた文章は、とても美しく、次のようにとらえられて歌は、その心象風景を眼前から遥かまで、さらにひろげてくれるように感じます。

 「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。
 人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。
 苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。

 拒絶と受容、相反するこころを、矛盾のまま、二重性のままに、歌い込めることができた美しい女性、式子内親王を慕う気持ちが、歌を読み返すたびに、深まってゆきます。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。


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詩想(四) 一市民として(2)

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 
 今回は「一市民として(2)」、最終回です。生活しなければ文学は創れないから、生活する者としての想いです。



一市民として選挙の日に思う。なぜ、投票するか? 選挙権を放棄せず自分の意思を示したと言いきるための証。自分自身が命をかけてしたいことに打ち込むために、調整を委ねざるを得ない事柄の代理職の選定。かといって、委ねてはいられない問題へは意思表示。誰がなろうが譲らない、意思、声をもつと。



一市民として。いろんな、考え、想いがあっていいと思うけれど。考えや願う未来が間違ってもいなくても、自分が生きてるうちより得しそうな代理職人をえらぶ人おおいなと実感するのが選挙。投票するのは、代理職人にゆずらない意思確認のためにだけ。棄権、放棄はどうなろうが委任。それよりはまし。



クズと罵りあって、気にしない、鈍感、傲慢、社会をめざすんだね。クズの罵倒軍団が夢か、 それが美しい国なんて。あさましい。
(注一、この島国の政治屋のことです)。



なんだかこの島国の、りいだあは、人間の品位をはぎ落とすことにばかり熱狂するようで、人間の顔がメルトダウンして、本能のままの猛獣動物園が、夢か。あさましすぎる。
(注一に同じです)。



クズなどと同じ社会にいるひとに言うことを、小学校のせんせいも、幼稚園、保育園の先生も、間違ったことだと教えてくれた。国会の先生はそれすら、わからず、気にしないとしか言えないなんて。年少さん前まで退化したのか? 先生と子どもたちに、とても恥ずかしい。
(注一に同じです)。



この星があちこちで、記録的な、過去最大の、気候変調を通して、悲鳴を伝えている今。子どもたちを、子どもたちのこの星を、想える人間なら、原発と武器の輸出なんて進められるか? 正気か? 真剣に考えられもしないなら、よけいなことだけはせず、未来を汚さず、退け。



人間にとっての、有史以来、建国以来?、宇宙とこの星の、主人公、目的?とまで、うぬぼれてきた、ヒトという動物は、この星の、最下等動物、最悪の害虫の汚名をまぬがれるための努力をこそ、懸命にやらないと。星とすべての生き物たちから、汚し壊すばかりと厭われても、もうなんにも言えない。



真、善、美、を求めずにいられないのが、人間だと、いいたい。
誤り、悪、醜さ、に陥ることは、あるけれど、抜け出したいという、願いだけは、最後までなくせないなら、人間だと、思いたい。
陥るまま開き直る、政治屋のような動物たむろする檻に誰が住みたいか?



オウム真理教もひとつの信仰、信仰者には真理、信仰しない者には狂信。
現人神もひとつの信仰、信仰者には真理、信仰しない者には狂信。
信仰しない者を、真理の名で、脅迫し、攻撃し、殺害しようとしないかぎりは。
クズと脅すことを許してしまう集団は、そのはじめの一歩にいるのでは?



サリンを作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、使わせた者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。
原爆を作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、使わせた者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。
武器を作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、輸出し使わせる者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。




 裸の王様もいずれ自らの愚かな姿と、呆れられている視線に、やがて刺されて恥じ入るでしょう。驕るものはもろいものです。
 
 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

   詩「おばあちゃんの微笑み
                    (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。




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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 詩想

新しい詩のななつのこ(7篇のうたの子ども)をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩のななつのこ、7篇のうたの子どもを、公開しました。

    詩「ゆきにふりそそぐ」

    詩「ゆうひ」

    詩「ななつのこ」

    詩「うめのはな」

    詩「ゆきのこ」

    詩「かなしくて」

    詩「くもり夜空」

(クリックでお読み頂けます)。

ちいさな、七りんのうたの花です。
お読みくだされば、とても嬉しく思います。




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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた ゆき ゆうひ

詩想(三) 一市民として(1)

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 四回に分けて公開します。

 
 今回は「一市民として(1)」です。生活しなければ文学は創れないから、生活する者としての想いです。



武器を手にするとき人間は、最下等動物に変わる。
裸で愛しあうとき人間は、素晴らしい生き物たちのなかま。心を裸に愛しあうとき、人間の歌声が聞こえる。



武器を売って渡して威張るなんて、撃たれる人を思えないなんて、原発いま売り歩くなんて、苦しんでる人思えないなんて、最下等動物。
(注一、この島国の政治屋のことです)。



南洋で戦死させられた私の祖父はわたしに「おまえも、おまえの息子たちも、お国のために、戦い、死ね」とは、決して言わない。戦死者の無念、痛み、悲しみを、平然と悪用しねつ造し代弁するかのように装う政治屋を、わたしは心底厭います。本気ならまず、おまえが前線で殺しあえ。できないなら黙れ。
(注一に同じです)。



自分が決して前線で殺しあう意思も決意もないのに、戦死した、殺された人たち、(私の祖父)の耐え難い悲惨な死にざまを、美化して、金儲けに利用し、戦争を煽り、若者の未来を、お国のために、戦死に近づけようとはしゃぐ輩を、私は心底、厭わしく感じます。
NHK経営委員と、選んだ人たちなど。





