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高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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新しい詩「みどりに」「五月、愛する花に」「しあわせ」「しあわせいろ」「ひと」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」の「虹 新しい詩」と「野の花・ちいさなうた」に
新しい詩の花を公開しました。
                              (クリックでお読み頂けます)

「虹 新しい詩」

 「みどりに」

 「五月、愛する花に」


「野の花・ちいさなうた」

 「しあわせ」

 「しあわせいろ」

 「ひと」


お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。


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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた 絵ほん

『詩学序説』新田博衛(七)モダニズム詩、いわゆる「現代詩」の言葉遊び。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、新しい世界解釈、比喩についての考察の続きです。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。

(略)サッポオ、断片九十六
  (大意)いまや、あの娘(こ)は、リュディアの女たちのあいだで、
  際立った存在です。ちょうど、日が沈むと、
  薔薇色の指をした月が
  すべての星を圧倒するように。

 比喩は、言語における詩的動向の顕在化したものである。それは、一篇の詩に匹敵する表現のエネルギーと構造とを、つねに内包している。(略)
 月は、ここでは、「薔薇色の指をした」(略)と形容されている。(略)「月」と「薔薇色の指」との組み合わせはいかにも奇妙であり、月が赤い色をしている、と考えるにせよ、月が日没時の空の赤さを分有している、と考えるにせよ、(略)いきいきした意味を失なっている。このことは、われわれに、比喩の性質について次のようなことを教えてくれる。
 すなわち、比喩(ここでは天体の擬人化)は、それが芽生えた詩的土壌から離れて、例えば“日”から“月”のように正反対のものに適用されうるほど自立的になりうると同時に、まさにそのゆえに、陳腐な常套句に堕する危険をつねに孕んでいる、と。
 詩的表現の純粋結晶体としての比喩は、あらゆる言語表現のなかへ――他の比喩のなかへさえも――投入されて、ごく微量でその言表を詩趣に富んだものに変える力をもっているのであるが、それだけに、もとの土壌から切りはなされたものに特有の脆弱さを遺憾なく具えているのである。     ●出典の引用終わり。

◎著者はここで、「比喩」の他の一面の姿を捉えています。
 言葉が言葉を呼び合い結びつけられた詩句である比喩は、「自立的になりうると同時に、まさにそのゆえに、陳腐な常套句に堕する危険をつねに孕んでいる」。
「詩的表現の純粋結晶体としての比喩は、(略)もとの土壌から切りはなされたものに特有の脆弱さを遺憾なく具えている」。
 その通りだと思います。ひと言でいうと、詩がただの「言葉遊び」に陥る原因ともなる、ということです。
 このとき、「言葉遊び」であるかどうかは、用いられる言葉が、難解なものか平易なものか、にはよりません。また、新奇なものか歴史を経たものか、にもよりません。
 前回も記しましたが、私がモダニズム詩やいわゆる「現代詩」を好きでないのは、「難解な言葉」「新奇な言葉」を繋ぎ合わせる無味乾燥な「言葉遊び」に溺れているのが陳腐で脆弱で、詩の美しさ豊かさを貶めていると感じてしまうからです。

●以下は、出典からの引用です。
 「他の物の名を移してくること」という、アリストテレスの比喩の定義は、(略)新らしい事態にたいする名を、アナロギー(類推)によって、既成の言語表現から導き出してくること、と解されることができる。
 これを、言語の側からいえば、比喩とは、言語が、アナロギーを力として、つまり、自分自身の力によって、命名の範囲を拡げてゆく過程、を指すことになる。
 われわれの用語にひるがえして言えば、それは、言語そのものの力による新らしい世界解釈の成立、ということになろう。
 ただし、言語にこの力を発揮させるのは詩人であり、彼はそのための洞察力を持たねばならない。

 われわれは、いまや、この断片九十六からの例を、安んじて、アリストテレスの比喩論の枠内で扱うことができる。
 それは、アナロゴンによる比喩の一種であり、当該の娘のリュディアの女たちにたいする関係は、目立ち、凌駕している点において、月の星々にたいする関係に等しい。サッポオの天才は、娘の美しさと月の光という似ていないものの中に、他を圧倒する、という似ているものを看取し、一箇の直喩を形成したのである。
 ここから、「のように」という説明部分を省けば、当該の娘を“リュディアの月”と呼ぶような斬新な表現が比喩として成立する。比喩であれ、直喩であれ、こうした表現の中には、一般に、既成の言語表現からアナロゴンによって導き出された、新らしい事態にたいする名が含まれており、それは、言語の側からいえば、言語自身の力による命名範囲の拡張、新らしい世界解釈の樹立なのである。      ●出典の引用終わり。

◎著者はここで、比喩についての考察を要約しています。
 比喩は「言語そのものの力による新らしい世界解釈の成立」です。このことを繰り返したうえで、根本的な次の言葉を記します。
 「ただし、言語にこの力を発揮させるのは詩人であり、彼はそのための洞察力を持たねばならない。」

