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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(二) はるかな空間を、ここに。

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

 今回は前回に続き、論文「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想を記します。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1

   ながめ侘びぬ秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらん(C百首 二四八・新古今秋上 三八〇)
  <ながめわびぬ あきよりほかの やどもがな のにもやまにも つきやすむらん>

 この歌の作者は月を眺めている。と同時に月に眺められ、隈なく照らし出されている。どこへ行っても遁れようのない寂寥感がそこにはある。(略)自然を眺めながら、逆に自然から眺められ、自然の中に投げ出されている自分の姿を感じているのである。晩年の作である正治百首において、内親王はこのような二重の視覚を獲得するようになる。
 宿を立ち出でてどこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。そして眺めの視線だけをどこまでも往かせようとする。見ること、感ずることに徹しようとするのである。(略)(出典引用1終わり)

☆ 自然を眺め、自然から眺められ
 月を眺め、月に眺められる、歌の作者の寂寥感についてのこの叙述に、私は赤羽淑の寂寥感が重なって感じられます。文章をとおして、人間としての共感、自分の心との重なりを感じとる心を感じます。感情移入して心に感動を覚えることは、文学の鑑賞、研究においてさえ、花咲く言葉をささえ、しっかり根付く土壌ではないかと私は思います。

「どこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。」「見ること、感ずることに徹しようとする」、この生き方は、文学に生きようとする人間に共通する、私も深く共感を覚える真実のように感じます。文学作品を書くという行為は、世界各地をくまなく巡り写真を撮り紀行文を書くという行動とは対極にあって、動かず、机の前での孤独な行為です。体を動かすことを、諦めたうえでの。そこに生きようとする者は、心の遥かな旅で地球の隅々、宇宙の果て、過去と未来、永遠まで、感じ尽くそうとします。

◎出典からの引用2
 眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識は、内親王が幼女時代から少女時代にかけて十一年ほど加茂の斎院として過された体験と無関係ではあるまい。神館の女主人として幼いときから中心的存在であったかの女は神聖な館の奥深くかくまわれているという意識と、人びとの注目をつねにあびているという意識と、背反する二重の意識をすでに幼いころからもたざるを得なかったのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆ 加茂の斎院として
 幼女、少女時代、思春期を、生まれた身分から斎院として過ごし、結婚しなかった式子内親王が、「眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識」をもたざるを得なかった、のはその通りではないかと私は思います。彼女の歌の、悲痛な静けさも、この相克の痛みからもれでた声のようにも、悲しく感じます。だからこそ、歌わずにはいられない魂の人であったのだとも。

◎出典からの引用3

 このような意識の特殊性が晩年にはつぎのような達成をみる。

   山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(C百首 二〇三・新古今春上 三)
  <やまふかみ はるともしらぬ まつのとに たえだえかかる ゆきのたまみず>

   今桜咲きぬと見えて薄曇り春に霞める世の景色かな(C百首 二一〇・新古今春上 八三)
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

   花は散てその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる(C百首 二一九・新古今春下 一四九)
  <はなはちりて そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 これらの歌における感性の特性は、まずそれらが求心的な方向をもっているということであろう。作歌主体の聴覚や視覚のうちに周囲の動きを取り込む。それからその感覚を今度はできるかぎり遠くまで解放する。
 これらの歌によってわれわれが描くヒロインは、「松の戸」「苔の扉」などのイメージがふさわしい巷を遠く離れた閑静な場所に自分を住まわせている。そこにじっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。

 このように内親王はつねに、眺める存在と眺められる存在の二重性の中に自己を感じ、閉ざすものと閉ざされるもの、意志的なものと受け身的なものの交差するところに詠ずる主体を位置させている。そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。逆な言い方をすれば、限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができためずらしい歌人だったのである。
(出典引用3終わり)

☆ はるかな空間を感性の中に
 赤羽淑の、式子内親王の理解が、人間性全体を体感するような、真実のものであったことが伝わってきます。
 想い描かれたヒロイン、式子内親王の姿と息遣いまでもが、目の前に見え感じられるようです。
 「じっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。」
  このように式子内親王は、いのち、世界に向き合い、歌ったのだと思います。

 「そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。」
  これは、歌人の、詩人の、理想とする生き様、詩人としての私の理想です。彼女の晩年と同じ年齢にあるいま、私もまた、「限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができ」る詩人でありたいと、願い、創作しています。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。

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tag : 赤羽淑 式子内親王 和歌 詩人 高畑耕治 詩歌

新しい詩「花まつり」、「花まつり、恋うた」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「花まつり」と「花まつり、恋うた」を、公開しました。変奏です。

    詩「花まつり」

    詩「花まつり、恋うた」

(クリックでお読み頂けます)。

ちいさな、二りんのうたの花です。
お読みくだされば、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた

赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(一)  閉ざされて、開かれて。

 赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の著書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)は詩歌の本質をとらえていると感じる私の愛読書です。
 赤羽名誉教授は定家と同時代の私が敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の和歌についても歌人の魂に迫る論文を執筆されていらっしゃり、「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」についての私の詩想は次のエッセイに既に記しました。

  赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。

  赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。

 今回からは、式子内親王の詩魂をさらに深く感じとるため、赤羽淑名誉教授の二つの視点からの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を読みとり、呼び覚まされた私の詩想を記していきたいと思います。

 まず数回にわたり、論文「式子内親王における詩的空間」を感じとります。
 最初に、このエッセイを執筆しながら感じていたことを記しますと、赤羽名誉教授が式子内親王の歌を慈しみ感じとる心を文章に感じながら、敬愛する歌人の歌を読み返す時間は、文学のゆたかさにつつまれ、幸せと喜びを感じました。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
  一

   秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重もとぢよ蔦の紅葉 (新勅撰秋下 三四五)
  <あきこそあれ ひとはたずねぬ まつのとを いくえもとじよ つたのもみじば>

 (略)「秋こそあれ」というのは、(略)「秋こそ尋ね来たれ」という意であろう。
 (略)式子内親王の歌には際立った特性が認められるのである。それは、「幾重もとぢよ蔦の紅葉」と強い命令形で言いきる調子に表わされている。たしかに内親王の世界は幾重にも閉ざされた彼方にある。内親王自身がわれとわが身をそのような場所に置いている。われわれは内親王の世界を、まずこのように閉ざされ、隔絶した空間として受け取る。(略)(出典引用1終わり)

☆ 強い命令形、閉ざされ、隔絶した空間
 赤羽淑は論文の冒頭に引用する歌を通して、まず式子内親王の「際立った特性」を、「強い命令形で言いきる調子に表わされている。」と示します。この歌でも「秋こそあれ」「幾重もとぢよ」という語調の切迫さがささめき響いています。(この論文の後半でこの個性は歌人の本質に根ざすものとして再びとりあげられます。)
 式子内親王の、愛唱されている歌、私の好きな歌のおおくに、この個性が響いていて、私はこの歌人を、いのちと魂を、静かに絶唱する人、だから好きなのだと思います。
 歌は、孤独、閉ざされ、隔絶した空間を凝視し、その空間で息することから生まれてきます。このことは生まれながらの歌人であることの証だと私は思います。孤独の底なしの深さが、式子内親王の歌の魅力があふれ出してくる源です。

◎出典からの引用2
 ところで式子内親王はそのような存在としての自己を意識し、そのような存在として彼女を見つめている他者の目をも意識していたのではなかったろうか。文治五年以前ころに作られたA百首にすでにそう思わせるものがある。

   跡絶えて幾重も霞め深く我世を宇治山の奥の麓に(A百首 六)
  <あとたえて いくえもかすめ ふかくわが よをうじやまの おくのふもとに>

   たたきつる水鶏の音も深にけり月のみ閉づる苔のとぼそに (同 二一)
  <たたきつる くいなのおとも ふけにけり つきのみとずる こけのとぼそに>

 ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている世界を見ることができはしないだろうか。
 蔦が幾重にも閉ざした松の戸は、秋に向かっては開かれているのである。「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。「跡絶えて」の歌においても人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。「月のみ閉づる苔のとぼそに」という場合も、この苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。

 式子内親王の歌の世界は、はるか彼方に幾重にも閉ざされてあるようなあり方と、その内部で、他者に対してまぎれようもなくあらわな存在をむき出してしているようなあり方と、矛盾するものが同時にみられる。この両義性、または二重性はどこから来るのだろうか。(出典引用2終わり)

☆ 閉ざされた世界、開かれている世界
 赤羽淑は、歌をとおしてさらに式子内親王の心に迫り、感じとります。「ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている」。
 人間は孤独な自己意識が深まれば深まるほど、自己ではない、自己を取り巻くものを、限りなく強く希求せずにいられません。その意味で、赤羽淑は、式子内親王をとおして、人間そのものを、人間である自分を、凝視していると、私は感じます。
 閉ざされた世界と、むき出しにあらわな開かれた世界、歌人の心にひろがる矛盾、二重性を、歌に掬い挙げる感性に満ちた文章は、とても美しく、次のようにとらえられて歌は、その心象風景を眼前から遥かまで、さらにひろげてくれるように感じます。

 「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。
 人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。
 苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。

 拒絶と受容、相反するこころを、矛盾のまま、二重性のままに、歌い込めることができた美しい女性、式子内親王を慕う気持ちが、歌を読み返すたびに、深まってゆきます。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。


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詩想(四) 一市民として(2)

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 
 今回は「一市民として(2)」、最終回です。生活しなければ文学は創れないから、生活する者としての想いです。



一市民として選挙の日に思う。なぜ、投票するか? 選挙権を放棄せず自分の意思を示したと言いきるための証。自分自身が命をかけてしたいことに打ち込むために、調整を委ねざるを得ない事柄の代理職の選定。かといって、委ねてはいられない問題へは意思表示。誰がなろうが譲らない、意思、声をもつと。