ひとりひとりの耐え難い死を、英霊などと、軽々しく一括りにできる神経を、私は疑い軽蔑します。為政者の無能と誤りを隠し飾ろうとし、真似て繰り返そうと英雄気取りでしてるだけ。戦死させられた人を、汚すな。
(注一に同じです)。




恋愛でも、友情でも、相手の人が、これだけは絶対にしてほしくない、と伝えられたことを、やる時点で、関係を断ったとまともな人間なら感じる。のに、そのあとになって、いつでも話し合うよ、と言えるのは、異常、異様な感覚。それこそ政治屋とほめたたえる集団の感覚も。驕り、開き直り、醜く危い。
(注一に同じです)。



戦いは、相手はこれだけはやってほしくないことをするもの。だから、それをあえてした人、ゆるす集団はもう、はじめたんだ。宣戦布告したいと。わたしは、戦いは兵器以外なにも生まず壊し傷つけるだけ、愛しあえる時間を奪うから何より憎みます。戦いに巻き込むことばかりに血まなこな者も、集団も。
(注一に同じです)。



正しいと思い込んで譲らない人からの、説教を、人間は嫌いなんだ。わたしも人間。どんなに立派な言葉でも、押しつけは誰もが、嫌。
迷っていても、選んだのは私、好きだったからこっちにした、その気持ちが、人間らしいと思います。



感動することを、馬鹿にする風潮は、いまの社会全体の浅ましさだと思います。おもねたら、生きていると時間を損ねてしまいます。感動をうしなったら、獣でもなく、機械、物。でも感動は人の真実だから負けない、とも。
(注二、この島国のマスコミのことです)。



二本足で立ち歩きわめいても、歌わない、絵を描 かない、感動を言葉で伝えあえない、動物は、猿であっても、人間じゃないんだ、きっと、今も昔もこれからも。



 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

    詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から。
     「 美しい国。憎悪咲き乱れる、

                    (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

 次回は、詩想(四)です。


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あたらしい詩「ちいさな虫のうた」をHP公開しました。

詩想(二) 詩と文学

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 四回に分けて公開します。
 
 今回は「詩と文学」です。私の率直な想いです。



疲れてる、花と話すこころ、星にときめくこころ、なくしてる、沈み静むばかり、詩なんてどこにも。でも好きだということだけ忘れずに、待とう、疲れの底からから浮かび、きっと、話せる、ときめける、好きだから、ただそれだけで、花に、星に、愛するひとに。こころは海、言葉は波、沈み、浮かび。



好きと感じてしまう言葉 こころうたれてしまう言葉 美しいと感じてしまう言葉 大切なのはそれだけ。
単純で素朴でありままの 人の想いの 強さ、美しさ、願い、愛を



詩を、形容すると。気まぐれ、わがまま、自分勝手、訳にたたない、お金にならない、暗い、マイナス言葉を塗りたくれば、できそう、だけど。人間だから伝えあえる、こころ、感動、恋、愛、思いやり、人間であるのをかけがえなく感じる瞬間が、詩だよ。感じられないならこの星を最悪に汚すただ有害な獣。



作品は、そのたびごとに、いちどきりの、花だから。こころに生まれた、感動の種から、芽吹く姿も、花びらのいろも表情も、生まれソ育つかも、なんにもわからない。けど、想い、願うことから、愛の花きっと。



文学が素朴だからできること、文学でこそできる、とても素朴なこと。心をうつ。



孤独からしか詩は生まれない。孤独なひとりと孤独なひとりの、向き合いにだけ、愛はある。



ほんものの文学は、感情。愛することと、同じ。海の波を、ひとはコントロールなんてできない。できるのは、波のまにまにいることを感じること、言葉を波のしぶきにしようと願うことだけ。



誰にも知られない、知らせない、愛するひととの、ふたりだけの時間、伝えあう表情のためにだけ、生きている。と、心うつ文学は、みんな伝えてくれる気がして。



情熱で、込めることができるすべての情熱で、とにかく、書こう。才能はなくてもあっても、引きずられ冬眠から目覚めてくれるだろうから。愛さずにいられないのと同じほどに強く、情熱で。



菜の花畑、チューリップ畑、ひまわり畑や高原のお花畑の、いちめんの美しさにいつも憧れ、そんは詩を咲かせたいけど、道ばた一輪の小さな花が好き。



文学、詩は、おそろしいほど、曖昧なつかみどころも正解もない、ばうばうとしたもの。読者として、いちばん心に響き、好きになってしまうのはふたつ。心が純であること。心こめられていること。賢いひとが、馬鹿にしようが、その大切なものがないなら、文学でも詩でもないと、私は感じます。



所属する組織、集団の看板をひとつひとつ取り去って最後の仮面を外して表れる、その人だけの個性の表情をこそ、大切に想うのが、文学。
詩。
それは愛と限りなく近くて。
宇宙にひとり、はだかで産み落とされた、あかんぼのこころ、童心にやどる、愛に近くて。
生まれたままの姿、求めあわずにはいられない、ひとりとひとりの、想いに近くて。



はあもにい、こだま、響きあいの、最果て、極限は、無音とすれすれ。醜さの果て、美しさの果て、生きること、愛することの最果ても、死と隣り合わせ。その端境の青空へ浮かんでゆかずにいられなかった、こころの、しゃぼんだまの虹色には、詩が美しく映り、やどり、ふるえ。ぽしゃんと、壊れるまで。



 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

    詩「うたの花
               (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

 
 次回は、詩想(三)「一市民として」です。


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