 サッポオが紡いだ詩句に息している「あの娘」を、比喩で“リュディアの月”と新しく呼ぶとき、娘は私の心に新しく生まれ変わり月のひかりで輝いてくれます。そのような表現に出会うたびに、私は詩をますます好きになっていきます。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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tag : 詩人 高畑耕治 新田博衛 詩学序説 赤羽淑

『詩学序説』新田博衛(六)新しい世界解釈。 “比喩”。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、「比喩」が新らしい世界解釈であることについての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。

(略)サッポオは、断片九十六の中で、或る娘の儕輩(さいはい)に抜きん出た美しさを、星々にたいする月に喩えている。略)
  (大意)いまや、あの娘(こ)は、リュディアの女たちのあいだで、
  際立った存在です。ちょうど、日が沈むと、
  薔薇色の指をした月が
  すべての星を圧倒するように。

 ここには、二つの言表がある。「彼女は女たちの中で目立っている。」と、「月は星を凌ぐ。」と。両者が、「のように」(略)によって結びつけられているわけである。
 すべての言語表現は、ひとつの世界解釈であった。詩も言葉からその意味を奪うことができないかぎり、やはり一つの世界解釈であって、単に純粋な音の戯れではない。そうすると、ここには、言葉に定着された世界像が二つ、内容的にはまったく別々でありながら、やはり言語を媒介として一つに繋がれていることになる。
 ひとつの言語表現の背後には、かならず、その表現の原点があった。この場合の原点はサッポオという詩人自身であり、それは、二つの世界解釈に共通である。
 そうすると、ここに見られる、一つの言表から他の言表への唐突な飛躍の裏には、同一の原点の移動、ないし進展があることになる。両方の言表は、それぞれ、「彼女」と「月」という三人称を主語としているのであるから、もちろん、原点の存在は言表の表面にそのまま現われてこない。 
 これが、他の主語の存在によって覆われず、素直に顔を出すのは、どちらの言表にも属さない不変化詞(「のように」)においてである。「のように」の中に、サッポオの自我が直接に投影されているわけである。(略)    
 これが、サッポオの自我の屈折を反映して、表現エネルギーの収斂点となり、二つの世界解釈を自分のほうへ引きよせる。しかも、これら両方の世界解釈の各々において、文の統制力はすでに弛んでしまっているのであるから、諸々の語はそれぞれ勝手に(「のように」)へ向って移動を開始し、それぞれ自分と等質的な相手をみつけて、それと癒着する。
「彼女は目立っている。」(略)と「月は優越している。」(略)。「リュディアの女たちのあいだで」(略)と「すべての星に」(略)。
 かくて、当該の娘を“リュディアの月”とするような、第三の世界解釈が成立することになる。   ●出典の引用終わり。

◎著者は古代ギリシアの女性の抒情詩人、サッポオの詩行を見つめ感じとっていきます。サッポオは私も遥かに仰ぎ見て尊敬し愛する詩人ですので、作品に即したここでの著者の叙述は、私の心にとても響きます。
 まず、著者のいう次の言葉は大切だと私は思います。「すべての言語表現は、ひとつの世界解釈であった。詩も言葉からその意味を奪うことができないかぎり、やはり一つの世界解釈であって、単に純粋な音の戯れではない。」
 詩はもっとも音楽的な言語表現ですが、それでも言葉は「意味」をもち、世界解釈」であり、「音の戯れ」ではありません。日本ではモダニズム詩以降のいわゆる「現代詩」まで、言葉の「意味」と「世界解釈」であることを軽視し酷い者は蔑視し、無意味に戯れる流行がありますが、私はそこに本来の詩を感じません。

●以下は、出典からの引用です。
 しかしながら、この新らしい世界解釈はその成立の過程からみて、あきらかに前二者と性質を異にしている。前二者は、ひとまず文のかたちで提出されていた。言いかえれば、サッポオという原点から遠近法的に捉えられた世界像が、語の品詞機能を使って定着されていた。そこでは、自己還帰によっていちじるしく減殺されているとはいえ、表現主体のエネルギーが文と語の二元性を支えていた。
 第三の世界解釈においては、これに反して、表現を成立させているエネルギーは、原点からではなく、言語そのものから来ている。いわば、言語自体が勝手に動いて、「月」と「彼女」とを同一化してしまうのである。
 表現主体は語(「のように」)によって、この同一化への引金をひくだけで、あとの成行を言葉に任せている。サッポオが言語を操っているのではなく、言語が言語に物を言わせている。
もちろん、引金をひいたのはサッポオであり、語(「のように」)は、言表全体の内部で、副詞というまぎれもない品詞機能を果している。この意味では、新らしい世界解釈の成立も、前二者のそれと同じく、やはり言語表現の内部における出来事である。
 しかし、前二者が潜在的に含んでいた動向、文と語との二元性からの言語の離脱という動向を、第三のものは、顕在的にひとつの過程としてわれわれの眼の前に繰りひろげてくれるのであり、かくして成立した新らしい世界解釈を、われわれは“比喩”という特別の名で呼ぶのである。  ●出典の引用終わり。