一市民として。いろんな、考え、想いがあっていいと思うけれど。考えや願う未来が間違ってもいなくても、自分が生きてるうちより得しそうな代理職人をえらぶ人おおいなと実感するのが選挙。投票するのは、代理職人にゆずらない意思確認のためにだけ。棄権、放棄はどうなろうが委任。それよりはまし。



クズと罵りあって、気にしない、鈍感、傲慢、社会をめざすんだね。クズの罵倒軍団が夢か、 それが美しい国なんて。あさましい。
(注一、この島国の政治屋のことです)。



なんだかこの島国の、りいだあは、人間の品位をはぎ落とすことにばかり熱狂するようで、人間の顔がメルトダウンして、本能のままの猛獣動物園が、夢か。あさましすぎる。
(注一に同じです)。



クズなどと同じ社会にいるひとに言うことを、小学校のせんせいも、幼稚園、保育園の先生も、間違ったことだと教えてくれた。国会の先生はそれすら、わからず、気にしないとしか言えないなんて。年少さん前まで退化したのか? 先生と子どもたちに、とても恥ずかしい。
(注一に同じです)。



この星があちこちで、記録的な、過去最大の、気候変調を通して、悲鳴を伝えている今。子どもたちを、子どもたちのこの星を、想える人間なら、原発と武器の輸出なんて進められるか? 正気か? 真剣に考えられもしないなら、よけいなことだけはせず、未来を汚さず、退け。



人間にとっての、有史以来、建国以来?、宇宙とこの星の、主人公、目的?とまで、うぬぼれてきた、ヒトという動物は、この星の、最下等動物、最悪の害虫の汚名をまぬがれるための努力をこそ、懸命にやらないと。星とすべての生き物たちから、汚し壊すばかりと厭われても、もうなんにも言えない。



真、善、美、を求めずにいられないのが、人間だと、いいたい。
誤り、悪、醜さ、に陥ることは、あるけれど、抜け出したいという、願いだけは、最後までなくせないなら、人間だと、思いたい。
陥るまま開き直る、政治屋のような動物たむろする檻に誰が住みたいか?



オウム真理教もひとつの信仰、信仰者には真理、信仰しない者には狂信。
現人神もひとつの信仰、信仰者には真理、信仰しない者には狂信。
信仰しない者を、真理の名で、脅迫し、攻撃し、殺害しようとしないかぎりは。
クズと脅すことを許してしまう集団は、そのはじめの一歩にいるのでは?



サリンを作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、使わせた者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。
原爆を作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、使わせた者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。
武器を作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、輸出し使わせる者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。




 裸の王様もいずれ自らの愚かな姿と、呆れられている視線に、やがて刺されて恥じ入るでしょう。驕るものはもろいものです。
 
 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

   詩「おばあちゃんの微笑み
                    (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。




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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 詩想

新しい詩のななつのこ(7篇のうたの子ども)をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩のななつのこ、7篇のうたの子どもを、公開しました。

    詩「ゆきにふりそそぐ」

    詩「ゆうひ」

    詩「ななつのこ」

    詩「うめのはな」

    詩「ゆきのこ」

    詩「かなしくて」

    詩「くもり夜空」

(クリックでお読み頂けます)。

ちいさな、七りんのうたの花です。
お読みくだされば、とても嬉しく思います。




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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた ゆき ゆうひ

詩想(三) 一市民として(1)

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 四回に分けて公開します。

 
 今回は「一市民として(1)」です。生活しなければ文学は創れないから、生活する者としての想いです。



武器を手にするとき人間は、最下等動物に変わる。
裸で愛しあうとき人間は、素晴らしい生き物たちのなかま。心を裸に愛しあうとき、人間の歌声が聞こえる。



武器を売って渡して威張るなんて、撃たれる人を思えないなんて、原発いま売り歩くなんて、苦しんでる人思えないなんて、最下等動物。
(注一、この島国の政治屋のことです)。



南洋で戦死させられた私の祖父はわたしに「おまえも、おまえの息子たちも、お国のために、戦い、死ね」とは、決して言わない。戦死者の無念、痛み、悲しみを、平然と悪用しねつ造し代弁するかのように装う政治屋を、わたしは心底厭います。本気ならまず、おまえが前線で殺しあえ。できないなら黙れ。
(注一に同じです)。



自分が決して前線で殺しあう意思も決意もないのに、戦死した、殺された人たち、(私の祖父)の耐え難い悲惨な死にざまを、美化して、金儲けに利用し、戦争を煽り、若者の未来を、お国のために、戦死に近づけようとはしゃぐ輩を、私は心底、厭わしく感じます。
NHK経営委員と、選んだ人たちなど。





ひとりひとりの耐え難い死を、英霊などと、軽々しく一括りにできる神経を、私は疑い軽蔑します。為政者の無能と誤りを隠し飾ろうとし、真似て繰り返そうと英雄気取りでしてるだけ。戦死させられた人を、汚すな。
(注一に同じです)。




恋愛でも、友情でも、相手の人が、これだけは絶対にしてほしくない、と伝えられたことを、やる時点で、関係を断ったとまともな人間なら感じる。のに、そのあとになって、いつでも話し合うよ、と言えるのは、異常、異様な感覚。それこそ政治屋とほめたたえる集団の感覚も。驕り、開き直り、醜く危い。
(注一に同じです)。



戦いは、相手はこれだけはやってほしくないことをするもの。だから、それをあえてした人、ゆるす集団はもう、はじめたんだ。宣戦布告したいと。わたしは、戦いは兵器以外なにも生まず壊し傷つけるだけ、愛しあえる時間を奪うから何より憎みます。戦いに巻き込むことばかりに血まなこな者も、集団も。
(注一に同じです)。



正しいと思い込んで譲らない人からの、説教を、人間は嫌いなんだ。わたしも人間。どんなに立派な言葉でも、押しつけは誰もが、嫌。
迷っていても、選んだのは私、好きだったからこっちにした、その気持ちが、人間らしいと思います。



感動することを、馬鹿にする風潮は、いまの社会全体の浅ましさだと思います。おもねたら、生きていると時間を損ねてしまいます。感動をうしなったら、獣でもなく、機械、物。でも感動は人の真実だから負けない、とも。
(注二、この島国のマスコミのことです)。



二本足で立ち歩きわめいても、歌わない、絵を描 かない、感動を言葉で伝えあえない、動物は、猿であっても、人間じゃないんだ、きっと、今も昔もこれからも。



 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

    詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から。
     「 美しい国。憎悪咲き乱れる、

                    (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

 次回は、詩想(四)です。


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tag : 高畑耕治 詩人 詩歌 詩想

新しい詩「すみれ」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「すみれ」を、公開しました。

   詩「すみれ」   (クリックでお読み頂けます)。


ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 すみれ

あたらしい詩「ちいさな虫のうた」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「ちいさな虫のうた」を、公開しました。

   詩「ちいさな虫のうた」   (クリックでお読み頂けます)。


ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた

詩想(二) 詩と文学

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 四回に分けて公開します。
 
 今回は「詩と文学」です。私の率直な想いです。



疲れてる、花と話すこころ、星にときめくこころ、なくしてる、沈み静むばかり、詩なんてどこにも。でも好きだということだけ忘れずに、待とう、疲れの底からから浮かび、きっと、話せる、ときめける、好きだから、ただそれだけで、花に、星に、愛するひとに。こころは海、言葉は波、沈み、浮かび。



好きと感じてしまう言葉 こころうたれてしまう言葉 美しいと感じてしまう言葉 大切なのはそれだけ。
単純で素朴でありままの 人の想いの 強さ、美しさ、願い、愛を



詩を、形容すると。気まぐれ、わがまま、自分勝手、訳にたたない、お金にならない、暗い、マイナス言葉を塗りたくれば、できそう、だけど。人間だから伝えあえる、こころ、感動、恋、愛、思いやり、人間であるのをかけがえなく感じる瞬間が、詩だよ。感じられないならこの星を最悪に汚すただ有害な獣。



作品は、そのたびごとに、いちどきりの、花だから。こころに生まれた、感動の種から、芽吹く姿も、花びらのいろも表情も、生まれソ育つかも、なんにもわからない。けど、想い、願うことから、愛の花きっと。



文学が素朴だからできること、文学でこそできる、とても素朴なこと。心をうつ。



孤独からしか詩は生まれない。孤独なひとりと孤独なひとりの、向き合いにだけ、愛はある。



ほんものの文学は、感情。愛することと、同じ。海の波を、ひとはコントロールなんてできない。できるのは、波のまにまにいることを感じること、言葉を波のしぶきにしようと願うことだけ。



誰にも知られない、知らせない、愛するひととの、ふたりだけの時間、伝えあう表情のためにだけ、生きている。と、心うつ文学は、みんな伝えてくれる気がして。



情熱で、込めることができるすべての情熱で、とにかく、書こう。才能はなくてもあっても、引きずられ冬眠から目覚めてくれるだろうから。愛さずにいられないのと同じほどに強く、情熱で。



菜の花畑、チューリップ畑、ひまわり畑や高原のお花畑の、いちめんの美しさにいつも憧れ、そんは詩を咲かせたいけど、道ばた一輪の小さな花が好き。



文学、詩は、おそろしいほど、曖昧なつかみどころも正解もない、ばうばうとしたもの。読者として、いちばん心に響き、好きになってしまうのはふたつ。心が純であること。心こめられていること。賢いひとが、馬鹿にしようが、その大切なものがないなら、文学でも詩でもないと、私は感じます。



所属する組織、集団の看板をひとつひとつ取り去って最後の仮面を外して表れる、その人だけの個性の表情をこそ、大切に想うのが、文学。
詩。
それは愛と限りなく近くて。
宇宙にひとり、はだかで産み落とされた、あかんぼのこころ、童心にやどる、愛に近くて。
生まれたままの姿、求めあわずにはいられない、ひとりとひとりの、想いに近くて。



