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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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新しい詩「わたしも一羽の」「あかし」「交わり、ふたり」をHP公開しました。

新しい詩「息、くちづけ ・くちづけ ・くちびる花びら ・ひとしずくに、あなたは」をHP公開しました。

詩誌『たぶの木』11号をHP公開しました。

詩想(九) 詩と文学4

 私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものを、詩想としてまとめています。

 今回は「詩と文学4」、私の率直な想いです。


頂いた詩論集を読みながら思うこと。
1 どんなグループに属したなんか、詩には関係ない。詩ほど、個に徹することでしかたどりつけない対話はない。それは社交グループの、おしゃべりから遠い、
2 わたしが詩を感じて、出会えて読めて、良かったと、思わずにいられないのは、
単純、純な言葉。どうしようもなく「ああ」と心揺れてしまう言葉、か、ただ静かにうつくしいとそめられ黙って感じていたい言葉。

 ☆

さかしらに気取る言葉ごっこ、哲学の真理があるかのような学者ごっこ、主義の押しつけ、お上への媚びへつらい、悪への無関心、真善美への鈍感なお遊びに、詩は感じない。

 ☆

ドストエフスキーから学んだこと。『作家の日記』の「強烈な印象」「心に焼き付いて消せない記憶」、あの長大な小説には必ずそのような核、種があり、そこから彼は育て上げていること。私も創作は自由であればいいと思いつつ、「強烈な印象」「感動」の種から芽生え咲くことだけが作品に命を授けると。


 ☆

目先の力金欲望を身内に奪いとるのに血眼で嘘ばかり平然とわめき争いを煽る政治屋がとても不快なのだけれど。
文学は目先の近視眼のさかしらな頭でとらえられるような狭い貧弱なものではないのだから。土ふかくのびてゆく根になり、古典、和歌の豊かさを吸い上げ心に沁みこませ伝えたいと読んでいます。


 ☆

ひとの心を馬鹿にするなと、いつも怒っています。
ひとの心に感動させられ種が宿り、詩が生まれます。

 ☆

創作は私にとってどんなものより充実した時間、なによりの喜びだからこそ心身を削り、苦しい。芸術の創作者ならあたりまえ。
同時に、作品を早く生み出したい、早く伝えたいという思いは絶えずあって、その声の強さに甘え負けたら、未完成のまま早産してしまうと、反省しつつ想い、創っています


 次回は詩想(十)心の軌跡3です。

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詩人・常山満と詩誌「ジュラ」(三)過去、現在、未来の詩人も。

 抒情詩人・常山満(つねやま・みつる、1947年~2012年)が創刊、発行した詩誌「ジュラ」に彼が情熱を込めて書き記した詩論、詩への想いを読み返して、私の共感と詩想をこだまさせています。その最終回です。

 今回は詩人・常山満が、詩誌「ジュラ」の第2号に記した「御意見に答えて」です。彼が創刊号で掲げた詩想に対する反響、意見に対して、踏み込んで彼の詩観を伝えようとした言葉です。
 まず出典から彼の言葉を引用し読みとり、呼び覚まされた私の言葉を続けます。