◎「新しい世界解釈」、とても美しい言葉だと感じます。
 ここには、言葉が言葉を呼び合い、交わり、結ばれ、「第三の世界解釈が成立する」過程、詩の秘密とでも呼ばれるべきものが鮮やかに描き出されていてとても魅力的です。
 「新しい世界解釈」、新しく、視えてくるもの、初めてこの世界に感じとれるものが、言葉が紡がれ、詩句となり、詩となることで、生まれる。
 感受性、こころが、ゆたかになり、目が洗われるように、目覚めの朝のように、世界が新しくまぶしく、感じられる。
 だからこそ、詩は書かれ、読まれるのだと、私は思います。


●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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tag : 詩人 高畑耕治 新田博衛 詩学序説 赤羽淑

新しい詩「だから」「くるりと」「声」「ときめき」「朝焼けうすもも」をHP公開しました。

『詩学序説』新田博衛(五)主観的な体験の真実性。詩を芽吹かせる感動の種。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、詩という矛盾を孕んだ表現行為についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
 詩の言表主観は詩人の自我と同一であり、そこから切り離すことができない。これは、詩の言葉が言語表現一般の言葉と同一であり、単語の意味についても、構文論的規則についても、詩以外の言葉と外見上は見分けがつかなかったのに対応している。(略)
 しかしながら、生身の人間としての詩人が純粋に体験伝達だけを意図して言語表現を行なったとして、それだけで、はたして詩が成立するかどうかは疑わしい、と言わねばならない。
 詩の言表内容が、(略)「主観的真実性」としてのみ受け取らるべきものであるにせよ、その主観的真実性は、相対的な主観―客観極の内部に位置を占めている詩人の自我によっては表明されえないであろう。
 なぜなら、そこにおいて語られた言葉は、それを語る主観の意思に関係なく、言語表現一般の構造にしたがって、自動的に客観的世界の解釈と見做され、真偽の検証を受けざるをえないからである。(略)     ●出典の引用終わり。

◎今回の箇所も、かなり観念的な考察のように感じますが、私なりの言葉で考えてみます。詩は日常の言葉を用いて創られますが、前回みたように、詩は客観的な世界解釈ではありません。科学のように世界を厳密に「説明」しようとする試みではありません。いくら未来に科学が進歩しても人間がいることの理由、意味を人間には科学の言葉で解読し説明することは不可能だという、あきらめ、絶望、沈黙にたちどまり、それでも言表しよう(表現し伝えよう)とする人間の言葉による表現です。
 この箇所で著者は、詩人が生身の人間としてただ「主観的真実性」を述べただけでは、詩にならない、科学の言葉と同じレベルの「説明」にすぎなくなってしまうと、言っています。
 このことは、詩を書く人間が、心するべきことだと、私は思います。「説明」の言葉は詩ではありません、「説明」できないからこそ、詩の言葉、詩句を紡ぐのです。著者はどのようにしてか?と考察を進めます。

●以下は、出典からの引用です。
 それは、詩人の自我の自己超越によって初めて達成されるものではないであろうか。詩人の自我が相対的な主観―客観軸を主観極へ向って絶対的に超えるとき、そこに成立する言語主観が「詩的自我」ではないであろうか。われわれの純粋主観性はそのようなものであった。
 「詩的自我」は、しかし、これによって、詩人の自我と別の自我に、虚構の自我になるのではないであろう。それは、相変らず詩人の自我と同一でありつつ、言表内容は体験の真実性を保つであろう。
 詩人の自我と同一でありつつ、しかも、それを超えること――ここに「詩的自我」の矛盾がある。
 われわれの純粋主観性は言語の側から見れば一種の自己矛盾にほかならなかった。
 それは、詩人の側から見ても、そうではないであろうか。
 しかも、この矛盾を矛盾のままに成り立たせているところに詩の秘密があるとすれば、それを可能にしている原動力を、どうしても詩人の内か、あるいは、言語の内かに求めねばならないであろう。(略)     ●出典の引用終わり。

◎この箇所も観念的に無理やり概念で説明しているように思います。次の叙述など心理解剖学のように図式的に感じます。
 詩人の自我が相対的な主観―客観軸を主観極へ向って絶対的に超えるとき、そこに成立する言語主観が「詩的自我」。
 ただ、著者自身は、矛盾であることを意識しつつ述べています。
「詩人の自我と同一でありつつ、しかも、それを超えること」。
 このような観念的な表現を私は好みませんが、詩を書くという行為、詩を創る人が、矛盾を抱えつつ矛盾を生きる変わり者、苦しい行為であることを、著者は理解していて、伝えようとしていることを、理解すればいいと考えます。

 「自我」の解読よりも大切だと私が考えるのは、「主観的真実性」、体験の真実性です。「自我」がどのようなものであれ、詩を創ろうとする詩人の魂に、「主観的真実性」、体験の真実性がなければ、詩は生まれません。
 その強さ、伝えずにはいられない強さをもつかどうかが、言葉を詩の言葉、詩句にまで高められるか、出来事についてのたんなる「説明」、詩の装いをした散文、行分け散文にしかならないか、を分け隔てるものだと私は考えます。
 さらにわかりやすく、真実をとらえた言葉にするなら、古今集の、優れた仮名序にいう「やまとうたはひとのこころをたねとして」です。
 詩人の心に感動があるか、詩を芽吹かせる感動の種があるかどうかです。真実は単純な姿に宿ると私は思います。

