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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(八)生のいとおしさ、厳粛さ

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとってきました。今回が最終回です。

 論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
(六の続き)

   ながめつる今日はむかしになりぬとも軒ばの梅は我をわするな  210(新古今・春上 五二)
  <ながめつる きょうはむかしに なりぬとも のきばのうめは われをわするな>

この歌は正治百首のもので、先にあげた

   いまさくら咲きぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな  210
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

と並んでいる。作者の死の前年の作である。「眺めつる今日」が昔になるということは、自分が死んでしまって今のことが過去になってしまうことである。「眺めつる」の「つる」は完了のあとの存続を表わす助動詞で、過去からずっと眺めつづけ、今も眺めているということであろう。「今日はむかしになりぬ」の「ぬ」も完了を表わす。現在をさらに過去化してみようとするのである。

 このような意識の流れにおいて捉えられる心理的時間は、相対的なものであり、有限なものである。「軒ばの梅」はそのような存在である自分よりも命が長い。その梅に「我をわするな」と呼びかけるのである。
 
 作者は梅の木を眺め、梅の木から眺められている自分を感じつづけてきた。梅の木にたえず語りかけ、おのれの心中も明かして来たであろう。いわば共生感をもってともに生きて来た梅の木に自分の死後を託そうとするのである。これも有限な時間からの超出とみてよいだろう。(出典引用1終わり)

☆ともに生きて来た梅の木に
 式子内親王の「ながめつる」の歌は、静かに、けれどとても強く心に響いてきて、忘れられなくなる歌です。それはなぜなのか、赤羽淑は、歌に込められふるえやまない内親王の思いを感じとり、とても丁寧な言葉で伝えてくれます。
 この歌には死への想い、死後への想いが、悲しく染み入っています。赤羽淑の次の言葉は、内親王の告白の声のように聞こえます。

 「眺めつる今日」が昔になるということは、自分が死んでしまって今のことが過去になってしまうこと。
 「軒ばの梅」はそのような存在である自分よりも命が長い。その梅に「我をわするな」と呼びかける。
  共生感をもってともに生きて来た梅の木に自分の死後を託そうとする。

 はるかな死後の永遠が、歌う「今」に流れ込んでいる、限りない悲しみの深さと、自分の短いけれどもかけがえのない生の時間をすぐそばでともに生き、心の会話を続けてきた、梅に、「我をわするな」、「わたしをわすれないで」、とうたいかけるこの言葉の姿にこそ、まぎれもなく、式子内親王の詩魂が込められているからこそ、いつまでも響きやまない、美しく愛(かな)しい歌の花が咲き続けてくれるのだと、私は感じます。

◎出典からの引用2

 このような共生感が根底にあるからこそ、

   今はとてかげをかくさんゆうべにもわれをばおくれ山のはの月  153(玉葉・雑五 二四九三)
  <いまはとて かげをかくさんゆうべにも われをばおくれ やまのはのつき>

と言い切ることができるのである。自分の最後のときもこのようにして自分を見送ってほしいと山の端の月に呼びかけている。

 自分の命の限りあるのに対して月は無限の存在である。その月に自分は今眺められていることを感じているからこのような歌を詠むことができるのではなかろうか。月の永遠性の中におのれのはかない生を同化させようとしたのであろう。永遠の時間をもつ月によって眺められている自己を意識する瞬間に、現実の時間を超出し、未来の時間を先取りすることができたのである。

 過去を潜在させ、未来を予持することのできる「今」は、それゆえ限りなく意味あるものとして眼前に立ち現われる。われわれはこれらの歌から無常感を感じるというより、生のいとおしさ、厳粛さのようなものを感じることができるのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆月の永遠性の中に
 赤羽淑がこの論文の最後に引いた式子内親王の「今はとて」の歌、ここにこれ以上ふさわしい歌はないと、私は思います。赤羽淑のいう、梅との、月との「共生感が根底にあるからこそ」、式子内親王の歌は、心を揺り動かします。

 内親王は生きていた時間ずっと、梅と、月と、ともにいると感じ、話しかけ話しかけられ、生きていました。梅や桜や月と話せる人が詩人です。だれもが無意識に詩心でしている、梅や桜や月との会話を、言葉にすくいあげ歌うのが詩人です。だれもがその歌に共感し心ゆれるのはそのひとの心も同じように話していることに気づくからです。

 「自分の最後のときもこのようにして自分を見送ってほしいと山の端の月に呼びかけ」、歌う内親王の歌は、誰もの心にひそやかに息をしている、悲歌です。内親王が言葉でその詩心を掬いあげふるわせるとき、それは、美しい、強く心をうつ、絶唱にまでたかめられました。