● 以下、出典からの引用です。

 御意見に答えて

(略)
 今もなお我々を感動させてくれる過去の詩人達の作品には皆それぞれ異なった生涯、異なった作品でありながら一つの共通点が見られます。それは人間が人間である限り、過去も現在も未来もない、生きざまの相違もない、永劫に共通して持ち合わせているところの、人間の魂の本質する心情をその作品に内蔵しているということです。この点は「詩の存在価値」でふれましたが、このことを考える時、人間の心には何らの進歩もありません。石器時代の人間も我々も千年後の未来人も全く同一であります。若し過去、現在、未来の人間の魂の本質する心情に変化が生じるとするなら、文学などなんになりましょうか?芸術など何の価値があるでしょうか?我々がアルタミラ洞窟の壁画に感動し、ベートーベンに心酔し朔太郎に共鳴するのは何故でしょうか?してみれば、過去、現在、未来の詩人も、その本質する魂は不変永劫であると言わねばなりません。故に全ての詩人のスタート地点もまた、我々も賢治もボードレールもヴェルレーヌも白秋も全く同一線上に並んでいるわけであります。そして全ての詩人の目指すゴールはただ一点です。「美の核心」です。一人の詩人のみならずあらゆる芸術家達の目指す極点です。それは結果として、いかに多くの観照者を感動させ得るかと言うことになります。
(略)
 純粋詩を端的に言えば朔太郎の言葉に尽きるのですが、補足すれば、詩人の感情を詩として誕生させる以上、それには感覚的な「美」が具備されていなければならないと言うことであります。ぼくがすぐれた生活詩やその他の純粋詩以外の詩をそれなりに評価しながら、なおなにか物足りなく不満を感じているのはこの点であります。人間にたとえるなら、これらの詩は皮膚を持っていないのである。どんな美人でも皮膚を剥ぎ取ったらただの化物である。(略)いつも世にもある流行の(実は常に脇役で時代遅れの)“現代詩”には殊にその傾向があると思うのです。この人間に於ける皮膚こそ詩に於ける「感覚上の美」であるのです。
(略)
   (一九八六年一〇月「ジュラ」第2号より) 
● 出典からの引用終わり。

 ここに書き記された常山満の言葉は、文学、詩歌の本質を照らし出していて、私は深く共感します。
彼は語ります、
 「今もなお我々を感動させてくれる過去の詩人達の作品には(略)一つの共通点が見られます」

 それは何か?
 「それは人間が人間である限り、過去も現在も未来もない、生きざまの相違もない、永劫に共通して持ち合わせているところの、人間の魂の本質する心情をその作品に内蔵しているということ」

 その通りだと思います。私が文学、詩を心から好きなのはだからだと。
言い換えると、今、文学、詩と向き合うことで、過去にも、未来にも、生きることができるといえます。これが文学の豊かさです。
 
 19世紀後半からの科学技術の急速な発達、進化論が受容されてきたこと、マルクス史観もそうですが、人間の一般的な思考形式にも影響を与え、多くの人が「ほとんどすべてのものは進歩する、進歩こそ優れている」という価値観に捉えられました。
 詩人と自認する人たちのなかにさえ、人間は進歩し、心は進化し、詩は進歩していると、錯覚が拡がりました。
 けれど私は常山満の次の言葉にこそ、囚われなく人間をみつめる眼差しがあると思います。
 
 「人間の心には何らの進歩もありません。石器時代の人間も我々も千年後の未来人も全く同一であります。」
 「我々がアルタミラ洞窟の壁画に感動し、ベートーベンに心酔し朔太郎に共鳴するのは何故でしょうか?」
 「過去、現在、未来の詩人も、その本質する魂は不変永劫であると言わねばなりません。」

 彼のこの言葉は、そのまま私の言葉です。詩、芸術の本質は、不変永劫な、感動する人間の魂です。

 「全ての詩人の目指すゴールは(略)「美の核心」です。一人の詩人のみならずあらゆる芸術家達の目指す極点です。それは結果として、いかに多くの観照者を感動させ得るかと言うことになります。」

 常山満は続けて語ります。不変永劫な、感動を、人間の本質的な魂を、呼び覚ましてくれるものは何か?
そのような文学、詩、芸術に必ずあるものは何か?

 「詩人の感情を詩として誕生させる以上、それには感覚的な「美」が具備されていなければならない」

 感覚的な「美」です。人間が感じとることができる、感じとりたいと願わずにはいられない、「美」です。
 だから、人間が生きている限り、芸術、文学、詩が絶えることはないと、私は思います。

 常山満は亡くなりましたが、彼はそのことを知っていました。彼はジュラ期の風を感じる詩人でした。彼の心に生まれた感動、詩が、よみがえる抒情の風にのり、未来に息づくことを私は願いやみません。

● 私のホームページで詩人・常山満の詩を三篇紹介させて頂きました。

  詩「ジュラの風 ( 時折ぼくは― )」「ジュラの風 ( 長い白壁の― )」「明日の為に」
                               (クリックでお読み頂けます)

出典:『新潟魚沼の抒情詩人 常山満』(編者・寺井青、2014年、喜怒哀楽書房)


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tag : 詩人 常山満 詩誌 ジュラ 寺井青 高畑耕治 抒情詩