次回以降、著者は、矛盾だらけの詩という表現を可能とするものを考察していきます。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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tag : 詩人 高畑耕治 新田博衛 詩学序説 赤羽淑

『詩学序説』新田博衛(四)最終的な世界解釈、沈黙を語ろうとして。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、詩の言葉の特質と、詩そのものの本質についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
 詩の言葉は幾つかの目立った徴表を持っている。要約すれば、
(1)言語表現として異様なほどの安定性。品詞による語の運動エネルギーの差が無くなり、その結果、言語に特有の浮動性がその波を鎮める。
(2)語の質量性。文中の各語は品詞性を剥ぎ取られて均等化されるが、均等化の方向は論理と反対である。すべての語は質量性の度を高め、あたかも表現されている事態と同一であるかのように見えてくる。そして、
(3)語の意味の音楽内在性。これが、言い換え可能という言語の特色を詩から奪いさり、その表現をオノマトープや音楽の領域に近づける。それが構文的秩序とは別の音声的秩序に従うのも、このためである。
 この三つの徴表は、同じ一つの事柄、詩の表現における純粋主観性の異なった局面である。(略)   ●出典の引用終わり。

◎著者はここで、詩の言葉の特徴を照らし出します。的確ですが、硬質な概念による把握となっていますので、それぞれについて、書き手としての私なりの感じ方、考えにしてみます。
(1)詩作品のなかの、どの言葉も、同じ、重要な、詩句です。名詞も、動詞も、形容詞も、副詞も、代名詞も、接続詞さえ、詩作品のなかでは、おかれた位置を動かせない重みを、作者は与えます。作品のなかの言葉、詩句とされたとき、どの言葉も、他の言葉に、もう置き換えられません。
(2)少しわかりにくいですが、質量=重みと捉えると、どの詩句も品詞に関わらず同じ重みをもつこと。その「方向は論理と反対」とは、散文は品詞それぞれが役割分担をして「意味」「論理」を伝えることをその目的とするので、言葉の順序、言葉自体を置き換えてもその目的さえ果せば問題ありません。それに対して詩での言葉では、品詞としての役割は重要視されず、薄れ、無視され、ただ音と文字の形として他の詩句と結ばれ響きあうこともあることを指しています。
(3)語の意味の音楽内在性。音声的秩序。著者は、「言い換え可能という言語の特色を詩から奪いさ」るものをこの点に絞っていますが、前回記したように文字の形と位置も同じく詩にとって重要です。絵画としての特性です。
「けどKEDO」「だけれど」「けれども」「だが」「そうなんだけど」は、散文では同じ意味を果すので入れ替えられますが、詩に作者が詩句として「けど」をおくとき、「KEDO」という音と二文字の形が詩のその箇所に位置づけられ結ばれるので、詩を壊さずには置き換えができません。

●以下は、出典からの引用です。
 純粋主観性は、言語表現一般の内部における相対的な“主観―客観”の対立を、表現の主体である話し手へ向って超えている。その結果、言葉は、先に挙げた三つの徴表を身に帯びることになる。(略)   
詩の言葉は、われわれの考えによれば、たんなる伝達の道具でないことはもちろんであるが、さらに、主観の表出の具でさえもなかった。詩は、およそ言語表現の困難な場所において、もしそう言って差支えないのなら、言語表現のほとんど不可能な場所において、成立していた。
 詩が何かを表出しているとすれば、それは、言表主観がまさに言葉を失なおうとする状態、沈黙に逢着した状態以外のものではありえない。しかしながら、詩人は、この状態をほかならぬ言語によって表現するのである。詩人とは、言葉によって沈黙を語る奇妙な存在のことである。もしくは、沈黙に惹かれればひかれるほど、ますます言葉巧みにならざるをえない矛盾した存在のことである。
 そして、この場合、言葉とは浮動的・未完結的世界解釈を指し、沈黙とはその世界解釈の安定的完結を指していた。
 後者を消極的に捉えれば、世界解釈のたんなる断念、言語表現のたんなる放棄となるであろう。それは、世界を相対的な主観―客観極の内部に浮動させたまま放って置く、ということである。
詩人の逢着する沈黙はこれと逆である。それは、相対的な主客の対立を超え、言葉によって世界を絶対的に安定させようとするとき、必然的に立ち現われてくる沈黙であり、したがって、言葉を忌避するのではなく、むしろ、積極的に言葉を求める沈黙である。
 詩人は一挙に最終的な世界解釈を語ろうとする。言語表現一般の範囲内で辛抱強く、地道に世界解釈の成果を積み重ねつつある科学者の眼に、詩人があるときは羨ましいほど大胆で、知慧に満ちた人間に移り、あるときは無謀で、愚かしく、傲慢な人間に映るのはこのためである。
 また、日常言語の範囲内で物事を記録し、心情を表明し、実践目的を指示することに腐心しているわれわれの眼に、詩人が巧みではあるが空疎で謎めいた言葉を語る、益体もない人間に映るのもこのためである。(略)   ●出典の引用終わり。