 内親王だからこそ言葉にできた「われをばおくれ山のはの月」という呼びかけは、とても優しく響きます。月のひかりのように。内親王がいつも月と会話していた密やかさで。

 赤羽淑が最後に書き記した言葉は、詩、歌、詩歌が、人間にとって、どのようなものであるのか、文学を愛する心がどのような姿であるのかを、静かに教えてくれます。

  過去を潜在させ、未来を予持することのできる「今」は、それゆえ限りなく意味あるものとして眼前に立ち現われる。われわれはこれらの歌から無常感を感じるというより、生のいとおしさ、厳粛さのようなものを感じることができるのではなかろうか。

 詩歌は、過去も未来も、今このときに響かせることができます。永遠の彼方まで馳せた想いを今ここで生きることができます。
 歌うこと、歌を感じることは、花や月や想うひとを、ともに生きてきた時を深く感じて、愛しつくすことそのものです。
 いのちを、いとおしく、厳粛に、感じて。美しく、愛(かなしく)、ふるわせ。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。


 次回は、詩想(五)です。


 

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tag : 式子内親王 赤羽淑 和歌 詩歌 詩人 高畑耕治

詩誌『たぶの木』別冊をHP公開しました。

 手作りの詩誌『たぶの木』10号(漉林書房)を、私のホームページ『愛のうたの絵ほん』に3月1日公開しました。
  
   詩誌 『たぶの木』 別冊(詩誌名をクリックしてお読み頂けます。)


 別冊内容
 田川紀久雄『遠ざかる風景』を読む  高畑耕治
 田川紀久雄未発表詩 「明日は晴れるのか」「生と死を越えて」  田川紀久雄

お読み頂けますと嬉しいです。


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tag : 詩人 田川紀久雄 高畑耕治 詩歌 たぶの木

赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(七)生きられる時間を「今」の瞬間に

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

今回も前回に続き、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 六
 年ごとに秋は廻ってくるが、その秋は昔の秋ではない。自分が変ったのだろうか。このような反問は、秋の来るたびにくりかえされたであろう。つぎの三首は、『三百六十番歌合』のもので、作者が四六歳から四八歳ごろに作られたと推定されている。

   ながらへばいかがはすべき秋をへて哀れをそふる月の影かな  403
  <ながらえば いかがはすべき あきをへて あわれをそうる つきのかげかな>

   ながめても思へばかなし秋の月いづれの年の夜半までかみん  404
  <ながめても おもえばかなし あきのつき いずれのとしの よわまでかみん>

   常よりもせめて心のくだくるはわれやは変る秋やことなる  405
  <つめよりも せめてこころの くだくるは われやはかわる あきやことなる>

 長生きすれば秋ごとの月がますます哀れを添えてゆく。このような体験はいつまで続くのだろう。たぶん死によって終りを遂げる日まで眺めることは止めないだろう。ここで取上げられる現在は、過去の思い出によって想いの深まるような現在である。(出典引用1終わり)

☆月がますます哀れを添えて
 式子内親王が四六歳から四八歳ごろに詠んだ、秋、月を主題とした美しい三首。私もその年齢を過ぎた今、その歌にも深く共感する想いを抱かずにいられません。
 赤羽淑が言葉にして教えてくれるように、私もまた生きてきたことで知ることができました。「秋ごとの月がますます哀れを添えてゆく」ということ、「たぶん死によって終りを遂げる日まで眺めることは止めないだろう。」ということ、「過去の思い出によって想いの深まるような現在」があるということ。

 「あはれ」を感じ、「かなし」と感じ、「心のくだくる」想いに生まれでる歌が、詩歌であること、文学であることを、この三首は、ゆりうごされる心に自然に響きだす共感をとおして、感じとらせてくれます。

これらの歌と言葉に、与えられた命の時間を、捨てずに、生きてゆくことで、感じとれるようになる想い、深まる感情は、たしかにあると、私はあらためて教えられ、謙虚な気持ちになることができます。

◎出典からの引用2
定家の歌にも、

   なにとなくすぎこし秋のかずごとにのちみる月のあはれとぞなる  (花月百首 六六一)
  <なにとなく すぎこしあきの あずごとに のちみるつきの あわれとぞなる>

という歌があって、過去が現在に滲透しながら深まってゆく円環的時間意識を詠んだものである。定家の歌はやや観念的であって、現在の視点も曖昧である。

 それに対して式子内親王の歌には、現実の体験的時間を起点にして、生きることができる時間にまで押し広げてみようとするのである。逆な言い方をすれば、生きられる時間を「今」の瞬間に凝集して直観しているのである。(出典引用2終わり)