はあもにい、こだま、響きあいの、最果て、極限は、無音とすれすれ。醜さの果て、美しさの果て、生きること、愛することの最果ても、死と隣り合わせ。その端境の青空へ浮かんでゆかずにいられなかった、こころの、しゃぼんだまの虹色には、詩が美しく映り、やどり、ふるえ。ぽしゃんと、壊れるまで。



 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

    詩「うたの花
               (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

 
 次回は、詩想(三)「一市民として」です。


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tag : 高畑耕治 詩人 詩歌 文学

新しい詩「いっしょに」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「いっしょに」を、公開しました。

   詩「いっしょに」   (クリックでお読み頂けます)。


ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 いっしょに

詩想(一) 心の足跡

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
 四回に分けて公開します。

 
 今回は「心の足跡」です。私の心模様の色合いの変わりざま、四季の空のような。



こころの、純、結晶したのは、たぶん中二頃。露のひかり手のひらに、壊さずたもちつづけようと、生きているような。



気負い過ぎたラブレターは想う人も自分も擦り傷、切り傷、増やすばかりで。一度も幸せに、笑って帰ってきてはくれません、心のへこみ、消せなくなって。だから、くりかえし、いつまでも、ラブレターの言葉さがす、悲しい人とはなりました。詩を書く人ってそんな人、私もなんだかそんな人



感動して、美しいと、好きだと、感じ伝え伝えられる、わずかな時間を想い生きてる。



どうしても大切なものを、大切にして、感じ、大切なひとに伝えよう。懸命に、素直に。それ以外の余力、時間たぶん、私にはもうない、だから、と感じつつ。



科学の真理をうたう教科書にも理路整然とした哲学体系にも深淵で難解な執念に宗教の教えにも、のらずこぼれる、幼い子どもの涙、愛するひとの顔のゆがみが、私はずっと大切。そのことにだけは素直に、そのことを守ることだけには懸命に、それだけ。



わたしはむかし、異常悲哀反応、という、言葉に、異常悲哀反応しました。いまも変わらず。



生真面目さばかりが、汚点であるがゆえの目印、それさえとりえだと、思いたいばかりの、ひとでした。



投げやりですが。素直に自分を見ると、心にしか関心がありません。後の処世の手続きは、必要と思えても関心がありません。愛しあうために必要だから耐えるだけ。



そのときからわたくしはいつもこれで遺稿かと、こころ込め、書いております。



願い。愛するひとに、最期に、さようなら、じゃなく、ありがとう。口でもう言えなくても、ぜんぶで。



墓銘碑。書きたい、生みたい、愛しあいたい。願うばかりの、ひとではありました。



 今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

    詩「かなしみまみれの、なんでやねん
                                (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

 
 次回は、詩想(二)「詩と文学」です。



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tag : 高畑耕治 詩人 詩歌 詩想

新しい詩「さざんか」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「さざんか」を、公開しました。

   詩「さざんか」   (クリックでお読み頂けます)。


 この詩は、詩誌「たぶの木」に参加されている詩人・山下佳恵さんの詩「山茶花の花びら散らして」
こだまして生まれた作品です。

ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 山下佳恵 高畑耕治 詩歌

ルソー『新エロイーズ』。あなたを愛しますと言う権利を。

 ジャン・ジャック・ルソーの長編小説『新エロイーズ』を読み通すことができました。この小説の名は二十代の頃からいつも私の心の片隅にあり、いつかは読みたいと思っていました。彼の『エミール』を読み返しエッセイを書きながら、彼への心の共感が深まったことに力を得て、長い小説の世界を旅することができました。

 共感する言葉は小説のいたるところに散りばめられていました。エッセイに書くことは考えずに小説の世界に没入しましたが、読み返すたびに泣きたい気持ちになるほど強い感動をおぼえるクライマックスの言葉だけは、今回ここに書き留めておきたくなりました。

 この長編小説は、複数の人物、男女のあいだで交わされる手紙だけでできた、手紙の束です。私がこのエッセイに記すのは、小説の第六部の十二番目の手紙、この小説の愛しあう二人の主人公、女性のジュリが男性サン=ブルーへ、彼女が死ぬ間際に書いた、最期の、別れの言葉、遺書です。

 この手紙を理解するために、長編小説を遠望します。
舞台は18世紀スイス。二十代の貴族の娘ジュリと従姉妹ふたりの家庭教師となった平民のサン=ブルーは、ジュリと深く愛し合います。ジュリの母親は娘の心への理解をしめしますが、ジュリの父親は、身分の違いから二人の恋愛、結婚の願いを許しません。ジュリは命がけの手段を選びます。サン=ブルーと一夜を共にし結ばれ、身ごもることを祈り、できなら、殺されるか、結婚をゆるされるか、どちらになろうが、教会で牧師と父の目の前で告白しようと決意していました、が、妊娠の願いかないませんでした。ジュリの母は病気でなくなり、ひとり身の父を捨てられず、ジュリは、自分を犠牲にして、父が独断で娘との婚姻を約束した、愛していない男と結婚します。絶望したサン=ブルーは自殺を踏みとどまり世界周航の軍役に身を投じます。数年後生き残り故国へ戻ったサン=ブルーは、二人の息子の母親となっていたジュリと夫と再会を果たし、紆余曲折のすえ、子どもたちの家庭教師として迎えられ、まもなく共に暮らし始めようとしていました。が、サン=ブルーが恩人の危機を救うため他国へ旅していたとき、湖に落ちた息子を救おうと後を追って飛び込んだことが原因で死の床につきます。ジュリが死を目の前にした床で、サン=ブルーへ宛てた遺書が引用の手紙です。

 この長編小説の主題は、愛と徳です。ルソーは、愛しあう二人の互いへの手紙を通して、愛している、愛している、といい続けます。心深く愛しあうことに変えられるものは何もないと。女と男は、ひとつにならずにはいられないように、結び合うように、自然に産み落とされているのだから、自然のままに、心から、愛しあうことの素晴らしさ、美しさ、愛しあうことへの想いの強さが、一貫して流れています。

 そうであるにもかかわらず、平民と身族、社会的な慣習、数十年まえの日本もそうであったように、娘の結婚相手は、一人の女性としての心が選び決めるのではなく、父親が、家柄、社会慣習で独断し、命ずるものであったこと。この小説でも、心の想いのままに深く愛しあい、慣習の檻を突き破ろうとして結ばれた二人の行いは、願いが適わず、彼女が愛していない父親の選んだ男と結婚したときから、過失、許されない行い、罪、に変じてしまいます。ジュリも、サン=ブルーも、ひとつにならずには生きていけない心であることを深く感じていただけに、引き裂かれた瞬間、ふたりの心は死にました。痛い、真実だと私は、感じます。

 ジュリは結婚した後は、罪をふたたび犯さずに、社会生活の、家庭の、宗教の、徳を守り続けようとします。再会できたサン=ブルーとも、深く愛しあった愛人同士としてではなく、ひとりの家庭の妻と、友人としてともに生きていこうとしていたそのとき、ジュリを死が襲います。
 ジュリの最期の、この手紙での告白は、強く心を打ちます。引き裂かれたとき、愛する心は死んだこと。それでも、生きている限り、愛していたこと。きっと、愛が、徳の押さえつけを、破らずにはいなかっただろうこと、を愛するひとに告白します。心が痛くなります。

 ルソーは、長編小説を通して、愛と徳に語らせているけれど、ジュリの最期のこの言葉こそ、彼が伝えようとした真実なのだと私は感じます。小説を旅するうちに、ジュリが小説の世界を通して生きていると感じ、ジュリを愛している自分を感じるから、彼女の死をまえにした手紙を読み返すたびに私は、悲しく、美しさに心をうたれ、痛み、泣きたくなります。人間であることへの想い、愛することへの想いが揺れ続けます。

 「あなたなしにわたくしにどんな幸福が味わえましょうか? 」

 「徳は地上でこそわたくしたちを隔てましたけれど、永遠の住み家ではわたくしたちを結び合せてくれましょう。わたくしはこの楽しい期待をもって死んでゆきます。罪にならないでいつまでもあなたを愛する権利を、そしてもう一度、あなたを愛しますと言う権利を、この命と引換えに贖えるのを深く喜びつつ。」


● 以下は出典からの引用です。(手紙の中でも、私の心にささるように感じて読み返したい言葉を赤文字にしました。読みやすくするため改行は一行空けました)。

 第六部 書簡十二      ジュリより[サン=ブルーへ]

 わたくしたちの計画は諦めなければならなくなりました。すべてが変ってしまいました。いとしい方。不平を言わずにこの変化を忍びましょう。これはわたくしたちより一そう賢い御手(みて)から来たことです。わたくしたちはご一緒に集ることを考えておりましたけれど、ご一緒になることは善くなかったのです。それを妨げ給うたことは天の御恵(みめぐ)みです。きっと不幸が起ることを防ぎ給うたに相違ございません。

 わたくしは長いあいだ思い違いをしてまいりました。この思い違いはわたくしにとって有益なものでしたけれど、もうわたくしに不必要になりましたとき壊れたのです。あなたはわたくしが熱が冷めたとお思いになりましたし、わたくしもそう思っておりました。この思い誤りを役に立つ限り続かしめ給うた方に感謝いたしましょう。わたくしがこれほど深淵の縁に来ていることを知りましたなら、目まいを起こさなかったかどうか誰が知りましょう。そうです、わたくしに生きる力を与えてくれたあの最初の感情はどんなに抑えつけようと思っても駄目で、その感情はわたしの心の中に凝り固ってしまったのです。その感情はもう恐れるに及ばなくなったときに心の中に目覚めてまいりました。その感情は体力がわたくしを見棄てましたときにわたくしを支えてくれ、死に瀕しておりますときにわたくしを元気づけてくれております。あなた、わたくしはこう告白いたしましても恥ずかしい気持はいたしません。否応なく残ってまいりましたこの感情は意志の埒外にあったのでして、少しもわたくしの潔白の患いにはなりませんでした。わたくしの意志に属することはすべてわたくしの義務の領分でした。わたくしの意志に属さない心はあなたのご領分であったとしましても、それはわたくしにとって責苦ではございましたけれど罪ではございませんでした。わたくしはなすべきことをいたしました。徳は汚れなくわたくしに残っておりますし、愛は良心の呵責なく残っておりました。