◎この箇所も、概念が生硬に感じられますが、詩の本質をとらえていて、なぜ詩人が、詩という表現を選び、作品を創るのかを伝えてくれていると、私は思います。
「言葉とは浮動的・未完結的世界解釈を指し、沈黙とはその世界解釈の安定的完結」
「相対的な主客の対立を超え、言葉によって世界を絶対的に安定させようとする」
「詩人は一挙に最終的な世界解釈を語ろうとする」
 これらの言葉は、フランスの詩人マラルメが、自分の詩の作品世界が一冊の本として虚空に浮かぶとき宇宙そのものとなる、と感じ考えそれが彼の真実であったことと通じ合います。この思いは私自身の真実でもあります。
 
 生きていること、この宇宙に、世界に、社会にいること、永遠と無限のなかに、いることの意味をわからず投げ込まれていることを、感じるとき、まずわたしには「なにもいえない」というあきらめに似た、おののきがあります。沈黙です。
 同時にけれども、「伝えずにはいられない」、とても強いものがこころにあります。それを探しつかもうとすることが生きることに思えます。それを表現できる言葉は「詩」です。「詩」でないと伝えられない、沈黙、言葉にならないものを言葉に、矛盾していますが、詩人の真実を伝えていると私は感じます。
 著者は次回以降、どのようにして?と考察をすすめていきます。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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tag : 詩人 高畑耕治 新田博衛 詩学序説 赤羽淑

『詩学序説』新田博衛(三)詩は音楽。詩は絵画。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回からは、抒情詩に限定しない、よりひろい詩についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
日常の言葉は、このように、たえず不安定な状態にある。表現された意味は、ここでは、つねに未完結的であり、多義的であり、流動的である。数学や論理学が日常言語を嫌悪し、それが自分の体系の中へ混入することを極度に怖れるのも無理はない。
 詩は、これに反して、日常の言葉を怖れない。いや、むしろ、それを愛好する。詩人のつかう言葉は、任意に規定された一義的記号ではなく、人々の手垢によごれ、意のままにならぬ多義性をもち、過程的にしか機能しない言葉である。

いわばエネルゲイアにすぎないこの日常言語をもちいて、しかし、詩人は一箇のエルゴンを作りだす。
 詩の言葉は、もはや、われわれの言葉のように不安定ではない。それは極度に安定した言葉、それに何を加えることもできず、そこから何を引き去ることもできない完結した言葉である。

 サッポオの断片三十一の第一行目は、次のようなリズムをもっている。
 ― ~ ― ― ― ~ ~ ― ~ ― ~
(古代ギリシア語詩行 略)
日常の言葉なら、同じことを言うのに、おそらくシラブルの数を増減したり、その順序を入れ替えたりすることをゆるすであろう。ここでは、それは、ただちに音楽の、したがって詩の破壊を意味する。つまり、ここに言われていることは、この順序にならべられたこれらの単語でしか言えないのである。(略)    ●出典の引用終わり。

◎詩の本質についての考察の冒頭でまず著者は、詩の言葉の特質を、日常の言葉と対比して描き出します。
「日常の言葉は、」「不安定な状態」であり、「表現された意味は、」「つねに未完結的であり、多義的であり、流動的である。」そのような日常言語を用いて詩人は、詩を創ります。創られた詩の言葉は、「極度に安定した言葉、それに何を加えることもできず、そこから何を引き去ることもできない完結した言葉」です。
どのようにして? 作曲するように、音楽を創るようにです。
 著者はここで詩という文芸の本質を捉え、次のように言います。
「日常の言葉なら、同じことを言うのに、おそらくシラブルの数を増減したり、その順序を入れ替えたりすることをゆるすであろう。ここでは、それは、ただちに音楽の、したがって詩の破壊を意味する。つまり、ここに言われていることは、この順序にならべられたこれらの単語でしか言えないのである。」
 私も著者のこの言葉の通りだと思います。逆に言えば、「この順序にならべられたこれらの単語でなくても言える」ような文は、詩に高められていない、音楽として完成していない、ということです。
 このことは、日本の優れた和歌や俳句を思い浮かべればよくわかります。それらの歌の、一文字、一語を動かし、変えることは、そのままその歌の破壊です。
 続けて著者は、詩と音楽についての省察をさらに深めます。

●以下は、出典からの引用です。
翻訳可能という点についていえば、詩の意味が、日常言語のそれとちがって、できるだけ音声に内在しようとする傾向をもつことを指摘するだけで、反証としては十分であろう。古代ギリシア語という特定の音韻組織の中で成立した響きとリズムとを、他の音韻組織をもつ言語、たとえば英語とか日本語とかへ移すことはいうまでもなく不可能であるが、重要なのは、詩の場合には、この響きとリズムとを移さなければ言葉の意味を移したことにならない、という点である。(略)