☆生きることができる時間にまで
 赤羽淑は、藤原定家の全歌集も編んでいる、彼と彼の歌を深く知る人です。『定家の歌一首』というとても美しい本を書かれています。(次のリンクしたエッセイに書いています)。

   藤原定家の象徴詩

その本を通して知った彼の次の一首が私はとても好きです。

    秋の月なかばのそらのなかばにてひかりのうへにひかりそひけり

 ここに引用されている藤原定家の「なにとなく」の歌は、赤羽淑が言うように、私も観念が勝っている(理屈になっている)と感じます。

 対比されている式子内親王の歌、なかでも、「ながめても思へばかなし秋の月いづれの年の夜半までかみん」は、彼女の絶唱だと感じ、私はとても好きです。

 赤羽淑が教えてくれるようにこの歌は、「現実の体験的時間を起点にして、生きることができる時間にまで押し広げてみようと」しています。
「生きられる時間を「今」の瞬間に凝集して直観している」、まさにその通り、死を意識することで、「今」ある生、生きている今の瞬間を、夕陽の逆光を浴びるように、逆照射のなかで、燃やしています。

しずかな、月のひかり、死ぬときまでに会うことのできる月のひかりまで、重ねて、今あるこの歌に、輝かせ響かせています。
美しく愛(かな)しく心に響きつづけてくれる歌です。
 
出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。

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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(六)歌うことによって、世界につながる。

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

今回も前回に続き、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 五
 孤独な詩人は想念の世界で人を恋い、その思いを進展させている。それを忘れて、夕べになると人が待たれ、待つ人が来ないことが嘆かれる。そんな自分にふと気づいて

   わすれてはうちなげかるるゆふべかなわれのみしりてすぐる月日を  320(新古今・恋一 一〇三五)
  <わすれては うちなげかるる ゆうべかな われのみしりて すぐるつきひを>

と歌うのである。内的時間の持続と外的進行の時間の跛行(はこう)に気がつくのは夕べの時である。夕べは人を待ち、人の訪れる時刻である。伝統的なこの習慣が作者を現実の意識に引き戻す。そして歌うことによって内と外とのバランスをとるのである。(出典引用1終わり)

☆想念の世界で人を恋い
 式子内親王の恋の歌二首から紡ぎだされた、赤羽淑のこの五章の文章は、とても魅力的で、心に沁みるような想いがします。式子内親王の想いに、感情移入し、その人となって心のうちを告白しているかのようです。

「孤独な詩人は想念の世界で人を恋い、その思いを進展させ」、私もそのような人ですので、そうだと思い、
「それを忘れて、夕べになると人が待たれ、待つ人が来ないことが嘆かれ」、そうだと感じ、「そんな自分にふと気づいて」「歌うのである。」、そうだ、私もまたそのように歌う、と感じます。
 「そして歌うことによって内と外とのバランスをとるのである。」、私もそのように生きています、式子内親王もこのように、歌い、生きたのだと、共感を深めずにはいられません。

◎出典からの引用2
 たそがれの荻の葉風にも人が来たのではないかと驚く。

   たそがれの荻の葉風にこの比のとはぬならひをうちわすれつつ  186
  <たそがれの おぎのはかぜに このごろの とわぬならいを うちわすれつつ>

 心の中で進行している恋のはずであるのにふと忘れて荻の葉風に驚く、この瞬間は内的時間と外的時間が触れ合う時である。歌うことによって詩人は夢想から覚醒して世界につながることができるのである。そうでなければどこまでも想念の淵に沈み、意識の流れに押し流されてゆくであろう。

 たそがれの荻の葉風を聞いて思わず「とはぬならひ」を忘れ、つぎの瞬間に内的時間と外的時間の齟齬(そご)に気がつく。その時、純粋持続の重みを担う過去から解放されるのである。この瞬間に作者は意識の流れから現実に立ち戻り、同時に現実の時間からも抜け出ることができる。(出典引用2終わり)

☆内的時間と外的時間が触れ合う時
 赤羽淑は、式子内親王の、恋の歌、悲しみの想いの美しい歌をとおしてここで、詩歌の本質を捉え、気づかせてくれます。
 想念の世界で人を恋い、心の中で進行している恋、意識の流れ、詩歌はそのような内的時間と、現実時間、外的時間が、触れ合う時に、その異なる時間の交わりに、生まれでます。多くの場合それは、跛行(はこう)、ずれ、食い違い、齟齬(そご)に気がつくことです。

 だからあふれでる想いは悲しみの歌、悲歌です。けれども、人を恋い、愛する内的時間を源としているから、その想いがかなわない、悲しみであってさえ、悲しみであってこそ、愛と悲しみが歌に溶け合ってどこまでもいつまでも響いてゆくことができます。