新しい詩「瞳ふたつ」「あなたは月だから」「ひかりの花嫁」「黄の花ちょうちょ」「うぶ声」HP公開

詩人・常山満と詩誌「ジュラ」(二)独自の魂をうたい、万人の魂を。

 抒情詩人・常山満(つねやま・みつる、1947年~2012年)が創刊、発行した詩誌「ジュラ」に彼が情熱を込めて書き記した詩論、詩への想いを読み返して、私の共感と詩想をこだまさせています。

 今回は詩人・常山満が、詩誌「ジュラ」の創刊号に掲げた「詩の存在価値と現代詩」です。まず出典から彼の言葉を引用し読みとり、呼び覚まされた私の言葉を続けます。

● 以下、出典からの引用です。

  詩の存在価値と現代詩

   詩は詩壇の為に存在するものではない。
   詩は大衆の為に存在するものである。

 一般大衆の日常生活に於いて、詩はほとんど不必要である。詩は実生活に対して、何らの生活上の糧をも提供するものではない。心身共に健康な人々にとっては、詩はむしろ病的であって、不健全で有害であると考えている人々さえもある。
 しかし乍ら人生の本質を考える時、人間は皆、魂の深い奥底で拭い去ることの出来ない空しさと淋しさを持ち合わせている。
(略)
 時々我々は人生の本質に触れなければならないことがある。その時の空しさ、寂しさ、悲しさ、苦しさをどうすればよいのであろう。普段は振り向きもされない詩がこの時初めて人々の前にその存在価値を現わすのである。
 読者が詩の中に求めるものは“自分”である。自分の心に潜む、潜在的魂の本質である。自分自身を詩の中に発見することだ。何故自分がこんな感情になっているのか、しかもその感情をどう処理してよいか解らない時、詩を読むことによって、その詩の持つ不思議な雰囲気が読者の心情を明示してくれた時、即ち自己と同一の心情をその詩に感じ取った時、その詩がその読者にとって初めて詩の価値を発揮した事になるのである。詩はその読者と一緒になって悲しみ、苦しみ、嘆き、淋しみ、そして慰め、勇気づけて、即ち心の糧となるのである。
(略)
 してみれば詩の社会的必要論(有用性)の見地からすれば、詩人はいかに多くの人々の心の糧となり得る詩を生み出すことが出来るかどうかと言う点に究極する。一人よりも二人、二人よりも三人、さらには一地域、一世代を超えて、時代を超越して、半永久的に人々の心に感動と、勇気と、慰めとを与えることが出来るかと言う事だ。その為には、詩人は独自の魂をうたうことによって、即ちそれが万人の魂をうたうことにつながらなければならない。即ち全ての人間の魂に潜在する本質の真理を詩に具備しなければならない。それなくしてどうして万人の心を動かすことが出来ようか。
(略)
(一九八六年七月「ジュラ」創刊号より)
● 出典からの引用終わり。

 詩誌「ジュラ」の創刊号に掲載しただけに、とても力のこもった文章です。常山満という抒情詩人が、ものごとの本質にまなざしを注がずにはいられない人であったことがとてもよく伝わってきます。

 冒頭の次の彼の言葉、私も詩はこのようなものだと考えていて、深く共感します。

 「一般大衆の日常生活に於いて、詩はほとんど不必要である。詩は実生活に対して、何らの生活上の糧をも提供するものではない。心身共に健康な人々にとっては、詩はむしろ病的であって、不健全で有害であると考えている人々さえもある。」

 詩はこのようなものです。詩歌、文学は心の海、心の森なので、さまざまな波の音楽、風の音楽を奏でてくれますが、本質を求めずにはいられない心性が根幹にあるので、歌謡、ミュージック、ポップスのように陽性、向日性がその基本ではなく、そのような健康なものまで含みつつも、より奥深い「病的な」宇宙の彼方までひろがっています。

 つづけて常山満は、詩のもう一面の本質をみつめ語ります。
 「読者が詩の中に求めるものは“自分”である。自分の心に潜む、潜在的魂の本質である。自分自身を詩の中に発見することだ。」