言表命題と見なさないで、むしろ(略)リズムをもち(略)響きとうねりをもつ一箇のメロディのように考えてしまうほうが、この点からいえば判りやすいかもしれない。メロディの意味は音と音との連続の内にしかない。
言葉の意味は、ふつう、音声を超えたところにある。われわれが日常の言葉を聴くとき注意を向けるのは、話し手の口から出ている音ではなくて、それを超越したところに在る意味である。われわれは話の意味、相手の喋っていることの内容を話し手の声音から分離して、それ自体として扱うことができる。混み入った話であれば整理し、長い話であれば要約し、さらに外国語であれば自国語に翻訳することさえできる。
 メロディについては、これらすべてが不可能である。或るメロディを他のメロディによって整理したり、要約したり、翻訳したりすることはできない。メロディが難解なとき、それをもっと易しい幾つかのメロディでパラフレーズすることはできない。われわれにできるのは、そのメロディの一音も聞きのがすまいと耳を澄ますことだけである。そして、この点からいえば、詩は言語よりもむしろ音楽に近いのである。(略)      ●出典の引用終わり。

◎著者は、詩は「リズムをもち」「響きとうねりをもつ一箇のメロディ」であり、「メロディの意味は音と音との連続の内にしかない。」と、その詩の本質を伝えてくれます。
「日常の言葉を聴くとき注意を向けるのは、話し手の口から出ている音ではなくて、それを超越したところに在る意味である。」
 それに対して、「詩は言語よりもむしろ音楽に近い」、「われわれにできるのは、そのメロディの一音も聞きのがすまいと耳を澄ますことだけである。」と。詩の音楽性については、ここに書かれている通りだと私は思います。

 ここでは、古代ギリシアのサッポオの抒情詩を考察の対象としているので、詩の言葉が動かせない要因を、その音楽性、メロディに限って考察していますが、より広く詩歌という視野で捉えると、私は次の観点も加えられると考えます。
 それは、文字の視覚性です。詩は音楽であると同時に、絵画でもあります。余白、詩連、詩行、そして詩句一文字一文字が、その要素です。
 さらに日本語の長所として、一つの詩句を表現する場合にも、ひらがな、漢字、カタカナを使い分けることができます。角ばった漢字と、やわらかな曲線のひらがなでは、視覚から心に溶け入る心象がおおきく異なります。これら以外にも詩句どうしの並び方、漢字の字形の類似など、さまざまな要素を用いて、詩は白紙に描かれる絵画です。日本の書の美意識をも受け継ぐものだと私は思います。
 詩の意味はここでは、これらの要素に溶かし込まれて一体化しています。完成した絵画は、その要素である色と形を動かすことをゆるしません。それは、絵画の破壊、詩の破壊となるからです。

 詩は音楽であり絵画だから、溶け込んだ意味が浮かびあがらせ伝えてくれるものは、美と、感動です。そのような詩を私は愛します。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。

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新しい詩「五月、海おもう」「花ごころ」「ほんとう」「風と木の葉の」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」の「虹 新しい詩」と「野の花・ちいさなうた」に
新しい詩の花を公開しました。
                              (クリックでお読み頂けます)

「虹 新しい詩」

 「五月、海おもう」


「野の花・ちいさなうた」

 「花ごころ」

 「ほんとう」

 「風と木の葉の」


お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。


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『詩学序説』新田博衛(二)抒情詩の言いがたい魅力の源泉

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、抒情詩についての考察の続きです。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
ふだんはたんなる約束事にすぎない言葉の音声が、抒情詩ではにわかにその比重を増してくる。心情の微妙な陰影をあらわすのに音声が重要な役割を演じるからである。したがって、たとえば外国語の詩を読むような場合、翻訳ではじつはどうにもならない。音声は翻訳によってもっとも消えやすい部分だからである。これにたいして、小説は翻訳によっても損なわれない。それは傷ではあっても致命傷ではない。そこには言葉の対象的意味がなお生きているからである。     ●出典の引用終わり。

◎抒情詩にとって言葉の音声、響きが「心情の微妙な陰影をあらわすのに」「重要な役割を演じる」のは、著者が述べるとおりであり、「外国語の詩を読むような場合、翻訳ではじつはどうにもならない。音声は翻訳によってもっとも消えやすい部分だからである。」、私もこのように思います。逆に、容易に翻訳できてしまう言葉は散文であり詩歌としての魅力と豊かさに欠けているとも言えます。萩原朔太郎もそうですが、言葉の音楽、調べに鋭敏な詩人、歌人はこのように感じ、考えていると私は思います。
 そのうえで、私も日本語に翻訳された海外の詩を読み、好きなのは、その作品は、詩人の原作を源にした翻訳者との共同作品、翻訳者の創作、と考えているからです。心に響く翻訳詩の翻訳者は、原語の響きを母国語へ移すことは不可能だと知っているからこそ、母国の言葉でこそできる音声表現を生みだし響かせます。日本語で書かれながら音声に鈍感な作品が多いなかで、逆に翻訳詩の言葉の音声が美しく感じられたりするのは、そのためだと私は思います。

●以下は、出典からの引用です。
小説を読むことにくらべて、詩を読むことには本質的な難かしさが含まれている。外国語の場合にかぎらない。たとえ自国語で書かれていても、抒情詩はやはり読むのに骨が折れる。ここでは言葉がふだんとまったく違う使われ方をしている、ということが、もちろん理由のひとつである。これについてはもう繰り返し説明するまでもないであろう。
対象的意味を剥奪された言葉はふだんと変わった使われ方をするよりほかはない。単語と単語との特異な組み合わせ、日常には見られないような珍らしい語法、音声とリズムの微妙な変化。どれを採ってみても言葉にたいする極度の敏感さを要求するものばかりである。    ●出典の引用終わり。