 そのことを赤羽淑は、つぎのように、美しい言葉の結晶にして手渡してくれます。
 「歌うことによって詩人は夢想から覚醒して世界につながることができる」。
 現実の外的時間に、内的時間、純粋に持続する想念が、たとえ破られたときにさえ、破られることで、歌は生まれる。そのとき、詩人は歌によって、世界につながる。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(五)心は谷に投げはてて

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
今回も前回に続き、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
(三の続き)
 式子内親王は、「―行く」という表現をしばしば用いる。右の歌(前回引用)のほかに、

   のこり行く有明の月のもるかげにほのぼのおつるはがくれのはな  17
  <のこりゆく ありあけのつきの もるかげに ほのぼのおつる はがくれのはな>

   ながむれば月はたえゆく庭の面にはつかにのこる蛍ばかりぞ  28
  <ながむれば つきはたえゆく にわのもに はつかにのこる ほたるばかりぞ>

   槇のやにしぐれはすぎて行くものをふりもやまぬは木のは成るらん  58
  <まきのやに しぐれはすぎて ゆくものを ふりもやまぬは このはなるらん>

   くれて行く春の名残をながむればかすみのおくに有明の月  118
  <くれてゆく はるのなごりを ながむれば かすみのおくに ありあけのつき>
 
 「のこり行く」「たえゆく」「すぎて行く」「くれて行く」など、動作や作用などが引き続いて進行する意を表わし、これも時間概念を含む表現と言ってよかろう。眺める間も時間はどんどん侵入し、存在を否定なしにあらわにし、どこへともなく過ぎてゆく。その行方を追う視線が止まるものは、ほのぼのと散る葉隠の花であり、わずかに残る蛍である。時間への視線も、空間の場合と同じように、視線を住まわせるささやかな片隅を求めてやまないのである。(四は略)。
(出典引用1終わり)

☆「―ゆく」という表現
 赤羽淑は、式子内親王がしばしば用いた「―行(ゆ)く」という表現を感じとります。「どこへともなく過ぎてゆく。その行方を追う」「時間への視線も、空間の場合と同じように、視線を住まわせるささやかな片隅を求めてやまない。」その片隅は、葉隠れの花、蛍、木の葉、月、かすんだ、あわく、はかなく、繊細な感受性のふるえる、美しい世界です。
 私もひとりの詩人として「~ゆく」という言葉を好みます。ひらがなの「ゆ」の形、曲線の柔らかさが美しいこと、音の響き「YU」もやわらかく繊細なこと、「yUkU」母音Uウ音の重なり、連なりが美しいこと、さらに、進んで「行く」という意味と同時に、死んで「逝く」、消えてゆく、と言う意味が、はかなげくまとわれている、からです。
 式子内親王が、さまざまな言葉につなげ、「のこり行く」「たえゆく」「すぎて行く」「くれて行く」と詠んだときにも、これらのことを感じて使っていたと私は思います。内親王の「―ゆく」には、「どこへともなく過ぎてゆく」、「消えて逝く」という響きが聴こえます。そのように感じるのは私だけでしょうか?

◎出典からの引用2
 また式子内親王は「行くへも知らぬ」を好んで用いる。

   うき雲の風にまかする大空の行くへもしらぬはてぞ悲しき  98
  <うきぐもの かぜにまかする おおぞらの ゆくえもしらぬ はてぞかなしき>

   匂ひをば衣でとめつ梅の花行くへもしらぬ春風の声  108
  <においをば ころもでとめつ うめのはな ゆくえもしらぬ はるかぜのこえ>

   ながめつる遠の雲井もやよいかに行くへもしらぬ五月雨のそら  128
  <ながめつる おちのくもいも やよいかに ゆくえもしらぬ さみだれのそら>

   ながむればわが心さへほどもなく行くへもしらぬ月のかげかな  151
  <ながむれば わがこころさえ ほどもなく ゆくえもしらぬ つきのかげかな>

   しるべせよ跡なき波にこぐ船の行くへもしらぬ八重のしほ風  272(新古今・恋一 一〇七四)
  <しるべせよ あとなきなみに こぐふねの ゆくえもしらぬ やえのしおかぜ>
   
   秋はきぬ行くへもしらぬ歎きかなたのめし事は木のはふりつつ  344(続後撰・恋四 九一七)
  <あきはきぬ ゆくへもしらぬ なげきかな たのめしことは このはふりつつ>

