プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
愛のうたの絵ほんは、高畑耕治の詩と詩集の海です。
Profile 高畑耕治 たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪府四條畷市出身、早稲田大学政経学部中退。東京都多摩市在住。
詩集『銀河、ふりしきる』(2016年5月イーフェニックス)
詩集『こころうた こころ絵ほん』(2012年同上)
詩集『さようなら』(1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25)
詩集『愛のうたの絵ほん』(1994年同上)
詩集『愛(かな)』(1993年同上)
詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社)
詩集『死と生の交わり』(1988年批評社)
雑誌「エヴァ」に扉の詩(1996~1997サンマーク出版)を連載。
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でも作品を発表しています。

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詩想 こころの足跡(三二)

 ツイッターに記した私の折おりの率直な想いから、詩にはならない散文だけれど記憶したい言葉を、詩想として束ねています。

 ☆

国家の名誉なんて自然に口にでてくるひとは、そのために庶民の人命なんて、肥やしくらいな感覚しかないから、おぞましく、いとう。

 ☆

一市民として。いまの政権、牛耳ってるつもりの得意げな輩は、自分、自分たちが正しい、国民を自分、自分たちが、守り、導くと、時代錯誤、傲慢に、耳を傾けることも知らず、うそぶけるなんて、裸の王さま。弱い立場に置かれてしまった人間のことなんて考え感じもできない物。厭う。退場させたい。

 ☆

朝日をたしなめられるつもりでいる、首相という、役職にいるひと、どんなに多くの人に、厭われている嘘つきか、世界中に恥をさらし、口にしたがる「この国を辱めている」のは、あなた自身だと、わからない、だけの人でした。さようなら、とだけ、はやく言いたい。

 ☆

藤原俊成は歌論で、技巧が勝ちすぎ目につく歌をよいとはしていません。彼の和歌は、とてもやさしい言葉で抒情を心のままに歌っています。彼が西行の歌に通い合うものを感じたのがわかる気がします。歌論について三回書いたあと、俊成の恋歌と挽歌から私の好きな歌について二回、エッセイを書きます。

 ☆

権力者を厭うわたしを厭うひとに。おもねたら、詩は死ぬよ。奴隷だよ。

 ☆

はぶりのいい、ほこらしげに、いばるやからに、すりよるものは、わたしは、だきらい。こころ、ないから。好きでもないものに、へらへらわらうな。笑顔は、恋人、愛人、愛するひと、子どもにだけ、心こめ、そそげ。

 ☆

生活のための労働で疲労がたまると、灰色の延べ板、鉄板になったようで、なにも感じられない。すりへった、消耗したとだけ、無表情で、おもう。生きるため、がまん。

 ☆

農民だった祖父母を尊敬し、労働者だった父母を尊敬する。たいへんだけれども、誇りを持ち、人間らしくあろうとして、育ててくれた。だから、生活に負けられないし、生きること捨てない。

 ☆

疲れたと、ひとりなんどもつぶやくことは、回復への、自浄作用がある気がして。なんどもなんども、つぶやく。
自浄作用というより、解毒剤か?

 ☆

疲労は、ファンタジーへの、翼もぎとる。翔べない。翼癒えるまで、眠れる森に、横たわりたい。動物たちだけはきっと、気にしてくれる。

 ☆

反骨。
調べないから意味わからない変な文字の組合せ言葉だ。
でもずっと、好きだ。

 ☆

クラゲのように生きてきた私だけど、死ぬまで、反骨精神だけは失わない。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 詩想

歌には何しにか韻はまことにあるべき『古来風躰抄』藤原俊成(三)

 日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。
『千載和歌集』の撰者、藤原俊成式子内親王に贈った歌論『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』に記された、彼の和歌、詩歌の本質についての想いへの共感を記します。最終回です。

 今回引用した箇所での彼の言葉も、歌のほんとうの姿をとらえようとする俊成のまなざしの強さを感じます。
歌学者が、外来の漢詩を模倣して、舶来品の知識をみせびらかし、「歌病(かへい)」(歌をつくるうえでの決まりごと、禁制、犯してはならないルール)を、むりやり、日本語の詩歌に当てはめて、詩学、歌論、批評を、権威ぶって論じていることに対して、俊成はずばりと言い放ちまず。
 「見苦しく聞え侍る」、見苦しいと。
 そして、日本語の詩歌の本質について述べます。
 「まことには、歌には何しにか韻はまことにあるべき。」実際には、歌には決して韻は本当はないのである、と。
 