◎前回も書きましたが、この点については、私は楽天的です。著者の言うとおり、「対象的意味を剥奪された言葉はふだんと変わった使われ方をする」「単語と単語との特異な組み合わせ、日常には見られないような珍らしい語法、音声とリズムの微妙な変化。どれを採ってみても言葉にたいする極度の敏感さを要求する」のは、確かです。
でも「言葉にたいする極度の敏感さ」を厳しく要求されるのは、詩人自らに対してであって、優れた作品は、そのような厳しい痕跡は残さずに、読者が自然に読むうちにふだん眠っている感受性、言葉にたいする敏感さを、揺り起こし、気づかせてくれるものだと思います。一見して読者を拒む難解さを押し付ける言葉は、(現代詩にありがちですが)、一読者としての私にとり不快で、稚拙なだけで、優れた詩だとは思いません。良い音楽、良い絵画が、開かれていて、心を選ばないのと同じです。

●以下は、出典からの引用です。
しかし、こうした敏感さを十二分にそなえた読者にも、いぜんとして詩は難物である。抒情詩は詩人の魂という底なし沼の上に浮かんでいるからである。これが第二の、そしておそらくはさらに本質的な理由である。小説はなんといっても言葉だけで完結した、フィクションの世界である。事実の世界との関連はいっさい虚構の語り手がいて防いでいる。いかに複雑難解をきわめた小説もこの枠内では等質であり、そのかぎり一語もあまさぬ透明な理解が期待できる。
 抒情詩のほうはそうでない。外からみればいかにもきっちり纏まった閉じた世界でありながら、内へはいればその底はすっかり抜けている。下には生ま身の人間の心情という深淵が大きな口をひらいて待ちかまえている。これを理解しつくすことは不可能であり、いかに必死の努力を重ねても、いや、努力を重ねればかさねるほど、詩はつねに不透明な箇所を残してゆく。これが抒情詩の本質的な難解さの原因である。そして、それがまた抒情詩の言いがたい魅力の源泉ともなっているのである。
 抒情詩の本質がすべてをいったん詩人の心情に内面化するところにあるとすれば、小説の本質はすべてを現前化するところにある。つまり、小説の語り手は、対象をさながら眼前にあるかのように常にいきいきと描きだすのである。    ●出典の引用終わり。

◎著者はここで、抒情詩の本質を捉えていると、私は感じます。
「抒情詩は詩人の魂という底なし沼の上に浮かんでいる」。
「生ま身の人間の心情という深淵が大きな口をひらいて待ちかまえている。」
「抒情詩の本質がすべてをいったん詩人の心情に内面化するところにある」。
 だからもうこれは、人間性、人間同士の相性と深く関わってきます。詩人の資質と読者の資質が響きあえるものか、響きあえるなら人間同士なら底なしに深く共感できます。気づかずにいた、読者自身の感性、感受性、読者自身の言葉を見つけ「これは私の言葉」だと感じます。人間と人間が愛しあうことと同じです。
 相性、どこまでわかりあえるかは、出会ってみなければわかりません。まったく理解できない、心、人もどうしてもいます。共感まではできなくても、ある部分はわかる人もいます。
 だから私は、愛せる詩との出会いは、愛する人との出会い、運命にとても近いと思います。運命の出会いであるとき、詩の言葉は、恋文、ラブレター、大切なかけがえないものだと、気づきます。
 著者の言う、「抒情詩の言いがたい魅力の源泉」、汲み尽くせない、こころの、愛の、泉です。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。

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『詩学序説』新田博衛(一) 抒情詩を書くということ。

 今回からの数回は、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記していきます。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 初回は、詩、抒情詩の本質についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
詩の言葉は小説の言葉のようにまっすぐ対象をさし示さない。いや、言葉である以上はいったんかならず対象のほうへむかって出てゆくにちがいないのであるが、どこかでいちど屈折してふたたび言葉のほうへ戻ってくる。そして、そこへ言葉同士だけの密接な網を張りめぐらそうとする。つまり、詩は小説とちがって、われわれの注意を書かれている対象のほうへ誘導してくれるのではなく、むしろそれとは逆の方向へ引きもどしながら言葉の網で掬いとってしまうのである。
われわれとしては、さしあたりはもっぱら網の出来ぐあいでも鑑賞しているよりほかない。言葉と言葉とがどれほど的確に結びあわされているか、その結果、手垢にまみれた日常語がいかにおもいがけない意味と響きをおびて輝いて見えるか、こういうことを捉える繊細な感受性、特殊な能力が詩を読むにあたっては要求される。これを欠く人に詩は無意味な文字の羅列にすぎないであろう。詩が小説より気楽に読めないのはこのためである。(略)    ●出典の引用終わり。