 「行くへもしらぬ」のは、「浮雲」「春風」「五月雨の空」「八重のしほ風」などであり、「歎き」である。大自然の行方は何処へゆくのかわからないが、一方ではその運行に身を任せたいと願う。式子内親王の内向性と外向性の二律背反についてはすでに述べたが、忍ぶ姿と任せる姿の両方がその歌にはみられる。内密性の極限まで凝集してみるが、今度はそれを限りなく解放したいと志向する。過ぎゆくものに身を任せ、どこまでも行かせたいと希求する反面で行方もしれないということに不安と悲しみを感ぜずにはいられない。かの女はまた、

   日にちたび心は谷に投げはててあるにもあらずすぐる我が身は  93
  <ひにちたび こころはたにに なげはてて あるにもあらず すぐるわがみは>

とも歌うのである。(出典引用2終わり)

☆「行くへも知らぬ」
 赤羽淑は続けて、内親王が好んで用いた「行くへも知らぬ」、この言葉が込められた歌を感じとります。内親王が強い愛着を抱いていた言葉、内親王の心、想いを伝え響かせてくれる言葉、と言い換えてよいと思います。それだけに、ここにあげられた歌はどれも、内親王の絶唱、強く心に響く、痛く美しい悲歌です。

 赤羽淑が鋭敏に感じとっている、「過ぎゆくものに身を任せ、どこまでも行かせたいと希求する反面で行方もしれないということに不安と悲しみを感ぜずにはいられない。」、その想いを、さまざま詩想、、「浮雲」「春風」「五月雨の空」「八重のしほ風」「歎き」などに託し歌うことが、内親王が生きること、彼女の生き様だったのだと、心打たれます。

 赤羽淑が感じとった「忍ぶ姿と任せる姿の両方がその歌にはみられる。内密性の極限まで凝集してみるが、今度はそれを限りなく解放したいと志向する」、この矛盾と葛藤の強さからこそ、「日にちたび」の歌の不安と嘆きの谷の深さからこそ、歌が悲しく美しく、あふれだした、ほとばしりでたのだと、私も思います。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(四)過ぎゆくものを

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
 今回も前回に続き、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 三
 式子内親王の歌における時間には「今」を視点として眺める主体があることは、その詩的空間の原典に身体があり、身体が住みつく家があったのと同じ原理として考えることができる。眺めながら眺められる存在、閉ざしながら開かれた存在としての身体や家を詩的空間の中心に考えたのであるが、時間の場合には、今、この場所を原点として眺める視線の運動として表現されている。

   とどまらぬ秋をやおくるながむれば庭の木のはの一かたへゆく  55
  <とどまらぬ あきをやおくる ながむれば にわのこのはの ひとかたへゆく>

   さびしさは宿のならひを木のはしく霜のうへにもながめつるかな  59(玉葉・冬 九〇〇)
  <さびしさは やどのならいを このはしく しものうえにも ながめつるかな>

 ここに表現されている視線は一定の方向をもっている。それは秋の行方であり、季節の過ぎゆきである。
 このように時間の経過を現象の中に追う「ながめ」は、新しい視覚である。風によって一方へ散ってゆく木葉の方向は秋を見送る方向であり、木の葉の散り敷いた上に置く霜も時間の経過を示している。季節の運航を時間として捉え、表現したものであろう。

   くれて行く春の名残をながむればかすみのおくに有明の月  118(玉葉・春下 二八六)
  <くれてゆく はるのなごりを ながむれば かすみのおくに ありあけのつき>

   花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る  219(新古今・春下 一四九)
  <はなはちり そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 ここにも時間の経過を眺める視線が捉えた空間が表現されている。どこまでも見届けよう、眺めつくそうとする態度は、王朝の「ながめ」が半ばは外に、半ばは内に向けられた中途半端な視覚であったのとは一線を画する。(略)(出典引用1終わり)

☆今、この場所を原点として眺める
 赤羽淑は、式子内親王の四首に詠まれた「ながめ」を感じとります。私は、「式子内親王の歌における時間には「今」を視点として眺める主体がある」、「今、この場所を原点として眺める視線の運動として表現されている。」、このことが、歌に濃やかさと同時に強靭さを生んでいると感じます。

 「今」を強く意識し感じとる態度は、言い換えると、自分が生きている今、生き歌っている今に、集中し、燃え尽くそう、生き尽くそうとする意思の強さだといえるからです。
 時間の経過を現象の中に追う「ながめ」の主体として内親王は、「どこまでも見届けよう、眺めつくそうとする態度」で、意思で、感受性を研ぎ澄まし、より繊細に、より細やかに、感じとり、言葉を選び、美しい歌を生み出せたのだと、私は感じます。