 古代から今に至るまで、海外の文芸思潮に学び、感じとろうとすることは心豊かなことであっても、憧憬の強さの余りに、模倣し、権威づけに利用する評論家、学者に、次のくだりは、聞かせたい言葉です。

 中国の学問もしない者が、物知り顔をしようと思って、形どおり漢詩に関する書物の一端を年老いた後に習って、「毛詩に言っているのは」「史記に言っているのは」など申すということは、本当に見苦しいことである。

 そのうえで、彼が、日本語で詠む詩歌の本質について語る言葉は、とてもシンプル、率直、ありのままです。
 「歌は、ただ構(かま)へて心姿(こころすがた)よく詠まんとこそすべきことに侍れ。」歌は、ひとえに心にかけて「心姿」を上手に詠もうとすべきことである。

 これだけでは、とらえどころのないような言葉ですが、「古来風躰抄」で俊成は、彼がよいと心に感じる、数多くの和歌を書きうつし、感じ、伝えています。

 美しいものは、批評し論じようとても、指のあいだをすりおちてしまいます。美しいものは、そのものを、みつめ、感じとるとき、はじめてそのよさが心に感じとられ、心をふるわせてくれます。
 和歌、詩歌もおなじだということ、歌そのものを読み、感じ、心に響かせ、愛することの大切さを、「古来風躰抄」で俊成は、伝えてくれます。

●以下は、出典からの引用です。

また、この近き頃承(うけたまは)れば、長歌にも、短歌・反歌にも、「韻(いん)の字」などと申すなる、いと見苦しく聞え侍ることなり。詩の病など申すことに準(たずら)へて式を作り、病を立てなどする程(ほど)に、「韻の字の」など申すことは、ただ歌によりては、上(かみ)の五七五の終りの句、下(しも)の七七の句の終りの文字などを、「韻の字に同じ文字置けるは憚るべし」などいふばかりなり。まことには、歌には何しにか韻はまことにあるべき。(略)
詩の韻に準(たずら)へて、果ての文字のこといはんとて、「韻の字の」などうち申すばかりこそあるを、まことしくほどなき三十一字の歌のうちなどに、胸の句には五七の七の句の終り、中の五字の終りなどを、「韻の字の」など申すらんことども、いといと見苦しきことなり。漢家の学問などもせぬ者の、もの知り顔せんとて、形(かた)のごとく文の端々(はしばし)など老いの後(のち)習ひて、「毛詩にいへるは」「史記にいへるは」など申すらんこと、いといと見苦しく侍り。歌は、ただ構(かま)へて心姿(こころすがた)よく詠まんとこそすべきことに侍れ。

  <現代語訳>
また、近頃伺ったところでは長歌にも、短歌・反歌にも、「韻の字の」など申すとかいうのは、全く見苦しく思われることである。漢詩の病などと申すことに準じて和歌式を作り、歌病を立てたりする間に、「韻の字の」など申すことは、ひとえに歌については、上の五七五の句の終りの文字、下の七七の句の終りの文字などを、「韻の字に同じ文字を置いたのはさけるべきである」などと言っているだけである。実際には、歌には決して韻は本当はないのである。(略)
漢詩の韻に準じて、句の終りの文字のことを言おうとして、「韻の字の」などと申すだけのことであるが、真実らしくわずかな分量である三十一文字の歌の中に、第二句では五七の七の句の終りの文字、第三句の五字の終りの文字などを、「韻の字の」など申すとかいうことは、本当に見苦しいことである。中国の学問もしない者が、物知り顔をしようと思って、形どおり漢詩に関する書物の一端を年老いた後に習って、「毛詩に言っているのは」「史記に言っているのは」など申すということは、本当に見苦しいことである。歌は、ひとえに心にかけて「心姿」を上手に詠もうとすべきことである。

出典:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)

次回は、藤原俊成自身の恋歌を感じとります。
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tag : 古来風躰抄 藤原俊成 和歌 詩歌 詩人 高畑耕治

口惜しく人に侮らるる『古来風躰抄』藤原俊成(二)