 とてもあたりまえだけれど文学、詩の根本にあること、読者は読むことで「自分を」、「自分の心を」探す心の旅をしているということ、誰のためにでもなく、作者のためにではなく、ただ自分自身のためにです。あくまで個人の意思による、強制によらない、自由な行為です。だからこそ、その行為の時間は、読者自身が確かに生きていると感じとれる時間です。

 その旅が疲れるだけのものか、どのようなものかは、その時間を生きることでしか、見つけられませんが、最良な旅であったとき、感じとれるもの、見つけられるものについて彼は語ります。

 「詩を読むことによって、その詩の持つ不思議な雰囲気が読者の心情を明示してくれた時、即ち自己と同一の心情をその詩に感じ取った時、その詩がその読者にとって初めて詩の価値を発揮した事になる」

 詩の価値。ほとんどいつも「不必要な」「病的な」詩だからこそ、孕んでいて、見つけることができる価値。

 「詩はその読者と一緒になって悲しみ、苦しみ、嘆き、淋しみ、そして慰め、勇気づけて、即ち心の糧となる」

 それは、「心の糧となる」、このことに尽きると私も思います。
 最後に常山満は、詩の読者としての視点から、詩人、詩を生み出す者の一人としての立場にもどり、詩の価値が生まれ出るのはどこからか、その泉の源にまなざしを注ぎ、自分自身に言い聞かせます。
 彼がここに記した言葉は、詩人としての私が、創作において、絶えず言い聞かせている想いそのものです。

 「詩人は独自の魂をうたうことによって、即ちそれが万人の魂をうたうことにつながらなければならない。即ち全ての人間の魂に潜在する本質の真理を詩に具備しなければならない。それなくしてどうして万人の心を動かすことが出来ようか。」

 常山満は、深く詩の本質をしる詩人だと私は思います。

● 私のホームページで詩人・常山満の詩を三篇紹介させて頂きました。

  詩「ジュラの風 ( 時折ぼくは― )」「ジュラの風 ( 長い白壁の― )」「明日の為に」
                               (クリックでお読み頂けます)

出典:『新潟魚沼の抒情詩人 常山満』(編者・寺井青、2014年、喜怒哀楽書房)

 次回も詩人・常山満と詩誌「ジュラ」をみつめます。

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tag : 詩人 常山満 詩誌 ジュラ 寺井青 高畑耕治 抒情詩

詩人・常山満と詩誌「ジュラ」(一)。抒情を、詩を。

 私のホームページで詩人・常山満(つねやま・みつる、1947年~2012年)の詩を三篇紹介させて頂き、彼の詩と詩誌について言葉を添えました。
 今回からの三回、常山満が創刊、発行した詩誌「ジュラ」に彼が情熱を込めて書き記した詩論、詩への想いを読み返して、私の共感と詩想をこだまさせます。

 初回は詩人・常山満が、詩誌「ジュラ」の創刊号に掲げた「創刊に寄せて」です。まず出典から彼の言葉を引用し読みとり、呼び覚まされた私の言葉を続けます。

● 以下、出典からの引用です。

  創刊に寄せて

 我々が世界に誇る日本の代表詩人達は、皆秀でた抒情詩人であった。それ故にまた、彼等を代表する詩作品も、読者の心深くに入り込んで感動させないではいられない。超一級の素晴らしい抒情詩であった。
 然るに近年の現代詩、詩の本質すべき抒情性を否定し、詩の概念を破壊し、定義を拡大解釈し、詩の門戸を開放して、似而非詩を増大させている。即ち、韻文を排して散文に走り、詩の第一義を忘れ、その意匠性ばかりを追い回している。かくの如き似而非詩が氾濫するを以って、恰も詩が大衆化し、詩の興隆期を迎えたかの如く錯覚し、その実、真の抒情詩と抒情詩人が、絶対多数派の暴力によってその姿を埋没させられている詩壇の現状は、見るに耐えない惨状であって、正しく絶望的な詩の低迷期であると断言せざるを得ない。
(略)
 あえてこの小冊子を日本抒情派と副題して心ある抒情詩人諸兄の奮起を望むものである。
 ここに、敬愛してやまない偉大な先人の言葉を掲げて、抒情詩のなんであるかを端的に表記して小誌の指針とする所存である。