 わたくしは過去の事は誇ってもよいと思います。けれども、これから先きの事を誰が保証できましたでしょう? あるいはもう一日でも生き延びれば罪を犯すところだったでしょう! あなたと共に余生を送りましたならどういうことになりましたでしょう? なんという危険をわたくしは無意識のうちに冒しておりましたことでしょう! それよりも一そう大きな何という危険に身を曝そうとしていたことでしょう! わたくしはあなたのために心配してあげているつもりでしたが、きっと自分のために心配していたに相違ございません。あらゆる試煉行われましたけれど、試煉は何度でも起りすぎるくらい起る可能性があったのです。わたくしは幸福のためにも、淑徳のためにももう十分に生きたのではありますまいか? まだ人生から取り出さねばならない何か有益なものがわたくしに残っておりましたでしょうか? 天はわたくしから生を取上げ給うても、もう何一つ惜しいものを取上げ給うわけではありませんし、却ってわたくしの名誉を守って下さるのです。あなた、わたくしはあなたにもわたくしにも満足して、都合の好い時にこの世を去るのです。わたくしは喜んで去ります、この退去には少しも辛いところはございません。あれほど犠牲を払いました後ですもの、これからまだ払わなければならない犠牲などは物の数とも思いません。ただもう一度死ぬだけのことですもの。

 あなたがお苦しみになることは今から分ります、わたくしはそのお苦しみを感じます。あなたは相変らずお気の毒な方です、それは分り過ぎるほど分っております。ですから、あなたのご悲嘆を意識しますことは、わたくしがあの世へ持ってまいります最も大きな苦しみなのです。
けれどもまた、どんなに多くのお慰めをあなたにお遺ししてまいりますか、それをご覧になって下さいませ! あなたが大切に思って下すった女に対する義務としてどんなに多くのご配慮をお果たしにならねばならないかということが、その女のためにお命をお保ちになる義務をあなたに課することでしょう! その女の最も善い部分のために尽して下さることがあなたには残っているのです。あなたがジュリについてお失いになるところは、すでに久しい前からお失いになっていたものだけなのです。(略)

・・・・・・疲れを感じます。もうこの手紙を終らなければなりません。(略)

 さよなら、さよなら、愛しい方・・・・・・。ああ、わたくしは人生の門出をしたときと同じようにしてこの生を終ります。こういうことを申しますのは余計なことかもしりませんが、今はもう心が何事をも隠し立てしなくなった時ですので・・・・・・ほんとに、どうしてわたくしの感じていることを残らず言い表すのを憚ることがございましょう? あなたに語っているのはもうわたくしではありません、わたくしはもう死の掌中にあるのです。あなたがこの手紙をご覧になるときは、あなたの愛する者の顔と、もうあなたの宿られなくなった心臓は蛆に喰われておりましょう。でも、わたくしの霊魂はあなたなしに存在いたしましょうか、あなたなしにわたくしにどんな幸福が味わえましょうか? いいえ、わたくしはあなたとお別れするのではありません。あなたをお待ちしに行くのです。徳は地上でこそわたくしたちを隔てましたけれど、永遠の住み家ではわたくしたちを結び合せてくれましょう。わたくしはこの楽しい期待をもって死んでゆきます。罪にならないでいつまでもあなたを愛する権利を、そしてもう一度、あなたを愛しますと言う権利を、この命と引換えに贖えるのを深く喜びつつ。


 今回の最後に、このジュリの手紙と木魂する私の詩を響かせます。
   
   詩「生まれた日から (クリックしてお読み頂けます)。

出典:『新エロイーズ』(ルソー著、安士正夫訳、1961年、岩波文庫)



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『墨子』(六)非攻。あさましいことだ。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えてきました。

 今回は最終回、さらに「非攻」の言葉を感じとります。

 墨子の弟子たちが、墨子の行動や言葉をまとめた「耕柱篇」と「魯問篇」から、四つの章を選び出しました。それぞれに私が感じ考えさせられた想いを添えます。

<一つ目の説話>
 ここで子夏の門人たちの言葉は、まるでこの島国の好戦的な為政者、政治屋の熱弁のように感じます。
「犬や豚でもやはり闘争はある。感情のそなわったりっぱな人間がどうして戦わないことがありましょう」
 返した墨子の言葉は、私の想い、そのものです。あさましい。人間をやめたのか。たとえにつかわれて犬や豚がかわいそうだ。かれらは無駄な、むやみな殺傷はしない。あさましい、この星の最下等生物だと知れ。

<二つ目の説話>
 墨子は、「大国が小国を攻めるのは」、子どもの遊びと変わらないと見抜きます。攻めるものも、攻められるものも、耕作もできず、機織りもできず、有益な生産はなにもできず、疲れきるだけ。この話もたとえられた「子どもの遊び」が可愛そう、遊びはとても有益で子どもを育みますが、戦争は殺し、破壊するだけです。そのような選択をしてしまえるような為政者は無能であり、社会と人間の破壊者でしかありません。

<三つ目の説話>
 侵略についての、至言です。そんな愚かなことを行なえる国家の為政者は「全く盗癖があるのです。」
有害です。
 これは、墨子が戦国時代の大国の君子に、戦争、小国への侵攻を思いとどませるために行なった対話のひとつです。私は政治的な事柄を好む人間ではありませんが、彼の行為を尊敬します。

<四つ目の説話>
 最後の説話も、他国に戦争を仕掛けようとする大国の王との問答です。
 墨子はずばりと問いかけます・
「他国を兼併し軍隊を覆滅し人民を殺害した場合には、誰がその不祥の報いを受けるでしょうか」
この王は賢明でした。「自分がその不祥を受ける、と。」答えうるだけの謙虚さを知性の片隅に残していて、その愚かさに気づけたからです。

 大切なのは、好戦的な、党利党略で他のことを考えられない愚かな為政者を、選ばないこと。
 たとえ、多くの人が守る意志もない公約や言動に惑わされて選んでしまう過失をおかしても、ここでの墨子のように、その非を正すのが、言論する意志だと私は思います。

 秘密保護法で戦前の言論統制への回帰をごりおしする集団、為政者、ともに住み、生きている、多様な、様々な、感じ方、声に、耳を傾ける能力も考えさえない集団、為政者は、市民として生活を選んでゆく個々の自由、とても基本的な人権すら守るのではなく、「国家のための、公けのための民」という偽りの大義の名で制限していくことばかり考えています。 
 選ばないこと、正すこと、あたりまえの市民生活の日常をこそ大切に良くしていこうとする意志を伝えあいたいと願います。
 
 二千数百年前の墨子の言葉は、単純、率直で、人間を、人間が社会で生きる真実を捉えているからこそ、今も、これからも、愛しあってこそ、人間はゆたかに生きていけるということを、教えてくれます。 

● 以下は、出典からの原文引用です。

■耕柱篇から。
子夏(しか:孔子の門人)の門人たちが墨子先生に質問して、「教養を積んだ人々にも腕力の争いはありますか」といった。墨子先生は「教養を積んだ人々には腕力の争いということはない」とこたえられた。すると、子夏の門人たちは、「犬や豚でもやはり闘争はある。感情のそなわったりっぱな人間がどうして戦わないことがありましょう」といった。墨子先生はいわれた。「なんとあさましいことだ。君たちは口では湯王や文王といった聖人のことをいいながら、実践については犬や豚を譬(たと)えに持ち出すのか。なんとあさましいことだ」

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

■耕柱篇から。
<解釈> 子墨子が魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)に言われた。大国が小国を攻めるのは、たとえば子供が馬となる《子供の馬遊び。子供が互いに馬になって遊ぶこと》ようなものだ。子供が馬となるのは、自分の足を疲らす。今、大国が小国を攻めるのは、攻められるものは、農夫は耕作ができず、夫人は機織りができず、守ることに専念する。人を攻めるものもまた、農夫は耕作ができず、夫人は機織りができず、攻めることに専念する。
だから大国が小国を攻めるのは、たとえば子供が馬となるようなものだ、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

■耕柱篇から。
<解釈> 子墨子が魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)に言われた。いまここに一人があり、羊・牛・犬・豚などの美食を、その料理人が上衣を脱いで調理し、食べきれないほどある。ところが、人が餅を作るのをみると、驚きの目でそれを盗み、自分に与えよ、と言ったとします。いったいこの人は、美食が不足しているのでしょうか。それとも盗癖があるのでしょうか、と。魯陽の文君は言った、盗癖があるのです、と。子墨子が言われた、楚国はその領内の土地は、荒蕪(こうぶ)した地が開墾しきれないほど広く、空地が数千も多くて入居しきれないほどです。ところが、宋国や鄭国(ていこく)の空邑(かんゆう)を見ると、驚きの目でそれを盗みます。これとあれとで相違がありますか、と。魯陽の文君が言った、同様です、全く盗癖があるのです、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

■魯問篇から。
<解釈> 子墨子が斉(せい)の大王(たいおう)にまみえて言われた。今ここに刀があるとして、これを人の頭にためして一刀で切り落としたとします。この刀を鋭利と言えますか、と。大王が言われた、鋭利である、と。子墨子が言われた、刀は鋭利です、しかし不祥の報いを受けるのは誰でしょうか、と。大王が言われた、刀は鋭利の名を受けるが、刀を執った者が不祥の報いを受けるだろう、と。子墨子が言われた、他国を兼併し軍隊を覆滅し人民を殺害した場合には、誰がその不祥の報いを受けるでしょうか、と。大王は俯仰(ふぎょう)し思案して言われた、自分がその不祥を受ける、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

   詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から。
         星の王女さま。『続・絵のない絵本』」


   (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

 戦争がもたらす悪があり、原発がもたらす悪があります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。

 次回は、ルソーの『新エロイーズ』をめぐる詩想です。


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『墨子』(五)他国を攻撃するという大きな不正義。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。

 今回の主題は、非攻です。
 
 墨子は、誰もが悪いことだと見なし、「政治を行なう人」が罰する悪事を書き連ねていきます。
 まず、 「一人の男がいて、他人の果樹園に忍びこんでそこの桃や李(すもも)の実を盗」むこと。
 次には、「他人の犬や鶏や大阪・小豚を盗む」こと。
 さらには、「他人の厩舎(きゅうしゃ)に忍びこんで、人の馬や牛を盗みだす」こと。
 凶悪さが増し、「罪もない人を殺してその着物をはぎ取り戈(ほこ)や刀剣を奪い取る」こと。
 これらの悪事について、人間のほとんどの社会で常識とされてきた判断基準を述べます。
 「他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる」

 そのうえで書き記した言葉は、政治屋、為政者、追従する知識人、マスコミの欺瞞と不正を晒し出さずにはいません。
「以上のような事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従(ついしょう)してそれを誉めたたえて正義であるといっている。」

 この認識に私は深く共感するとともに、「過ちをくりかえさず」「二度と戦争などしない」ための、とても大切な境界線だと考えます。
 単純で素朴であっても、人間らしい心の声を押し殺してはいけません。

 「戦争は悪だ」。ごまかされず、この声を見失ってはいけないと思います。どんなに精緻な論証による大義を押しつけられても、人間が人間を殺すことを容認してしまうような組織、国家、為政者の大義は、おぞましい罪です。「戦争は悪だ」とだけ、言い続けることに徹することだと私は考えます。

 さらに墨子は、人間のまっとうな心の声にだけ忠実に続けます。人間の社会で、共同生活の根底をささえるために、認められてきたこと。殺人は悪であり、社会に罰せられるということ、そのひどさがますほど、罰もより厳しく科せられることを、次のように。
「一人の人間を殺害すると、それを不正義として、きっと一つの死刑の罪」。
「十人を殺害すると十の不正義をかさねたことになって、きっと十の死刑の罪」。
「百人を殺害すると百の不正義をかさねたことになって、きっと百の死刑の罪が適用されるわけである。」

 人間として社会生活を営むために、誰もが必要だと受け容れる、殺害と罪を述べた上で、政治屋、為政者、追従する知識人、マスコミの、欺瞞と傲慢さと不正をごりおしする態度を、厳しく問い返します。
「ところが、いま、他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従してそれを誉めてたたえて正義であるといっている。」

 繰り返しますが、墨子のこの「非攻」の考えに私は心から共感します。人間のまなざし、嘘偽りを許さず、本当のことを見つめ、言おうとする、単純な、素朴な、強く、美しい、意思があるからです。

 好戦的な政治屋は、口が上手く、賢しらで、あらゆる手を使い、卑劣も感じず、大義をおしつけ、「戦争することが必要だと」、人間を騙し、人間を殺しても、自分さえ死ななければ、何も感じず、平気です。自らが最前線の兵士とならない限り、人間が、人間に、人間を殺せと、命じる資格は、たとえ誤った法律が強制しようと、ありません。誰にもありません。
 だから、集団が、法律が、誤った嘘を押付けようとするとき、墨子の言葉のように、「戦争は悪だ」と、繰り返しつづけ、生きようとする人間でありたいと、私は考えます。

●以下は、出典からの原文引用です。

第十七 非攻(ひこう)篇 上

一 いま一人の男がいて、他人の果樹園に忍びこんでそこの桃や李(すもも)の実を盗んだとすると、人々はそれを聞いて非難し、上にあって政治を行なう人はその男をつかまえて罰するであろう。それはなぜであるか。他人に損害を与えて自分の利益をはかるからである。
 ところで、他人の犬や鶏や大阪・小豚を盗むということになると、そのよくないことは、他人の果樹園に忍びこんで桃や李の実を盗むよりもいっそうひどい。それはどんな理由によるものか。他人に損害を与えることがいっそう大きいからである。もし他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる道理である。さらに他人の厩舎(きゅうしゃ)に忍びこんで、人の馬や牛を盗みだすということになると、そのよくないことは、他人の犬や鶏や大豚・小豚を盗むよりいっそうひどい。(略)さらにまた罪もない人を殺してその着物をはぎ取り戈(ほこ)や刀剣を奪い取るということになると、そのよくないことは他人の厩舎に忍びこんで馬や牛を盗み出すよりもいっそうひどい。それはどんな理由によるのか。他人に損害を与えることがいっそう大きいからである。もし他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる道理である。

二 さて、以上のような事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従(ついしょう)してそれを誉めたたえて正義であるといっている。これでは、正義と不正義との区別をわきまえているといえようか。

三 いま一人の人間を殺害すると、それを不正義として、きっと一つの死刑の罪があてられる。もし、この道理をすすめてゆけば、十人を殺害すると十の不正義をかさねたことになって、きっと十の死刑の罪が適用され、百人を殺害すると百の不正義をかさねたことになって、きっと百の死刑の罪が適用されるわけである。こうした事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま、他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず。かえって追従してそれを誉めてたたえて正義であるといっている。他国を攻撃するのが不正義であるということを、本当に知らないのである。だから、攻撃をすすめるようなことばを書きつらねて、後世に伝えるようなこともするのである。もしそれが不正義だとわかっていたら、そんなよくないことを書きつらねて後世に伝える理由はないはずである。

四(略)ところで、いまほんの少しよくないことをしたときには、それを認めて非難するが、他国を攻撃するという大きな悪事を働く場合には、それを非難することを知らず、かえって追従してそれを誉めたたえて正義であるといっている。これでは、正義と不正義との区別をわきまえているといえようか。以上のようなわけで、世界じゅうの知識人の正義と不正義との区別のしかたが、でたらめであることがわかるのである。

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

   詩「白黒が、セピア色に染まるまで             (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

 戦争がもたらす悪があり、原発がもたらす悪があります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。

 次回は『墨子』をみつめる最終回、さらに彼の「非攻」を感じとります。



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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 墨子

新しい詩「ゆき、恋うた ・ ゆきのおと」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「ゆき、恋うた」に、ちいさなゆきのうたの花をもういちりん咲かせ、公開しました。

詩「ゆき、恋うた ・ゆきのおと
               (クリックでお読み頂けます)。


 こちらが連作の全体になります。

  詩「ゆき、恋うた」
    ・ゆき
    ・ゆきんこ
    ・ ゆきのおと
    ・ゆきだるま
    ・ゆき
    ・ゆき、恋うた


 お読みいただけると嬉しいです。

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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた ゆき ゆきんこ ゆきだるま

新しい詩「ゆき、恋うた」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「ゆき、恋うた」を、公開しました。

  詩「ゆき、恋うた」
    ・ゆき
    ・ゆきんこ
    ・ゆきだるま
    ・ゆき
    ・ゆき、恋うた

(クリックでお読み頂けます)。

ちいさなゆきのうたの花です。
お読みくだされば、とても嬉しく思います。

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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた ゆき ゆきんこ ゆきだるま

新しい詩「みかづき」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「みかづき」を、公開しました。

   詩「みかづき」   (クリックでお読み頂けます)。


ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた

『墨子』(四)兼愛。他人がたたかれた場合に。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。

 今回の主題は前回に続き、兼愛です。

 墨子の行動と問答を弟子が記した「耕柱篇」から彼の考え心に残る二つの章を引用しました。

 一つ目の逸話。
 この話に私は現代の国際社会におかれたこの島国、日本のことを思います。 
「放火」により燃え広がる火事は、軍事拡大競争。その状況下に「そこへ二人の男がやってきて、一人は水を持ってきて火にかけようとするし、他の一人は火を持ってきてさらに火事をひろげようとする。」
 この国の政治屋は、武器、人殺しの道具を輸出しようとしたり「火を持ってきて火事をひろげようとする」ことばかりに血眼です。
 火事をひろげてしまえば、焼け野原だけしか残りません。愚かな選択はやめさせることが必要です。

 二つ目の逸話。
 この話で、墨子の対話相手の巫馬子(ふばし)は次のように言います。
「自分がたたかれたときには痛いと感ずるが、他人がたたかれた場合には、自分では痛みを感じない。」
 現実主義者的なこの者の言葉に私は思います。
 「自分がたたかれたとき」痛いと感じるのは、生き物、動植物すべてです。人もまた動物として当然そのように感じます。でもそれだけなら、人は動物であるだけです。
 「他人がたたかれた場合に」肉体的に「自分では痛みを感じない。」けれど、他人の痛みを思い、自分の心に痛みを感じてしまうのが、そのような心、魂をもちうるのが、人間であることの証ではないでしょうか?
 