 日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。
 前回に続き、『千載和歌集』の撰者、藤原俊成式子内親王に贈った歌論『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』に記された、彼の和歌、詩歌の本質についての想いへの共感を記します。

 引用箇所で、彼のあまりに正直な、あからさまな告白は、日本語の詩歌を創る一人の者として、胸に痛く響きます。彼は言い切ってしまいます。和歌は仮名四十七文字を用いて三十一字に詠むことのほかには、決まりごとなんてなんにもないと。このひとには本質を見据えるまなざしがあって、すごいなと思います。

 そこで彼が対比しているように、漢詩や(西欧の)定型詩は、誰にでもわかる型、約束事があるので、その型に外れているかいないか、上手く活かしているか、鑑賞、評価しやすい。稚拙が誰にでもわかる。その通りだと、私は思います。このことを、言い換えれば、型にはめさえすればいいのだから、誰にでも作りやすい、と思います。

 それに比べて和歌、詩歌は、あまりに型、決まりごとがおおまかすぎて、と俊成は歎きます。「侮らるる」、人に軽んじられると。 けれども、それに付け加えた言葉こそ、俊成の詩魂がこめられていると私は共感します。
 和歌は「大空が無限であるように、限りなく、大海の果ても際限もわからないように、果ても極みもわからないもの」、だからこそ、一生をかけるのに値する深い境地があるのだと。

 日本の詩歌は、和歌に限らず、古代歌謡から、連歌、俳句、文語定型詩、口語自由詩まで、定型と呼べるほどの型はありません。容易であるようにみえ、残念にも人に軽んじられます。
 でも、その型のゆるやかさは、日本語の本来の資質であり、無限の自由と可能性を孕んだ創作空間だと、私は思います。生涯をかけるにあたいすると。

 彼の和歌、詩歌に対する想い、詩歌に生きた生涯を貫いていた詩魂に私は励ましを感じます。

●以下は、出典からの引用です。

大方、歌の善(よ)し悪(あ)し定むる事は、先にも申したるやうに、言葉を以(も)て申し述べ難し。漢家の詩など申すものは、その躰限りあり、(略)なかなか善し悪しあらはに見えて、流石におして人もえ侮(あなづ)らぬものなり。しかるに、この倭歌(やまとうた)は、ただ仮名の四十七字のうちより出でて、五七五七七の句、三十一字とだに知りぬれば、易(やす)きやうなるによりて、口惜しく人に侮らるる方(かた)の侍るなり。なかなか深く境(さかひ)に入りぬるにこそ、虚(むな)しき空の限りもなく、わたの原波の果(はたて)も究(きわ)めも知らずは覚ゆべき事には侍るべかめれ。

  <現代語訳>
大体、歌の道において良い悪いを決めることは、先にも申し上げたように、言葉では説明しにくい。漢家の詩などよ申すものは、その詩の形態に法則があって、(略)すべて法則が定まっているために、かえって良い悪いがはっきりとわかり、それだけに押し切って人も軽視できないものである。ところが、この和歌は、ただ仮名の四十七字のうちで詠んで、五七五七七の五句で、三十一字とさえ知ってしまうと、歌を詠むことが容易であるようにみえるために、残念にも人に軽んじられる点があることである。かえって深い和歌の境地にはいってしまうと、大空が無限であるように、限りなく、大海の果ても際限もわからないように、果ても極みもわからないものと思わなければならないことのようである。

出典:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)

 次回は、『古来風躰抄』の俊成の言葉、最終回です。


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tag : 古来風躰抄 藤原俊成 和歌 詩歌 詩人 高畑耕治

HPの新しい詩を、長篇、中篇、掌篇、短詩にまとめました。

 私の詩のホームページ『愛のうたの絵ほん』の詩集未収録の新しい詩を、長篇、中篇、掌篇、短詩のページに分けまとめて、読んで頂きやすくしました。

 私は1行の短詩から300行の長い詩まで書きます。作品には作品にふさわしい姿があります。

 けれど、読者としての私自身、短編集を読みたいとき、長編の世界に入り込みたいとき、そのときどきで変わります。
ですから、お気持ち、気分で、読みたいページにある作品を、お読み頂けたらと、願います。