◎出典からの引用2
 式子内親王の歌における視線は、一定の方向を追いながら、過ぎゆくものを見ている。

   いづかたへ雲井のかりのすぎぬらん月はにしにぞかたぶきにける  49
  <いずかたへ くもいのかりの すぎぬらん つきはにしにぞ かたぶきにける>

   かへるかりすぎぬる空に雲消えていかにながめむ春のゆくかた  120
  <かえるかり すぎぬるそらに くもきえて いかにながめん はるのゆくかた>

同時に過ぎゆくものとしての自分自身を直視する。

   春くればこころもとけて淡雪のあはれふり行く身もしらぬかな  4
  <はるくれば こころもとけて あわゆきの あわれふりゆく みもしらぬかな>

と、歌いながら、その視線は自分の上にも過ぎてゆく時間を眺めている。(出典引用2終わり)

☆過ぎてゆく時間を眺め
「今」を生きることに鋭敏な主体は、その今が、刻々と、過ぎゆく時であることを、いつの瞬間にも、感じずにはいられません。
 赤羽淑がここで捉えるとおり、内親王は「歌いながら、その視線は自分の上にも過ぎてゆく時間を眺め」ています。こころをひりひりとさせながら。どのような情景をみても、直接言葉にしなくても、歌を詠みながら、
「自分の上にも過ぎてゆく時間を」感じずにいられません。
 だからこそ、「過ぎゆくものとしての自分自身を直視する。」とき、その歌は、絶唱です。強く心を捉えられます。
 「春くれば」の歌は、あわゆきのようにすきとおるこころのかなしみが、美しいしらべになり流れすぎてゆく、いのちの清流のよう、私のとても好きな一首です。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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新しい3篇の詩「訪れ」「海」「卒業の日に」をHP公開しました。

赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(三)全身的な感性を視覚に

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
今回も前回に続き、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 二
   見るままに冬は来にけり鴨のゐる入江の汀うすごほりつつ  259
  <みるままに ふゆはきにけり かものいる いりえのなぎさ うすごおりつつ>

 これも「いま桜咲きぬと見えて」と同じ正治百首中の一首であるが、「見るままに冬は来にけり」という冬の到来を告げる上二句の表現にスピード感があり、「鴨のゐる入江の汀うすごほりつつ」という自然現象の変化を表わす下句は、冬の到来の具象化となっている。ここでも作者の目は高速度撮影のレンズのように対象の動きと変化を適確に捉えている。「見るままに」は、「見ているうちに」という主体の行為の継続を表わすと同時に、対象が「見る見る」変化する速度感覚も表わしている。末句の「うすごほりつつ」はそれを受けて見るまに薄氷が張ってゆく情景である。(略)

 この歌について諸注が参考歌としてあげているのが、『源氏物語』若菜上の「身にちかく秋やきぬらんみるままに青葉の山もうつろひにけり」である。これは紫上が女三宮の降嫁によってわが身の秋を感ずるという不安を詠じたものである。式子内親王の歌はこれに比較しても、視覚に即した時間意識になっている。存在の根底から影響を受けずにはおれない冷たく閉ざされた冬の到来を「入江の汀うすごほりつつ」とつき離したように表現している。対象との間に一定の距離を保っている。しかし、入江の汀に薄氷が張る現象を伴って、眺める存在としてのかの女の世界へ冬は否応なしに押寄せ、侵入して来る。(略)
 時間的な視覚が「見るままに」であり、(略)式子のものには全身的な感性を視覚に凝集したような緊張感と集中力を読み取ることができる。(出典引用1終わり)

☆視覚に即した時間意識
 赤羽淑はここで、歌う作者の「視覚」「まなざし」の動きを捉えることで、式子内親王の「時間意識」を探り、捉えています。私も式子内親王の「全身的な感性を視覚に凝集したような緊張感と集中力を読み取ることができる。」、その通りだと感じます。
「自然現象の変化を表わす下句は、冬の到来の具象化」ですが、この歌が叙景歌にとどまらずに、冬の心象風景にまで高められて感じられるのは、「対象との間に一定の距離を保っている」ことで、「冬の到来を告げる上二句の表現」へと逆流、遡行するような、冬の張り詰めた空気のような、緊張感に包まれるからだと感じます。

◎出典からの引用2
 「見るままに」と同じようなスピード感のある表現に、「ながむるままに」と「みるほどもなく」があげられる。
   久かたの空行く月に雲消えてながむるままにつもるしらゆき  150
  <ひさかたの そらゆくつきに くもきえて ながむるままに つもるしらゆき>

   夏の夜はやがてかたぶく三日月のみるほどもなくあくる山の端  30
  <なつのよは やがてかたぶく みかづきの みるほどもなく あくるやまのは>

 二首ともに、音韻の上からも速いテンポをもって、どんどん積る白雪やあっという間に明ける夏の夜を視覚によって捉えている。「夏の夜はやがてかたぶく」の「やがて」は、ある状態がそのままでつぎの状態に移ることで、時間的な移行が圧縮されて、瞬間からほとんど同時を表わすようになる。