 続けて巫馬子(ふばし)は言います。
 「わたくしには、自分の利益のために他人を殺すということがかりにあるとしても、他人の利益のために自分を殺すということはけっしてありません」
 それに対して墨子は、次のように返します。
 「あなたの信条に賛成する者も、あなたを殺そうとするし、あなたの信条をこころよく思わない者も、あなたを殺そうとする。」
 
 私は思います。憎悪は憎悪しか生まない。殺意には殺意しか返ってこない。
 自国の利益のために他国を殺そうとするなら、信条に賛成する国も、信条をこころよく思わない国も、この国に生活する者を殺そうとする。
 だから、他国に生活する人たちを殺そうとするような愚かな選択だけはしてはいけない。そのような選択を押付けようとする政治屋には、決して、生活する者がしあわせを感じる社会などつくれない。そのような政治屋は社会の未来にとって有害だから、できるだけ早く、辞めさせ、代えないといけない。
 一市民、一生活者として、私は強く思っています。

●以下は、出典からの原文引用です。

■ 耕柱篇から。

 巫馬子(ふばし)が墨子先生にむかっていった。「あなたはせかいじゅうをひろく平等に愛されるが、まだその利益があがってはいません。わたくしは世界中を愛するわけではありませんが、格別その害があるわけでもありません。実際の効果がまだどちらもあらわれていないのに、あなたはどうしてまた自分の主張を正しいとして、わたしの主張を悪いとするのですか」
 墨子先生はいわれた。「もしここに放火した者がいたとしましょう。そこへ二人の男がやってきて、一人は水を持ってきて火にかけようとするし、他の一人は火を持ってきてさらに火事をひろげようとする。実際の効果はまだどちらもあらわれていないが、この場合この二人について、あなたはどちらのほうを尊重しますか」
 巫馬子がこたえて、「わたくしは、その水を持ってきた者の心がけを正しいとして、その火を持ってきた者の心がけを悪いとします」というと、墨子先生はいわれた。「わたしも、またやはりわたしの心がけを正しいとして、あなたの心がけを思いとしているのだ」


■ 耕柱篇から。

 巫馬子(ふばし)が墨子先生にむかっていった。「わたくしはあなたの意見とは違います。わたくしにはひろく平等に大切にすることはできません。わたくしは、遠い越(えつ)の国の人よりは隣の鄒(すう)の国の人を大切にします。鄒の国の人よりは自分の魯(ろ)の国の人を大切にします。魯の国の人よりは自分の郷里の人を大切にします。郷里の人よりは自分の家族の人々を大切にします。家族の人々よりは自分の親を大切にします。親よりも自分の体を大切にします。いずれもわたくしにとって身近いと思うからのことです。自分がたたかれたときには痛いと感ずるが、他人がたたかれた場合には、自分では痛みを感じない。痛みを感ずるわが身を守ることをせずに、痛みを感じない他人を守るということは、わたくしにはとても理解できません。だから、わたくしには、自分の利益のために他人を殺すということがかりにあるとしても、他人の利益のために自分を殺すということはけっしてありません」
 墨子先生はいわれた。「あなたのその信条は、人に隠しておこうとされるのか、それとも人に知らせようとされるのか」。巫馬子はこたえた。「どうしてまたわたくしの信条を隠す必要がありましょう。わたくしは人に知らせるつもりです」
 墨子先生はいわれた。「そうだとすると、一人でもあなたの信条に賛成して共鳴する者もあれば、その一人の共鳴者は、自分の利益のためにあなたを殺したいと思うだろう。十人があなたの信条に賛成したのなら、その十人が自分の利益のためにあなたを殺したいと思うし、世界じゅうの人々があなたの信条に賛成したなら、世界じゅうの人々が自分の利益のためにあなたを殺したいと思う。ところがまた、一人でもあなたの信条をこころよく思わない者があれば、その一人の反対者はあなたを殺したいと思うだろう。あなたのことをふらちな主張をひろめる奴だと考えるからです。十人があなたの信条をこころよく思わないのなら、その十人があなたを殺したいと思う。あなたのことをふらちな主張をひろめる奴だと考えるからです。世界じゅうの人々があなたの信条をこころよく思わないのなら、世界じゅうの人々があなたを殺したいと思う。あなたのことをふらちな主張をひろめる奴だと考えるからです。
 してみると、あなたの信条に賛成する者も、あなたを殺そうとするし、あなたの信条をこころよく思わない者も、あなたを殺そうとする。これこそ、いわゆる軽口(かるくち)はその身を殺すというものです。
 あなたの主張は、いったい何の利益があろう。もし、利益もないのに無理に主張をするということなら、これは口をすりへらすだけです。

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

   詩「十四歳。いのち、巣立ち。」から。
         「公園で ( 福島の同窓生に )

(作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

 戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
   
 次回も、『墨子』の世界のもう一つの核「非攻」を感じとります。

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『墨子』(三)兼愛。世界は平和に。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。

 今回の主題は、兼愛です。
 
 「兼愛」についての言葉は、墨子を諸子百家のなかで一際高く聳え立つ人間として輝かせていると私は思います。まずこの言葉が意味するものについての、出典の訳者・金谷治の、注記を引用します。

● 引用
 *<愛> 墨子のいう愛は、今日の語感からくるような精神的なものではない。利害と結びついて説かれているように、相手を尊重して、その利益をはかる行動をともなっている。相手の「ためにはかる」とか、相手の「身になる」とか、相手を「大事にする」などという訳語も考えられる。(●引用おわり)

 ここに書かれているように、墨子の「愛」が、精神的なものではないというのは、宗教的ではないと言い換えられます。前回の「天志」でみたように、「天の意思」その善性を、この「兼愛」の裏づけとしていますが、罪と罰、地獄、最後の審判といった死後の世界への強い畏怖はなく、とても現世的です。逆にいうと、この生がすべて、理想郷、永遠の長寿を願う、中国に共通した精神のあり方を感じます。

 このような精神風土のうえで、墨子は、よく生きるために、よく生きることは、愛すること(相手の「ためにはかる」、相手の「身になる」、相手を「大事にする」)だといいます。

 そして、現世的な墨子の「愛」のもうひとつの大きな特徴は、彼が戦国時代という殺し合いの時代の最中で、この考えをひろめ弟子たちとともに実践したことです。
 彼の「兼愛」の言葉は、別の回で見つめる「非攻」、悪である戦争を止めさせる行為と結びついていました。この点でこそ、墨子の言葉、行いは、これからもその輝きと価値をけして失わない、時代と国境など飛び越えて学び取るべきものだと、私は考えています。

 「兼愛」の骨子を抜粋し、◎印に続け、短く私の言葉を添えます。

 「聖人は世界を平和に治めることを、自分の任務とする者」
 ◎聖人という言葉を政治家としたとき、この根本を見失っている、知らない政治屋ばかりが、なんと多いんでしょうか。

 「もしも世界じゅうの人々をひろく互いに愛しあうようにさせたならば、国と国とは攻めあうことがなく、(略)君臣父子のすべてが慈悲深く恭順になれるのである。そして、このようであれば、世界は平和に治まるのである。」
 「世界は、ひろく愛しあえばよく治まるが、互いに憎みあえば乱れるのである。」

 ◎政治屋は、猜疑心と嫌悪心でいっぱいです。相手の眼に映る自分の憎しみを、相手の憎しみと邪推します。「憎みあえば乱れる」ことを知りません。平和を本気で望んでいない者には、有権者から政治を任される資格はないと、私は思います。愛することをまず第一に心から望むことができない者は、愛情と思いやりのある社会への道を選べないと、私は思います。

●以下は、出典からの原文引用です。

■ 第十四 兼愛(けんあい)篇 上

一 聖人は世界を平和に治めることを、自分の任務とする者である。世界を平和に治めるには、必ず混乱の起こる原因をわきまえるべきであって、それでこそはじめて混乱を収拾できるのである。(略)

二 そこで、社会的な混乱が何を原因として起こるのかを考察してみると、それは他人を愛さないことから起こっている。君主や父親に対して臣下や子供が無礼(ぶれい)を働くのが、いわゆる混乱である。子はわが身を愛して父を愛さないから、父を犠牲にしてわが利益をはかり、弟はわが身を愛して兄を愛さないから、兄を犠牲にしてわが利益をはかり、臣はわが身を愛して君を愛さないから、君を犠牲にしてわが利益をはかる。これがいわゆる混乱である。ところがまた逆に、父が子に無慈悲であり、兄が弟に無慈悲であり、君が臣に無慈悲であるというのも、やはりひろくいわれている混乱である。父がわが身を愛して子を愛さないから、子を犠牲にしてわが利益をはかり、兄がわが身を愛して弟を愛さないから、弟を犠牲にしてわが利益をはかり、君がわが身を愛して臣を愛さないから、臣を犠牲にしてわが利益をはかる。これはどうしたことか。みな他人を愛さないことから起こっているのである。
 ところで、この世の中でどろぼうや障害を働く者があるということについてみても、やはり同じである。どろぼうはわが家を愛して他人の家を愛さないから、他人の家で盗みを働いてわが家の利益をはかり、人を傷害する者はわが体を愛して他人の体を愛さないから、他人のからだに傷害を加えてわが体の利益をはかる。これはどうしたことか。みな他人を愛さないことから起こっているのである。
 さて、また大夫(たいふ)たちが互いに相手の家を乱し、諸侯たちが互いに相手の国を攻撃するということについてみても、やはり同じである。大夫はそれぞれわが家を愛して他人の家を愛さないから、他人の家を乱してわが家の利益をはかり、諸侯はそれぞれわが国を愛して他国を愛さないから、他国を攻撃してわが国の利益をはかる。世界の混乱したことがらはすべて以上で尽くされる。これらのことがらが何を原因として起こるのかを考察してみると、それは、他人を愛さないことから起こっているのである。