 以下をクリックして頂きますと、HPの4つのページの扉が開きます。

・ 新しい詩 長篇詩:101行~

・ 新しい詩 中篇詩:51~100行

・ 新しい詩 掌篇詩:26~50行

・ 野の花・ちいさなうた 短詩:1~25行



お好きな作品を、お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。


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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌

ちいさな滴「かなしい ともだちに」、HPに零しました。

新しい詩「お月さま恋うた」をHP公開しました。

 私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「お月さま恋うた」を、公開しました。

  詩「お月さま恋うた」
    十五夜、無月 (・おんがく ・きもち ・はねます)
    十六夜、月光 (・恋うた ・見あげれば ・合唱)
(詩のタイトルをクリックするとリンクしているHPをお読み頂けます)

お読みくだされば、とても嬉しく思います。
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tag : 詩人 高畑耕治 詩歌 うた 絵ほん

詩人・亜久津歩、詩4篇をHPで紹介しました。

 私のホームページの「好きな詩・伝えたい花」に、詩人・亜久津歩(あくつ・あゆむ)さんの詩4篇を紹介させて頂きました。


  詩「 命綱 1 」、詩「 命綱 3 ―友人Kに感謝を 」、詩「 粉雪の舞う夜に 」、詩「 がんばれ 」                                              (詩のタイトルをクリックするとHPをお読み頂けます)。

 亜久津歩さんの詩集『いのちづな うちなる”自死者”と生きる』にまとめられた詩に込められた想いはとても強く、その切実さに私は読むと、涙が流れます。一読者として、心に似通うものがあるからだとしても、その感情を揺り動かす言葉に、詩が、息づいているからだということは、確かだと思います。
 詩は、言葉による芸術だから、言葉による表現をその資質から選ばされた詩人は、言葉でしか伝えずにはいられない想いを抱く人間です。自分自身との独語の場合でさえも、必ず、自分ではない人を求め、伝えずにはいられない言葉で表現します。その真率さだけが、詩人のあかしだと私は思います。
 既にある”詩らしい形”に捉われない感性の若さ、しなやかな言語感覚が生みだす自由な詩の姿は新鮮で心を目覚めさせてくれます。

 お読み頂けましたら、嬉しいです。


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tag : 詩人 亜久津歩 詩歌 高畑耕治

艶にもあはれにも聞ゆる『古来風躰抄』藤原俊成(一)

『古来風躰抄』藤原俊成(一)

 日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、平安時代からの代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。

 今回からは、藤原俊成が1197年頃執筆し式子内親王に贈った『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』です。俊成は、第七代勅撰集『千載和歌集』撰者で、藤原定家の父です。
 引用箇所は、俊成の、和歌についての考えが述べられている箇所です。あわせて、同じ考えを繰り返し述べたうえで、さらに補足している「慈鎮和尚自歌合」判詞(1198年頃)についても、感じとれた私の詩想を記します。

1.『古来風躰抄』

 俊成は和歌について、「歌はただ声に出して読んだり、抑揚をつけて朗詠したりした時に、何となく艶にもあわれにも感じられることがあるものであろう。」と述べます。「朗詠する時の声に伴う韻律によって、良くも悪くも感じとられるものである。」と。
 言葉の音楽性、調べ、さらに詠みあげる声調が、歌の良し悪しをきめる、本質的なものであると。
 私も詩歌にとって、言葉の音楽性は、生命力だと思います。美しいと心に響いてくる詩歌は、言葉の調べそのものが美しい音楽です。

●以下は、出典1からの引用です。

歌のよきことをいはんとては、四条大納言公任卿は金の玉の集と名付け、通俊(みちとし)卿の後拾遺の序には、「ことば縫物(ぬもの)のごとくに、心海(うみ)よりも深し」などと申しためれど、必ずしも錦縫物(にしきぬもの)のごとくならねども、歌はただよみあげもし、詠(えい)じもしたるに、何(なに)となく艶(えん)にもあはれにも聞(きこ)ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて善(よ)くも悪(あ)しくも聞ゆるものなり。