   郭公なきつる雲をかたみにてやがてながむる有明のそら  224(玉葉・夏 三三二)
  <ほととぎす なきつるくもを かたみにて やがてながむる ありあけのそら>

郭公が鳴いた雲を見上げたが郭公はたちまち鳴き過ぎてそのまま有明の月を眺めたというのである。
(出典引用2終わり)

☆スピード感のある表現
 赤羽淑は「スピード感のある表現」を、「ながむるままに」と「みるほどもなく」と「やがて」の詩句を通して感じとっています。三十一文字の和歌、そのほかの短詩形文学は、短ければ短いほど、詩句の重みがまします。
 詩句が詩そのものとなってゆきます。散文の冗長性、言い換えの可能性の広さとは正反対です。
 優れた短詩形の詩歌は、詩句ひとつを選び取ることに「全身的な感性を凝集」させ「緊張感と集中力」で向きあうことから初めて生まれてくるのだと私は思います。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(二)時間と空間が織りなす模様

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 なお、「むなしき空」が霞や花に先立つものとして詠まれた歌に、

   かすみとも花ともいはじ春の色むなしき空に先づしるきかな  101
  <かすみとも はなともいわじ はるのいろ むなしきそらに まずしるきかな>

をあげることができる。「まだない空間」と、「もうない空間」を指示する「むなしき空」には、時間の経過を眺める視覚が感じられる。(略)(出典引用1終わり)

☆まだない空間
 赤羽淑はここで、式子内親王がひとつの詩句「むなしき空」で、先ほどの歌の「もうない空間」だけでなく、この歌のように「まだない空間」をも歌っていて、過去を今に、未来を今に、呼び込み孕みこみ溶かし込んでいることを教えてくれます。詩歌は、まだない未来、これから訪れる「霞や花」「春の色」をも、予感し、体感し、幻視し、思い描き、詩歌の「今」に孕み歌うことができると。

◎出典からの引用2
 刻々に移り変わってゆく時間と空間が織りなす模様を「むなしき空」に追いつづけ、その中にその時々のもの思いを移入して眺めてきたのである。

   はかなくてすぎにしかたをかぞふれば花に物思ふ春ぞへにける  12(新古今・春下 一〇一)
  <はかなくて すぎにしかたを かぞうれば はなにものおもう はるぞへにける>

と歌う時、これということもなく過ぎてしまった過去の「むなしい空」に浮ぶのは、あの年この年の花であり、あの思いもこの思いも花を介するものばかりである。作者は、花への思い出を数えることで、その時々の自己と対話し、花と共に生きて来た自己の実存をそこに見出すのである。はかない過去ではあるが花への思いで満ちた
時間であることが、「はかなくて」「はな」「はる」という「は」の音の反復によってもイメージ化される。(出典引用2終わり)

☆音の反復によるイメージ化
 赤羽淑はここで、彼女自身の「もの思いを移入して眺め」、式子内親王と交感し、内親王の心で眺め語っているように感じます。「はかない過去ではあるが花への思いで満ちた時間」、この言葉には、「花と共に生きて来た自己の実存」、慈しみ、愛する心が沁みとおって感じられます。

 詩歌は言葉の芸術、言葉の音楽、調べであることを理解し感受する彼女は、「は」音の押韻を、内親王がえらびかんじとり歌っていることを伝えてくれます。
 子音H音の息のかすれる音ほど、はかなさを感じる音はありません。意味、イメージと、音が、ふさわしく溶け合うとき詩歌はもっとも美しい花を咲かせると、私も思います。
 くわえて、この歌の抑揚の美しさを生み出しているのは、母音の変化です。「はHA」音を主音として、「かKA」音、「なNA」音、「たTA」音、「ばA」音、明るくのびやかな母音A音が波頭となり、他の母音i、u、e、o音の中間音、低音の沈む波間と、つぎのように美しく波うっています。

HAKANAkute suginisiKATAwo KAzoureBA HANAnimonoomou HAruzohenikeru
はかな(くて  すぎにし)かた(を) か(ぞうれ)ば はな(にものおもう) は(るぞへにける)

他の個性的な、K音やT音やS音、N音やM音も、美しく織り交ぜられ響いています。
 私のとても好きな一首です。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(一)この刹那に世界がはじけ

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

今回からは、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 一
 ある場所に動かずにじっとしている時、人は空間よりも時間を意識する。式子内親王の歌から浮かびあがる作者像は、あたかも固定したカメラのレンズのように、目の前を運動してゆく自然を眺め、四季の移り変わりを追う人である。この作者は、つねに「今」を視点として周囲の動きを捉える。