三 もしも世界じゅうの人々がひろく互いに愛しあい、わが身を愛するのと同じように他人を愛するようにさせたならば、それでもなお無礼者が出るであろうか。わが身に対するのと同じように父兄や君主に対するのだから、無礼な振舞いをどうしてすることがあろう。さらになお無慈悲な人が出るであろうか。わが身に対するのと同じように子弟や臣下に対するのだから、無慈悲な振舞いをどうしてすることがあろう。だから目下の無礼や目上の無慈悲はなくなるのである。
 さらになおどろぼうや傷害を働く者が出るであろうか。他人の家をわが家と同じようにみなすのだから、だれが盗みを働こう。他人の体をわが体と同じようにみなすのだから、だれが傷害を加えよう。だからどろぼうや傷害事件もなくなるのである。
 さらに大夫たちが互いに相手の家を乱し、諸侯たちが互いに相手の国を攻めるという事態がまだ起こるであろうか。他人の家をわが家と同じようにみなすのだから、だれが相手を乱そう。他国をわが国と同じようにみなすのだから、だれが相手を攻めよう。だから大夫たちが互いに相手の家を乱し、諸侯たちが互いに相手の国を攻めるという事態もなくなるのである。
 してみると、もしも世界じゅうの人々をひろく互いに愛しあうようにさせたならば、国と国とは攻めあうことがなく、家と家とは乱しあうことがなく、どろぼうや障害もなくなり、君臣父子のすべてが慈悲深く恭順になれるのである。そして、このようであれば、世界は平和に治まるのである。そこで、聖人は世界を平和に治めることを任務とする者であるから、当然のことながら、人々の憎しみを禁止して愛することを奨励する。こうして世界は、ひろく愛しあえばよく治まるが、互いに憎みあえば乱れるのである。だから、墨子先生が「他人を愛することを奨励しなければならない」といわれたのは、このことなのである。

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。
  詩「十四歳。いのち、巣立ち。」から。
   「公園で ( 福島の同窓生に )」

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 戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。


 次回も、『墨子』の世界、「兼愛」を感じとります。


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『墨子』(二)。天志。あまねく平等に。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。

 今回の主題は、天志です。

 天志とは、天の意志、中国では古代から「天」という言葉で表わし伝え合おうとしてきた意味、概念を、他の諸民族の言葉で表わすと、「神」、「仏」、「自然」がもっとも近いと思います。
 次回以降に読み取っていく墨子の考え、世界観、社会観のよりどころとして、あらゆるものの上に、彼は「天」を指し示します。

 「天志(てんし)篇」で伝えられた『墨子』の言葉は、エッセイでみつめたルソー『エミール』の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の言葉と、美しく木魂しあっていると私は感じます。
(『墨子』紀元前400年頃中国、『エミール』1760年頃ヨーロッパ、今年2014年日本、時と地域を越えて、共鳴しあえるのが、人間の心、想い、文学の素晴らしさだと、私はいつも感じています。)

 墨子の言葉は、短く直接的で、比喩もとても単純です。考えを、ずばりと、投げかけてきます。例えば次の言葉のように。
 「天は正義を望んで、不正義を嫌うものである。」

 世界中の多くの宗教、信仰で語られている言葉、信仰はしていなくても生きた、生きている一人ひとりの人間が心に抱いている想いと、こだまする言葉だと私は思います。比喩も論証も必要ではなく、できることではなく、全く反対に「天は不正義を望んで、正義を嫌うものである。」と言うことすらできても。
 生きる姿勢に関わるからだと私は思います。生きようとするとき、天に正義をもとめ、天も不正義ではなく正義を意思していると、感じ、考え、望み、信じる、これが人間の心の深層にある、人間性の根幹そのものだと私は考えます。

 墨子の次の言葉は、とても美しくて、心に沁みひろがる、さざなみのように響きます。
 「天が世界じゅうの人々を愛しているというのはどうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々を照らしているからである。」

 人間には証明できないことであっても、「世界じゅうの人々を愛している」「あまねく平等に」と、宇宙、世界、社会を感じとろう、見つめようとする人、意思し生きようとする人間が私は好きです。私だけではないと思っています。

●以下は、出典からの原文引用です。

第二十六 天志(てんし)篇 上

一 墨子先生がおっしゃったことは次のようである。
 今日、世界じゅうの知識人は、目先のことはわかっていても大局を知らない。
(略)
 そこで諺(ことわざ)にも「この明るい太陽の下で罪を犯したなら、どこに逃れるところがあろう。どこにも逃避するところはないぞ」といわれている。そもそも天は、山林や渓谷の奥深い静かなところでも、人がいないから何をしてもよいということを許さない。天の明察は必ずこれを見ぬくのである。ところが、世界の知識人たちは、この天に対する場合にはうっかりして警戒することを知らないでいる。(略)

二 それでは、天はいったい何を望み、何を嫌うのであろうか。天は正義を望んで、不正義を嫌うものである。したがって世界じゅうの民衆を指導して正義に努力してゆけば、それで自分は天の望むことを行なっていることになる。こちらが天の望むことを行なっていくなら、天のほうでもこちらの望むことをしてくれるのだろう。(略)
 それでは、天が正義を嫌うというのはどうしてわかるのであろうか。それはこうである。世界じゅうに正義が行われていれば、すべてのものが生きていけるが、不正義であれば、死滅する。正義が行なわれていれば、すべてのものが豊かになるが、不正義であれば、貧しくなる。正義が行なわれていれば、すべてが治まるが、不正義であれば、乱れる。してみると、天は万物の生存を望んで死滅を嫌い、豊かになるのを望んで貧しくなるのを嫌い、治まるのを望んで乱れるのを嫌うのであって、そのことから天が正義を望んで不正義を嫌うということがわかるのである。

三 ところで、そもそも正義というのは、政(せい)すなわち人を治め正すことである。そして、下の者が上の者を治め正すということはなくて、必ず上の者が下の者を治め正すのである。(略)しかし、天子とてもなお自分の考えで人を治め正すことは許されない。天が上にあって、天子を正すのである。天子が、三公や諸侯から士や庶民に至るまで、すべての人々を治め正すということは、世界じゅうの知識人たちは、もちろんはっきり知っている。しかし、天が天子を治め正しているということになると、世界じゅうのすべての人々は、まだそのことをはっきりとわきまえることができないでいる。

四(略)天の意思にしたがう者は、ひろく愛しあい互いに利益を与えあうのであって、その結果はきっと天からの賞与を得るであろう。しかし、反対に天の意思にさからう者は、差別して憎みあい互いに損害を与えあうのであって、その結果はきっと天罰を受けるであろう。

五(略)
六 それでは、天が世界じゅうの人々を愛しているというのはどうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々を照らしているからである。では、天があまねく平等に照らしているというのは、どうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々を抱擁しているからである。では、天があまねく平等に抱擁しているというのは、どうしてわかるのか。それは、天があまねく平等に人々から食糧をうけているからである。では、天があまねく平等に食糧をうけているというのは、どうしてわかるのか。全世界の中で穀物を食べているほどの民は、お供えの牛や羊を飼い、犬や豚を養い、器に盛った供物や神酒を清らかに用意して、みな上帝鬼神をお祭りしているからである。
七(略)

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩「東北、恋。海と牛と少女にをこだまさせます。
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 戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
 
 次回からは、『墨子』の世界の核心、「兼愛」そして「非攻」をみつめていきます。


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tag : 詩歌 詩人 高畑耕治 墨子

『墨子』(一)。戦争を、戦国時代に、止めさせた人。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。全6回です。

 最初にいま『墨子』を読み返しながら、私が感じ想うことを書き記します。

 この数年、この国の政治屋の自己本位な暴言で、日本と中国、韓国の国家関係は歪み、政治本来の役割である対話と利害調整すら行なえなくなっている状態は悲惨です。私個人は大切な仕事をできない政治屋は早くやめてより優秀な人物にしたほうがよいと思います。
 ただ、いがみあう政治屋集団の言動はひどく矮小な言動で、有益なことを何も生まない衝突を、どちらの地にすむ大部分の生活者は望んでなどいないことを忘れずにいること大切だと思います。
 
 私が愛する文学も文化も、人為的で恣意的な国境などに遮られることも妨げられることもなく、交流し影響しあい、互いの良さを取り入れ育てあってきたことは、漢字、仏教を例に挙げるまでもなく明らかです。 

 もうひとつ忘れてはいけないのは、中国の戦国時代の諸子百家、たとえば性善説と性悪説に典型的にあらわれていますが、同時代のそれぞれの地域、民族、国家のなかにも、正反対の、対立しあう思想、考え方が入り乱れていることです。海と国境を隔てあう地にこそ、共感できる考え方、生き方があることのほうが多いとも思います。

 その例として私自身は、この国の厭わずにいられない暴言にさえ無感覚な政治屋よりよほど、中国戦国時代に生きた墨子の考え方、生き方に共感するし尊敬しています。彼の言葉が伝えられた『墨子』には、人類、地球のこれからを考えるときに教えられる豊かな可能性があります。
 民族を行き来して互いの独自性を讃えながら豊かにしあえるのは、文化です。何ものも生み出さない、政治、その最も無能で最悪の選択である戦争などでは決してありません。
文化は心を深め人生を豊かにする可能性ですが、誤った政治の袋小路にある戦争は破壊、そこに笑顔も未来もありません。

 前書きが長くなりましたので今回は、『墨子』のなかの、弟子が彼の言動を記録した「貴義篇」と「魯問篇」から二つの章を引用します。

1.貴義篇の言葉 

 前書きに記したように、「一国の大臣」も職業です。公約を実行する代理人として選ばれたのだから、約束とまかされた役目を、果たせなくなったとき、選んだ有権者が果たしていないと判断したときには、辞めて、約束を果たしうる者に代わるのは、あたりまえのことです。
 それを行なわない者はもう代理人としての信任をなくしています。ただ自分個人のためにしがみつくのは、社会にとって有害でしかないと私は思います。

2.魯問篇の言葉

 この章は、次回以降にとりあげる主題である「天志」と「非攻」について墨子の言動を伝えてくれます。

 「非攻」。戦国時代に墨子と彼が率いた墨家集団は、大国が小国に戦争を仕掛けるのを、この話のように実際に止めさせもしました。攻め込まれる小国の守備、防衛を請け負ったりもしました。
「非攻」を主題とする回に、より詳しく深く考えたいと思いますが、私は彼らの考えと行為によって、弱い立場の生活者、老人、女性、子どもたちが、殺されずにすんだのだから、素晴らしいことだと考えます。