  詩の表現は素朴なれ
  詩のにおいは芳純でありたい
       ―萩原朔太郎―
                      
(1986年7月「ジュラ」創刊号より)  
●出典からの引用終わり。

 私は『新潟魚沼の抒情詩人 常山満』に収録された常山満のこの文章を読んで、共感する気持ちは少しも変っていないことを知ります。常山満と出会い詩誌「ジュラ」を読んだ1980年代から1990年代、(今もあまりかわりませんが)、彼が記したように私も「詩の低迷期」にいる、氷河期にいると、感じていました。

 それなりに、商業詩誌が売れているようにみえても、そこに私は詩があると感じませんでした。
いろんなかたちの表現があってよいし、表現の模索は創作にとってあたりまえのことだけれど、そのことと、流行、新奇性は同じではありません。
 なぜ、詩を感じなかったのか。それは同じように感じていた常山満がここに書き記している言葉がその根本を捉えています。私の想いに重ねて彼の言葉の糸を紡ぐと、彼の声が聴こえる気がします。

 「日本の代表詩人達は、皆秀でた抒情詩人(略)。代表する詩作品も、読者の心深くに入り込んで感動させないではいられない(略)超一級の素晴らしい抒情詩。」

 とても基本で大切なことなのですが、詩を読んで「いいな」と感じとれる心の感受性をもつ詩が好きな人は、「感動」します。詩の言葉に「うつくしいもの」を感じます。だから詩を読みます。

 そうであるのに、その当時から今も、商業詩誌の村民、詩壇の主流を自他共に認め合う方々は、

 「近年の現代詩、詩の本質すべき抒情性を否定し、(略)韻文を排して散文に走り、(略)その意匠性ばかりを追い回している。」

 詩であることの本質である、感動と「うつくしいもの」、抒情、こころと言葉の韻律、これを否定したり軽んじたりできると考えられる人は、知的に言語を操作する能力があったとしても、詩をしり、詩を愛する人だとは、私には思えません。
 抒情の否定。叙情性との決別。伝統からの屹立。現代の詩。
 かっこよく響くうたい文句のようで、自らを目立たせるために他を貶める姿勢、その驕りを、私はよく思いません。詩を貧しくし、根無し草とし、醜くし、枯れさせ、破壊することを、詩を愛する人にできるでしょうか? 

 常山満は萩原朔太郎の言葉をとおして「抒情詩のなんであるかを端的に表記して小誌の指針」としました。
 詩の本質への愛情にみちた言葉です。
 「詩の表現は素朴なれ/詩のにおいは芳純でありたい―萩原朔太郎―」
 
 常山満の詩からは、朔太郎への共感と、朔太郎の影響が、にじみだしています。
私が好きな彼の詩、詩「 ジュラの風 ( 時折ぼくは― )」、詩「ジュラの風 ( 長い白壁の― ) 」、詩 「明日の為に 」は、素朴な表現であり、芳純な抒情です。

  詩「ジュラの風 ( 時折ぼくは― )」「ジュラの風 ( 長い白壁の― )」「明日の為に」
                                     (クリックでお読み頂けます)

 美しく、心に響く、このような言葉こそ、詩です。

出典:『新潟魚沼の抒情詩人 常山満』(編者・寺井青、2014年、喜怒哀楽書房)

 次回も詩人・常山満と詩誌「ジュラ」をみつめます。

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tag : 詩人 常山満 詩誌 ジュラ 寺井青 高畑耕治 抒情詩

新しい詩「さくら、さようなら」をHP公開しました。 

お詫びと反省。
 昨日4月13日に公開しました詩「さくら、さようならの」を、改稿し詩「さくら、さようなら」として、公開しました。推敲不足のままフライングで公開しましたことを、お詫びします。反省しつつ、よくなったと思います。お読みくだされば、嬉しいです。


 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「さくら、さようなら」を、公開しました。
(クリックでお読み頂けます)。

    詩「さくら、さようなら


お読みくだされば、とても嬉しく思います

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新しい詩「赤い星、憧れの」「四月、ランドセル」「すみれに」をHP公開しました。

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