◎著者はここでまず、詩という表現の特質を、小説と比較することで、概説しています。「まっすぐ対象をさし示す」小説の言葉とちがって、詩の言葉は、「屈折してふたたび言葉のほうへ戻ってくる。そして、そこへ言葉同士だけの密接な網を張りめぐらそうとする。」、「その結果、手垢にまみれた日常語が」「おもいがけない意味と響きをおびて輝いて見える」。
 私も言葉そのものへの、言葉の結びつきへの、こだわりの強さと感受性の繊細さから、詩は生まれると思います。ただ、その特殊な能力は書き手には要求されますが、生まれ出た作品が良いものなら、読者のもつ感受性を呼び覚ましてくれると思います。だから、読むことに特殊な能力は要求されません。気楽に読み、好きになることで、感じとれるものがより豊かに深まり、拡がってゆくと思っています。次に、著者は、多様な姿で表現される詩のうち、抒情詩に焦点をより絞り、より細やかにみつめていきます。

●以下は、出典からの引用です。
抒情詩の言葉は、小説の言葉とちがって、対象への方向をそのまま残してはいない。対象へむかう方向は、それと正反対の方向、つまり心情的なものへむかう方向へと屈折してしまっている。言葉の対象的意味はかたはしから心情的なものに浸潤され、ことごとくそのなかへ溶解されてしまっている。この屈折した方向をたどってゆくと、その先には詩人の心情がある。
抒情詩の言葉は直接に詩人の魂に繋がっている。その言葉は生ま身の人間の発する言葉である。抒情詩には、小説の場合のような、作者から切り離された語り手、言葉のなかへ入り込んだ語り手は存在しない。ここで語っているのは作者そのひとである。
抒情詩はまぎれもなく生きた人間の心情の表現、詩人の魂の告白である。それは小説のように虚構の語り手によって語られるフィクションではない。その言葉はちゃんと事実の世界のなかにそれと照応するものを、つまりその詩を書いた詩人の心情を持っている。この点では、抒情詩は小説よりもかえって歴史や報道にちかい。その言葉はフィクションという防壁に守られず、いわば裸のまま事実の世界のなかに放りだされているからである。    ●出典の引用終わり。

◎著者は、抒情詩について、その核心から語りだします。抒情詩のいちばんの本質は、「生きた人間の心情の表現、詩人の魂の告白である。」と私も思います。万葉集の正述心緒(せいぶつしんしょ)、ただにおもいをのぶるうた、心を直接うたう歌です。
「言葉の対象的意味はかたはしから心情的なものに浸潤され、ことごとくそのなかへ溶解されてしまっている。」「その先には詩人の心情がある。」、これが抒情詩の純粋な姿だと思います。
続けて著者がいう、「小説の場合のような、作者から切り離された語り手、言葉のなかへ入り込んだ語り手」を存在させる抒情詩も創りうるし、私自身創ってきましたが、その場合でも、抒情詩であるかぎり、「その言葉はちゃんと事実の世界のなかにそれと照応するものを、つまりその詩を書いた詩人の心情を持っている。」ことは確かだと思います。

●以下は、出典からの引用です。
詩人は特権を持っていない。かれは素手で言葉と格闘する。われわれの手垢にまみれ、それがあらわす対象にしっかり膠着してしまっている言葉を、まず対象から引き離し、丹念に汚れをとり、たったいま生まれたばかりの柔らかく新鮮な状態にまでもどすこと――これが詩人の仕事である。詩人の手にかかると言葉はおもいもかけぬ綺麗な生地を現わしてくる。そして、それを使うものの心情をじつに敏感に反映して自在に揺れうごくものとなる。こういう言葉をあつめてきて、ひとつの有機体にまで纏めあげること――これが抒情詩を書くということなのである。
言葉はここでは対象的意味によってたがいに結び付くのではない。それらを結び付けるのはもっぱら詩人の心情であり、そこに歌われる気分である。この点では、抒情詩は歴史や報道の逆である。後者がもっとも大事にしているもの、言葉と対象的事実の正確な照応ということが無視されて、それとはまさに反対のもの、言葉の心情表現の面だけがここでは強調されるからである。    ●出典の引用終わり。

◎次に著者は、抒情詩を書く、という行為そのものを、美しく描き出します。
「対象にしっかり膠着してしまっている言葉を、まず対象から引き離し、丹念に汚れをとり、たったいま生まれたばかりの柔らかく新鮮な状態にまでもどすこと――これが詩人の仕事」であり、「それを使うものの心情を」「敏感に反映して自在に揺れうごくものとなる。こういう言葉をあつめてきて、ひとつの有機体にまで纏めあげること――これが抒情詩を書くということ」。
「言葉の心情表現の面」を最大限に強調して、「詩人の心情」が言葉を結び付けあいます。
「生まれたばかりの柔らかく新鮮な」「おもいもかけぬ綺麗な」「自在に揺れうごく」、言葉をこのような姿で蘇らせるもの、それは、詩人の心、魂の、驚きと感動と美にたいする感受性のおののきです。
私はそれこそが、詩人の創作動機、書かずにはいられない、伝えずにはいられない詩人の情熱の源であり、抒情詩に生命の息吹をあたえるものだと、思います。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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