  <現代語訳>
 歌のすばらしいことを言おうとして、四条大納言公任卿は、自分の編纂した撰集に金玉集と名付け、
通俊卿は後拾遺の序文において、「表現は刺繍(ししゅう)のように華やかで、内容は海よりも深い」などと言っているようだが、必ずしも錦地のように美しく飾りたてなくても、歌はただ声に出して読んだり、抑揚をつけて朗詠したりした時に、何となく艶にもあわれにも感じられることがあるものであろう。もともと詠歌と言って、朗詠する時の声に伴う韻律によって、良くも悪くも感じとられるものである。

2.「慈鎮和尚自歌合」判詞

 俊成は、調べ、音楽性が、和歌の本質といえるものだとの考えを述べたうえで、さらに踏み込み、次のように述べます。
 「よき歌になりぬれば、その詞・姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。」
景気は現在使われている経済での意味ではなく、ここでは、「言語によって喚起される視覚的映像、絵画的イメージ。」を意味しています。
 優れた詩歌は、言葉による音楽であると同時に、言葉による絵画であると。私はこの詩歌観に、深く共鳴します。
彼は、言葉により和歌から立ち昇る「視覚的映像、絵画的イメージ」の具体例として、「春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどするやう」を思い描きます。詩歌は、このような美しい情景、絵画、映像を、心象風景として、心に呼び起こしてくれる、美しく描き出し、見せてくれると。

 詩を愛する読者の方なら、言葉の音楽性も、イメージの絵画性も、ともにその美しさを、感じているからこそ、詩が好きで、読みたいと、自然に感じていると、私は思います。

 とても素朴、単純なことなのですが、あたりまえにそれを認めるのは、逆に難しいことでもあります。特に「詩はこいういうものでなければならない」、「こういうレベルになければ現代詩とよべない」といった理論づけ、批評の権威づけをしたがる、詩運動、流派、ジャーナリスティックな商業主義べったりの書き手による詩論、歌論ほど、偏狭になりがちで、このような詩歌の本質を見失いがちです。

 藤原俊成には、本質を見据える目があります。そのことを、次回以降、もう少し、掘り下げていきます。

●以下は、出典2からの引用です。

 大方、歌は必ずしもをかしき節を云ひ、事の理を云ひきらんとせざれども、もとより歌と云ひて、ただ読みあげたるにも、うち詠めたるにも、何となく艶にも幽玄にも聞ゆることあるなるべし。よき歌になりぬれば、その詞・姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。たとへば春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどするやうなる事の、泛(うか)びて添へるなり。常に申すやうには侍れど、かの「月やあらぬ春や昔の」といひ、「掬(むす)ぶ手の滴に濁る」など云へる也。何となくめでたく聞ゆるなり。(十禅師・十五番)

 <頭注>
月やあらぬ春や昔の―「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集・恋五・業平、伊勢物語)
掬(むす)ぶ手の滴に濁る―「掬(むす)ぶ手の滴に濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな」(古今集・離別、貫之)
 
 <歌論用語>
「景気」言語によって喚起される視覚的映像、絵画的イメージ。

出典1:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)
   :「歌論用語」、同上。
出典2:『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、1966年、新典社)


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新しい詩「あなたがいる」、「いつまでも」、「ないて」をHP公開しました。

詩人・中村純、詩3篇をHPで紹介しました。

 私のホームページの「好きな詩・伝えたい花」に、詩人・中村純(なかむら・じゅん)さんの詩3篇を紹介させて頂きました。

  詩「海の家族」、「生まれなかったあなたへ」、「愛し続ける者たちへ」
                                              (詩のタイトルをクリックするとHPがお読み頂けます)。

 中村純さんの眼差しはいのちをまっすぐにみつめています。
 出産の時、生まれくる胎児とともに感じた体と心の経験の時をとらえた詩は、想像では書けない、その時を生きた女性、母となった女性であり、感受性ゆたかな詩人にしか捉えられない痛みと畏怖と喜びが、あふれていて、美しく心うたれます。
 そのような彼女だからこそ、生み育てることができなかった女性、産まれることを祝ってもらえなかったいのちの、深い痛みを、自分のこととして書かずにはいられない。産まれることはできたけれど、育くんでもらえず、社会に守られずに失われたいのちの声、幼く弱い者の、押し殺された声、問いかけを、聴き取り、伝えずにはいられないことが、心に迫ってきます。心を揺り動かします。
強く、優しい、人間の詩です。

 お読み頂けましたら、嬉しいです。

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