 「天志」。次回に詳しくとりあげ考えます。この章を読んで私は思います。為政者、戦争を起こす者は、必ずもっともらしい大義、彼の主義主張を普遍的な正義「天の意志」に命じられたかのように、ヒロイックに演じます。けれど、そのことによってひき起こされた戦争に巻き込まれ、傷つけられ、殺された者にとって、どんなにもっともらしい大義であろうと、それは悪でしかありえません。
 わたしは他者に対して悪を行なって許される人間は誰一人としていないと思います。「戦争するしかない」という最悪の判断を演じることに拒否感覚さえ持たず、あらゆる方法を検討してよりましな戦争を回避する手段を見つけられないような、無能な政治屋は、はやく代えないと、社会に生活している一人ひとりの有権者にとって、有害だと思います。

●以下は、出典からの原文引用です。

■ 貴義篇から。

 墨子先生はいわれた。「世の中のりっぱな人々は、一匹の犬や一匹の豚の料理長を命ぜられた場合には、もしできなければそれを辞退する。ところが、一国の大臣を命ぜられた場合には、たとえできなくても引き受ける、なんと矛盾したことではないか」

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

■ 魯問篇から。

<解釈> 魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)が鄭国(ていこく)を攻めようとした。子墨子が聞いてこれを止め、魯陽の文君に言われた、今、魯陽の境内で、大都(だいと)が小都を攻め、大家が小家を伐ち、その人民を殺し、その牛馬、犬豚・布帛(ふはく)・米粟・貨財を奪ったとしたら、どうなさいますか、と。魯陽の文君が言われた、魯陽は四境の内みな私の臣下である。今、大都(だいと)が小都を攻め、大家が小家を伐ち、その貨財を奪ったとしたら、私は必ず重罰を加える、と。子墨子が言われた、そもそも天が天下を兼ね領有していることは、あなたが魯陽の四境の内を領有しているのと同様です。今、兵を出して鄭を攻めようとしておられるが、天の誅罰が下らないでしょうか、と。魯陽の文君が言われた、先生はどうして私が鄭を攻めるのを止めるのですか。私が鄭を攻めるのを止めるのですか。私が鄭を攻めるのは、天の志に従っているのです。鄭人(ていじん)は三代その父を殺したので、天が誅罰(ちゅうばつ)を加えて、三年勘不作続きにしたのです。私は天の誅罰を援助するのです、と。子墨子が言われた、鄭人は三代その父を殺したので、天が誅罰を加えて、三年間不作続きにしました、それで天の誅罰は十分です。今また兵を出して鄭を攻めようとして、自分が鄭を攻めるのは天の志に従うのであると言われます。たとえばここに人があって、その子が豪強で役立たずなので、父はその子を笞(むち)で打ったとします。隣家の父親が木を振ってまたこの子を打って、自分がこれを打つのはその父の志に従ったのだと言ったら、何と道理に合わないことではありませんか、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩「いま、ここでをこだまさせます。(作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

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 次回も、『墨子』の世界、まず「天志」を感じとります。

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ルソー『エミール』(最終回)真実なことを、善いことを。

 ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えてきました。
 どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。

 今回が最終回。ルソーが不信心について述べた箇所です。

 ルソーはここで、科学知識が積み重ねられるなかで、すべては科学で説明できるというような、科学的世界観に隠されている人為性と独断性について語ります。
 彼がゆるせないのは(私もですが)、彼らの多くが、「万物の真の原理としてわれわれにおしつけようとする。」ことです。

 以前、ニュートンの『プリンキピア』の言葉を引用したように、優れた本物の科学者は、科学にできること、できないことを知っています。人間にできること、できないことを偽りません。
科学は、自然現象を数値で体系的に「どのようにあるか」の表現する方法を発見し、より精緻にすることはできますが、それはあくまで人間による世界のひとつの見方に過ぎません。
 その現象の原因、「なぜ自然があるのか」についても科学が解き明かせるだろうというのは、根拠のない楽天的な主張、また別のひとつの信仰です。

 ルソーは、自然は、物質が無目的に組み立てられた固まり、とする科学信仰の独断性に隠された偽りと奢りがひき起こしていることを、次のように指摘します。
 この言葉は、ドストエフスキーが後期の長編小説群で語り続けたものと深くこだまして、私には聴こえます。

 「人びとの尊敬するものをことごとくくつがえし、打ちこわし、踏みにじって、彼らは悩める人びとからは彼らの不幸の最後の慰めをも奪い、権力者や金持からは、彼らの欲念をおさえる唯一の手綱を取りのぞいてしまう。彼らは人びとの心の底から罪に対する悔恨と徳行に対する希望を抜きとってしまい、しかもなお自分を人類の恩人だなどと自惚れている。」
 
 人間も動物です。個の生存のため、種の存続のため、他の生物と同じように、生存競争の世界に投げ込まれています。けれど、人間は、個の生存と種の存続のためだけに生きているのではない、と感じ考え、ちがう価値も抱いて生きてきました。「個の生存、種の存続」にそぐわず、犠牲とする場合であってさえ。
 ルソーが書くように、それができたのは「宗教的な動機」があったからだと私は思います。

 「宗教的な動機が、しばしば彼らが悪いことをするのを妨げ、そういう動機がなければあり得なかったような、徳行や賞讃に値する行動を彼からひき出せることは、疑えない。」

 文学を愛する私にとって痛い言葉ですが、ルソーの次の言葉もまた歴史を振り返ると事実だったと思います。文学は人間の心を、深く感じとり伝えあいますが、文学そのものは、人間のありのままを、「個の生存、種の存続」に明け暮れる姿を、描き出していたものです。

 「学芸が栄えたところではどこでも、人間愛がそのためいっそう尊重されることもなかったからだ。アテナイ人、エジプト人、ローマの皇帝、シナ人の残酷さがそれを証拠だてている。どんなに多くの慈悲深い行為が福音から生まれたことだろう。」

 そのようであった文学、叙事物語に、愛の感情を、愛の感情から芽吹く美の感情を、愛の感情が根ざす善と悪の葛藤を、注ぎ込み、文学を深め蘇らせてきたのは、宗教感情だと私は思います。
 逆に言えば、人間の魂を深くゆりうごかし感動を伝えてくれる本物の優れた文学には必ず、宗教感情が底流していて、愛と美が泉となってあふれだしています。

 ルソーの『エミール』の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、11回にわたって、感じとってきました。人間として生まれてさけてとおれない宗教について、私の経験と想いをふまえて、考えてきました。
 読み返してみて、やはり私は、ルソーがこの書物に勇気をもって書き記し伝えてくれた想いに深く共感する私をみつけます。
 最後に、私がこれからも忘れずにいたい、彼の言葉を、書き記します。

 「傲慢不遜な哲学が、不信心へとみちびくことは、盲目な信心が狂信へみちびくのと同様だ。この両極端はさけなくてはいけない。」

 「真実なことをいい、善いことを行なうのだ。」


● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。

 自然を説明するという口実のもとに、人の心のなかに、なげかわしい教義の種をまき、外見上は懐疑主義でいながら、その論敵たちの断乎とした調子よりも百倍も断定的で独断的な人びとを避けるがよい。自分たちだけが明識があり、真実をとらえており、善意があるという思い上がった口実のもとに、彼らはそのきっぱりした断定をいやおうなしにわれわれにおしつけ、彼らが空想にかられてでっちあげたわけのわからぬ学説を、万物の真の原理としてわれわれにおしつけようとする。
そればかりか、人びとの尊敬するものをことごとくくつがえし、打ちこわし、踏みにじって、彼らは悩める人びとからは彼らの不幸の最後の慰めをも奪い、権力者や金持からは、彼らの欲念をおさえる唯一の手綱を取りのぞいてしまう。彼らは人びとの心の底から罪に対する悔恨と徳行に対する希望を抜きとってしまい、しかもなお自分を人類の恩人だなどと自惚れている。

  原注九六:
 ある宗教を信じている場合、どんな人でもその宗教に一から十まで従っているわけではない。それは真実だ。大多数の人間はほとんど宗教を信じていないし、自分の奉じている宗教に少しも従っていない。それはさらに真実だ。しかし、結局のところ、ある人びとは一つの宗教を信じ、少なくとも部分的にはそれに従っている。そして、宗教的な動機が、しばしば彼らが悪いことをするのを妨げ、そういう動機がなければあり得なかったような、徳行や賞讃に値する行動を彼からひき出せることは、疑えない。

 (略)
 宗教というものが、いっそうよく知られてくると狂信は遠ざけられ、キリスト教徒の風習はいっそう温和になった。この変化は学芸のもたらしたものではない。というのは、学芸が栄えたところではどこでも、人間愛がそのためいっそう尊重されることもなかったからだ。アテナイ人、エジプト人、ローマの皇帝、シナ人の残酷さがそれを証拠だてている。どんなに多くの慈悲深い行為が福音から生まれたことだろう。
 (略)
 知識の乱用は不信仰を生みだすものだ。学者はすべて民衆の考えを軽蔑する。それぞれ自分だけの考えを持ちたがる。傲慢不遜な哲学が、不信心へとみちびくことは、盲目な信心が狂信へみちびくのと同様だ。この両極端はさけなくてはいけない。
 (略)
 真実なことをいい、善いことを行なうのだ。

出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社)

 ルソー『エミール』を感じとったエッセイの終わりに私の詩「星のささやきをこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。

 「宗教」、「神」、「信仰」、これらの言葉は、人類の汗と血と善悪と美醜に垢まみれとなっていて、とても重く感じてしまいますが、自然を、星を、人を、深く愛しているとき、心はおなじ方向に響いてゆく音色を奏でていると私は想うからです。

 次回からは、古代中国の諸子百家の一人『墨子』の言葉をみつめます。


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