   いまさくら咲きぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな  210(新古今・春上 八三)
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

 新古今時代において、これほど尖鋭に「今」を意識した歌人があったであろうか。この歌における「今」とは桜が咲いたと直覚した瞬間である。時満ちて、この刹那に世界がはじけ、うす曇りの中に春の色が広がり、春の匂いが満ちてゆく。すぐ前ともすぐ後とも違う微妙な一瞬である。「いま咲きぬ」の「ぬ」は、現在において自然推移的な状態が確実に実現したことを表わしており、「見えて」はそれが視覚的に受像されたことを示している。しかし、それに先立って「世のけしき」が変ったことを気分として身体が感じとり、それを目でもって確認しようとしたのではなかろうか。(略)
 この歌の場合、「うす曇り春にかすめる」の「うす曇り」も花の予感を孕んで「春にかすめる」に先行する。両者は同時現象ではなく、その間に微妙な時の経過を表わしている。(略)

 「いま桜」という言葉が生々とした印象を与えるのは、そこに桜が咲いた今を直感する作者の鋭い時間意識が働いているからであろう。それはしかし、いつも眺めつづけ、待ちつづけて来た目だけが捉えることのできる瞬間であって、この意味では作者の主体的なあり方と密接に結びついた「今」である。桜の開花を告げる自然的時間と内面的持続の時間が合致した瞬間、どんより曇った世界がいっせいに気化して春の色に霞み渡ると同時に、過去の流れを引きずった現在の重い時間からも解放される。「うす曇り」と「春にかすめる」は心理的にも同次元ではない。この瞬間に心は広々と限りなく広がってゆく。(略)(出典引用1終わり)

☆この刹那に世界がはじけ
 赤羽淑がみずみずしい感受性で内親王の歌の清流を手のひらですくいあげたような、とても美しい文章が心に沁みとおります。
「この歌における「今」とは桜が咲いたと直覚した瞬間である。時満ちて、この刹那に世界がはじけ、うす曇りの中に春の色が広がり、春の匂いが満ちてゆく。すぐ前ともすぐ後とも違う微妙な一瞬である。」
 詩歌は、瞬間、刹那、一瞬を、とらえ、読みとるたびに、蘇らせ、息づかせ、咲かせてくれます。この歌を詠むたびに、その瞬間、桜が、心に、花開き、染めあげてくれます。
 次の認識も心にとても新鮮です。
 「桜が咲いた今を直感する作者の鋭い時間意識」は、「いつも眺めつづけ、待ちつづけて来た目だけが捉えることのできる瞬間」、「作者の主体的なあり方と密接に結びついた「今」である。」
「桜の開花を告げる自然的時間と内面的持続の時間が合致した瞬間」
この瞬間を感じとることには、静かだけれども確かな感動であり、生きていることを感じること、それが詩歌のゆたかさ、美しさ、喜びだと、私は思います。

◎出典からの引用2

   花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る  219(新古今・春下 一四九)
  <はなはちり そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 この歌は過ぎ去ったあとの時間を表現している。(略)花が散ったあとの「むなしき空」には花の残像が残っており、そのイメージと現実に降っている春雨の印象とが交り合った空間を想像させる。(略)「むなしき空」は花が散ってしまったあとの空の意で、たんなる虚空ではない。(略)式子内親王の歌は眼前を捉えている(略)。
式子内親王の歌は、大体において、現実の「今」を核として結晶するものが多く、そこから地味でしかも実感に裏づけられた歌風が生じてくる。(出典引用2終わり)

☆花の残像
 赤羽淑がこの歌から感受する詩の時空はとても美しく、「花が散ったあとの「むなしき空」には花の残像が残っており、そのイメージと現実に降っている春雨の印象とが交り合った空間を想像させる。」、花の残像のイメ-ジと降りかかる春雨の印象の交り合い、過去と現在の交錯、とても美しい情景が目の前に溶けだします。詩は時空を孕んでいると、伝えてくれます。
 続く認識にも私は深く共感します。内親王の歌は、「現実の「今」を核として結晶する」、「地味でしかも実感に裏づけられた歌風」。
 私が詩歌を創作するとき、その核に現実の「今」の結晶、「今」の感動だけを、歌の種とします。それこそが、歌のいのちだと思っています。「実感」という言葉のもつ、「日常性につながる」という弱い意味合いではなく、「確かに感じた、強く心、感受性に刻まれた」という意味合いの「実感」は歌の種です。それがない歌には生命力、魂が欠けています。内親王の歌には、その強く確かな「今」があり、そこを起点に、過去にも、未来にも、ゆたかに時間を孕む詩の世界が紡ぎ出されていると、私も感じます。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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